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2013年08月24日

『バッカイ バッコスに憑かれた女たち』エウリーピデース(岩波書店)

バッカイ バッコスに憑かれた女たち →紀伊國屋ウェブストアで購入

「好奇心は人間を破滅させる」

 新訳なら古典だってよかろうと――『ビリー・バッド』を扱った前回に味をしめて――、先ごろ岩波文庫から出たエウリピデス(ギリシア語人名の長音は以下省略)の傑作悲劇を選ぶことにした。新訳と言っても、刊行されて早二十年以上経つ岩波書店版『ギリシア悲劇全集 9』所収の逸身喜一郎訳を、改訳し文庫化したもの。私が親しんできたちくま文庫版(『ギリシア悲劇Ⅳ エウリピデス(下)』)は、半世紀も前の人文書院版『ギリシア悲劇全集』に由来する松平千秋訳(題名『バッコスの信女たち』)。このたびの岩波文庫版には、近年の校訂作業の成果を踏まえ訳文がさらに改良されており、訳注・訳者解説とも充実している。とはいえ、ちくま文庫版は四冊でギリシア三大悲劇詩人の作品が網羅され、格調高い訳文の味わいも捨てがたく、依然としてお買い得である。
 何年か前、本務校の「人文学入門」の授業を三回分担当することになり、ちくま文庫のソポクレスの巻をテクストに指定し、『オイディプス王』と『コロノスのオイディプス』を拙いながら講じたことがあった。そのとき学生のコメントペーパーに、「三回分の授業のために高い教科書を買わされたのが残念」と書かれ、「ソポクレスの名篇の数々を一冊に収めた文庫が、高いだって?」と憤慨したおぼえがある。今にして思えば、名品の凄みを紹介し切れない教員の力量不足ゆえだったに違いないが。ともあれ、「教養はカネで買える――古典を買って読めばよいのだ」は、人文「道」の初歩だと言いたい。

 今回再読して、エウリピデスのこの遺作の凄さを改めて実感させられた。エウリピデスと言えば、ソクラテスとともにギリシア悲劇を没落させた張本人と、ニーチェが『悲劇の誕生』で断じたのはあまりに有名だが、ニーチェがそう難じてみたくなるほど、エウリピデスの屈折度は高く(ニーチェに劣らず、と言おう)、近代的あまりに近代的な作家である。女性の復讐心の恐ろしさを描き切った『メデイア』など、あまりに身につまされて読むのが苦しくなるほどだし、あだとなった恋の仕返しの壮絶さという点では、『ヒッポリュトス』にも似たところがある。『ヒッポリュトス』が、純潔の徳が昂じて愛欲の女神の恨みを買い破滅させられる王子の悲劇だとすれば、『バッカイ』は、敬虔さを欠く若き啓蒙君主が、蔑ろにされた神の怒りを招いて自滅させられる悲劇である。
 昔から不思議なのだが、「ディオニュソス的なもの」を前面に押し出しギリシア悲劇の根源に据えようとしたニーチェが、エウリピデスのことを悪しざまに言うのは、忘恩もいいところである。エウリピデスの『バッカイ』こそ、ディオニュソス(別名バッコス)信仰についてわれわれに最も雄弁に語ってくれる古典文献にほかならないからである。ギリシア人にとってディオニュソスとはどんな神であったかを知りたければ、この悲劇を読むに如くはない。なにしろその舞台にはディオニュソス神が生身の姿で登場し、主役の一人としてドラマを仕切るのだから。そもそもギリシア悲劇とは、酒神を祀るディオニュシア祭で競演されたものである以上、どれもディオニュソスが主役と言っていいほどなのだが、その神様が大々的に活躍する現存作品は、『バッカイ』しかない。とすれば、「ディオニュソス的なもの」とは何かを理解するための最高のガイドは、エウリピデスだということになる。『悲劇の誕生』におけるニーチェのエウリピデス評は、割り引いて考えた方がいいのである。いや、それを言うなら、ソクラテスを楽天的啓蒙主義者としてさんざんこきおろすスタンスも…、と付け加えたいところだが、深入りはやめておこう。

 ディオニュソスとはどんな神かを知ろうとして『バッカイ』に接する者は、しかしそれ以上に、古代ギリシア人とはどんな連中かについて恐ろしいレッスンを受けることになる。こんなのアリかとたじろがざるをえない、悪魔的な筋立てがそこには書き込まれている。そんな惨劇を市民がそろってお祭りに観ては楽しんでいたアテナイとはいったいどういう文化都市かと、呆れて物が言えなくなるほどである。
 テーバイ王ペンテウスは、新興のディオニュソス信仰が国内にはびこっていることを憂慮し、何としても取り締まらなければと決意する。狂信集団と化した女たち(これがつまり「バッカイ」)は、酒に酔っては狂喜乱舞して山野を駈け回り、獣を八つ裂きにして喰らい、あたりかまわず男と交合する、と聞かされては、厳しい態度で臨まなくてはならぬと考えるのは、為政者として当然だろう。そういう真面目な王の目の前に、新興宗教に関係ありとして、異国の若者が捕らえられ連行されてくる。長身長髪、痩身色白の美男である。じつは神が人間の姿で地上に現われているのだが、ペンテウスは知る由もなく、色男を審問したうえで、厩舎に監禁しようとする。すると、見よ、大地震が起こり、王家の屋敷はあっけなく倒壊する。縛めをまんまと解いたディオニュソスが再度登場し、追いつめられたペンテウスとふたたび相まみえる。――ここまでが前半。
 凄惨をきわめる情景は後半に繰り広げられるのだが、その幕開けに位置するのが、ペンテウスとディオニュソスとの次の異様な会話である。

 ペンテウス:「〔バッコスに憑かれた女たちを討伐しようと決心し、家来たちに〕者ども、武器をもって来い。〔ディオニュソスに〕おまえは黙れ。」
 ディオニュソス:「よろしい。/あなたは女たちが山中で並んで腰かけているところを見たくはないのですか。」
 ペンテウス:「ぜひとも見たい。金をいくら積んでもよい。」
 ディオニュソス:「どうしたのです。激しい欲望に陥ってしまった。」
 ペンテウス:「もちろん女たちが酒に酔っていたら正視するのは辛かろう。」
 ディオニュソス:「とはいえ、あなたは辛いことでも喜んで見たいのですか。」
 ペンテウス:「私は見たいのだ。ただし樅の木蔭に音も立てず身を潜めて。」

 私はこの場面を読むたびに、ゾクゾクと背筋が寒くなるのを感ずる。それまでは、いざ邪教退治とあれほど血気盛んだった王が、女たちのあられもない姿をみたくはありませんか?と誘われるや一転、どんな犠牲を払っても見たい、見たくてたまらん!と言い出すのである。続いてディオニュソスは、では、女たちのいる山まで道案内するから、ばれないよう女装してついて来てください、と忠告する。さすがにそこまでは、と拒むペンテンス。だが、もはや分別を失くし女の格好をさせられたテーバイ王は、ディオニュソスに随って町中を通り抜け、バッカイのたむろする山へ入っていく――没落するために。
 ペンテウスが婦人の嬌態見たさに狂い始める場面は、昔のお笑い番組のバカ殿の如くであり、悲劇というより道化芝居に近い。舞台で上演されるときにも、失笑を買うシーンであろう。だがその笑いは、ドラマの暗転とともに凍りついてゆく。一部始終を目撃した使者の口から語り出されるその後の顚末は、この世のものとも思えぬ残酷さである。――山に入ったペンテウスは、女たちの群れをもっとよく見たいと所望し、ディオニュソスは彼を樅の大木のてっぺんに登らせる。ああ絶景かな、と、その瞬間、神は、正気を欠いた女たちに向かって、この獲物を仕留めよと号令をかける。木の周りに殺到し、幹を引っ摑んでは、むんずと根こそぎ引き抜く女たち。一群の中心には、ほかでもない、ペンテウスの母親アガウエがいる。真っ逆さまに墜落したペンテウスは実母に、お母さん助けて、と必至の命乞いをするが、聞く耳をもたぬ狂女らは、哀れな男に一斉に襲いかかり、四肢を胴体から引きちぎる。あばらからは肉が引き裂かれて剝き出しとなり、血まみれの肉片が散乱する。息子の生首を手にした母親は、山に住む獅子を仕留めたとばかり、狩りの成功を祝って歌い踊りながら下山してゆく――。

 よくぞここまで残酷な場面が描けると感心するほど、エウリピデスはディオニュソス神の復讐劇を描き切る。それにしても、私としてはやはり、かのペンテウスの「改心」の場面に惹きつけられる。賢明な国王は、なぜ没落しなければならなかったのか。それは、尋常ならぬものをこの目で見たいという根源的欲望に、火を付けられたからである。
 たとえ「辛いこと」――松平訳では「不快なこと」――であろうと、いやだからこそ、そっと覗き見したい、そのためなら身を滅ぼしてもかまわない、という「探究心」は、他人事とは思えない。性衝動に駆り立てられて身を滅ぼした男の失敗談、と聞き流すことは、少なくとも私にはできない。「好奇心」がどれほど人間性の根底に巣食っているかに関して、そ知らぬふりをするわけにはゆかない。いや、君子危うきに近寄らずと嘯いてペンテウスを笑い飛ばずことのできる人間など、そもそもいるのだろうか。
 ギリシア悲劇の傑作と言えば、『オイディプス王』が挙げられるが、その主人公も「自分は誰なのか」という自己知の謎に取り憑かれ、破滅するまでその追求をやめなかった。『バッカイ』の訳者、逸身喜一郎氏は、『『オイディプス王』と『バッカイ』』という比較批評を著しているが(岩波書店、2008年)、たしかにこの二つの悲劇には似たところがある。知を求めることは人間にとって破滅を意味する、それでもお前は知を求めるか――そうギリシア人は自問し、その問いを後世に贈った。むろん「哲学」にかぎった話ではない。人類が総力を挙げて知的探求に突き進んだ結果が、現代世界の危機だとすれば、その顚末をギリシア人はとっくに予告していたのかもしれない。そう、ペンテウスとはわれわれなのだ。


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2013年08月07日

『ビリー・バッド』メルヴィル(光文社)

ビリー・バッド →紀伊國屋ウェブストアで購入

「哲学小説のプレゼント」

 昨暮、名作の新訳が出たので本欄でも取り上げたいと思っていたら、こんなに遅くなってしまった。まさか、夏休みの課題感想文になってしまうとは。いたずらに馬齢を重ねる身を嘆きつつも、子どもの頃のように物語を読みふける時間をいとおしく思う。

 これでも昔は、趣味は、と聞かれて、読書、と答える青年だった。学期末試験が近くなると、小説を読み散らかす逃避癖に自分ながら手を焼いたおぼえがある。それがいつしか、仕事の必要で読むのがやっとのありさま。とくに最近の小説にはめっきり疎くなり、近頃読んだものはと言えば、赤坂真理『東京プリズン』くらい。それだって、2012年の収穫と聞いて慌てて目を通したにすぎないが、たしかに面白かった。昭和天皇の戦争責任はアメリカ側からはどう見えるか、盲点を突かれた気がする。その一方的な見方に面と向かえば、自分だって、あんなに嫌いだった裕仁擁護に回るかもしれない、と考えさせられた。
 考え出すと、グルグルと行きつ戻りつして、キリがない。そういう答えのない問いを突きつけられるのが、小説を読む醍醐味なのだと思う。しかしそのためには、時間が要る。忙しい、ヒマがないと嬉しそうに言い合っている現代人には、とっくに高嶺の花となっているのが、読書と思索なのである。――他人のことではない。自分がそうなっていることに気づき、焦っている。魔物に取り憑かれる真夏の夜の怪談のように。

 それにしても、この年になって、手にとって読もうという気になるのは、近時の話題作やベストセラーというよりは、「古典」のほうである。学生と話していると、古典と聞くだけで難解で近づきがたいと決めつけている者が多いが、それは誤解というものである。長年読み継がれてきたということは、読み物としてそれだけ魅力をそなえているということなのだ。先頃、必要があって、モーパッサン『女の一生』を読み直したが、近代小説の鑑のような作品のすみずみに横溢するサーヴィス精神に感嘆した。
 そんなわけで、いきおい、昔読んだ本の読み返しが多くなる。そのきっかけとして重宝なのが、光文社古典新訳文庫である。「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」という触れ込みは、首をかしげたくなるが。最新訳ということだけが売りなら、ちょっとでも古くなれば、「息」絶えてしまうではないか。使い捨てされるだけの消耗品を開発しては自転車操業で食いつないでゆくのは、出版社や編集者の自己否定であろう。
 『ビリー・バッド』の新訳者飯野友幸氏は、あとがきで、「原文に忠実に訳すとなると、古めかしい日本語が適切ということになるが、そうすると「いま、息をしている」日本語ではなくなる、というジレンマに陥る」と正直に記している。そのうえで、「ひとつの解決策として、古めかしい「雰囲気」をただよわせてみたつもりである」と。「講談調」とまではいかないが「ラジオの朗読劇」に似た調子を醸し出そうと試みたこの表現実験は、一定の成功を収めているように思われる。とはいえ、その成否の判定を下せる資格は、素人の私にはない。「古めかしい日本語を意識的に使っている」岩波文庫の坂下昇「旧訳」の意義がなくなったわけでもあるまい。ともあれ、「古めかしい文体」の英語原文を、複数の特色ある訳文で読めるようになった贅沢を、素直に喜ぼう。

 高名な物語のあらすじを今さら紹介するのも気がひけるが、簡単に記しておく。
 フランス革命の顛末があらわとなった十八世紀末。英国軍艦ペリポテント号に強制徴用されて乗り込むはめになった若者、「空のように澄んだ眼をしたビリー・バッド」は、その天性の無邪気さと善良さゆえに、他の乗組員たちから愛される「ハンサム・セイラー」だった。海軍大佐のヴィア艦長とて例外でなく、この有徳の指揮官もまた、自然児ビリーの無垢な人間性に魅せられた一人であった。ところが、人気者ビリーに底知れぬ敵意を抱いていた者が一人いた。邪悪な下士官クラガートである。彼は、自然的悪が自然的善を毛嫌いするかのように、ビリーを本能的に憎み、あろうことか、ビリーが密かに反乱を企てているとヴィア艦長に告発する。艦長室に呼ばれ、ヴィアにクラガートの前で反論せよと求められ、不意を突かれ吃音に陥り身悶えするビリー。「次の瞬間、夜に大砲を発射したときの炎のごとくビリーの右腕が閃いて突き出されたかと思うと、クラガードは床に倒れこんだ」。たった一発で、罪なき者の告発者は絶命し、邪悪と無垢の二極は暗転する。「神の天使に打たれて死んだのだ! それでも、天使は吊るし首にせねばならん」とヴィア艦長は叫び、臨時法廷を召集する。情状酌量論も出されるが、冷静沈着な臨時軍法会議長の判断のもと、海軍条例に照らして、ビリーに死罪が宣告される。父のごとき慈愛のまなざしをもって、わが子も同然の愛すべき被告に極刑判決を伝えに行くヴィア艦長(――の様子が、ついに描かれないのは、「神聖なるものとは、語りえないものだ」からだという)。ビリーは従容として一切を受け入れる。早朝、全船員が招集され、絞首刑が執行されるその瞬間、発せられた最後の言葉は、「神よ、ヴィア艦長を祝福したまえ」。朗々とした祈りの一声を、白鳥の歌のごとく残して、痙攣一つせず、「神の子羊」は昇天していった。
 急展開のこの物語には、後日譚がある。ヴィア艦長はその後、壮絶な海戦で重傷を負い、陸に運び込まれて手当てされるも空しく最期を迎える。死の直前に呟いた言葉は、「ビリー・バッド、ビリー・バッド」であった。

 『ビリー・バッド』はメルヴィルの遺作。著者の死後三十年も経ってから刊行された。謎に包まれた作品であり、その読み筋をめぐって、さまざまな解釈が出されているらしい。門外漢の一読者でも、全編を包む荘重な宗教性はやはり気にかかる。
 とくに、壮年の艦長と若きフォアトップマン(船首の帆柱を担当する水夫)との関係は、愛息を捧げよと神に命じられ、子殺しに及びそうになった、かの一神教の始祖を思わせるものがある。メルヴィル自身、ヴィア艦長がビリーにみずから判決を伝えに行く場面を、巧みにぼやかしつつ、「ちょうどアブラハムが、過酷な命にしたがい、心を鬼にして若きイサクを捧げようとする寸前で抱き寄せたかもしれないように」(137頁)と想像させている。旧約聖書の迫真のドラマが念頭にあったことは疑いない。また、純粋無垢の若者が刑死する不条理劇に、福音書の残響が聞きとれることも言うまでもない。
 とはいえメルヴィルは、皮肉にも、善の化身のような主人公を、最後の最後まで、非キリスト教的「蛮人」として通させている。死刑執行に先立ち、悔悟のため囚人の部屋を訪れた従軍牧師も、死を何ら畏れぬ自然人ビリーの平静さに感じ入り、改宗を勧めるどころか、相手の頬にキスをするという行為に及ぶほどだった。なるほど、十字架上で死してのち「開祖」に祭り上げられたのも、キリスト教などつゆ知らぬ超自然児であった。

 宗教的次元へ超出するのではなく「世俗」に踏みとどまって『ビリー・バッド』を読み解こうとしたのが、ハンナ・アーレントである。『革命について』(邦訳ちくま学芸文庫)の第二章「社会問題」では、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」と並んで、メルヴィルの本作品が取り上げられている。その解釈によれば、「政治的なもの」の運命劇が、そこには見てとられるのだという。
 艦内での軍紀を維持し、ひいては革命の時代に動乱の芽を摘みとるために、ヴィア艦長は、ビリーの潔白を信じつつも、死刑を言い渡さざるをえない。自然的善がこの世に現われたときの力は、自然的悪を圧倒するが、この世ならぬその力を放置することは、現世的秩序の崩壊を招くだけである。「憐れみ」をかけることはたやすいが、「徳」の人なら、「善」の人を犠牲にしても、この世の法を冷然と執行せざるをえないのである。
 ヴィア艦長のこの葛藤を、理解はできないまでも、「共に苦しむこと」ができたのは、他ならぬ犠牲者ビリー・バッドであった。殺されようとする彼を襲ったのは、自分は苦悩を免れている者が、苦悩する他人に情けをかける「憐れみ(ピティ)」ではなかった。自分を死に追いやる相手に対する、奇蹟のような「同情(コンパッション)」こそ、寡黙なビリーの最後の言葉にこめられたものにほかならない。それゆえヴィア艦長は、死に臨んで、往時の負い目を贖おうとするかのように、犠牲者の名を幾度も呼んだのである。
 「憐れみ」と違って、「同情」とは、かくも敷居の高いものなのだ――こうしたアーレント流『ビリー・バッド』解釈は、たんなる同情否定ではなく、この世に生きるかぎり同情の高みを仰ぎ見るほかない「低さ」の自覚に貫かれているが分かる。

 アーレントは、世俗内存在のこのドラマがよほど気に入ったとみえ、旧師ハイデガーに『ビリー・バッド』をわざわざ贈っている(1972年7月21日付ハイデガー宛書簡、『アーレント=ハイデガー往復書簡』みすず書房、参照)。受けとったハイデガーは、「メルヴィルをありがとう、まだ読みはじめたばかりですが」と返事しており(同年9月12日付アーレント宛書簡)、その後読みふけったとも思えない。だが、アーレントがこの小説をハイデガーに読んでもらいたいと願ったことは、たしかなのである。
 二十世紀を代表する哲学者の間でプレゼント授受の対象となったほどの極上の哲学小説の新訳が、長く読み継がれてゆくことを願ってやまない。本は消耗品ではないのだ。


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