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2006年04月08日

『アクシデント 事故と文明』ポール・ヴィリリオ (青土社)

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「禍々しき予言者」

ヴィリリオの黙示録的な予言は呪文のように、ぼくたちの心を捉える。哲学者とは禍々しきことを告げる予言者のことだといった人がいるが、嘉きことを告げる予言者であるべきでないのはたしかだろう。ぼくたちにはどうしても、明るい未来を信じたいという自然な「傾き」があるからこそ、暗い未来についての予言には耳を傾けるべきなのだ。

それでも、ぼくたちの現在が実にはどのようなものであり、未来がどのようなものとなるのか、日常の生活のうちではそれほど露になってこないものを、ぼくたちの眼前につきつけて、その禍々しさを味あわせててくれる書物もときにはある。それがヴィリリオの書物を読むときの貴重な体験だ。ぼくたちは日々の生活のうちで、あまりに想像力を鈍化させているので、ときにはこうした書物で想像力に砥石をあてて、なまった刀を研ぎ澄ます必要があるのだ。

本書『アクシデント 事故と文明』は、パリのポンピドゥー・センターで開いた「サ・アリーヴ」(やってくる)という展示会をきっかけして刊行された書物のようだ。あいからわずのヴィリリオ節が轟いて、楽しい。もちろんどの書物を読んでも同じヴィリリオ節であるとのはたしかなのだが、こうした薬は定期的に服用(笑)すべきものだろう。

ヴィリリオは、現代の技術文明にいたるまでの三つの領域ごとに、事故を分類してみせる。物質にかかわる事故、エネルギーに関する事故、情報に関する事故である(p.69)。産業社会の到来、原子力と核の社会の到来、情報の社会の到来と、社会の性質が変わるごとに決定的な意味をもつ事故の性質は変わってくる。しかしぼくたちが情報社会にいるからといって、物質的な事故の意味が薄れるわけではない。物質的な事故が核の事故で累乗化され、さらに情報の事故で累乗されて、ますます深刻で禍々しいもとなるのだ。

物質的な事故は、古代から存在していたものといえるだろう。最初の交通事故が発生したのがいつなのか、馬で引く戦車の衝突が最初の交通事故といえるのかどうかは別として、現在も交通事故は絶えることがない。福知山線の事故は、現代の管理社会の性質がもたらいした事故という意味では、新しい性質の事故だが、物理的にみる限り、事故の性質は同じだろう。

しかし空間を武器として使った「投げおとし事件」のような「事故」は、生活の場が地上の数十メートル上にあり、しかもそこが公共の場所としてどのような外部者でも立ち入ることができるという現代の技術社会の落とし子に違いない。崩壊するツイン・タワーから飛び下りた人々にとっても、自分が大地から離れた籠のようなものに閉じ込められていたことを痛感したに違いない。

ヴィリリオがあげている例で心をうたれたのは、凶器となった並木の物語である。高速で走り抜ける自動車にとっては、曲がり角の一本の樹が凶器になる。動くことなく、木陰を提供するためにうえられていた樹木が、自動車の速度がある水準を超えると、人々の前にたちはだかる凶器となり、プラタナスは殺人者になるのだ。こうして街道から次々と樹木が伐採されていく。殺人者を駆除するために。ぼくたちが殺害者であることも問われぬままに。

エネルギーの事故として象徴的なのはチェルノブイリの事故がもう二〇周年を迎えたことだった。以前、世界の放射性廃棄物の処分状況の報告書を取り寄せたことがある。旧ソ連圏の諸国では、もはや人が住めなくなった場所をフェンスで囲んで、立ち入り禁止にするだけでなく、行き場のない放射性廃棄物の処分場として利用している。こうして処分場の放射能は高くなるばかりで、いかなる措置も不可能になっていく。

ウクライナはチェルノヴィリの発電所を石の「棺桶」で囲ったが、その効力も少なくなり、日本を含めた国際的な協力で、新たな石棺で発電所をさらに囲むプロジェクトを計画しているという。ヴィリリオが皮肉るように、いつか巨大なエネルギー事故が発生して、やがて人類はこの地球[テール]全体を埋葬する[アンテレ]ようになるかもしれない。アシモフを初めとして多くのSFで描かれているように、「住むことのできない星」として。

ヴィリリオの語るところでは、アメリカでは「チャイナシンドローム」を実際に起こしてみるプロジェクトまであるそうだ。一時は放棄した増殖炉計画を復興しようとするブッシュ政権は、日本の増殖炉計画に色目を使い始めたようだ。そして六ヶ所村での再処理計画が推進され、MOX燃料計画が再燃し、核燃料サイクルの「確立」とやらがうたわれるようになる。そして破滅的な事故の可能性がますます高まるのである。日本の原子力発電所がどれほど大きな地震のリスクに直面しているかも忘れられたかのように。原子力事故はぼくたちの「原罪的な事故」として人類の未来の幕を閉じるかもしれない。

情報的な事故でヴィリリオがとくに注目するのは遺伝子操作の事故だ。放射能の恐ろしさは遺伝子に影響することにあるが、それを人類がみずから手で実行してしまう可能性が現実のものとなってきたのだ。良かれと思って手を加えた遺伝子に、致命的な欠陥が発生することはないのか。生命を作り出すことのできない人間がさかしらに遺伝子に加えた小細工は、いつか時限爆弾のように爆裂するかもしれない。生物という物質の事故に、遺伝子という情報の事故が重なるときの恐ろしさをぼくたちはもはや想像することもできない。

■アクシデント 事故と文明
■ポール・ヴィリリオ (著), Paul Virilio (原著), 小林 正巳 (翻訳)
■ 単行本: 199 p ; サイズ(cm): 19 x 13
■ 出版社: 青土社 ; ISBN: 4791762452 ; (2006/02)



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