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2012年06月11日

『芭蕉 最後の一句』魚住孝至(筑摩書房)

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「詩人哲学者の臨終の一句」

 松尾芭蕉の最後の一句として有名なのは、「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」である。大坂への旅の最中であった。享年51歳。西行、宗祇、李白、杜甫といった先人と同じく、旅に死すのは本望であったことだろう。いつまでも生きられるつもりの現代人からすれば「まだ若い、これからだ」と言いたくなる年齢だが、畢生の紀行句集『おくのほそ道』を完成させた俳人にとっては、大往生であった。瀕死の床に臥しつつ荒涼たる原野を旅するおのれの姿を夢に見、そこで一句という詩人魂に、鬼気迫るものがあるのは確かだが、その一方では、「軽み」を体現した自在の境地が究極的に示されている。少なくとも、人生半ばで斃れるのは無念といった怨みや嘆きは微塵も見られない。
 その直前には、「秋深き隣は何をする人ぞ」という、これまた有名な句が作られている。こちらも現代人の心性からすれば、隣人など気にしない一人暮らしの殺伐たる秋の夜長、ということになってしまうが、それも的外れである。たまたま隣り合わせただけの縁ながら、物音のする隣室の人はどんな人か知りたくなってくるという、旅の侘しさゆえの人懐かしさが、ひいては人生の夕暮れ時を襲う哀感と人恋しさが、そこには棚引いている。

 本書『芭蕉 最後の一句』は、西洋哲学や倫理学を修めるとともに武道、芸道等の日本精神史研究に長年携わってきた著者、魚住孝至が、わが国の生んだ最高の思索詩人の一人に正面から挑んだ入魂の書き下ろしである。世に芭蕉論は数多いが、最後の一句を、「旅に病で」ではなく、「青滝や波に散り込む青松葉」にあえて見出す新解釈を打ち出している点で、注目に値する。その最晩年の境涯に至りつくまでの思想の深まりを追跡すべく、俳聖の生涯と作品を辿り、とりわけ、ライフワーク『おくのほそ道』が実ってゆくさまを、実際の旅路との違いも踏まえて、丹念に描いている。
 日本人なら誰でも知っている数々の名句の味わいを再発見する喜びもさることながら、かつて芭蕉が行脚した奥州地方一帯が大震災で甚大な被害を蒙ったその直後に本書が出版されたことは(2011年9月刊)、意義深いことだと感ずる。遅ればせながら本欄で紹介できたからには、今年も、本書と『おくのほそ道』を携えて東北への旅に出掛けたいと思う。――なかなか自分では五・七・五がひねり出せないのが残念だが。

 東北への旅情をかき立てる名品集のなかでも、私が今回とくに反芻して味わい深かったのは、「五月雨(さみだれ)の降残(ふりのこ)してや光堂」である。
 常住するものなきこの世に生きることの儚さを詠んだ名句としては、同じく平泉の旧跡高館を訪れたおりの「夏草や兵(つわもの)共が夢の跡」がある。藤原氏三代が栄華を誇り義経一行の最期の地ともなった土地柄だが、いつしかすっかり田野となり、往時を偲ぶ痕跡すら乏しい。しかし、彼らの武勇や悲運は後代に物語られ歌い継がれて、われわれは今なお往年の光輝を思い起こすことができる。定めなきこの世にも、記憶と伝承によって「不易」なものが存続することがあるのだということを、他ならぬ芭蕉の句が如実に示している。「時のうつるまで泪を落とし侍りぬ」とある、その落涙には、「不易流行」というおのれの使命を自覚した詩人の自己反省の高まりも交じっていたかのようである。
 芭蕉が平泉詣でをした1689(元禄2)年には、中尊寺金色堂が建てられてすでに五百年が経過していた。「五月雨の」の句は、その歳月に耐えてなお創建時の姿を伝える建物を前にしての慨歎が込められている。光堂が立ち続けているその持続ぶりは、あたかも自然がそこだけ特別に優しく扱ってくれたかのようだが、じつは歴代の人々のたゆまぬ尽力の賜物なのである。「代々の人々の努力によって、流行変化から守られて、不易の姿を保っているものもあるのだ」(219頁)ということを、歴史的建造物はわれわれに語っている。建築であれ創作であれ、物作りには、作られた物を大切に守るという営みが属するのである。

「人の命は儚いが、人が作り出した素晴らしいものは、後世の人々が大事に伝えていくことにより、五百年の時を経ても残っているものもあるのである。これもまた歌や文芸作品とは違った形での不易流行の姿であるとも言える。」(220頁)

 われわれは今日、建築存廃をめぐる論議において、「西洋には堅牢な家を建て何百年も住み続ける伝統があるが、日本人は昔から台風や地震で壊れても構わない家屋を建ててきたし建築保存の伝統はない」という声をしばしば聞く。だがこの手の言説は疑ってみる必要がある。人間の作り出した「物」は、それらが巧みに作られ、大切に使われ、歴代の人々に愛され継承されてゆくかぎりは、何百年、何千年と長持ちする。風雪に耐え、しぶとい持続性を示すそうした物を生み出す「芸」や「技」が、わが国の誇るべき伝統であったことを、われわれは忘れてはならない。芭蕉の「不易流行」の思想には、そのような「物への問い」に通ずる面もあったことを、本書から学ぶことができるのである。世界遺産に沸く観光名所ガイドとしても使えるのだから、真の教養書というものは有難いものだ。
 いっそう面白いことに、本書によると、芭蕉の実際の旅程では、「平泉は意外なことに、そこに滞在したのは数時間だけで、金色堂にも堂守はおらず、中を見ることは出来なかった」(82頁)。つまり、古戦場でゆっくり涙する暇はなかったことになるし、金色堂の不朽の輝きを目撃することもなかったわけである。言うまでもなくこれは、俳諧詩人の反省に富んだ構想力の勝利を意味する。「おくのほそ道」とは、「現実の世界とは別の、不易の文芸的な世界」(200頁)という奥深い「細き一筋」への探索のことであった。

 最後の一句の話に戻ろう。
 芭蕉は、「旅に病で」の句を弟子に示したあと、それを「仏が戒めた妄執の極みではないのかと悔やんだ」。そして、「この上は俳諧を忘れて静かに死を迎えたいと語った」(273頁)。ところが、翌朝にはまた弟子を呼び出し、以前に作った「青滝や波に塵なき夏の月」を改作した「青滝や波に散り込む青松葉」を示した。弟子の去来には、「書き留め候て、必ず失念仕まじき」と念を押したほどであったという。この一句こそ、正真正銘の芭蕉最後の作品であり、そこに彼の全生涯が込められていると、著者の魚住は見る。なぜなら、「「青松葉」という語には、松尾芭蕉の名の音が全て入っている。「青松」は下から訓読みすれば「まつお」、「松葉」を下から訓読みすれば「ばしょう」となる」(274頁)。だから、最後の一句はこう解釈できる――「今は冬、病んで動けないが、あの六月の生命盛んな清滝の自然が思い浮かんできて、その中に入っていきたいと心から思った。自分は間もなく生命を終えるだろう。葉が散って、川の流れに取り込まれて流れて行くように、自分も清滝川に散ってどこまでも流れていきたい」(274-5頁)。
 「川の流れは、過去から未来へと絶えることなく続いている生命の流れを象徴している」(275頁)とともに、「歌の道でもあり」、それゆえこの句には、「これまで風雅の道に生きた古人の心につながらんと努めて」(276頁)きた芭蕉の生き方そのものが込められている。魚住はそう大胆に解釈する。思索詩人の総決算としてこの一句を受け止めようとする秀逸な読み筋である。詳細は、ぜひ本書を手にとって確認してほしいと思う。
 
 おしまいに余計な話を一つ。舞台は、古代アテナイの牢獄。死刑を宣告され獄中にあったソクラテスは、夢のお告げで「ソクラテスよ、音楽をやれ」と勧められ、詩人哲学者然と、アポロン賛歌を作ったり、イソップ物語を歌にしたりした。この「音楽をやるソクラテス」が、死刑直前には、さしずめ白鳥の歌のごとく、霊魂不滅の論証に挑んだと、プラトンは『パイドン』で描いている。この対話篇の最後の場面で、ソクラテスがついに毒杯を仰ぐと、周りの友人は泣き崩れ、せっかくの霊魂不滅の論証が台無しだとソクラテスは閉口する。だんだん体内に毒が回り、仰向けに横たわったソクラテスは、ふと、顔を覆っていた布をとって、「そう言えば、アスクレピオスに雄鶏一羽の借りがあった。忘れずに返しておいてくれ」、と友人のクリトンに頼み、事切れる。医術の神様に快癒の礼のお供えをするとは、ソクラテスにとって人生そのものが一個の病気であったということであり、死によってそこから解放されるのはお祝いすべきことだった、要するにソクラテスは根っからのペシミストだったのだ、――と、かつてニーチェは解釈してみせた。
 どうも私は芭蕉の最後の一句に、死にゆくソクラテスの最期の言葉と近いものを感ずる。死にかけている者が、「妄執」ゆえか、もう一言余計な言葉を遺す、という点が似ているし、エピソード自体に不思議なおかしみ――軽み――が感じられる点も、似ている。何より、生から解放されたいという究極の願いが成就されるところが、そっくりなのである。



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