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2011年04月25日

『椅子と日本人のからだ』矢田部英正(筑摩書房)

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「物作りの哲学者」

 素朴な疑問を抱き、素直に驚き、率直な問いを立てる。常識や先入見を鵜呑みにせず、自分で考え、調べ、読み、また考える。そういう単純な営みが、哲学である。
 本書にはその営みが生きている。のみならず本書では、物を考えることが物を作ることと一体になっている。本書は、物作りの思索家による哲学書である。

 物作りとは、道具を作ることである。道具とは、それを有している者が一定の用途のために使う物である。そのような道具の極致、つまり、使われるがそれ自体は作られることなくもっぱら作ることに与る原初的道具、それが身体である。
 ギリシア語で「オルガノン(organon)」とは、「道具」を意味するとともに、「器官・身体」を意味する。身体という道具を具えておのずと動くもののことを、「有機体(organism)」と言う。それは古来、「生物」の定義そのものであった。道具と身体とのそうした一体的連関が、本書では、椅子という身近な道具に即して解明される。それはすでに、道具の存在論にして身体の現象学の試みだと言ってよい。
 世には小難しい存在論や身体論の本はいっぱいあるが、それが哲学書と呼べるかは定かでない。冒頭で挙げた「単純」なことができていないようでは、そう呼べるはずもない。本書は椅子という物に即して、考えるという営みを伸びやかに繰り広げている。「事柄そのものへ!」という格率そのものに、物への問いにこだわっている。
 物作りの国の生んだ非凡な哲学書が、美しい装丁で文庫化されたことを喜びたい。

 物作りに黙々と携わる職人は、彼らに固有なこだわりの美意識たる職人気質を具えてはいても、ふつう学究肌ではない。著者の矢田部英正は学生時代、体操競技の選手であり、大学院でスポーツ科学を修めた。身体を酷使して関節障害に悩まされた経験から、姿勢というものについて考えるようになり、西洋科学に限界を感じ、日本古来の「身体技法」の次元を発見するに至った。服飾から茶道、建築まで研究範囲を広げ、自分で納得のいく姿勢補助具としての椅子をみずから作ることに乗り出すようになったのだという。
 物にこだわる職人気質は、既成の理論を疑う批判精神と相俟って、求道的なまでの真理への意志に高められている。本書では真っ先に、「人間工学と整形医学に基づくと謳われた椅子に坐って、椎間板ヘルニアになってしまう」という、笑うに笑えない事例が取り上げられる。「科学的に正しい」とされる姿勢理論や、それに基づく工法基準が、かえって腰痛を助長させてきたのである。日本人の一割が腰痛の自覚症状を訴える今日、これまで喧伝されてきた近代的理論では太刀打ちできないことは、もはや明らかである。そこで著者が関心を寄せたのが、近代科学技術以前の「禅の坐法」であった。

 「結跏趺坐(けっかふざ)」と言えば、悟りを開くために行なわれてきた仏教の修行法であり、仏像にも多く見られる。私たち現代人はこれを、膝や足首に尋常ならざる負荷のかかる「苦行」と見なしている。ところが、インドのヨーガから発祥したこの坐法は、病気の治療効果の高いポーズとして古代から重んじられ、密教や禅宗の世界では、身心の健康状態を高める「養生法」として重視されてきたのだ。
 ただ坐ることなら誰でもできる。だが、美しく坐るには、姿勢の質的な洗練を促す技術体系を体得しなければならない。単純化して言うと、上半身のリラックス状態と、下半身の充実感を基本とする姿勢――「上虚下実」――が、禅の坐法なのである。
 その場合、坐る人は、安楽さを万人に提供すべく開発された商品を享受する消費者ではない。自然な骨格に適う形で坐り方が完成へと向かう技能の習熟過程にある修養者なのである。禅の坐法では、脚の下全体に座蒲団を敷かず、太ももの半分から後ろの尻の下に「座蒲」と呼ばれる分厚いクッションを入れる。それによって骨盤を立たせ、自然な背骨の形態を作り出すのである。そういう坐り方を痛い、苦しいと感ずるのは、そういう姿勢に身体が慣れていないからにすぎない。ひとたびそれが身につく――「形を錬る」――や、その自然型によってむしろ身体は活性化され、力が漲るようになる。

 同じことは、和装における帯の着付けについても言える。帯とは、たんに衣服を密閉するための縛りではなく、骨盤を引き締め、腹部を保護し、無理なく背筋を伸ばすための、姿勢補助具であった。現代人はキモノを、自由に身動きのとれない窮屈な服と信じ込んでいるが、じつは帯には、型にしたがった立居振舞いさえ身につければ、様々な生理的効用を生む自在の働きが潜んでいたのである。
 逆に、ユーザーにいかなる努力も要求しない「人にやさしい」というスローガンは、耳触りこそ心地よいものの、それに甘んじていると、人間をどんどん虚弱にし、ことによると、道具に依存しなければ自力で立つことすらできなくさせてしまう。
 人間を自立へと導く姿勢補助具の研究は、著者をして、おのずから、自分の理想とする坐のイメージを実現する椅子の制作へと進ませた。その結果、腰痛の原因となる筋肉を動かす位置に来るように背もたれが設定され、それに毎日腰掛けるだけで患部が和らぎ、自然と姿勢の良くなるような、独特の椅子が考案されるに至ったのである。
 著者によれば、人間に自立を促すような道具をあみ出すことこそ、日本古来の物作りの思想であった。人間を道具漬けにし、機械に頼らなくては生きていけない退化した動物種を生み出す人間工学とは異なる、道具と身体との「有機的」連関が、そこには先取りされている。その豊かな可能性を理論研究のみならず制作実践でも切り拓いている「物作りの哲学者」の今後の活動に、目が離せない。

 物作りにこだわることは、書き手にとっては、本作りにこだわることでもある。著者には、博士論文を彫琢した『たたずまいの美学』(中公叢書)や、『美しい日本の身体』(ちくま新書)等のほかに、『日本人の坐り方』(集英社新書)という近著もあり、評判となっている。椅子作家や身体技法研究家としてのみならず、入念に仕上げられたこだわりの本を世に送り出す作家、エッセイストとして、著者の活躍にはめざましいものがある。何より文章が美しい。
 ギリシア語で「ポイエーテース(poiētēs)」とは、「作り手」を意味するとともに、「詩人」を意味する。プラトンからニーチェまで、哲学者は一流の作者、詩人でもあった。
 造形作家でもある矢田部が、すぐれた詩人でもあることは、たとえば、運慶作の円成寺大日如来坐像との出会いを綴った文章に、よく現われている。大日如来の「背中の表情」に心奪われた著者は、帰宅後さっそく大日如来の姿勢を真似したという。すると、「次第に外界の空気をとらえる自分の皮膚感覚や内臓感覚にも変化が生じ」――

「目を開けると、自分をとりまく外側の世界が、今まで見たこともないような光彩を放っている。静かな夜の空気に月が射し、畳の匂いや土壁の湿度が肌に心地よく、月に照らし出された庭の草木は、この世のものとも思えないほど光り輝いていた。夜空の闇までもが紺碧に輝いて見えた。いつも暮らしている生活空間は、もはや日常のものではなくなっていた」(138頁)。

 夜空の闇に紺碧の輝きを観照する境地は、身体技法と不可分のものであった。作ることと歌うことが、考えることと観ることと一体となった思索詩人の登場を、喜ばしく思う。



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