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2005年12月25日

『ハイデガー哲学の射程』細川亮一(創文社)

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「ハイデガーと古代哲学」

ハイデガーの『存在と時間』は基礎存在論としても、日常世界でいきる人間の現象学的な考察としても、実存的な考察としても、何度読んでもおもしろい書物だが、細川氏は『存在と時間』の成立の歴史を分析しながら、この書物が当時の実存哲学や現象学などとの取り組みのうちよりも、古代ギリシアのプラトンとアリストテレスとの取り組みのうちに生まれたものを示そうとする。

ハイデガーが当初抱いていた自己世界、共同世界、環境世界という三つの世界論が、超越論的な「解釈」という概念によっていかに消滅していくか(p.189)、事実性という人間のありかたから実存というありかたにいかにして重点が移行していくか(p.129)などを説得力のあるかたちで提示する。

またハイデガーの本来性と非本来性の概念の対比が、ふつう考えられるような頽落と実存の対比とは別に、アリストテレスのフロネーシスの概念との取り組みのうちに生まれているという指摘も興味深い。アリストテレスの倫理学の基本的な視点は、ソフィアとしての知とフロネーシスとしての知のどちらが高次の知であるかというところにある。これは観想的な知と実践的な知の対立、すなわち哲学と政治学の対立という重要な問題であり、アリストテレスが一応は観想的な知を高次の知としていることは周知のところである。しかしときにはアリストテレスが政治学的な知に特別な地位を与えているように読めるところもあるのはたしかだ。ハイデガーはアリストテレスのこちらの顔に依拠して、フロネーシスこそがソフィアよりも高次の知と考える。

ハイデガーはフロネーシスこそが「そこで人間が本来的である存在のありかた」であると考え、「これが『存在と時間』において本来的な心理としての決意性とされる。現存在の本来性は堕落した日常生活との対比でたんに考えられているのではない。本来性-非本来性の対比の背景に、フロネーシスかソピアかという対立(真理、存在、時間のレベルにおける)を読み取らなければならない」(p.188)のである。

ハイデガーの『存在と時間』においてWoraufhinとかWozuとかWorumwillenという関係代名詞と前置詞の組み合わせが重要な概念として登場するが、これがアリストテレスが好んで使った語の構造をそのまま翻訳したものであり、たとえばWorauhinは「プロス・ヘン」に対応し、Worumwillenは「ト・ウ・ヘネカ」に対応するという説明は示唆に富む(p.65)。

著者のハイデガー論『意味・真理・場所』も力作だったが、本著もハイデガーの『存在と時間』を読む上で貴重な貢献をしてくれるものだろう。著者が自分の着想が、ハイデガーの講義録が発表されていくプロセスで、いかに発展し、疑問点が解明されていったかを語る後書きも好ましい。ハイデガーの哲学の「射程」を示すことを目的とするとされているが、その課題には成功している。もちろん、「それで、それから、どうなるの」という問いは喉まで出てしまうが、それはこのような著作には禁句だろう。ぼくはかつて『存在と時間』の詳細な脚注書を夢想したことがあるが、そんな作業のためにも、いろいろな思考の刺激を与えてくれる好著だ。

書誌情報

■ハイデガー哲学の射程
■細川亮一著
■創文社
■2000.2
■249,9p ; 22cm
■4-423-17123-6
■5800円


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