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2006年11月30日

『涜神』ジョルジョ・アガンベン(月曜社)

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前々から気になっていた概念に、ゲニウスがある。ラテン語の辞書をひくと、創造力、生のエネルギー、創造的な霊で、とくに身体の善、誕生、誕生日、結婚などにかかわるもの、社会的な享楽の霊、善き生活への好み、パトロン、天才などと記載されている。建築学の分野では、ゲニウス・ロキ(地霊)という概念として展開されているものだ。
これが気になるのは、ギリシアのダイモーンやローマのペルソナと近い概念であるだけでなく、ベンヤミンや初期の論文でインファンスと女性とからめて考察しているからだ。たとえば次のような文脈で登場する。

まず女性的なものについてベンヤミンは次のように語る。創造的な精神(ゲーニウス)は女性的なものの存在を通して生きているからである。……作品であれ、行為であれ、思想であれ、それらがこうした女性的なものの存在について何ら知ることなしに生み出される場合には、必ずやそこに、悪と死が含まれる(『来たるべき哲学のプログラム』(道籏泰三訳、晶文社、三二一ページ)。

そしてインファンスについては「道徳的な無言性、道徳的な未成熟性(インファンティリテート)のなかにゲーニウスが誕生するという逆説こそ、ギリシア悲劇のもつ崇高さにほかならない(ベンヤミン「運命と性格」浅井健二郎訳、『ドイツ悲劇の根源』下巻、二一二ページ)と語っているのである。

この書物のいたるところにベンヤミンの影があることから考え、おそらくベンヤミンのこうしたゲニウス論に刺激されて、この概念を一本の導きの糸として考察を展開したのが、アガンベンのこの書物である。アガンベンは「古代ローマ人たちは、各人が生誕の瞬間にその保護下に置かれる神をゲニウスと呼んでいた」(七ページ)と、この書物の冒頭で説明する。しかしこの保護神のような存在は、「きわめて親密で個人的な神」であると同時に、「わたしたちのなかにあって最も非個人的なものであって、わたしたちのなかにあってわたしたちを超越し凌駕するものの化身」でもあるのであ(一〇ページ)。

これは「最も近くにあるものが最も遠くにあって制御不可能」であるという事態なのだ(一三ページ)。アガンベンがここでゲニウスをフロイトの「不気味なもの」や「不安」の概念と同じ文脈で考えているのは明らかだろう。抑圧されたものは不安となってぼくたちを脅かし、ときには「病理学的形式において再び現れる」(六六ページ)ものでもあるからだ。それは「地下聖堂」として心の内部に秘められたもの、ぼくたちが日常において意識しないものであるとともに、もっともぼくたちの真の姿を明かすものでもあるのだ。

このゲニウス的なものは、スペキエース的なものとして、鏡のようにぼくたちの隠れた顔を写しだす。「鏡は、わたしたちが像をもっていることを発見すると同時に、それがわたしたちから分離されうること、わたしたちの〈外観〉あるいはイマーゴがわたしたちには属していないことをわたしたちが発見する場所でもある」(八〇ページ)のである。

そしてこのゲニウス的なものは、自己の内部だけではなく、他者や品物として現れることもあるとアガンベンは考える。「ベンヤミンが〈薄明のような〉と表現する半分が天の聖霊で半分が悪魔のインド神話のガンダルヴァに似た」(四〇ページ)、奇妙な存在であり、カフカの小説に登場する「助手」であり、ぼくたちを裏側から援助してくれるものだ。品物のうちにもこのようなゲニウス的なものは存在する。「半ば思い出の品であり、半ばお守りでもあるような」(四三ページ)無益な品物、それでいて誰もそれを敢えて捨ててしまうことのできないものである。

この無益な品物のうちに住むゲニウスは、ある意味ではベンヤミンの天使に近いものである。ベンヤミンは「アゲラシウス・サンタンデル」で、「天使は、わたしがかつて別れざるをえなかったあらゆるもの、人間たち、そしてとりわけ物たちに似ている。わたしがもはや所有していない物たちのなかに、天使は住んでいるのだ」と書いているからだ(『来たるべき哲学のプログラム』前掲書三六七ページ)。

しかしアガンベンは同時に、ベンヤミンの「宗教としての資本主義」を考察した「涜神』の章では、資本主義の「大祭司」こそが、この天使の裏の顔であることを指摘する。「玩具が、それの使われた遊びが終わったとき、いかに残忍な不安の種となりうるかを、子供ほどよく知る者は誰もいない」のであり、よこしまな魔法使いがそれをつかまえて呪いをかけ、わたしたちに危害を加えるために使うこともできるのである。このよこしまな魔法使いは、資本主義という宗教の大祭司である」(一二七~一二八ページ)と。

この魔法使いの「裏をかく」のはどのようにして可能か。それを問うことこそが、「来るべき世代の政治的課題」(一三五ページ)であるというのが、アガンベンの最後の言葉である。そしてこの課題は、未来の世代の課題であるだけでなく、ぼくたち読者に問い掛けられている問いでもある。

【書誌情報】
■涜神
■ジョルジョ・アガンベン著
■上村忠男,堤康徳訳
■月曜社
■2005.9
■139p ; 18cm
■原タイトル: Profanazioni.
■4-901477-19-6
■定価 1800円


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2006年11月21日

『フーコー・ガイドブック』ミシェル・フーコーほか(筑摩書房)

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「フーコーの思考と生活の見取り図」

『フーコー思考集成』全一〇冊の主な文章がちくま学芸文庫で、フーコー・コレクションとして、『狂気・理性』『文学・侵犯』『言説・表象』『権力・監禁』『性・真理』『生政治・統治』の六冊の文庫にまとめられて、読みやすくなったことを祝いたい。これでフーコーが電車の中で読めるようになったと、喜んでおられる読者も多いことと思う。
ところでこの『フーコー・ガイドブック』は、このフーコー・コレクションの別冊という位置づけで刊行されたものだ。この本は三つの部分で構成される。第一部はフーコーの主要著作の解説であり、第二部はフーコーのコレージュ・ド・フランスの講義レジュメであり、第三部はフーコーの年譜である。

第一部は、「フーコーの頭」についてのわかりやすい解説から始まって期待を抱かせてくれるのだが、著作の解説としては少し簡略にすぎて、それほど効率的な導入とはなっていないように思われるのが残念だ。著作解説と用語解説を同時にやろうとしたのが裏目に出たのかもしれない。

それよりも第二部は、コレージュ・ド・フランスの一一年分のレジュメがまとめられていて、とても便利だ。フーコーが毎年発表していたレジュメは、まだコレージュ・ド・フランスの講義が刊行されていない年度のものもあり、一覧性があって、フーコーの晩年の営みを一望できる。

このコレージュ・ド・フランスのレジュメは『思考集成』の原著が刊行される以前から一冊の著書として刊行されていて、実はぼくはこの著作の翻訳を出したくて、いろいろと努力したのだった。ぼくにとって念願だった本がこのような形で成立していることに、複雑な気持ちを抱かずにはいられないが、こうしてレジュメがまとまった一冊になったことは、読者の一人として素直に喜びたい。

これからコレージュ・ド・フランスの講義録が次々と刊行されてくるだろうが、フーコー最後の十数年間の軌跡をたどるためには、フーコーみずからその年の講義について要約した文章は、何度でも立ち返るべき大切な記録だと思うのだ。

第三部は、『思考集成』の第一巻の冒頭に収録されていた年譜で構成される。最後までフーコーを手伝っていたダニエル・ドフェールが作成したこの年譜は、フーコーの活動について背後から照らし出す貴重な証言となっているのである。たとえば1953年1月に『ゴドーを待ちながら』を観劇して、「一つの断絶」とみなし、それから「ブランショとバタイユを読んだ」(二五六ページ)という証言(そして次にニーチェとハイデガーにたどりつくのである)。そしてルネ・シャールの詩を暗唱できない人は、昼食に招かれることはなかった(二六〇ページ)という晩年にいたるまで続くネル・シャールの詩作品への偏愛の証言。

サドとビシャが西洋的な人間の身体のうちに、死とセクシュアリテを位置づけたというノートからの抜き書き(二六五ページ)は、『狂気の歴史』の背景をあかしているし、サピアとウォーフの理論にたいして、「問題は言語ではなく、発話可能性の諸境界そのものなのだ」という指摘は、『言葉と物』のモチーフを浮き彫りにする。アルジェリアで「毎日ギリシア的に身体を鍛え上げ、日に焼け、厳格な生活を身につけるという自分の生の新たなスタイル」(二七三ページ)を構築し始めたという記録には、ついほほ笑んでしまう。

この年譜を読むだけでも、フーコーの思考と生のスタイルがどのように変わっていったかをいろいろと想像することができるだろう。誰でもいい、ある一人の思想家の生活と思考のスタイルの襞のすみずみまで知っておくこと、それはぼくたちに自分の生き方で袋小路に入ったような気がするときに、そこから脱出するために役立つものなのだ。

こんなとき、彼ならどうしただろう、どう判断し、どう決断しただろう。その思考の道筋が自分なりに思い描けるような思想家を一人でも確保しておくことは、とても大切なことだと思う。その意味でもこの小さな、それでいて中身のぎっしりと詰まった本は、とても貴重な手引きとなるだろう。

【書誌情報】
■フーコー・ガイドブック
■フーコー・コレクション (文庫)
■ミシェル・フーコー (著), 小林 康夫 (編集), 松浦 寿輝 (編集), 石田 英敬 (編集)
■筑摩書房 (2006/11)
■326ページ
■ASIN: 4480089977
■価格:1,365円


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2006年11月16日

『〈テロル〉との戦争 : 9.11以後の世界』西谷修(以文社)

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「九・一一以後の世界を考えるための手がかり」


西谷修の『「テロとの戦争」とは何か』は、九・一一テロの後の世界の動きを追跡しながら分析する好著だったが、その後のイラク戦争の経緯を踏まえた増補版『〈テロル〉との戦争』が刊行された。

イラクではスンニ派とシーア派が居住地区を分ける川越しに砲弾を打ち込む悲惨な事態になっているという。かつては共存できた同じイスラーム教の二つの宗派が仇敵のように殺しあうようになった現状は、かつてのユーゴスラビアを思い出させる。それにつけてもブッシュのイラク戦争のもたらした惨禍を痛感せずにはおられない。その意味でも九・一一からの分析に、イラク戦争開始後の新しい分析を追加した本書は、さまざまな事件を想起し、位置づけるのに役立つ。

本書に集められた西谷の分析のように、ブレずに事態を追跡する文章は、定点観測のような役割を果たしてくれて、ありがたい。というのも、日本の論調が最近は急に強い潮に流されるように、みえないところからブレているような気がするからだ。

この状況を西谷は、新幹線が終着駅に到着すると、進行方向に椅子の向きを変える場面に譬えている。進行方向に後ろ向きに座るのは昔の東海道線などではごく普通のことだったが、新幹線で後ろ向きに座ることを考えると、なぜか身体的に嫌な感じがする。速さと顔の向きに何が関係があるのだろうか。

それはともかく西谷は現在の論調のうちに、バタンバタンと椅子の向きを変えるような印象を抱いているのであり、ぼくも同感である。メディアの風潮のうちで、誰もが同じ方向を向いていないと、不安になるかのように、一斉に同じ方向に顔を向け、進行方向と逆を向いている人は、急に自分がすべてのひとの視線を集めていることに気付く。たんに椅子の向きという物理的な理由からなのだが、やがてその人も、もじもじとして座席の向きを変えるに違いない。

「バタンと座席がひっくり返る。それは誰かの命令で行われるのではない。いつの間にかみんながいっせいに向きを変えるのだ」(二一九ページ)。西谷は、とくに拉致問題におけるこの座席の向きの転換にとくに注目する。メディアにおいていつか日本が「一方的な被害者」ということになって、だれもが「ならず者」を糾弾するのが当然だという雰囲気になり、逆に「危機だけを増幅する」(同)結果になっているからだ。

韓国において、交通事故を起こしたアメリカ兵が罪を問われなかったために巻き起こった反米集会を取り上げ、同じような事件が沖縄で起きていることを指摘しながら、「ところが韓国は、言ってみれば国全体がオキナワなのだ」(一九七ページ)と指摘するなど、西谷の分析は相変わらず鋭い。急に自分が進行方向とは逆の椅子に座っているような気がするのは嫌なものだろうが、今後もじっくりと見極めた現状分析を読みたいと思う。

【書誌情報】
■〈テロル〉との戦争 : 9.11以後の世界
■西谷修著
■以文社
■2006.10
■264p ; 20cm
■「「テロとの戦争」とは何か」の増補新版
■4-7531-0249-1
■定価  2400円


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2006年11月13日

『キリスト教の伝統』J.ペリカン(教文館)

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「キリスト教の教理史の定番書」


著者のペリカンは訳者によるとハルナックの孫弟子にあたるらしく、ハルナックの偉大な著作『教理史』について「古くはなったが、いまだに本書を乗り越えた著作はない」と称えている。しかし訳者はみずからの著作が、その課題をなしとげたと自慢してもよいかもしれない。少なくともこの一連の著作が、著者がハルナックに捧げた「この分野の研究者なら誰でもそれと競わねばならない初代教会の教理の歴史の一解釈を提示している」(四七一ページ)のはたしかだろう。


ぼくも以前からこの著作の恩恵をこうむっていたが、邦訳がでてみると、新たにその素晴らしさが実感できる。これまで頭の中でもやもやとしていた霞がはれたような気分である。とくにわかりよく説明されているのが、第四章のアレクサンドリア中心の「ホモウシオス」の教義とニカイア信条、第五章のアンティオキア中心の内在する「神のロゴス」の神学、とカルケドン信条におけるキリスト教の三位一体論の内的な拮抗関係である

カッパドキアの三神父の理論がもう少し詳しく紹介されていたらと思わないでもないが、これらの論争と教義で何が賭けられていたのか、どのような概念を中心に議論が展開されていたのかがはっきりするのは素晴らしい。グノーシスからオリゲネスとクレメンスの理論にいたる展開も示唆的である。


第六章でアウグスティヌスの予定説がもつ重要性と「異端性」が詳しく紹介されているのもうれしいところだ。アウグスティヌスの自由意志の理論が哲学の世界でもった重要性についてはハンナ・アレントも指摘しているが、この自由意志の否定と不可分の関係にある予定説が、一七世紀のジャンセニウスの『アウグスティヌス』にいたっても「問題は解決されていない」(四三六ページ)ことは重要なことだ。


このアウグスティヌスの予定説をめぐっては「恵みの主権とその必要性という教理から、恵みの仲介の教理を手段として、功績と人間の主導性という概念の最導入へと微妙に移行する可能性」と、「予定論への逆行」の可能性が競いあうことになるのだ。そして西方のキリスト教神学は、アウグスティヌスへの「一連の脚注」として書けるという著者の指摘は刺激的である。


ほかにも興味深い記述は多い。ネストリオスの書物を筆者した者は、その手を切断される可能性があったのに、隠れオリゲネス主義で満ちていたデュオニシュオス・ホ・アレオパギテースの書物は、パウロとの伝説のために「使徒に次ぐ権威を主張することができた」(四五七ページ)ことを考えると、偽名と韜晦の力もまんざらではないと思わざるをえない。


それと「カトリック」(普遍)を称する公同教会は、「万人によって信じられてきた事柄を理解するためには、教会がまだ神学の中で教えておらず、信条の中で告白していなかった時でも、地の黙した人々に尋ね、彼らが信じている教理を読み出す必要があった」(四四七ページ)という記述も深い意味をそなえている。テオトコスたるマリア信仰もまた、「地の黙した人々」(silent in the land, p.339)から生まれたものだろう。

全巻の構成を紹介しておこう。
第二巻『東方キリスト教世界の精神』
第三巻『中世神学の成長』
第四巻『教会の教義の改革』
第五巻『キリスト教教理と近代文化』


翻訳は意訳を避けたものだけに少し堅さはあるが、それなりに読みやすく、信頼できる。無事に最後まで刊行されることを祈りたい。

【書誌情報】
■キリスト教の伝統 : 教理発展の歴史. 第1巻
■J.ペリカン著
■鈴木浩訳
■教文館
■2006.7
■506,27p ; 22cm
■公同的伝統の出現 100-600年
■4-7642-7256-3
■6500


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