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2005年09月21日

『開かれ 人間と動物』アガンベン(平凡社)

開かれ 人間と動物 →bookwebで購入

「剥き出しの生を作るマシン」

人間は動物とどこまで異なるか。この問いはドイツの哲学的な人間学の中心的なテーマだった。しかしよく考えるとこの問いは奇妙である。人間が動物ではないかのように、人間と動物を対立させる。カテゴリーとして考えるならば、動物は植物や鉱物と対比して考えるべきだろう。本来は動物の一つの種にすぎない人間を、動物そのものと(まるで動物という種が存在するかのように)対比させるのはカテゴリー・ミステークとしか言わざるをえないのだ(文学全集で世界文学と日本文学が分けて分類されているのと同じようなおかしみを感じることもできる)。

これでもこの問いは哲学的に多くの問いと答えを引きずっている。この問いには、アリストテレス風に言語の利用によって答えるか、動物行動学的に道具の利用で答えるか、哲学的人間学的に象徴の利用で答えるか、生物学的に、人間が生まれた瞬間から自立して生きることのできない早産の生き物として答えることもできる。

ヘーゲルは動物は死なないが人間は死ぬというところに、人間と動物の違いをみつける。ハイデガーは、動物は世界をもたないが、人間は世界をもつところに違いをみつける。動物が世界をもたないというのは、動物が世界と貧しい関係しかもてないということだ。「人間を特徴づけるのが世界の形成であるとすれば、動物における世界の窮乏を規定するのは、この露呈なき開示なのである。動物はたんに世界を欠いているばかりではない。なぜなら動物は放心のうちで開かれている」からである(八五ページ)。

後期のデリダも、ハイデガーにおける動物と人間の差異の視点に何度もこだわったが、アガンベンも同じように、人間という実存に特権的な地位を与えるハイデガーの基礎存在論の背後では、人間と動物の間の決定的な深淵が必要とされていたことに注目する。

このハイデガーの視点は、ハイデガーの西洋形而上学批判にもかかわらず、ハイデガーがその重要なところで、人間が自己のアイデンティティを規定するのに、人間と動物との差異を考えざるをえなかった西洋の形而上学と哲学の伝統に依拠せざるを得なかったことを示すものである。アガンベンは、この差異をつくりだす「人類学的なマシン」が二種類存在していたことを指摘する。

一つは古代的なマシンであり、このマシンは人間のうちに動物を含みこむことで人間と非人間を定義する。野性児、獣人、奴隷、野蛮人、異邦人たちをまず人間のうちにとりこみながら、人間でないものと人間の境界を定める。ところが近代のマシンは包合ではなく排除のシステムによって機能する。人間のうちに人間でないものを定めることで、自分たちを真の人間として定めるのである。人間でありながら人間でないものとされたのは、ユダヤ人であり、植物人間であり、臓器を自由に処分する「死体」となってしまった脳死の人々である。

このシステムが恐怖を誘うのは、人間と人間でないものの間に未確定の領域(六〇ページ)が残され、そこにおいては人間は「剥き出しにされた生」として、人間でないものとして取り扱うことができるようになっているからである。強制収容所において、収容所列島において、カンボジアにおいて、二〇世紀の歴史はこうした人間でない人間たちが量産された歴史である。そして現代においても、ガンタナモ刑務所の囚人たちやイラクの刑務所の囚人たちだけでなく、洪水のさなかで汚染された水の中に放置されたニューオリンズの多数の市民たちも、こうした「剥き出しの生」のうちに突如として放りこまれる。

アガンベンがこの書物で試みるのは、人間と動物の差異という伝統的なテーマ、ハイデガーが疑問を抱くこともなしに当然として提示した概念的な枠組みにおいて、すでに政治的な力が働いていること、生の政治の原則が貫徹していることを示すことだ。そしてこうした非人間をつくりだすマシンが「どのように機能しているかを把握し」(六一ページ)、いざというときにそのマシンの機能を停止できるようにしておくことなのだ。


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書誌情報
■開かれ : 人間と動物
■ジョルジョ・アガンベン著
■岡田温司,多賀健太郎訳
■平凡社
■2004.7
■208p ; 20cm


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