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2009年09月15日

『マルクス・アウレリウス『自省録』――精神の城塞』荻野弘之(岩波書店)

マルクス・アウレリウス『自省録』 精神の城塞 →bookwebで購入

「書物の運命」

毎週日曜、某新聞の書評欄を眺めては、いつも思う。なぜ新刊本ばかり取り上げるのか。もっとよい本ならいくらでもあるのに――。
 活字離れとか学術出版の危機とかよく言われるが、じつは今の世の中、新刊本が洪水のようにあふれている(専門研究書にしたって垂れ流し状態に近い)。賭けてもいいが、そのうち99.9パーセントは、百年後、誰にも見向きもされなくなっている。手当たり次第読み漁っても、よほどクジ運がよくないかぎり、売り出されるやたちまち賞味期限の切れる消費対象にしか行き当たらない。その空しさといったら。
 自分で対象を選んで書評を書くのなら、せめて、この空しさを増幅させないようにしたいものだと思う。そのためには、古典的作品か、さもなければ古典へのいざないの書を取り上げるのがよさそうだ。そこで本ブログ開設に当たり、マルクス・アウレリウス『自省録』の道案内役をしっかり果たしている古典入門を、最初に取り上げることにした。

「一冊の書物が伝承されて今日に伝わるというのは、ある意味で奇跡的なことである」(73頁)。
 近ごろ実感するのだが、古典とは、空気みたいに当たり前の存在に見えて、じつはこの世の奇跡なのである。これが聖書とかプラトン著作集とか論語とかなら、話は別かもしれない。開祖の御説相伝は、自己保存本能に駆られた教団の組織ぐるみの事業だからである。これに対し、著者の没後、思想的後継者もないまま、一冊だけ作品が残り、それが百年千年にわたって読み継がれるというのは、まずありえないことなのだ。
 『自省録』はその典型である。ローマ五賢帝時代の最後を飾る超有名人が著者なので、多少割り引いて考えなければならないが、古代の哲人皇帝が書き遺した内省の書を、現代のわれわれが読めるというのは、なかなかどうして、とてもありそうにないことである。そういう読書経験の奇跡性を、迂闊なわれわれにこの入門書は思い起こさせてくれる。

「書物誕生」というシリーズの一冊だけあって、本書は、『自省録』という書物がいかなる背景をもち、どのようにして成立し、どんなふうに伝承されてきたかを、詳しく紹介している。奴隷あがりのストア哲学者エピクテトスの語録が、ローマ皇帝にとって思索の指針となったという逆説。若き頃より哲学を志しながら多忙な政治的生を送らざるをえなかった主人公の栄えある生涯。公務に追われ戦場に赴いては、世の空しさを見つめる内省の襞をひそかに書き記した彫心鏤骨の文章。謎に包まれた写本時代をくぐり抜け、時代ごとに一流の愛読者を獲得し、連綿と読み継がれてきた息の長い歴史――。
 名ガイドの学殖あふれる紹介によって、書物というものの運命性が、まざまざと思い知らされる。欧米で活況を呈している古代後期哲学研究の新しい成果を踏まえているのも、第一線で活躍する著者ならではの頼もしい点である。

第Ⅰ部で、精神科医・作家の神谷美恵子による名訳誕生秘話から、タルコフスキーの映画『ノスタルジア』でのマルクス帝出演まで、読書を豊かにする予備知識をふんだんに与えられた読者は、第Ⅱ部で、いよいよ『自省録』のテクスト読解のレッスンを受ける。
 第一巻は飛ばして第二巻から読め、との助言はありがたい。「精神の城塞」というキーワードを取り出し、ストア哲学の核心思想を取り出す手腕はあざやかである。繰り返しや途切れも珍しくない雑多な断章のなかに、緊密な構造規則が埋め込まれているという指摘は、発見にとむ。あらためて第一巻の謎にいどみ、有徳の先人の顕彰という文学的伝統と倫理的規範の観照という哲学的方法とがそこに結合していることを見届ける終章は、古典読解に領域横断的な冒険精神がほとばしりうることを感得させる。

瞑想録・自省録というジャンルに古来つきものなのが、「死」というテーマである。ストアの賢者にとって、死の運命を恐れ、嘆き悲しむことは、愚かさのきわみであった。とりわけ、戦乱と疫病の時代にあって切迫する死を凝視しつづけたローマ皇帝の遺稿には、「死に対する言及が異常に多い」(170頁)。宇宙を総覧する高処から見下ろせば、死すべき人間の所業など取るに足らぬ。ヘラクレイトスばりの永遠回帰思想は、人の死後その人の営為が記憶され、不滅の名声を勝ちとるといった意義づけの仕方を、あっさり粉砕してしまう。
 「永遠の記憶などということは、いったいなにか。まったく空しいことだ」(『自省録』4-33,神谷美恵子訳)。
 しかし、そう言い切ったマルクス自身の作品が、死後しぶとく受け継がれ、いつまでも読み継がれている。永遠かは知らないが、人類の共同記憶に保たれている。これは矛盾ではない。古典とは奇跡であり、永遠回帰の通則のまれな逸脱例なのだから。

今の日本には、『自省録』の翻訳が、三種類出回っている。神谷美恵子訳(岩波文庫1956年、改版2007年)。鈴木照雄訳(中央公論社世界の名著版1968年、講談社学術文庫版2006年)。水地宗明訳(京都大学学術出版会1998年)。
 こういう古典の洪水なら、大歓迎である。まだ読んだことのない人も、前に読んだことのある人も、優れた攻略本を与えられた今、新刊書の氾濫の空しさをしずめる一服の清涼剤として、一緒に古典を手にとることをお勧めしたい。秋の夜長、至福の読書の時をもてること、まちがいなしである。
 さらに欲を言うなら――非ストア的だろうか――、『自省録』に鼓舞された現代人が、「最期の時」を想う想像力の訓練と、「書く」という精神的訓育を励行するようになれば、この世の空しさも一寸はやわらぐというものだ。


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