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2006年12月18日

『サイード自身が語るサイード』エドワード・サイード、 タリク・アリ(紀伊國屋書店)

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「知識人の三つの顔」

サイードが親しい友人のタリク・アリと交わした対話の記録。一九九四年にドキュメンタリー番組として放映されたものの「元版」である。まだ病もそれほど重くない時期に、親しい友人とかわしたうちとけた対談だけに、サイードの素顔をかいまみることができる。

いくつか、思考を刺激する発言があったので、紹介してみよう。長らくサイードを読んできた人には周知のことかもしれないが、あらためて読むといろいろと考えさせられる。まず現代の「文化主義的な」論調の問題について。「現代のフランス文化においてひどい問題のひとつは、文化と政治がまったくかけ離れていることだ。文化的イコンが存在する。文化的思想も存在する。文化的テクストも存在する。けれども、それらはある種の美的観点からしか眺められていない。政治的なものと文化的なものとのつながりは、ひたすら忘れ去られている」(p.94-95)。たしかに。いったいいつからのことだろう。サルトルまでは、フーコーまでは明確な結びつきはあったのだが。デリダの存在は忘れてはならないが。

『オリエンタリズム』が書かれたのが、六日戦争の直後から、サイードが「一九六七年とその後に書かれたものを切り抜いたり蒐集して、丹念に読みはじめる」という「明確な方法論」的な仕事をきっかけとしていることは興味深い。「読んでみると、アラブ世界の実情についてわたしが経験したことと一致しない。そこにさまざまな歪曲や誤表象を見て取ることができた」(p.124)。歴史的な事件と思考の錯綜した関係の一つの実例がここにある。

歴史的な記憶と傷について。「植民地主義の影響は、最後の白人警察官が去ったときにくらべて、いま現在のほうが、はるかに深く浸透し、長くつづいているのだ」。フロイトが
示したように、心的な傷は、それをうけたときでなく、その長い反芻と想起の時期にこそ、その真の効果を発揮するのであり、傷は事後的に生まれることが多いほどなのだ。「真の問題は、抑圧された人々がもはや抑圧されなくなったあとに生じるのだ」(p.129)。

●知識人の三つの顔
しかしこの書物で一番興味深いのは、サイードの知識人論であろう。『知識人とは何か』という著書もあるサイードは、知識人の役割について鋭い意識をもっているからだが、同時にサイードの自画像でもあるからだ。知識人はアブであり、批判者であり、ダンディであるべきだというのが、サイードの意見なのだ。

まず知識人は、人々を忘却から覚醒させる「アブ」の役割をはたす。「知識人がなすべき役割は、この基本的に歴史を無視した健忘症の世界に対して、ニュースを一七分間の報道番組にパッケージ化してよしとしているこの世界に対して、歴史を思い知らせること、苦難にあえいできた人々の存在を知らせること、権利を侵害された共同体がおこなってきた長期にわたるは道徳的な主張の存在を知らせることです」(p.111)。

古代のアテナイでソクラテスが名誉と富の追求に熱中している市民たちを立ち止まらせて、今の生について考察させたように、知識人は人々を健忘症から覚醒させ、過去の抑圧の歴史に苦しむ共同体と、いまみえないところで抑圧されている人々の存在を意識させるべきだと考えるのだ。

その意味で知識人がとくにやってはならないのは、「一丸となって生まれるテクスト崇拝、ある種の規範的思想への全面的な崇拝」(p.134)に陥ることである。そこにはつねに「一種の偽りの共同体」が立ち上がるからだ。サイードは、「所属を確認する教義」を唱えるものに反抗したくなるのが「わたしの生来の特徴というか、欠点」と謙遜するが、忠誠心を要求する思想や教義には、人一倍の警戒心が求められるのだ。

批判的な精神を忘れて、公認の思想体系のうちで安住したときに、知識人にはアブの役割をはたせなくなるどころか、アブに覚醒させられるべき存在となる。サイードの理想とする知識人は、知識人の世界の中で批判的な思考を忘却した知識人を覚醒させるための「アブのアブ」であることを求められる。

第三にこの知識人はダンディーであることを求められる。「真摯な知識人だけが外見に関心を寄せることができると思っている。なぜなら外見はだいじだからだ。また外見に真摯に関心を寄せる者だけが、真摯な知識人になりうるし、精神的なことにも注意が向くんだ」(p.162)。

アテナイでソクラテスは外見のことに心を煩わせたりはしなかっただろう。しかし人々に自分は外見のことなど構わず、真理だけを追求していることを誇示するために、破れた外套の穴をこれみよがしに示すこともなかっただろう。知識人がダンディであるべきかどうかは疑問であるし、「外見に真摯に関心を寄せる者だけが精神的なものに注意を向けることができる」というのは、ダンディだったサイードだけに許される言葉のような気もする。それでも身なりについての姿勢もまた、知識人の生きかたを示す役割をはたしていることもたしかなのだ。

最後に訳注について。豊富な(時にはスペース的には読みにくいほどの)訳注はよく調べてあるし、よく勘所を押さえている。訳注はつけるのは苦労だし、つけかたも難しいものだ。哲学関連の本でソクラテスやプラトンにあらずもがなの三行の訳注がついていると、溜め息がでる。本書でもたとえばサルトルの説明はいらないと思うかもしれないが、一般的な説明のあとで「その名声と影響力は、一九六八年の五月革命以降、普遍的・全般的知識人が否定されるまでつづいた」というコメントがついていることで、それまでの説明が生きてくる。

【書誌情報】
■サイード自身が語るサイード
■エドワード・サイード、 タリク・アリ著
■大橋 洋一訳
■紀伊國屋書店
■2006.12
■188p
■ISBN 4314010134
■定価  1500円


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