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2013年11月07日

『マルクス 資本論の思考』熊野純彦(せりか書房)

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「時間のエコノミー、時間のテクノロジー」

 今どき七百頁余のマルクス論を書き下ろす。しかもカントやハイデガーの主著の翻訳を完成させる片手間に、である、いや、ひょっとすると『純粋理性批判』や『存在と時間』の訳業のほうが片手間かもしれず、『資本論』解釈こそ本命かもしれない。著者はそんな自分の仕事ぶりを、「おそらくほとんど正気の沙汰ではない」と評している(「あとがき」)。そんな「錯乱」(同上)する哲学者の出現を、われわれは長らく待ち望んできた。
 いよいよ熊野哲学の全貌が姿を現わす。本書を手にとった瞬間、そういう期待というか、畏れが心をよぎった。ヘーゲルにメルロ=ポンティ、レーヴィットにレヴィナス、いや古代から近代、現代までの西洋哲学史の総体をも、ひいては和辻哲郎、埴谷雄高までも、自分の中に深く摂り入れた、オリジナルな思考がここに展開される。――そんな光景がこの国で繰り広げられることを、われわれはどんなに夢見てきたことか。

 だが、その予感はみごとに外れた。本書は著者自身の思索の書ではない。あくまでマルクスの胸を借りて、資本主義という近代システムの内的論理を学びとることが、著者の眼目である。一つには、二十世紀の日本の生んだ稀有のマルクス主義哲学者であった廣松渉の愛弟子として、「今こそマルクスを読み返す」ことにこだわる姿勢が強くうかがえる。著者が大学生だった頃まで――評者の学生時代でもギリギリ――、『資本論』は青年の必読書だったから、マルクスを読んでは仲間と議論にうつつを抜かした青春時代の総決算という意味も籠められているだろう(著者とほぼ同年代の佐藤優にもマルクス本がある)。
 『資本論』全三巻は厖大である。若き日の著者が愛読したという岡崎次郎訳の大月書店国民文庫版で八冊ある。評者のような不勉強者だと、まあマルクスの生前に公刊された第一巻だけでいいかな、ということになるのだが、著者はそんな怠慢を自分に一切許さず、全三巻の内容をきちんと盛り込み、バランス良く解説している。ある時期まで『資本論』研究の牙城であった宇野派経済学畑の議論をはじめとする日本のマルクス研究の蓄積も、ふんだんに活かされている。そうはいっても、独創的思索の書でも精緻な学術研究書でもなく、たかがガイドブックではないか、という気もしてくる。薄っぺらな哲学者早分かりシリーズとは分量も濃度もケタ違いながら、哲学書入門という点では大同小異ではないか、と憎まれ口の一つも叩きたくなる。これだから受験秀才上がりの学者は…。
 著者にとってこの種の印象批評は、しかし痛くも痒くもないだろう。思うに、著者からすれば、本書もまた「修行」なのだ。つまり、自前の哲学を全面的に開陳するためには、いったんは禁欲的にくぐり抜けねばならない幾重もの関門の一つなのである。廣松渉にとっての『存在と意味』に匹敵する、いやそれ以上の到達目標が、著者の眼にはしっかり映じているにちがいない。著者には迷惑かもしれないが、そう言わせてもらう。ここまで酔狂に哲学を勉強して、その他には別にないなんて、まさかそんなことはないよね、と。

 もっと別の何かがあるにちがいないと評者が確信したのは、ほかでもない、本書の「序論」を読んでのことである。「世界のうちで‐他者たちとともに‐存在すること」の総体を解き明かすことが、哲学的思考の営為そのものであり、マルクスを読むこともそれと別物ではない、とまず著者は宣言する。マルクスを徹底して哲学者として遇し、そこに哲学の第一原理を見出そうとする、さりげなくも断固たる決意表明である。では、第一の原理としてそこに見出されるものは何か。何が思考の始まりをなすのか。
 「およそひとが思考するためには、ひとはまず生きていなければならない。であるとすれば、人間が世界のうちで生を紡ぐこと自体が哲学的な思考そのものの第一の前提である」(22頁)。この「生」という原理は、廣松があれほど校訂にこだわった『ドイツ・イデオロギー』からの引用によって傍証される。要するに、「唯物論」と称されてきた発想が、ここに哲学的再検討を受けようとしているのである。生きるとは、息をし、飲み食いし、排泄することであり、食べ物を作り、着物や住まいを作ることである。そのように生産しながら生きてゆくことは、これはこれで、当人の「身体組織」を前提している。「人間存在の身体性こそが、ここで問題のはじまりを告げている」(25頁)。身体として生きるとは、傷つきやすく脆い存在である、ということを意味する。ここから、道具の制作と使用、空間的な限定性、そして時間的な有限性という、三つの制約が帰結してくる。とりわけ時間性は、他の二つにも浸透している重要なファクターである。
 生きるうえで、資源の稀少性という意味にかぎられない、「それ自体として稀少」つまり端的に大切なもの、それは「時間」である。人間にとっては時間そのものが、「人間が世界のうちに存在することそれ自体にかかわる、いわばその生存の枠組みそれ自身」(29頁)をなすからである。これをハイデガーふうに言い直せば、世界内存在という現存在の根本機構こそ時間性だということになる。「存在と時間」というテーマは、じつはマルクスによって先取りされ、はるかに大がかりに展開されようとしていた、と著者は解しているように思われる。マルクスの遺稿『経済学批判要綱』の有名な一節が、ここで引かれる。生産に必要な時間が少なくなればなるほど、他のことにそれだけ時間は振り向けられるがゆえに、個人にとってのみならず、社会全体にとっても、「時間の節約」という規定は本質的意義を有する。「時間のエコノミー、すべての経済はそこへと解消されるのである」――このようにしてマルクスが、「時間の節約=経済」に唯物史観の最終基底を見出したのだとすれば、それは、生、身体、道具、空間、とりわけ時間という基本カテゴリーへとめがけて、唯物論を徹底化するという存在論的底意を秘めていたことになる。
 『資本論』で大規模に行なわれたことも、「時間的」規定への着眼と別物ではなかった。「資本はどのようなかたちで時間のエコノミーを貫徹するのか、時間のエコノミーを固有なしかたで実現することで、資本制は空間をいかに再編成し、世界をいかにつくり変えるにいたるのか」(30頁)――こうしたいわば「時間性(テンポラリテート)の問題系」を解き明かすことに、『資本論』全三巻は捧げられたともいえる。もしそうだとすれば、「時間のエコノミー」を視座にすえるマルクスの経済学批判の試みは、「時間と存在」と表わされるハイデガーの存在論的企てと、まぎれもなく交差することになろう。

 熊野は、講演に由来する「マルクスをどう読むか 時間論としての資本論」(『立命館哲学』第23集、2012年、所収)のなかで、『資本論』を「時間のエコノミー」の観点から読み抜くという着想を、すでに予告していた。ハイデガー読解との連繋を感じさせたその着想をまさに実現したのが、本書なのである。じつを言うと、かつて評者自身、マルクスの「時間のエコノミー」論を、ハイデガーの時間論および技術論と接続させ、ひいては「時間のテクノロジー」という問題群へ翻そうと試みたことがあった(拙論タイトル「技術と生産――ハイデガーからマルクスへ」でウェッブ検索可能)。資本制的生産様式の秘密は、時間の節約を核心とする技術に存する、との見立てがそこにあった。そしてそこに最も重要なテーマとして浮かび上がってきたものこそ、「労働と時間」にほかならない。
 本書の読みどころも、またそこにある――と言ったら、『資本論』第一巻しかろくに読んでいない不勉強ゆえの偏食ということになろうか。抽象的人間労働、価値形態、労働力商品、労働過程、剰余価値、絶対的剰余価値、とりわけ労働日、相対的剰余価値、とりわけ協業、マニュファクチュア、機械と大工業、労賃、そして本源的蓄積。綺羅星のような第一巻の叙述は、おしなべて「労働と時間」という視点から読み解くことができる。本書は、そういう興奮に満ちた読書体験の良き伴侶となってくれるのである。
 もちろん、そればかりではない。「マルクスは〔第二巻の〕循環論にあってこそ、不断の運動としての資本の性格を描きとろうとしている」(319頁)。また、第三巻の地代論とは、「生産一般にとって自然的条件が有する意味をめぐる省察であり、またとりわけ資本制に対して自然条件が課している制約にかんする考察にほかならない」(542頁)。そこで問題となってくるのが、「自然の豊饒さ」である(543頁)。さらに、「時間的な隔たり」を源泉とするのが、資本制の完成形態としての「利子生み資本」である。そこでは、「時間が価値を生み、時間のなかで貨幣が価値を増殖させる」。「時間そのものが価値を生むという神秘が、あたかも神秘ではないかのように神秘化される」(638頁)。オカルト的神秘に満ちた、その信仰=信用の世界は、まさしく恐慌の奈落と隣り合わせなのである。
 汲めども尽きせぬ『資本論』の精髄を我がものとしつつ、今や著者は、トータルな危機に直面している現代世界を根本的に思考し抜く冒険に乗り出そうとしている。われわれはやがて、マルクスから出発する、しかし別の思索の出現に立ち会うこととなろう。

 最近ある新聞で、著者のカラー写真入り自著紹介記事を目にした。トレードマークだった長髪をばっさり切って剃り上げた頭部と、おだやかな笑みは、あたかも出家して大願成就したかのようであった。だが、五十代半ばで成仏するにはまだ早い。この間まで同僚だった僧侶の先生のように、生臭坊主然と、八面六臂のエネルギッシュな活躍をこれからも、これまで以上に続けるにちがいない。そうでなければ、これまでの修行期間が宝の持ち腐れというものだ。そう、熊野哲学の全貌が姿を現わすことは、日本の哲学界にとって悦ばしきことなのである。




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