2007年06月30日

『現代の貧困-ワーキングプア/ホームレス/生活保護』岩田正美(筑摩書房)

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「「格差」って言うな!」

「格差」論が喧しい。

ワーキングプアやネットカフェ難民が「発見」され、新自由主義下の不平等が問題となっている。しかし、社会的不平等は近年になって突然、顕在化した問題ではなく、バブル経済下の東京でも存在した。

本書は、「豊かな社会」の中で不可視化されてきた格差問題を長いスパンで検証し、問題の本質と解決策を探り当てようとする重要な研究である。

はじめに著者の岩田氏は、「格差」という語ではなく、「貧困」という語を使って、問題を論じるべきことを訴える。「格差」はあくまでも「ある状態」を示すだけの言葉であるのに対し、「貧困」という語は、その格差の中に「あってはならない」状態を見出し、それを「なくす」方向に向けて努力すべきだという価値判断が伴った語である。

新自由主義者たちは、平気な顔をして「格差があって当然」と言う。

もちろん完全な平等性が担保される世界など現出するわけがない。しかしこのフレーズは、社会的弱者や資本主義社会下で不利な条件にある人たちを阻害し、問題の存在そのものを隠蔽してしまう。だからこそ、著者はあえて明確な価値判断の伴う「貧困」という語を使うべきだと訴える。

さて、ここで問題になるのが、「貧困」の定義である。

―――どのくらいのラインをもって、「貧困」と定義すればいいのか? どのくらいの生活水準以下だったら、「貧困」と見なされるのか?

岩田氏は断言する。

「貧困の歴史は、この境界設定についての議論の歴史だといっても過言ではない」

岩田氏はここから「貧困の境界」をめぐって、これまでの先行研究をふまえつつ、丁寧で的確な議論を展開する。そして、そのような貧困者が、どのような社会的属性をもった人たちなのかを分析していく。

ここで岩田氏が訴えるのは、「誰もがワーキングプアになる」ということを強調しすぎる余り、「特定の人々」こそが貧困に陥る可能性が高いという現実が見逃され、場当たり的で誤った対応策がとられることである。

では「特定の人々」とは誰か?

岩田氏は、「離死別経験」、「子ども3人以上」、「未婚継続」、「中学卒」、「離職経験」などの要素が、貧困と結びつきやすいと冷静に指摘する。そして、このような状況の重なり合いが「不利な人々」を貧困の中に閉じ込め、社会的排除につながる装置として機能していると論じる。

これは、貧困に陥りやすい条件が、個人的資質に還元されるわけではないことを示している。問題の中心はあくまでも個人がおかれた「状況」であって、個人の「能力」や「資質」ではない。特定の要素を複合的に抱え込む人は、個人の資質に関わりなく、貧困の中に幽閉され、固定化される可能性が高いのだ。

技術革新やIT化が進む中、手に職をつけていても、一昔前の技術や能力はあっという間に使い物にならなくなることが多い。そのような中で、「貧困に陥っている人間は、個人的な能力が劣っているからだ」と非難し、貧困に苦しむ人の人格や資質までも否定する言説を吐くことは、暴力以外の何ものでもない。問題は「能力」にあるのではなく「状況」にこそあるのだ。

岩田氏が指摘するように、現代日本が取り組んでいかなければならない方策は、「不利な人々」の要素と状況を的確に把握し、その人たちを貧困の固定席から解放することである。大卒フリーターや非正規雇用の問題はもちろん重要だが、政策効果の現れやすい問題ばかりに重点がおかれることで、大きな構造的貧困の問題を見逃してはならない。

「官から民へ」の大合唱の中、国家が果すべき役割までもが民営化され、資本の論理にさらされている。真の保守リベラリストが取り組むべきは、適正な国家の規模をじっくりと見極め、国民の生存権を全力で保障する政策である。

保守は「極端」を排する。官僚制が肥大化した「大きな政府」も資本の論理が肥大化する「小さな政府」も批判し、適正な「中くらいの政府」こそを志向する。二者択一的思考様式ほど、保守思想から遠いものはない。

「規制緩和」や「官から民へ」の熱狂は、小泉政権から安倍政権に代わっても衰えることがない。財界と政界が癒着し、一般国民を荒野に放り出しているとしか思えない状況が続いている。ナショナル・ミニマムまでも民営化する「極端」な政治を推し進める政治家に、保守を語る資格はない。

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