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2007年01月31日

『心・脳・科学』ジョン・サール(岩波書店)

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「サールの古典的な議論」

本書はジョン・サールが心身問題という哲学の古くからの問題について考察した六回の連続講演の記録であり、今回モダン・クラシックとして版が改められたものだ。この書物は二つの部分で構成される。前半の三回の講演では、「心身問題」「コンピュータは考えられるか」「認知科学」という伝統的なテーマが検討され、後半の三回の講義では、「行為の構造」「社会科学の展望」「意志の自由」ということなる切り口で問題のさらなる検討が行なわれる。

サールはオースティンを受け継いで、言語分析を語用論的な視点から展開した日常言語分析派の哲学者であり、デリダとの論争もまだ記憶に新しいところだ。この講演では、とくに新しいことは言っていない。というよりも、心身問題と認知科学の考察が、まだこの地点にとどまっているということを確認できるところがこの書物の大きな利点だろう。

第一講義では、心身問題をミクロとマクロの縦走的な問題として提示する。この次元の違いを指摘することによって、脳という生理学的な次元だけでも、心という心理学的な次元だけでもない複眼的な考察が可能になると示唆するわけだ。心的現象は、「脳の中で進行しているさまざまな過程を原因として生ずる」という命題と、「脳の一つの特徴であるにすぎない」という命題の両方が「真である」(p.13)ことを示すのが、この章の目的であり、「物理主義とメンタリズムの両方を同時に主張する」(p.25)ことを目的とするものである。これは大森荘藏が「重ね描き」という概念で主張したことと、それほど違いはないだろう。

第二講義では、コンピュータには心があるとか、コンピュータは思考できるという科学者の主張を否定することを試みる。すでにサールには「中国人の部屋」という議論があるが、この章はそれを少し敷衍して反復する。そのためにサールが利用するのは意味論と統語論の違いという伝統的な区別である。統語論では意味論の領域をカバーできず、コンピュータは、「定義によって統語論のみを持つにとどまる」(p.38)ということにある。

このサールの指摘はごく常識的なものにとどまる。一つはドレイファスのように身体論を考慮にいれていないこと、もう一つはコンピュータのようなものに人間の心を想定したがる人間の心の動きを考慮にいれていないことで、ものたりない感じを与えるのだ。タマゴッチが死んだといって泣く子供の心の動きを、統語論と意味論の区別では、とうてい考察することができないからだ。人間というものは、機械のようなものにでも、親愛を感じ、相手が心があるように考えたがるものなのだ。もちろんサールは議論のレベルではこのような問題を考慮にいれるのを拒否するだろうが。

第三講義は認知科学について、規則にしたがうことという分析哲学には馴染みのテーマから考察を加え、人間は規則にしたがうが、コンピュータは「まったく規則にしたがわない」(p.62)と主張する。コンピュータは「形式的な手続きを経験しているだけ」であり、そこに心からあるとか、コンピュータがみずから判断して規則にしたがっていると考えるのは、「比喩」の濫用だというわけである。

後半の講義では、訳者の土屋俊が指摘するように、志向性という概念が「人間の言語、行為、思考を一貫する性質」(p.161)考えるものである。「志向性を強調するだけならば、現象学者程度でもできる」というのは少し現象学者に厳しい評価だが、「サールはあえて、その志向性が人間の生物的特徴に由来することを強く主張する」というのは正しいだろう。訳者が言うようにコンピュータが人間の脳を模倣することで発展するのだとしたら、サールの主張にもある程度の根拠はあるのかもしれない。だから素朴だが「議論には勝てない」(p.160)という印象を与えるサールの議論が、こうしてまとめて読めるのは、いいことかもしれない。そして心身問題と認知科学の問題がここで凝固したようにとまってしまっていることを確認することも。

■心・脳・科学
■ジョン・サール[著]
■土屋俊訳
■岩波書店
■2005.7
■162,6p ; 20cm
■岩波モダンクラシックス
■原タイトル: Minds,brains and science.
■ISBN 4000271318
■定価 2300円


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2007年01月22日

『斬首の光景』ジュリア・クリステヴァ(みすず書房)

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「顔の恐怖」

ルーヴル美術館のデッサン部が外部からゲストを招いて企画する展覧会シリーズ「パルティ・プリ」のシリーズの一冊だ。この企画ではすでに盲目にする絵画を扱ったデリダの『亡者の記憶』があり、大型本で贅沢な作りのものらしい(p.259)。デリダの解読もユニークだったが、クリステヴァのこの書物も、メドゥーサの首を経由して精神分析の深いところとつながる好著である。

デリダの書物はテーマが目であり、この書物は首(顔)であるだけに、共通するところもあり、両方の書物に登場する絵画もある。比較して分析を読み比べると、自分なりの分析を考えるための手がかりにもなる。絵そのものも見ていて考えさせられるものが多い。

近代の絵画は目をつぶす行為と首を切る行為にどこまでも意識的であるだけでなく、ときには無意識的なまでに憑かれているかのようである。そこに精神分析的な考察が必要なのは明らかだろう。そしてその役割にはデリダよりもクリステヴァが最適なのはたしかだ。デリダのフロイトへの好みは、精神分析の内部に立ち入るよりも、テクスト論を軸とすることが多いからだ。

暗闇に浮かぶ首の奇妙な記憶と妄想については、初期ヘーゲルの『体系構想』でも語られていて、異様な印象を残しているが、まずクリステヴァはそれを乳児の記憶というところから考える。どこからともなく訪れ、愛撫してくれる首、乳を与えてくれる乳房、乳児はそれをつねに身近に保っておきたいのに、それは奪われてしまう。

「別離と欠如が乳児を苦しめ、乳児は自分がすべてを手にいれられるわけではないこと、自分がすべてではないこと、自分は見捨てられ、一人であることなどを納得する。この最初の喪の悲しみから回復しない乳児もいる」(p.9)のである。「死んだ」ママンとともに、ママンの喪に服して、みずからの生命の源を絶ってしまうのである。

もちろんそうでない乳児がほとんどだ。ぼくたちはだれもがその段階を経由してきたのだ。乳児はその喪を克服するために、二つのものに頼る。一つは表象であり、一つは言語である。消えたママンの顔の代わりに乳児は一つの表象を、幻想を置く。ファンタジアは乳児に母親の不在を耐えさせる。次に乳児はそれに記号をつける。そして言葉を習得するのだ。クリステヴァによると、そしてメラニー・クラインによると、やがて話しだそうとする乳児は「他者を失った喪の悲しみ」に耐えるかのように、辛そうな顔をするのだという(Ibid.)。

フロイトの孫のエルンストのオー/ダーの糸巻ごっこが語るのも、まさにそのことに他ならない。言葉は、失われた母親とその表象の場所に登場する。そしてその幻想の場に「顔」が表象として登場するとき、それは首となる。切られた首の像は、幼児のこの喪の経験と通底しているのである。抑鬱的な態勢のうちで、子供は母親の喪のうちで、言語を習得し、不在の顔を思い浮かべる。「抑鬱的な局面は、母との接触によってもたらされる感覚的な満足が失われることによって言語が生じる、ということを明らかにしている」(p.24)と言えるだろう。

古代の人間もそして「未開の」種族も、原父を殺して、トーテムの動物を殺して、饗宴にふける。クリステヴァはここにおいて、父親との同一化だけではなく、母親との同一化も行なわれると解釈する。「他者の頭部を同化吸収し、……頭蓋の球形に手を加えること、儀礼的な食人は、父=暴君を食いつくすこと以上ではないとしても、それと同じ程度に、産みの母の潜在力をわがものとすることである」(p.25)。こうして頭蓋崇拝は、母の原初的喪失(鬱=メランコリーの源泉)の出来事と、父による去勢の脅威としての男根的な試練の出来事の記憶をとどめることになる(p.26)。レヴィの『ヴァーチャルとは何か?』でも、敵の首で球技にふける種族の物語が語られていたが、首のもつ意味は深いのである。

だからこそ、メドウーサの首が西洋の絵画史で決定的な意味をもつことになる。多くの絵画は鏡に写ったメドゥーサの首を切る決定的な瞬間を描く。この首は、「あらゆる表象能力に先立って、生殺与奪の権を握っている〈母親〉の恐怖の権力」を主張すると同時に、それを切断するという営みによって、去勢にたいする不安とそれへの抵抗を示すことになる。

クリステヴァによると、直視することのできないもの、それはペニスを切断された「女性の性器にたいする恐怖」(p.49)であると同時に、ペニス切断への恐怖でもある。そして人々はもっとも見たくないものに、もっとも惹かれるのである。そしてそこからしか、人間の思考の能力は展開されないかのようである。「光景、思索は、正面を見つめ、内側にある憂鬱を他者に見せる能力にかかっている」のであり、人間はこれを克服することで初めて、「幻想を自由にあふれさせることができる」(p.51)のだ。

そして「去勢への激しい不安はエロティシズムを帯びることがあるし、[幻想のなかで]上演することが可能である」(p.141)。いまや思索することができ、幻想と表象を扱うことができるようになった主体は、「エロティシズムと言語という対抗手段を自由に行使することができる」(Ibid.)ようになる。サドもまたこうした恐怖に抗うかのような、さまざまな幻想を駆使したのだった。

西洋の歴史において、この母親の恐怖の権力と、それに抗う営みが文学や芸術のさまざまな表現の背後に姿をのぞかせている。首だけでなく、顔の画像学もそのヴァリエーションを展開して倦むところがない。顔とは、みつめていると怖くなるものなのだ。

【書誌情報】
■斬首の光景
■ジュリア・クリステヴァ[著]
■星埜守之,塚本昌則共訳
■みすず書房
■2005.1
■275,10p ; 22cm
■原タイトル: Visions capitales.
■4622070855
■定価 4200円


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2007年01月18日

『スラヴォイ・ジジェク』トニー・マイヤーズ(青土社)

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「ジジェクを楽しむためのガイドブック」

ジジェクはたしか一回セミナーでの講演を聞いたことがある。髭の濃い人物が話し始めると、ある種の異様な熱気のようなものが放射されるような印象をうけた。かなり訛が強く、ある一つの母音の発音がぼくたちの慣れているのと違うので最初は戸惑ったが、そのうち慣れてくると、話に引き摺りこまれる。その後の質疑応答も、とてもさかんだったと記憶している。

ジジェクの文章もまた内部で回転するドラムの音を聞くような不思議な魅力がある。この本はジジェクの文章の魅力を解明しようと試みたものであり、それにしっかりと成功していると思う。まず著者は、ジジェクの文章がマイナーで猥雑なテーマを扱うことに注目し、そこに一つの戦略をみいだす。

ジジェクは、トイレの話題とか、サドマゾヒズムなど、「伝統的な哲学なら扱わないはずのものに目を向ける」(p.17)のである。「つまりジジェクの主題は、哲学の言説における穴である。この穴は、ふつうなら、正しい理論の主題域を作り上げるために、理論の領域から排除されているものだ」(ibid.)。しかしジジェクの巧みなところは、この領域を正面から扱うのではなく、「伝統的な哲学の視点から」取り上げるところである。

この伝統的な哲学の視点というのが、ヘーゲルの弁証法の論理とマルマスの論理とラカンのシステムである。ジジェクはほとんどこの三つのシステムだけで済ませてしまう。それでいて、このシステムを互いに「翻訳する」(p.19)ことで読者の目を眩ませ、読者を飽きさせることがないのだ。そしてこの翻訳のプロセスを通じて、「ハリウッドのシステムがジジェクのシステムへと」結びつける力業をらくらくと演じてみせるのである。

訳者は、「ジジェクの入門書なんていらないんじゃないの」とレトリカルな問いをしているが(p.251)、ジジェクは解読し、分析することの楽しい文章を書くのだ。その背後で作動しているシステムが単純であり、しかもそれ現われが多様なものだからこそ、解読が楽しくなるのである。

ジジェクのシステムと基本概念さえわかれば、読者はジジェクの文章をもっと味わい、その背後の論理を楽に見抜くことができるようになるだろう。そして彼の手つきを借りて、もしかしたら手品のような(笑)映画分析だって書けるようになるかもしれない。その意味でも、ジジェクの解説本はまだまだ書かれるべきなのかもしれない。

本書ではさらにジジェクの伝記的な説明が詳しくて参考になる。どんな場からどんな背景で、この異貌の人物が登場したのか。現代思想の世界で奇妙なまでに特異な力を発揮しているジジェクの思想のシステムの秘密を知るためにも、その経歴は興味深い。詳しい読書案内も有益だ。

【書誌情報】
■スラヴォイ・ジジェク
■トニー・マイヤーズ著
■村山敏勝他訳
■青土社
■2005.12
■259p ; 20cm
■シリーズ現代思想ガイドブック
■原タイトル: Slavoj Zizek.
■著作目録あり
■479176224X
■定価 2400円


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2007年01月13日

『フロイト 2』ピーター・ゲイ(みすず書房)

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「本格的なフロイトの伝記」

この原書が刊行されたのは一九八八年のことで、ぽくも原書はずいぶんと参考にさせてもらった。日本でもやっと読みやすい鈴木晶訳で刊行されたことを祝いたい。少し古くなってきたジョーンズのフロイト伝三巻(1953-57)につぐフロイトの詳細な伝記としてお勧めだ。

原書の後半部分に相当する本書では、一九一五年の第一次世界大戦が始まってから、フロイトの理論に大きな修正が加えられる時期以降を紹介していて、読み応えがある。フロイトはこの戦争をきっかけとして、戦時中のトラウマ的な経験を何度も反復する患者がいることに注目し、やがてそれが生の欲動(エロス)と死の欲動(タナトス)という新しい欲動のペアの構想にいたるのであり、本書はとくに興味深い時期を描いたものと言えるだろう。

現実原則と快感原則というそれまでの心理学的な対立のペアと比較すると。このエロスとタナトスのペアは、文化と文明がもたらす人間の抑圧的な要因に注目したものであり、そこからフロイトの晩年の悲観的な文明論が始まることになる。とくに本書では、ユング、ランク、フェレンツェという弟子たちとの理論的な対立に苦労しながら、みずからの理論を展開していくフロイトの思想的な苦闘と、弟子たちの人間的なやりとりを中心的に描いている。

とくに今回の再読にあたっては、こうした男性の弟子たちとの葛藤よりも、ルー・アンドレアス・ザロメ、アンナ・フロイト、ボナパルト妃という三人の女性との親しい関係についていろいろと考えさせられた。ルーはフロイトがとくに親しくした女友達であり、ルー宛ての書簡でフロイトはじつに細かな心の襞までうちあけている。

ニーチェやリルケからの求愛を拒んだルーは、フロイトの弟子として友人として、精神分析の世界を選んだのだった。彼女の死の知らせを聞いたフロイトは「彼女のことはとても好きでした。不思議なことに性的な魅力はいっさい感じませんでしたが」(p.711)と語る。精神分析の世界では否定するということは、それを裏側から肯定することなのだが。

娘のアンナ・フロイトは、「父が他界するまで、最も親密な盟友であり、ほとんど同等の同志」(p.512)だったが、父親にたいする感情的な結びつきはときに病的なまでになり、「自分の特権的地位を脅かしそうな人物に対しては、相手が兄姉だろうと、患者だろうと友人だろうと、激しく嫉妬した」(Ibid.)のだった。アンナはフロイトの死後も精神分析の理論的な展開をさらにつづけていくことになる。ほとんど性的なものに近い父親への愛着から、娘を生涯解き放たれることはなかったのだった。

マリー・ボナパルトは、「正真正銘のお姫様」で、ナポレオンの弟のリュシアンの曾孫であり、ギリシア国王コンスタンチノイ一世の弟のゲオルギオス公の夫人として、「莫大な富と最高の血縁に恵まれていた」(p.626)女性だった。この「高貴な」女性はフロイトの精神分析を受けてから、精神分析の擁護に積極的に働きかけ、フロイトの個人的な支援者ともなったのだった。

「エネルギーの塊」(Ibid.)のようなこの女性の後援を受けられたことはフロイトにとっても精神分析の世界にとっても大きな恩恵となったのである。アンナ・フロイトをゲシュタポから守ったのも彼女だった。逮捕にきたゲシュタポに、アンナを逮捕するならわたしも逮捕してみよと挑戦したのであり(p.723)、彼女は「ゲシュタポですら怯む」(p.719)女性だったのである。

この書物の最後の文献解題は、実に60ページにも及ぶものであり、フロイトに関する二次文献の詳細な考察である。文献リストには訳者による邦訳の指示もあり、親切だ。この目配りの行き届いた文献解題と文献リストだけでも、この書物は購入する価値があるのではと思うほどだ。たんに文献案内だけではなく、文献のうちで提起されたフロイトの生涯についての疑問の謎解きも行なわれている。訳者も指摘するように、次のような問題が考察され、著者なりの暫定的な結論が示されているのである。

一)フロイトと義妹のミンナ・ベルナイスには肉体的な関係はあったか?
二)フロイトの弟子のマックス・アイティンゴンがソ連のスパイだったという噂は真実か?
三)『ウッドロー・ウィルソン』はほんとうにフロイトとブリットの共著なのか?
四)ユングがフロイトを救出するための使者を派遣したが、「敵の恩義は受けぬ」とフロイトかこれを断ったというのは事実か?

どれもほぼ納得のできる回答が示されているので、読者もぜひ謎解きを楽しまれたい。伝記としての性格のためにフロイトの思想的な展開についての説明が少し弱くなっているが、それはあまりに望み過ぎというものだろう。著者のゲイはほかにもフロイト関連の書物を刊行しており、『神なきユダヤ人 フロイト・無神論・精神分析の誕生』『フロイトを読む』『歴史学と精神分析 フロイトの方法的有効性』などが邦訳されている。

【書誌情報】
■フロイト 2
■ピーター・ゲイ[著]
■鈴木晶訳
■みすず書房
■2004.8
■p421-839,86,15p ; 22cm
■ISBN 4622031892
■定価 7600円


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2007年01月09日

『ヴァーチャルとは何か?: デジタル時代におけるリアリティ』ピエール・レヴィ(昭和堂)

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「人間の文化のヴァーチャル性」

ヴァーチャルという語は、仮想の、虚像のという意味に使われることが多い。ヴァーチャルな体験とは、実際にぼくたちが生身で経験したわけではないのに、あたかも経験したように感じる体験のことだ。もしも脳にある体験の記憶を移植することができるとしたら、ぼくたちは自分でその記憶の体験をしたと思うことだろう。その意味ではヴァーチャルに対立するのはリアルであるかのように思える。

しかしヴァーチャルという語は著者も指摘するように、イタリア語の徳ヴェルチュの語源でもあるウィルトゥス(力、潜在性)という語からきている。「ヴァーチャルなものは可能的に存在するものであって、現実に存在するものではない」(p.2)ものである。だからヴァーチャルに対立するのはリアルなものではなく、アクチュアルなものである。

リアルなものに対立するのはヴァーチャルなものではなく、可能的なもの(ポシブル)である。ドゥルーズが指摘したように、可能的なものは、「すでに全てが構成されているが、未発の状態にある」(Ibid)ものである。それはリアルなものとして実現されるのを待っているのだ。だからリアルなものと可能的なものがペアとなり、ヴァーチャルなものとアクチュアルなものがペアとして対立する。

そして最初のペアは、実体にかかわるものである。樫の木の種子のうちには、すでに将来の樫の木となるものが可能的な形で存在していて、それが実現されるのを待っているだけだ。第二のペアは出来事にかかわるものであり、ヴァーチャルなものは「存在する」のであり、それが実際の出来事となって「到来」したときに、それはアクチュアルなものとなるのである(一八二ページの対比表を参照されたい)。

アクチュアルなものは、到来した出来事として一回的なものである。その出来事をヴァーチャル化すると、そこにはドゥルーズ的な意味での「脱領土化」が発生する。テクストはいまここにある。そのテクストをヴァーチャル化すると、それはハイパーテクストとなる。貨幣はここにあるものである。それをヴァーチャル化すると電子マネーとなり、為替相場となり、数字だけで決済が行なわれる銀行口座となる。それは脱領土化するだけでなく、「公共性や匿名性への移行、分配と交換の可能性、諸個人間の交渉や力関係の絶え間ない作用」(p.60)となる。

言葉そのものもヴァーチャルなものである。ここにある赤い果実の代わりにぼくたちは林檎という言葉を使う。そして林檎にまつわるさまざまな物語を想起することができる。「情景やストーリー、互いにつなぎ合わされた出来事の完全な系列」(p.89)を思い出すことができるし、まったく新しく作りだすこともできるのだ。そしてその物語を他者と共有することができる。経験することもなしに。言語は現在をヴァーチャルなものにしてしまう。

技術や道具というものは、行為をヴァーチャルなものとする。ハンマーはまだ腕の延長のようにみえるが、車輪はもはや足の延長ではなく、歩くという行為をヴァーチャルなものとして代用する(p.93)。契約というものは、人間が他者にたいして暴力を交渉する代わりに締結されるものだ。個人の間の契約から社会契約にいたるまで、これは現実の暴力の代用となり、現実の「力関係から独立している」(p.96)になる。

これらの三つの要素は人間の定義においても決定的な重要な意味をもつものであるが、どれも個別の事物、行為、関係をヴァーチャルなものとすることで人間の文化というものを可能にしたのである。宗教にもヴァーチャルなものはさまざまにみられるだろう。十字架一つの象徴的な意味、ワインとパンの象徴的な意味はヴァーチャルな要素をきわめて巧みに活用したものだろう。

著者はサッカーにまでヴァーチャル的な意味をみいだそうとする。サッカーをするということは、ある場所であるルールに従って行動することをうけいれ、それに習熟することである。どんな場所でも構わないのに、あるところがゴールとしての意味をもち、あるところがサイドラインの意味をもつ。それらの意味はどれもヴァーチャルなものであり、選手たちはそれを了解した上で行動するのである。

昔マヤ族は敵の首を切り取り、周囲を壁て囲まれた場所で球蹴りに興じたという。著者はこの球蹴りという行為がきわめて宗教的な意味をもつと主張する。それは敵の死者を弔う儀礼であり、その儀礼なしでは、死んだ敵は死を全うすることができないのだ。「遺骸が、集団の客体となる葬式の場に連れてこられず、それがただの事物として、分解する肉が死体としてヴァーチャル化されないならば、それはグループの崩壊、脱人間化の確かな徴である」(p.165)。こうして「ヒヴァロ族の小さくなった頭部は、ボールの奇怪な先駆者の一種ではないだろうか」(Ibid.)ということになるのである。

著者は集団的な知性という観点から、ヴァーチャルなものとアクチュアルなもの、リアルなものとポシブルなものの枠組みをさまざまに変様させ、応用させて思考する。ときに枠組みが人間の三つの技術のように三つの要素で考えられたり、「存在論四学」のように四つの学として考えられたりするような揺れはあるが、思考を刺激してくれる楽しい書物であるのはたしかだ。

なお訳者によると著者は1956年生まれで、ミシェル・セールの指導のもとでソルボンヌで科学史の修士号を取得し、カストリアディスの指導をうけてEHESSで社会学の博士号を取得している。1993年からパリ八大学でハイパーメディア学科の教授に就任。現在はカナダのオタワ大学集合的知性研究所の主幹という。いかにもらしい経歴ではある。
主著『集合的知性』も読んでみたい。

【書誌情報】
■ヴァーチャルとは何か?: デジタル時代におけるリアリティ
■ピエール・レヴィ著
■米山優監訳
■昭和堂
■2006.3
■207,18p ; 20cm
■原タイトル: Qu'est-ce que le virtuel?
■ISBN 4812206073
■定価 2900円


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