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2009年12月29日

『アウシュヴィッツ以後の神』H.ヨーナス(法政大学出版局)

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「いま、神はどこに」

 2009年の収穫といえる哲学書の翻訳を、一つ紹介しておこう。「神」について語ることは、現代いかにして可能か。二十世紀を生き抜いた哲学者ハンス・ヨーナス(1903-1993)は、本書に収められた晩年のエッセイ三篇のなかで、この問いに真摯に取り組んでいる。コンパクトでありながら、ずっしり重い一冊。

 「神について語ること(テオロギア・神学)」なしに哲学がありうるかは、定かでない。ひょっとすると、神学の可能性と哲学のそれとは一蓮托生かもしれない。少なくとも形而上学の歴史は、神という主題と命運をともにしてきた。だとすれば本書は、現代における哲学の可能性に取り組んでいるともいえるのである。
 著者は、ハイデガーの数多い弟子の一人である。ややマイナーな話題ながら、2009年9月、「いま、神はどこに」を統一テーマに、ハイデガー・フォーラム第四回大会が開かれた。発表者の一人、大貫隆は、グノーシス研究史上のヨーナスの草分け業績に検討を加えた。ちょうど同じ頃出た本訳書は、そのヨーナスが後年、全体主義の時代経験から形而上学的思考をどのように再試行したかを伝えている。「ハイデガー以後」のユダヤ人哲学者による「神学」としては、レヴィナスやデリダの仕事が注目されてきたが、ヨーナスから発せられた「ユダヤの声」にも耳を傾ける価値があると痛感させられた。
 ユダヤ人の神学論考と聞くと、怯む人がいるかもしれない。しかし、二十世紀の科学的達成と哲学的混迷と政治的破局の洗礼を受けたヨーナスは、特定の教理に縛られずに、自前の「仮説」を大胆に語る。優に「異端」と呼ばれるに値する、知的冒険の書である。

 第一章「アウシュヴィッツ以後の神概念――ユダヤの声」は、タイトルの示すとおり、ナチスによるユダヤ人大量殺戮という戦慄すべき光景を目にした者が、いかなる神について語りうるかを正面から論じている。アウシュヴィッツが猛威をふるった数年間、「救いの奇跡」はついに起こらなかった。神が「沈黙」したのはなぜか。「神はそれを欲したからではなく、そうできなかったから、介入しなかったのだ」(25頁)。著者はそう言い放つ。
 神が善であり、かつ不可解ではないとしたうえで、現代世界に噴出した根本悪を直視するとき、「神は全能ではない」とのテーゼが導き出される。これをモティーフに創作された「神話(ミュートス)」では、神はおのれの力を断念することでこの世界を作った、と物語られる。自己の全能性と引き換えに世界を創造し、かつ被造物に自由な活動の余地をゆるした神は、「危機にさらされている神、その身にリスクを抱えた神」(19頁)である。いまや神は、世界との関わりにおいて「苦しみ」、「生成し」、「気づかう」存在なのである。
 「神の世界内存在」(10頁)――この不思議な言い回しは、最初にミュートスが語られた論文「不死性と現代の実存」(邦訳『生命の哲学』所収)にすでに見られる。救済の場を、キリスト教のようにあの世にではなく、この世に見出すユダヤ教徒にとって、神とは「歴史を支配する者」だった。その歴史においてアウシュヴィッツが起こったということは、神はおのれの支配を断念して、歴史のただ中での「無力」(25頁)をあえて引き受けたということを意味する。だが、「神が力を断念したのは、ひとえに人間の自由をゆるすため」(26頁)であった。だとすれば、人間の側の「気づかい」――世界の存続に対する責任の引き受け――は、神のかの気づかいへの応答であり、その成就なのである。
 神と人間の「世界内共同存在」の倫理。新たな哲学的課題がここに示されている。

 第二章「過去と真理――いわゆる神の証明にたいする遅ればせの補遺――」は、神の存在証明は理論的には不可能であると認めつつ、形而上学の歴史におけるこの「死屍累々たる古戦場」からなお再論に値するものを救い出そうとする試みである。
 過去はもはや存在しない。存在しないものに関して真偽を論ずることに意味はあるのか。この問いは、歴史科学――生物進化論や宇宙進化論も含む――の存亡に係わる問題である。「カエサルはルビコン川を渡った」という言明は、本当に真なのか。もし伝承されてきた史料がすべて改竄されていたらどうか。歴史を組織的に書き換える全体主義のことを思えば、この疑念は杞憂とはいえない。結局、人類の「思い出」に頼ることはできない相談なのである。過去についての言明の真理性が保証されるためには、それに対応する過去の全事実が、どこかに現に存在していると考えなくてはならない。この「過ぎ去ったことの永遠の現前」の場所こそ、神ではなかろうか。――そうヨーナスは推測を進める。
 「過ぎ去ったことの真偽を区別する可能性の制約は、絶対的な精神のうちにある」(54頁)。この思弁的テーゼの当否はさておき、歴史を有意義に語る「超越論的条件」として「あらゆる出来事がおのずと書き込まれるような永遠の記憶」を要請する本章の議論は、神概念と真理概念の交差する地点に照明を当てるものとなっている。

 第三章「物質、精神、創造――宇宙論的所見と宇宙生成論的推測――」では、自然哲学的思考が壮大に展開される。唯物論が絶対的優勢を誇る現代に、主観性という原理を持ち出して目的論を復活させようとするドンキホーテ的気概は、爽快ですらある。
 他に還元不可能な固有の質をもつ主観性が、進化の過程で生命体のうちに出現したという事実を、たんなる中立的偶然によって説明するのは、異常に困難である。むしろ、主観的生を生み出した物質そのものが、主観性と疎遠ではなく、そのような発展への「あこがれ」(71、73、85頁)を秘めた「当初から潜伏期にある主観性」(72頁)であったと考えるほうが、辻褄が合う。「ビックバンのなかで形成された物質にすでに、主観性に通じる可能性が居合わせていた」(85頁)。物質の因果性のうちに、精神の出現という「目的因」を数え入れようとする、自然主義と目的論のヨーナス的結合は、大胆このうえない。
 かくて、第一章でも語られた「自己の力を放棄して世界を創造する神」のミュートスが、宇宙論的-宇宙生成論的に語り直される。その結論はこうである。「神的な冒険の運命は私たちの移り気な手のうちに…ゆだねられており、それに応える責任が私たちの肩にかかっている」(105頁)。神との世界内共同存在の倫理は、「宇宙規模でなされた実験」への「宇宙的義務」(106頁)だとされるのである。

 「証明できないことに手を染めることはできない」と信じ「形而上学を禁じるドグマ」(109頁)の支配のもとで、現代哲学はすっかりおじけづいている。しかしながら、「全体について熟考するのが哲学の仕事である」(110頁)。「恥をさらす結果に終わるほかない」としても、「一度は深い水のなかにあえて飛び込」(111頁)むべし、とヨーナスはわれわれを「究極の問い」へといざなう。思考には勇気が要る。安全第一ではダメなのである。
 アウシュヴィッツ以後、神学はいかにして可能か。「アウシュヴィッツは私にとって神学的なできごとでもあった」(102頁)と語る哲学者にとって、その問いは愚問だったろう。


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