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2005年09月25日

『パレスチナとは何か』エドワード・サイード(岩波書店)

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「ディアスポラを生きる」

岩波の現代文庫として文庫化されたのをきっかけに、サイードの『パレスチナとは何か』を読み返した。この本はサイードがスイス人の写真家ジャン・モアの撮影した写真の中からパレスチナについて考えるために役立つものを選びだし、その写真を眺めながら、故郷のパレスチナについて語ったものである。

D・グロスマン『死を生きながら』(みすず)は、テロにおびえるエルサレムで生活するというのはどういうことかを実感をもって教えてくれた書物だが、『パレスチナとは何か』は、故郷を追い出され、テロリスト扱いされながら生きるパレスチナ人がどのような思いをさせられているかを、一枚一枚の写真を手がかりに、ありありと描き出している。市場の隅で、野原で、人々の顔や風景という具体的な場から解き明かされるので、パレスチナの人々の生を、まるで隣人の生のように感じ取ることができる。

突然、生まれた場所から追い立てられ、国籍もないままで、難民として生きるか、あるいはイスエラルの中で邪魔者扱いされながら生きることを強いられた人々の生活とメンタリティがどのようなものとなるか、日本という島国で暮らしているぼくたちにはなかなか想像しにくいだけに、貴重な一冊となっている。

パレスチナの人々にとって不幸なことは、パレスチナを故国としてやってきたイスラエルの人々が、ヨーロッパでユダヤ人迫害にあい、ホロコーストを経験してきたことである。イスラエルに敵対する人々は、ホロコーストの加害者の位置に立たされてしまうのである。「大半の西洋的なレトリックにおいて、私たちは、ナチや反セム主義者が占めている場所にいつの間にか滑り込まされてしまう」(p.23 ただしページ数は単行本のもの)のである。やがて奇妙なことに、パレスチナの人々みずからが、自己のアイデンティティを「他者」として知覚するようになる(p.53)のである。

ユダヤの人々は第二神殿の崩壊の後、世界の各地に「散らされた」ディアスポラの民として生きることを選び、あるいは強いられてきた。長い困難な歴史の末に、イスラエルという国において、はじめてこの散らされた生活に終止符をうつことができたのだった。しかしそのことには大きな代価があった。イスラエルがみずからディアスポラの民をつくりだす原因となったのである。サイード自身は、パレスチナの民をディアスポラの民として認識することは拒む(p.155)。歴史的に違う概念だからだ。

しかしディアスポラの概念を社会学的にもっと広く解釈することもできる。ディアスポラに生きる人々は、故郷を離れても故郷のことが忘れられない人々であり、生活の根を失っている人々でもある。そしてパレスチナの人々こそまさに、生活のすべてにおいて故郷を喪失し、しかも故郷のことを忘れられない人々、根を失って生きることがアイデンティティそのものとなりかけている人々だからだ。

サイードは、息子たちから土地を売却するように迫られている母親を描いたパレスチナの映画のことを語っている。母親がもっているという土地は、イスラエルに占領されていて、もはや所有の実質はない。権利書があるとしても、それは紙切れにすぎない。それでも売却するという決定的な一歩を踏み出すことを母親は拒む。土地があり、そこに強い愛着をもつ自分がいるからだ。パレスチナの人々はまさに故郷に住みながらも、すでに故郷を失い、生きる根を失い、ディアスポラの生を生きることを強いられているのである。

それでもパレスチナの人々はほがらかに、ときには自虐的なまでのユーモアを発揮しながら、しぶとく生き延びている。傑作なのは、イスラエル軍の捕虜となったパレスチナのゲリラの「告白」である。イスラエルはこうしたゲリラを逮捕して、ラジオ番組に登場させて、告白させるのである。たとえばこんな具合だ。

【キャスター】アラファトというテロリストについて君の意見を聞かせてもらおうか。
【捕虜】誓って申し上げますが、アラファト氏こそは最も偉大なテロリストにほかならないのであります。氏こそは、われわれのことも大義をもきっぱりと見限った人物であります。氏の全生涯はテロリズムそのものであります。

 そしてキャスターから他のテロリストに対する助言を求められて、仲間たちに次のように助言する。
【捕虜】まず、自らの武器をイスラエル国防軍に没収していただくこと、そうすれば彼らに致しましても、可能なかぎりで最良の待遇を受けられることを悟るにいたるであろうということであります。

 サイードが指摘するように、捕虜はイスラエル当局を完全に「おちょくって」いる。そして「パレスチナ人の捕虜がテロリズムをパロディー化しているというのに、まるで聞く耳をもたないといったさまを、あらわにしてしまっている(p.87)のである。そして「これに似た他の多数の物語群は、パレスチナ人の間では、叙事詩のようなものとして流布している。それどころか、夕べの余興用として、こうした話を録音したカセットすら用意されている始末」だそうである。食後にテープを聞いて、みんなで笑い転げるのだろう。なんというブラックユーモア(笑)。

書誌情報
■パレスチナとは何か
■エドワード・W.サイード〔著〕
■ジャン・モア写真
■島弘之訳
■岩波書店
■1995.8
■269p ; 19cm

文庫版
■338 p ; サイズ(cm): 15
■出版社: 岩波書店 ; ISBN: 4006031173 ; (2005/08)


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2005年09月21日

『開かれ 人間と動物』アガンベン(平凡社)

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「剥き出しの生を作るマシン」

人間は動物とどこまで異なるか。この問いはドイツの哲学的な人間学の中心的なテーマだった。しかしよく考えるとこの問いは奇妙である。人間が動物ではないかのように、人間と動物を対立させる。カテゴリーとして考えるならば、動物は植物や鉱物と対比して考えるべきだろう。本来は動物の一つの種にすぎない人間を、動物そのものと(まるで動物という種が存在するかのように)対比させるのはカテゴリー・ミステークとしか言わざるをえないのだ(文学全集で世界文学と日本文学が分けて分類されているのと同じようなおかしみを感じることもできる)。

これでもこの問いは哲学的に多くの問いと答えを引きずっている。この問いには、アリストテレス風に言語の利用によって答えるか、動物行動学的に道具の利用で答えるか、哲学的人間学的に象徴の利用で答えるか、生物学的に、人間が生まれた瞬間から自立して生きることのできない早産の生き物として答えることもできる。

ヘーゲルは動物は死なないが人間は死ぬというところに、人間と動物の違いをみつける。ハイデガーは、動物は世界をもたないが、人間は世界をもつところに違いをみつける。動物が世界をもたないというのは、動物が世界と貧しい関係しかもてないということだ。「人間を特徴づけるのが世界の形成であるとすれば、動物における世界の窮乏を規定するのは、この露呈なき開示なのである。動物はたんに世界を欠いているばかりではない。なぜなら動物は放心のうちで開かれている」からである(八五ページ)。

後期のデリダも、ハイデガーにおける動物と人間の差異の視点に何度もこだわったが、アガンベンも同じように、人間という実存に特権的な地位を与えるハイデガーの基礎存在論の背後では、人間と動物の間の決定的な深淵が必要とされていたことに注目する。

このハイデガーの視点は、ハイデガーの西洋形而上学批判にもかかわらず、ハイデガーがその重要なところで、人間が自己のアイデンティティを規定するのに、人間と動物との差異を考えざるをえなかった西洋の形而上学と哲学の伝統に依拠せざるを得なかったことを示すものである。アガンベンは、この差異をつくりだす「人類学的なマシン」が二種類存在していたことを指摘する。

一つは古代的なマシンであり、このマシンは人間のうちに動物を含みこむことで人間と非人間を定義する。野性児、獣人、奴隷、野蛮人、異邦人たちをまず人間のうちにとりこみながら、人間でないものと人間の境界を定める。ところが近代のマシンは包合ではなく排除のシステムによって機能する。人間のうちに人間でないものを定めることで、自分たちを真の人間として定めるのである。人間でありながら人間でないものとされたのは、ユダヤ人であり、植物人間であり、臓器を自由に処分する「死体」となってしまった脳死の人々である。

このシステムが恐怖を誘うのは、人間と人間でないものの間に未確定の領域(六〇ページ)が残され、そこにおいては人間は「剥き出しにされた生」として、人間でないものとして取り扱うことができるようになっているからである。強制収容所において、収容所列島において、カンボジアにおいて、二〇世紀の歴史はこうした人間でない人間たちが量産された歴史である。そして現代においても、ガンタナモ刑務所の囚人たちやイラクの刑務所の囚人たちだけでなく、洪水のさなかで汚染された水の中に放置されたニューオリンズの多数の市民たちも、こうした「剥き出しの生」のうちに突如として放りこまれる。

アガンベンがこの書物で試みるのは、人間と動物の差異という伝統的なテーマ、ハイデガーが疑問を抱くこともなしに当然として提示した概念的な枠組みにおいて、すでに政治的な力が働いていること、生の政治の原則が貫徹していることを示すことだ。そしてこうした非人間をつくりだすマシンが「どのように機能しているかを把握し」(六一ページ)、いざというときにそのマシンの機能を停止できるようにしておくことなのだ。


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書誌情報
■開かれ : 人間と動物
■ジョルジョ・アガンベン著
■岡田温司,多賀健太郎訳
■平凡社
■2004.7
■208p ; 20cm


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2005年09月17日

『表象としての身体』鷲田清一、野村雅一編(大修館書店)

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「目配りのよい身体論の論文集」

本書は「身体と文化」という叢書の一冊として慣行された論文集であり、叢書の残りの二冊は「技術としての身体」と「コミュニケーションとしての身体」というタイトルになっている。心理学、美術、生物学、文化人類学などのさまざまな学際的な分野から、表象としての身体をテーマにした文章が集められている。

実はこの叢書は一九九〇年代の初めに企画されたものらしい。その当時からみると実に斬新だっただろうと思う。身体論はぼくの好きなテーマでもあるので、編纂者になったつもりで、どんな文章を集めることができるだろうといろいろと思い描いてみた。するとやはりこうした内容の企画になっただろうと思う。あえて追加するとすれば宗教の分野における身体論をいれただろうと思う。

二〇〇五年に刊行された時点でみると、もはや古典的なアプローチにみえる文章もあり、ある程度の既視感は拭えないが(いくつもの文章で、一〇数年前に書かれた文章がこの時点で発表されることについての困惑や弁明の言葉が後書きとして付されている)、一五年前の企画としてはしっかりと目がゆきとどいていると思う。あと一〇年前に出版されていさえすれば……。

中でも興味を引かれたのが人間の疑似身体についての考察だった。身体のシミュレーションは自動人形の段階から、鉄腕アトムのような量産される疑似身体(ロボット)の段階へと進んだのだが、自動人形も量産される疑似身体も、どちらも人間の身体のシミュラークルとして、ぼくたちに不思議な思いをさせることがある。

松浦寿夫の「絶対的な匿名性」が指摘するように、クライストはマリオネットと比較すると人間の身体には優雅さが欠けていると考えていた。それは人間には「意識作用が介入するために自らを飾りたてようと」する(p.65)ところがあるからであり、マリオネットの無心な運動の美しさが妨げられるからだというのだった。たしかに自意識にみちた人間の行動はぶざまにみえることある。クライストは人間が主体として行動することを放棄するとき、ある「逆説的な主体が、匿名のものとして出現する場」(p.66)を思い描いたに違いない。多くの人々が幼児期を黄金時代として思い描く傾向があるのも、同じ無意識的な心の動きによるものだろう。

鷲田清一「見えない衣」は下着とマネキンについての文章を集めたものだが、マネキンがあまりにヴァルネラブルであるために、ぼくたちは攻撃性を駆られる。マネキンは人間とは違って、「意のままに処理」できる存在にみえるために、「他人を疑似的に所有する」欲望をかき立てるのだ。同時にぼくたちは自分を危ういマネキンに同一化するとともに、「自分の傷つきやすさ」(p.370)に直面することになる。加虐性と自虐性が交錯するこの無意識的なメカニズムが、ヴァルネラビリティの本質にあるという論旨は鋭い。

松枝到「刺青、あるいは皮の衣の秘儀」は、処罰として、装飾として、愛情のしるしとして、権威の象徴として使われてきた刺青の不思議さを感じさせる。ときには刺青が「アイデンティティの保証であり、顔以上に顔であった」事例など、皮膚を顔よりも顔らしいものとして使ってきた伝統の深さを味あわせてくれる。

ル・コルビュジエのモデュロールなど、建築が人間の身体を尺度として構想される事例は、複数の論文で考察されている。古代から、世界のほとんどすべての測定単位は、フィートや尺のように、人間の身体を基準として作られたものだった。そうしてみると、人間が居住する建築物に、身体が尺度して使われるようになるのも、ごく当然のことだろう。また建築論や従順な身体論などから、フーコーの考察の射程の広さを改めて感じさせられたことだった。

なお収録されている論文のリストをあげておく。
□序論 表象としての身体-身体のイメージとその演出 鷲田清一

第Ⅰ部 身体のアーキタイプ
□元型としての身体 河合俊雄
□ 絶対的な匿名性 松浦寿夫
□クロゼットの中の骸骨たち-一八世紀の解剖学における最初の女性骨格図像 ロンダ・シービンガー(本間直樹・森田登代子訳)

第Ⅱ部 顔の変幻
□顔の現象学-ジュゼッペ・アルチンボルド 小岸昭
□仮面と身体 吉田憲司


第Ⅲ部 皮膚と衣
□表象としての皮膚 谷川渥  皮膚という存在
□刺青、あるいは皮の衣の秘儀 松枝到
□消し去られる身体-アラブ・ムスリム女性をめぐる断章 大塚和夫

第Ⅳ部 身体の運動空間
□身体パフォーマンスの発生とストラクチャー 市川雅
□ブラック・イズ・ビューティフル-米国黒人の身体表現 辻信一
□建築と身体 角野幸博

第Ⅴ部 加工される身体
□見えない衣-下着という装置、マネキンという形象 鷲田清一
□ 矯正=直立化される身体-教育とその権力の歴史 ジョルジュ・ヴィガレロ(神田修悦訳)

カレイドスコープ
□身体ととけあう 深井晃子

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書誌情報
■表象としての身体
■鷲田清一、野村雅一編
■大修館書店
■2005.7
■429p ; 22cm


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2005年09月13日

『ボードリヤールという生きかた』(NTT出版)

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「ボードリヤール入門に最適」

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「ボードリヤール入門に最適」
日本では初めてのボードリヤール論である。考えてみると、あれほどまでに名高くなったボードリヤールのモノグラフィーがこれまでなかったというのも不思議なことである。著者の塚原氏は、ボードリヤールの多数の書物の邦訳を担当してきた経緯もあって、この書物を著したらしい。ボードリヤールとのつきあいの深さを感じさせるとともに、ボードリヤールの思想の経歴をわかりやすく概観する書物となっている。

ボードリヤールの思想的な歴史をたどると、三つほどの大きな山があると思う。生産概念の批判批判、シミュラークル論、現代批判である。まず最初の生産概念の批判批判では、西洋の近代の重要な概念である生産の概念をバタイユに基づきながら批判する。ぼくたちはつい思想についてまで「生産的」という言葉を軽々しく使ってしまうが、生産という営みには重要な含意が含まれる。あるものを作り出すことがそれだけで「善い」ことだということが、なかば無意識的に前提されているのだ。

しかしものを作り出すことは、つねに善いことであるわけではない。市場にあふれている商品を生産するためにはエネルギーを必要とし、これを廃棄物として処分するためにもまたエネルギーを必要とする。消費されたエネルギーは地球にとっては大きな負荷となるものである。

近代において生産という概念が重視されたことには、人間の本質を労働という営みのうちにみなしたマルクス主義の伝統があるが、これは有用性を重視する近代の「道具的な」理性にふさわしい概念であり、マルクス主義だけではなく、資本主義の社会そのものの根幹にあるものだ。ボードリヤールはこの生産の概念がもつ人間学的および神学的な伝統をするどく暴き出した。

またシミュラークル論では、シミュラークルの三つの時代の区別がわかりやすい。第一のシミュラークルは、現実を「模造」する営みである。自動仕掛けの人形のように、人間の営みを模倣する道具を作り出そうとするのだ。近代の初頭には、歯車で動く人形が珍重されたものだったが、これは「アナロジーと幻影の効果」(p.108)によって、人間を再現しようとしたものだった。

第二の営みは、技術的な大量生産によって、現実を模倣し生産しようとするものである。鉄腕アトムは一人しかいないが、ソニーのアイボのようなペット・ロボットは大量に生産することができる。鉄腕アトムにはまだアウラがあるとしても、尻尾を振るアイボにはもはやオリジナルとしてのアウラはなくなっている。

第三の営みは、オリジナルなしに現実のシミュレーションを作り出すものだ。作り出された世界は、模造ではなく、すでに現実と同等のものとなりおえている。これを象徴するのが、映画『マトリックス』だった。この映画はボードリヤールの著書を参照して作られたものだったが、現実を超えるシミュラークルの世界のリアルさを味わうことができた(ちなみにボードリヤールはこの映画はまだ現実と現実でないものという二元論に依拠していると、批判的だという。ボードリヤールが好きな映画は『トゥルーマン・ショー』と『マルホランド・ドライブ』だという。とくに後者を愛好しているそうだから、物語の筋が完全に破綻してしまっている(笑)作品が好みなのだろう)。

最後に最近のボードリヤールは、この現実でない世界が現実を超えてしまったことから倦まれるさまざまな帰結を語って倦むことがない。シミュラークルが現実を上回るリアルさをもってしまったため、近代社会の根幹を支えてきた基本的な対比概念、すなわち「主体と客体、現実と幻想、肯定性と否定性、あるいは善と悪」(p.202)などの概念の枠組みが崩壊してしまう。そのために道徳や倫理そのものが意味を失いはじめる。

そしてぼくたちはこの非現実的な現実の世界のうちで、主体として行動することができない空しさを味わいながら、ときに死の衝動につきうごかされることになる。9・11のテロの際に、崩壊するツインタワーをみながら、どこかに喝采する気持ちがあったことを告白した人々は多いが、その背景には自分を含めた世界の崩壊を無意識のうちに待ち望んでいるぼくたちの精神状態があるのかもしれない。ボードリヤールが指摘するように、「それを実行したのは彼らだが、望んだのはわたしたち」(p.205)かもしれないのだ。

書誌情報
■ボードリヤールという生きかた
■塚原史著
■NTT出版∥NTT
■2005.4
■246p ; 19cm


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2005年09月09日

『来たるべき世界のために』(岩波書店)

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「デリダの思考のプロセスを追うために」


フランスの哲学者、ジャック・デリダと精神分析家のエリザベト・ルディネスコの長~い対話だ。ルディネスコには、フランスにおける精神分析の歴史についての著書があり、ラカンの伝記『ジャック・ラカン伝』は邦訳されている。この対話には、刊行当初からさまざまな書評が発表されたが、どれも不評だった。なれ合いの対話にすぎないというのだった。そのため、デリダの著書に関心のあったぼくも、この書物の原書を取り寄せなかった記憶がある。

たしかにいまこうして読み直してみると、デリダとの対話の相手としてはルディネスコは軽すぎる。ほとんど専門の精神分析の分野でしか意見を語ることができていない。対話の相手としてはクリステヴァの方がよかっただろうし、読んでいて何度もデリダがクリステヴァと話しているような錯覚に陥った。それでもルディネスコはデリダに自分の思考のプロセスを語らせるための誘い水のような役割を果たしていて、予想外に読みがいのある本となっていた。

昨年亡くなったデリダはこれまで毎年、社会科学高等研究所という、いわば大学院のようなところで多数のセミナーを開催してした。死刑について、赦しについてなど、重要なテーマが取り上げられているが、これまでのところその内容は公表されていない。セミナーの記録はフーコーのコレージュ・ド・フランスの講演記録のように、やがて発表されると期待したいが、それまではこの『来たるべき世界のために』が、デリダのセミナーの内容を推測するための重要な手掛かりになるだろう。

たとえば「予測不可能な自由」の章では、クローニングについてのデリダの留保が語られる。デリダは別の文章で、家族を愛するということは、自分の中の他者を愛することだと語っていた。そのことからも、自己を再生する技術としてのクローナングには批判的だろうと予想していた。ところが意外にもデリダはクローニングそのものに対して、こうした哲学的なスタンスから批判することを控える。

医学的にはすでにさまざまな方法でクローニングと同じような営みが行われているのであり、それに「他者」の思想から反対するという「安易な」道を避けるのだ。ハーバーマスのように、生の一回性という視点からクローニングを批判するのはたやすいのだが、実際にすでに迂回した形でクローニングと同じ意味をもつ技術が適用されていることから、目をそむけてはなるまい。

また「動物たちへの暴力」の章では、動物実験に反対する議論が展開されるが、それも動物性への問いという視座からであり、単純な動物愛護を目指すからではない。そして動物に権利を認めるという一部の運動にたいしては、これは「人間主体にかんするある特定の解釈を強化する隠微の、ないしは暗黙のやり方」であり、「人間以外の生けるものたちに対する最悪の暴力」(九六ページ)であることを指摘する。デリダの意外にバランスのとれた姿勢には好感をもつ。

またデリダの死刑についてのこだわりは強い。プラトン、カント、ルソー、ヘーゲルにいたるまで、ほとんどの哲学者は死刑を問題にせず、かえって死刑の重要性を強調してきた。しかしデリダは、目には目をというタリオ(同害報復)の刑罰としての死刑は、たんなる処罰の一つではなく、法律による処罰の「超越論的な」根拠とまでなっていると考える。死刑とは、存在-神学-政治的なものを溶接するもの、人間の法権利の核心となるもの、法律と権利の体系の「ドームの要石」のような役割を果たすもの(二一三ページ)と考えるのである。

アメリカ、中国、アラブ諸国では死刑をいまだ実行し続けている。もちろん日本も例外ではない。デリダも日本の死刑に注目しながら、死刑のプロセスが公開されないこと、公的な情報の対象とならないことの特異性を強調する。死刑が暗闇のうちに実行されること、誰も知らないうちに死刑が執行されること、それをそもそも〈死刑〉と呼ぶことができるのか、それに「死刑という言い方ができるのか、さだかではない」(二二一ページ)という。そう、それはカフカの『判決』のように、誰もしらない場所で、犬のようなみじめな死を与えられるプロセスのようにもみえる。

それだけではなく、この書物にはアメリカのポリティカル・コレクトの概念が、危険な罠になることを指摘するなど、いかにもアクチュアルな発言がちりばめられている。軽く読み流せるところと、じっくりと、しかもデリダの別の書物を参照しながら深読みをすることを求められる場所とがあるが、デリダの思考の広がりをしっかりと理解できる一冊となっている。

書誌情報
■来たるべき世界のために
■J.デリダ,E.ルディネスコ[著]
■藤本一勇,金澤忠信訳
■岩波書店
■2003.1
■346p ; 20cm

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