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2010年10月11日

『道徳哲学序説』ハチスン(京都大学学術出版会)

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「〈リベラリズム〉の教科書」

 原著 A Short Introduction to Moral Philosophy は1747年刊。一年前に出た翻訳だが、画期的な本邦初訳だし、古典はいつまでも古びないのだから、まだ湯気が立っていると言ってもよかろう。私としては、前々から取り上げたいと思っていたので、一年がかりでやっと課題を果たせてヨカッタと、胸をなでおろしている。
 本書は、「近代社会思想コレクション」叢書の一つである。第一巻のホッブズ『市民論』といい、本書といい、立派な訳業だなあと感服させられる。こういう価値ある出版企画が存続するかぎり、翻訳大国日本の将来は明るい。プーヘンドルフやシャフツベリーの著作も、ぜひ日本語で読みたいものだ。ついでにホッブズ『物体論』と『人間論』も――、と欲は深くなるばかりである。

 フランシス・ハチスンは、十八世紀前半にスコットランドで活躍した啓蒙哲学者である。1983年に『美と徳の観念の起原』の翻訳が玉川大学出版部から出たが、道徳哲学上の基本著作が邦訳されたことの意義は大きい。もっとも、ハチスン自身は、大学の指定教科書だったラテン語版が広く読まれることを期待していた。古典愛好精神(ヒューマニズム)に満ちた哲学者かつ教育者は、しぶしぶ認めた英語版が出る前年に世を去った。日本語で読めるようになってヨカッタなどと呟いたら、怠慢を咎められそうだ。
 「哲学の教科書」を自称する本は、現代でも各種流布しているが、この「道徳哲学の教科書」は筋金入りである。「モラル・フィロソフィーのテキスト」はかくあるべし、というお手本みたいなもの。古典的素養に裏打ちされた、「人間的なもの」に関する哲学的考察が、平易でありながら最高水準で展開されている。どんな時代にも通用する、人文学(ヒューマニティーズ)を学ぶ人のための絶好の入門書たりえている、と実感。
 そればかりではない。ハチスンを起点として、ヒュームやスミスといったスコットランド学派の哲学が現われた。ヒュームの次にカントが来るという流れは、ひとまず措くとしても、ハチスンの後継者スミスは、近代経済学の出発点に位置すると同時に、社会科学なるものの確立者の一人である。『道徳感情論』から『国富論』への動きの手前に『道徳哲学序説』があったことを、ソーシャル・サイエンスを学ぶ人は誰しも銘記しておかねばならない。それこそ、経済学や社会学の学生の必読書に指定してもよいほどなのである。

 かたや、プラトン、アリストテレス、クセノフォン、なかんずくキケロと聖書。かたや、グロティウス、プーヘンドルフ、ハリントン、もちろんホッブズにロック。本書が背景としているモラル・フィロソフィーの絢爛たる系譜は、奥が深い。それらを踏まえ、自然法と市民法の綱要を述べている第二部、第三部は、その射程の広大さゆえに、今回立ち入ることができない。一言だけ言っておけば、伝統的には家政術と見なされてきた「オイコノミケー」を公共経済へと、つまり私的なものから公的なものへと、転換、拡大したのが、ハチスンその人であった。スミス以降に「エコノミックス」が全面的に展開していくための地平を拓いた、その意義たるや、推して知るべしであろう。
 本書全般の読み方については他日を期すこととし、今回は、倫理学を扱った第一部に見られる「所有」の意義づけに一瞥を与えるのみとしたい。

 人間の本性をどう見るか。ホッブズは、万人は万人にとって狼とし、「自然状態イコール戦争状態」論を説いた。自己保存欲求を中心に据えるこの率直な人間観は、幾多の優れた論者から猛烈な反発を買った点一つとっても、功績大であった。ハチスンも、ロックやシャフツベリーに倣い、ホッブズ流の利己主義的人間観の克服をめざす。
 「人間には、ある無私の善良性があって、自分自身の利益を顧みることなく、最愛の人物の利益を究極的に求める」(28頁)。この「無私の感情」は、「共感あるいは同胞感情」(32頁)とも呼ばれ、スミスの道徳感情論やルソーの自然善性論をはじめとする共生の論理の支柱となっていく。「われわれは自分自身の利害を考慮に入れることなく、他の人々が快活でいるのを目にすれば歓喜し、涙を流していればその人々とともに泣くという性向をもっている」(33頁)。利他主義道徳のこうした基礎にひそむものに注目してみよう。
 「たとえ自分だけの使用や快楽のために必要ないっさいのものを完全に備えていたとしても、それで自分が充分に幸福であると考えられる人はほとんどいない。そういう人はさらに、自分にとって最愛の者のために、ほどほどの蓄えをもつにちがいない。というのも、最愛の人が不幸であったり、苦しんでいたりすると、その人自身の幸福は必ずかき乱されるからである」(33頁)。この記述はさらに、「われわれのあらゆる喜びが、たとえもっとも低級な快楽でさえ、他の人々と共有されることによって不思議なほど増大する」(33頁)と、補強される。「他の人々が繁栄していれば、それを喜ぶし、悲惨であれば、その人々とともに悲しむ」(32-33頁)という、共喜と共苦の両面が、「共感sympathy」を構成する。

 「共苦Mitleid」としての「同情」の美徳に、ニーチェが深い懐疑を突きつけたことは有名である。同情することは、同情される側を見下すことに他ならず、助けることは、助けられる側を従属の地位に貶め、その尊厳を奪うことに等しい。そういう同情道徳の陥穽から脱却する方途と見なされたのが、「共喜Mitfreude」であった(『愉しい学問』338番)。ニーチェによれば、喜びを――羨望・嫉妬するのではなく――共に分かち合う「交歓」こそ、対等な自由人同士の関係にふさわしい。だが、同情道徳の系譜のど真ん中に位置するはずのハチスンに、その道徳を批判したニーチェが希求した「共喜」のモラルが見出されるとすれば、その道徳の系譜に関するニーチェ的評価は修正を迫られることになろう。
 ハチスンにおいて、「共有」が「所有」の意味基底とされている点に注意すべきである。たとえ自分一人の所有が十全であっても、おのれの愛する人々が欠乏していたら、幸福とは言えない。それゆえその人は、おのれ自身の幸福実現のために、自分の所有物を喜んで投ずることであろう。これは「気前よさ、親切心、善意」(73頁)と呼ばれる。これを逆に言うと、他者に贈り与えることができるためには、「ほどほどの蓄え」をもたなければならない。「親切の機会」(74頁)の確保のためにも、財産の所有は是認される。さもなければ、われわれは親切を施しえず、「共喜交歓」を実現することができないからである。
 「人生を完全に幸福とするためには、この世の中で、ほどほどの繁栄に恵まれていなければならない」(83頁)。こうハチスンが述べているのも、同じ思想にもとづく。「ほどほど」の財産は、共有とその喜びを可能にする、不可欠条件なのである。念のため言っておけば、共有が重んじられるからといって、はじめから一切が共有されていること――私有制の否定――が最善の状態とはかぎらない。その場合には、「気前よさ」も、「最高段階の気前よさ」としての「大度」(125頁)も、発揮される余地がなくなってしまうからである。

 「気前よさliberality」は、古代以来、自由人の徳として重視されてきた。アリストテレスは、私有財産制を否定したプラトンに反論するさいの論拠として、気前よさの封殺の弊害を挙げている。その系譜を継いだ一人がキケロであった。ハチスンは、そのキケロの『義務について』を最良の手本とした道徳哲学の教科書のなかで、この伝統に棹差して、財産をもつことは、豊かな共生のためにも必要だ、と言っているのである。
 「気前よさの手段としての財産」肯定論は、『道徳哲学序説』第二部の「所有権」論にも見られる。各人が「気前よさや友情のために利用しうるものを獲得」(188頁)し、「自らの消費をこえる部分は彼にとってもっとも愛しい人々への譲渡が完全かつ自由に行なえる」(189頁)ことが、所有権を保証することの重要な意義に数えられているからである。
 損得ずくの契約による自由の譲渡から国家権力の成立を説明したホッブズや、労働生産物の等価交換という交渉関係を富の増大の基本に据えたスミスと比べると、ハチスンが所有論で顕揚した「自由人の徳」は、いささか古風に見える。だが、近代のそうした古層にこそ、もう一つの「公共経済」の可能性がひそんでいたのかもしれないのである。
 そんな想像を逞しくさせてくれる「〈リベラリズム〉の教科書」が、日本語読者に共有されてヨカッタと、ともに喜びたいと思う。たぶん原著者の本意にも反しないだろう。


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