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2005年10月22日

『聖パウロ : 普遍主義の基礎』アラン・バディウ(河出書房新社)

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「刺激的なパウロ論」

パウロは哲学的に深いものをもっているだけに多くの思想家が考察の対象にしている。キリスト教がナザレのイエスの教えから分岐して、キリスト教となるためにはパウロの思想が非常に重要な役割をはたしているからだ。キリスト教はキリスト-パウロ教と名づけるべきだと指摘したのはグラムシだったが、それまでファリサイの徒としてイエス派を迫害していたパウロが「回心」しなかったならば、キリスト教はユダヤ教の分派として終わっていたかもしれないと想像することもできる。

バディウはパウロの教えが当時の二つの重要な思想と対立していたことを描き出す。律法というノモスを軸としていたユダヤ教と、哲学の源であるギリシアの思想である。律法に対してはパウロはそれが罪を教え、同時に信者を罪に引き込む力をそなえていることを暴き出す。パウロはイエスを旧約のメシアと呼ぶことで、旧約の伝統をうけつぎながらも、その否定的な力を批判するのだ。

ところがパウロはアテナイで演説して散々な目にあったとされている。神が死んだと語り、死んだ神がよみがえったと語ったとき、哲学者たちは哄笑のうちに場を後にしたというのだ。そこからパウロの教えは「反哲学」としての意味をもつことになる。バディウが共感するのも、この反哲学としての思想的な立場である。パウロはキリストの受難の教えは、愚かしく聞こえることを認めながら、しかし哲学そのものの要求を拒もうとするのである。

ニーチェからウィトゲンシュタインにいたるまで、哲学という病からの治癒を求める営みは続くが、バディウはパウロとともに、反哲学の道を模索するのである。そのための道は、イエスの受難という出来事に注目し、概念的な思考を試みる哲学の方法を拒むことにある。「天才的な反哲学者パウロは、普遍的なことの条件は、起源においても、到達点においても、概念的ではありえない、と哲学者に警告する」(p.194)のである。

パウロにとってはイエスが受難し、復活したという「出来事」だけが決定的に重要な意味をもっていた。パウロは処女マリアについても、イエスの奇蹟についても語らない。ただイエスが人々のために罪を負って死に、復活し、使途たちに現れたことだけが、信仰の要であることを強調するのである。「キリストという出来事が到来するであろうさまざまな時代を超えて、主体の新たな道の見地を打ち樹てる[確証する]からだ」(p.114)。この出来事は、「遺贈でも伝統でもなければ、教えでもない。出来事は純粋な贈与として、こうしたこと一切にとっての超数[員数外]である」(p.114-5)。ここに出来事の思想を追求するバディウのパウロへの共感の土台がある。

解離に「せんげん」とルビをふって、選言に「かいり」とルビをふる(p.114)ややアクロバティックなところのある翻訳に好みは分かれるだろうが、キリスト教の源泉にあるパウロの思想を現代の思想的な課題から考察し、反哲学という困難な道を歩もうとするバディウの試みは、ぼくたちを挑発する。


書誌情報
■ 聖パウロ : 普遍主義の基礎
■ アラン・バディウ[著]
■ 長原豊,松本潤一郎訳
■ 河出書房新社
■ 2004.12
■ 210p ; 20cm



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