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2005年09月23日

『三四郎』夏目漱石(新潮社)

三四郎 →bookwebで購入

「完璧な小説」

 私は、漱石の小説は大抵何冊ずつか所有している。すでに持っていても、旅先などで発作的に読みたくなり、ふと見かけた書店で再び買い求めてしまうからだ。
 持っている冊数が一番多いのはおそらく『吾輩は猫である』と『坊っちゃん』かもしれない。それだけこの二冊を繰り返し愛読しているということになるが、ここ数年、『三四郎』が急激に追い上げてきた。ここ3年ほどでも、二回は買ったのではないかと思う。
 なぜ『三四郎』が好きか。それが、青春の書だからである。現代において失われつつあるもの。それが、『三四郎』に描かれたような青春ではないか。思えば、日本も若かったし、時代も若かった。決してノスタルジーに浸るわけではないが、東京も「建設中」で、未来への希望と不安が交錯していた。何が起こるか判らないという「偶有性」に満ちた三四郎の青春が、全てが操作可能なデジタル情報に置き換えられていくかに見える現代文明の中に棲む私たちの胸に、痛切に、そして甘美に響く。
 三四郎の美禰子に対する恋は実らない。しかし、その不成就の中にこそ、何者にも代え難い人生の感触がある。そのような感触の切実さに比べたら、成功も金も名誉もデカダンも政治も経済も別に大したことではない。
 あらゆる意味で完璧な小説。それが『三四郎』である。しばしば引用される、広田先生の警句の部分だけでも、「国宝」級の価値がある。既に知る人が多いとは思うが、最後にその部分をここに引用することで、類い希なる傑作を残してくれた漱石に対する感謝の念を表したいと思う。

「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」
と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、 「滅びるね」と言った。——熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。
すると男が、こう言った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。
「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。

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