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2005年10月28日

『芸術と貨幣』マーク・シェル(みすず書房)

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「貨幣と芸術、貨幣とキリスト教の親密な関係」

芸術に描かれた貨幣というと、ついティツィアーノの描いたダナエの裸体にふりそそぐ金貨を思いだすが、絵画だけにかぎってみても、貨幣はさまざまに異なる顔で登場していることに驚かされる。

シェルの『芸術と貨幣』は、西洋のギリシア、ユダヤ教、キリスト教の伝統のうちで、さまざまな芸術作品に登場する貨幣について考察する書物だが、たんにそれだけにかぎらない。貨幣はキリスト教の「根」のところにすみついていて、多様なアレゴリーの「種」となっていることを教えてくれる。

キリスト教においては、三位一体の理論のもとで父と子と聖霊が同じものでありながら、ペルソナ(仮面)を変えて登場する。イエスは人であると同時に神でもある。人という現実の姿をとりながら、実は神という観念的なものの具現したものである。貨幣もまた、たとえば金属という現実の物質でありながら、そこに刻印されただけの価値という観念的なものを示している。

「キリスト教的思考にとって貨幣がとりわけ微妙な問題となるのは、その価値が普遍的に等価で、神人イエスがそうであるように、観念的なものと現実のモノを同時に顕現させるからである」(p.6)。貨幣は現実の物質で作られていると同時に、それはどこでも通用する普遍的な価値を示すものとされている。このようにキリスト教と貨幣を支えている思考は「うり二つ」なのだ。

それはキリスト教の歴史において貨幣の比喩やイメージが繰り返し登場することからも明らかだろう。イエスは国家に税金を納めるべきどうかを問われて、カエサルの肖像の刻印されたコインで、「カエサルのものはカエサルに」と答えた。そして「神のものは神に」と付け加えた。これが何を意味しているかは微妙な問題なのだが、神殿におさめる税金を示唆したものだという説もある。教会は現代にいたるまで、信徒たちから信仰の「代価」として貨幣を集めつづけているのである。

税金だけではない。宗教改革で問題になった免罪符というものは、自分の罪の許しを貨幣で買い取るものだった。罪に対しては、さまざまな罰が与えられたが、その罰は貨幣で買い取ることができたのだ。罪を「贖う」という言葉どおりに。そしてどの罪にはどれだけの貨幣が必要かということが定められていたのであり、罪の大きさは貨幣の大きさで計られていたわけである。

また法王庁がみずから貨幣を発行していたことも有名だし、ミサに出席するためには代用通貨が発行されることもあった。これは「聖餐の硬貨」とも呼ばれたが、これはは司祭が「これはわたしの血である」とか、「これは私の肉である」というタイミングに合わせて与えられたという(p.19)。このとき代用通貨は聖餅と同じ地位を与えられるのである。代用通貨も聖餅も、本物の通貨と同じ方法で製造されることが多かったのだ。

西洋の絵画においてはこの聖餅にはIHSという語が刻印されている。「この徴において」とか「神の名において」と解釈されるこの語は、重ねて書くと、Sの上に縦棒が三本、横棒が一本にみえる。ここから縦棒と横棒を一本ずつとりさると、ドルの記号になる。「キリスト教の古い組み合わせ文字(IHS)がアメリカで貨幣の記号($)に変じたのは、けっして摩訶不思議な出来事ではなかった」(p.22)というのも、説得力がある。

本書ではさらに、聖杯と貨幣の関係などキリスト教のさまざまな貨幣との「因縁」が解明される。そしてシャイロックに描かれたユダヤ人と貨幣の結び付きの背後に、キリスト教の無意識的な貨幣観と反ユダヤ主義が潜んでいることを示すなど、奥行きもふかい。ホッティチェリの『受胎告知』の絵で、天使の口からでる金文字が、ダナエの貨幣といかに結びついているか、あなたは推理できるだろうか。


書誌情報
■芸術と貨幣
■マーク・シェル著
■小澤博訳
■みすず書房
■2004.1
■251,39p ; 22cm


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2005年10月22日

『聖パウロ : 普遍主義の基礎』アラン・バディウ(河出書房新社)

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「刺激的なパウロ論」

パウロは哲学的に深いものをもっているだけに多くの思想家が考察の対象にしている。キリスト教がナザレのイエスの教えから分岐して、キリスト教となるためにはパウロの思想が非常に重要な役割をはたしているからだ。キリスト教はキリスト-パウロ教と名づけるべきだと指摘したのはグラムシだったが、それまでファリサイの徒としてイエス派を迫害していたパウロが「回心」しなかったならば、キリスト教はユダヤ教の分派として終わっていたかもしれないと想像することもできる。

バディウはパウロの教えが当時の二つの重要な思想と対立していたことを描き出す。律法というノモスを軸としていたユダヤ教と、哲学の源であるギリシアの思想である。律法に対してはパウロはそれが罪を教え、同時に信者を罪に引き込む力をそなえていることを暴き出す。パウロはイエスを旧約のメシアと呼ぶことで、旧約の伝統をうけつぎながらも、その否定的な力を批判するのだ。

ところがパウロはアテナイで演説して散々な目にあったとされている。神が死んだと語り、死んだ神がよみがえったと語ったとき、哲学者たちは哄笑のうちに場を後にしたというのだ。そこからパウロの教えは「反哲学」としての意味をもつことになる。バディウが共感するのも、この反哲学としての思想的な立場である。パウロはキリストの受難の教えは、愚かしく聞こえることを認めながら、しかし哲学そのものの要求を拒もうとするのである。

ニーチェからウィトゲンシュタインにいたるまで、哲学という病からの治癒を求める営みは続くが、バディウはパウロとともに、反哲学の道を模索するのである。そのための道は、イエスの受難という出来事に注目し、概念的な思考を試みる哲学の方法を拒むことにある。「天才的な反哲学者パウロは、普遍的なことの条件は、起源においても、到達点においても、概念的ではありえない、と哲学者に警告する」(p.194)のである。

パウロにとってはイエスが受難し、復活したという「出来事」だけが決定的に重要な意味をもっていた。パウロは処女マリアについても、イエスの奇蹟についても語らない。ただイエスが人々のために罪を負って死に、復活し、使途たちに現れたことだけが、信仰の要であることを強調するのである。「キリストという出来事が到来するであろうさまざまな時代を超えて、主体の新たな道の見地を打ち樹てる[確証する]からだ」(p.114)。この出来事は、「遺贈でも伝統でもなければ、教えでもない。出来事は純粋な贈与として、こうしたこと一切にとっての超数[員数外]である」(p.114-5)。ここに出来事の思想を追求するバディウのパウロへの共感の土台がある。

解離に「せんげん」とルビをふって、選言に「かいり」とルビをふる(p.114)ややアクロバティックなところのある翻訳に好みは分かれるだろうが、キリスト教の源泉にあるパウロの思想を現代の思想的な課題から考察し、反哲学という困難な道を歩もうとするバディウの試みは、ぼくたちを挑発する。


書誌情報
■ 聖パウロ : 普遍主義の基礎
■ アラン・バディウ[著]
■ 長原豊,松本潤一郎訳
■ 河出書房新社
■ 2004.12
■ 210p ; 20cm



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