« 思考法/読書術 | メイン | 教育/子ども »

2010年04月06日

『書いて稼ぐ技術』永江朗(平凡社)

書いて稼ぐ技術 →bookwebで購入

「出版不況のなかで読むライター指南本の読後感はほろ苦いに決まっているだろう!」

 出版物の生産地としての東京はいま揺れている。twitterだ、ブログだ、キンドルだ、iPadだあー、出版構造の大転換がきているぞー。だけどどーしよーもねー。光文社は倒産の危機だー。リストラなう、というブログをみていると、ぎゃはは、と苦笑するしかないという惨状。
 そんな出版不況のなかで、健筆をふるい続けているベテランライター永江朗さんの新刊。『書いて稼ぐ技術』。雑誌休刊が続き、専業ライターが次々と廃業、転業に見舞われる中、挑戦的なタイトルです。twitter検索で、「ライター」で検索すると、食えない、もうダメだ、あの編プロは経営危機だ、というつぶやきが、どーんとタイムライン表示されることでしょう。

 ライターはいい仕事だよ、文章を書くことで稼げますよ。永江さんはその脱力的な語り口でこんこんと説いていきます。
 

こんな時代だからフリーライターに、と私が考えるのは相対的に出版産業が不況に強いから、ということもありますし、それよりなにより、「いざとなったら会社より個人」と思うからです。会社はつぶれるけど、個人は死ぬまでつぶれません

 そう、永江さんは、会社が当てにならない時代であることは百も承知。たくさんの雑誌が休刊になり、編集部が解散していくのを見届けてきました。編集者やライターという職業に過剰な思い入れをもっていないのでしょう。いろんな仕事のひとつ、という割り切りがありますね。
 永江さん自身、会社員経験があり、副業としてライターをしているうちに、なし崩し的に専業になったタイプ。会社員と自由業の両方を知っている。こういう複眼思考は実に大切。フリーターからライターになったような(僕もそのひとり)タイプは、コンテンツでメシが食えること自体に興奮して、自分の仕事を俯瞰して見ることを避けていると思う。
 永江さんはライターの原稿料と印税収入で家まで建ててます。ライター専業で家を建てるのは反則だろう、と嫉妬してしまう同業者は多いでしょう(僕もそのひとり)が、本書を読むと、永江さんの金銭感覚と、仕事への取り組みを知れば、なるほど家が建つわけだ、と納得することでしょう。

 他の産業と比較すれば、出版社のビジネスモデルは脆弱。原稿料について確認なしで仕事が進むという、どんぶり勘定、義理人情に基づいた商習慣など、欠点についてはいくらでも上げることができます。しかし、副業としてみると、たいへん楽しい仕事です。
 僕は専業ライターとしては挫折組なのですが、この不況で専業を諦めるノンフィクションライターが増えてなんとなく楽しい(失礼!)。専業を辞めたとしても、人生が終わるわけではありません。会社に就職しても出来ることは多いことは意外と知られていないんじゃないかな。
 
 本書のなかで、僕の会社員としての仕事ぶりが紹介されています。リスク管理術(不動産術 194ページ)という章の一節です。
 

ライターの石井政之さんはワンボックスカーを改造した移動式書斎、キャンピングカーならぬスタディカーを販売しています。正確に言うと、石井さんが販売しているわけではなく、販売している会社に石井さんが所属しています。実際に見せてもらいましたが、ベンチとテーブルがあって、パソコンの電源も取れるようになっています。これなら景色のいいところに駐めて原稿を書けそうです。資料もたくさん運べますし、寝泊まりだって可能です。

 永江さんには、昨年夏の高遠ブックフェスティバルでお会いしました。勤務先のカスタムカーを移動書斎に仕上げて、浜松市から4時間かけて(若い社員に運転してもらって)長野県高遠入り。そこで、高遠ブックフェスの主宰者のひとりで、ライターの北尾トロさんに挨拶。広場で自動車を展示していると、ノンフィクション作家の早坂隆さん、ライターのナンダロウアヤシゲさん、河出書房新社の編集者らが歩いているので、あらー久しぶり!、と旧交をあたためて歓談(というほど、僕は人付き合いがまめではないのですが)。ワンボックスカーの中に書斎をつくって販売しようと思うんだけど、どーでしょうか、というネタで、あーでもないこーでもない、と意見をいただく。そんなやりとりを会社のブログにアップしたり、その様子を出版業界紙「新文化」の編集長に取材してもらったり。
 来週は、福祉車両のお客様訪問取材のために大阪南部まで出張の予定。シルバー業界紙にレポートを寄稿するチャンスもいただきました。 

 ライター専業やめても、なんとかなります。ライターというスキルと、市場が求めるものの結節点を見つけることは可能です。

 永江さんは、ライターを「好奇心代行業」と定義しています。いい表現です。「代行」だからビジネスになる。


 「出版業界の将来について私は楽観的に考えています。というのも、人は『知りたい』動物だからです。『知りたい』に応える仕事は常にあります」

 僕はこの一文を読んでぱーんと膝をたたきましたよ! リーマンショックから、全世界的に変化の時代になりました。人々は、自分がどういう時代に生きているのか、どうしたら幸福に暮らせるのかを「知りたい」と渇望しています。いまほどコンテンツが求められているときはありません。ネットやtwitterで情報を貪欲に収集できるようになりました。知りたいという欲望、コンテンツへの需要は高まっています。

 ライターってほんとうにいい仕事ですよ。



→bookwebで購入

2010年03月31日

『ツイッターノミクス』タラ・ハント著 村井章子訳(文藝春秋)

ツイッターノミクス →bookwebで購入

「鼻くその噂、タイムライン、モントリオール」

 昨年からのツイッターブーム。多くのツイッター関連書籍が出版されていく。日本の出版界の宿痾である、柳の下にドジョウが100匹いる、という読者不在のマーケティングのもとに、内容が伴わない書籍が出ているんだろう。健全な愛書家のひとりとして、二度とツイッター本を手に取ることとはないだろう。世界にはもっとしるべきことがある、と考えていた。
 twitterのタイムラインを見ていると、文藝春秋から『ツイッターノミクス』が出版されるという、つぶやきが流れてきた。書籍を売るための販促アカウント http://twitter.com/twnomics を取っての情報発信。ふうん。文春もか。私は個人の名前がついていない情報は信用しない。担当者の名前は「下山進」。ふーむ。パソコン前で腕を組んでうなった。文藝春秋、本気だな。下山進氏と言えば、文藝春秋社のなかでは米国のジャーナリズムに詳しいノンフィクション編集の鬼。集中して仕事をしすぎるために、無精髭を放置、打合せで鼻くそをほじくることもある、という伝説を聞いたことがある。  著者のタラ・ハントのことは知らなかったが、下山本として一気に興味を持った。

 本書の構成としてはシンプルである。ひとりのカナダ人女性が、twitterを始めとしたさまざまなソーシャル・メディアサービスを使いこなして、自分の表現活動のファン・支持者(本書では「ウッフィー」と称されている)を増やして、ビジネスチャンスを拡大していった。ソーシャルメディア時代の、twitterシンデレラストーリーである。

 このサイトの読者はすでに承知しているように、既存の紙媒体の影響力は低下するばかり。ソーシャルメディアでの情報のなかにこそ、リアルな情報のおもしろさがあり、ビジネスの勝機がある。しかし、そのソーシャルメディアのなかみは玉石混淆のカオス。これまでのマーケティングの手法は通じない。人々は広告情報を見抜き、嫌悪する。カネで雇われた広告野郎はソーシャルメディア村では、さげすみの対象となる。しかも、いまのtwitterユーザーには、目利きの人間がひしめく。偽物はつぶやきでぐさぐさと刺される、またはフォローがつかず無視される。

 ウッフィーとは何か。タラハントは「ソーシャルネットワークで結ばれた人同士の間に時間をかけて育まれる信頼。あるいは尊敬。あるいは評価」と書いている。ネットワーク上での表現活動によって得られる評価である。

 ウッフィーを増加させることで、人生や仕事で成功するチャンスが増えていくことを具体的な事例で紹介。そして、twitterをはじめとするソーシャルメディアの海を泳ぎ、目的の対岸にたどり着く方法を指南してくれる。

 その方法論のすべてがソーシャルメディアというお金のかからないツールによって出来上がっていた。不況になったいま、このノウハウをほしがる人は多いだろう。時節にかなった出版だ。

 私は平日は、地方企業の会社員として少ない予算でライフスタイルカーというコンセプトを発信することを職務にしている。あるときはユニバーサルデザイン関係の会合に出る。別の日は浜松市の福祉予算の勉強会に参加して情報収集。あるときは浜松で活躍する社会起業家たちとシンポジウムに参加。雑誌や新聞に広告出稿するという従来の広告宣伝費はほとんど使わない。イレギュラーなPRをすることで認知度を高めようとしていた。浜松にはソーシャルメディアの達人はほとんどいない。タラハントのノウハウのほとんどは、地方の中小企業の広報担当者にとって有益なものばかりだった。

 さらに、副業でやっているNPO活動にも応用できるノウハウが満載だ。驚いたのは、本書のなかでインタープラストというNPOが紹介されていたことだ。このNPOは口唇口蓋裂の子供を無償で手術する活動をしている。日本ではたいへんマイナーな活動なのだが、twitterでその活動を知ってフォローしていた。その直後に、本書でインタープラストの広報戦略の一端を知ることができたのだ。

 へ? ひょっとして俺のやっていることって最先端かも? そんなプライドをくすぐる仕掛けが張り巡らされているのだ。孤独な地方会社員としてはノックアウト!!

 100年に1度の大不況によって、資本主義経済が崩壊するかのような言説が溢れているが、そんななか、インターネットのなかでは、新しい人々のつながり=「絆」が生まれようとしている。

 タラハントはそれをウッフィーと呼ぶが、日本人としての私の語感では「絆」のほうがしっくりくる。

 インターネットの登場によって、人間関係とコミュニケーションの作法が変容していく中、タラハントが打ち出した「ウッフィー」という信頼通貨という考え方は面白い。しばらく有効な概念だと思う。

 本書の内容とは別に、印象に残ったのはタラハントの今の生活である。米国のカリフォルニア州で会社を3つ設立し、いまはカナダのモントリオール在住であること。キャリアを積むには最高の環境であろう西海岸から、スローなライフスタイルが可能な町へ。地方都市在住者からみて、タラハントの生き方は、まさにウッフィー満点である。
 


→bookwebで購入

2010年03月30日

『俺たち訴えられました!』烏賀陽弘道、西岡研介(河出書房新社)

俺たち訴えられました! →bookwebで購入

「名誉毀損で勝ち抜いたジャーナリストの警鐘」

 名誉訴訟で訴えられた二人のジャーナリストが、それそれの訴訟体験を赤裸々に語る対談本である。正確にいえば「対談」ではない。片方のジャーナリストが、もう一方にインタビューをするという形式をとっている。ゆえに、対談にありがちな予定調和がない。奇妙な味わいの、ふたりのジャーナリストの「対話」が一冊にまとまっている。
 ひとりのジャーナリストは、烏賀陽弘道。朝日新聞記者を経て、フリージャーナリストに。月刊誌「サイゾー」に、音楽ランキング会社オリコンについてコメントをしたところ、オリコン社長から名誉毀損だとして総額5000万円の損害賠償請求訴訟を起こされた。この訴訟の特徴は、サイゾー編集部、その版元であるインフォバーン社ではなく、雑誌記事のコメントをしただけの烏賀陽だけをねらい打ちにしたことにある。

 もうひとりのジャーナリストは、西岡研介。神戸新聞記者を経て、スキャンダル雑誌『噂の真相』の突撃記者となり、その後フリーに。週刊文春や週刊現代などの週刊誌を舞台に、権力者のスキャンダルをあばく取材をしている。西岡は、日本最大の公共交通機関、JR東日本の労働組合を事実上牛耳っている「革マル」(日本革命的共産主義者同盟 革命的マルクス主義派)について、週刊現代で報じた。その記事が、名誉毀損であるとして、全国で50件の名誉毀損訴訟を起こされた。

 私はこの二人の名誉毀損訴訟の動きについては、硬派ニュースサイトMyNewsJapanでインタビューを掲載したことがある。

オリコンうがや訴訟3 いよいよ反訴! アルバイトでもできる質問しかしないマスコミ記者たち

オリコンうがや訴訟7 JR「革マル派」告発の西岡研介氏、48件の“訴訟テロ”に反訴へ


 連載中は、現在進行中だった裁判も、いくらか時も経過し、おおかたの結果が出てきた。烏賀陽氏は、オリコンに対して事実上の全面勝訴。西岡氏も革マルからの訴訟のうち47件が片付き(原告の請求棄却)、のこり3件を残すだけになった。

 つまりふたりとも名誉毀損訴訟について、公に語るべき時がやってきた、というわけである。

 二人は訴訟の当事者である。そのため、すべての裁判資料が手元にあるため、対話の内容は詳細である。名誉毀損やジャーナリズムに興味のある人しかすべてを理解することはできないかもしれない、という難点はある。それでも、本書をひろく読んで欲しいと思うのは、大企業が、市民に対して名誉毀損訴訟を起こして、その言論を封じようという動きがある。このことに二人は警鐘を鳴らしているからである。

 このような嫌がらせ訴訟のことをSLAPP(スラップ)という。

 烏賀陽氏のホームページではこう紹介されている。

“Strategic Lawsuit Against Public Participation”の略語。

「公の場で発言したり、訴訟を起こしたり、あるいは政府・自治体の対応を求めて行動を起こした権力を持たない人物や団体に対して、企業や政府など、力のある側が恫喝、発言封じ、場合によってはいじめることだけを目的に起こす、報復的な訴訟」のこと。

 烏賀陽氏、西岡氏のふたりは、まさにSLAPPのターゲットにされた。二人とも、ジャーナリストだから、SLAPPに対して対抗することができたが、一般市民だったらひとたまりもない。実際に、新銀行東京の不正融資について内部告発した元行員は、銀行から名誉毀損で訴えられた。彼のコメントを報じたテレビ局、週刊誌は訴訟の対象とならなかったのである。
http://www.mynewsjapan.com/reports/1026

 しかも、このような重大な社会性のあるSLAPPについて、日本のマスメディアは報道しない。烏賀陽氏も西岡氏も、それぞれのやり方で、身を守るしかなかった。二人に共通しているのは、いまのメディア業界はライターを守らない、育てない、滅びゆく恐竜だ、という認識である。
 
 西岡氏は、革マルを取材すると決めたときから、訴訟対策、生活防衛(襲撃から家族を守るための引っ越し)などを周到に準備している。それでも、名誉毀損訴訟の対応はしんどい、という。裁判官の考える真実と、ジャーナリストの考える真実とは違うのだ。そのことが裁判官には分かっていない。また、メディアに対して、いい加減なことを書く、というバイアスもある。
 烏賀陽氏は、雑誌編集部のコメント取材を受けただけという、いわば受け身。突然の名誉毀損訴訟で判断ミスをして一審で敗訴。二審で逆転するまでの顛末を振り返る。
 ジャーナリストと大企業の戦いのドラマとしては、西岡氏の言葉のほうが面白いし迫力がある。なにしろ、もし革マルが妻子を傷つけたら、ペンを捨ててテロリストとなる、物理的に復讐する、と明確に宣言しているのだ。JR東日本労組問題は、ヤクザ取材を得意としてきた西岡にしてもたいへんな覚悟を要するテーマなのだ。
 烏賀陽氏の体験のほうが、一般人にはありうる。オリコンについてどう思いますか、と編集部からの電話取材を受ける。そのコメントが活字になり編集部からファクスで送られてくる。自分の発言した内容と違うので、訂正を申し入れても、印刷の関係でそれが聞き入れられないまま雑誌になる。そして訴えられる。版元の社長は、訴訟費用の負担を拒否。すべての訴訟費用を自腹でまかなうことになり、生活が危機になる。
 ブログやtwitterで個人的な意見を簡単に表明できる時代になった。それを資金が豊富な企業が名誉毀損で訴えてくることは十分にありうる。このふたりはジャーナリストである。いかにして訴訟に勝つか、という情報収集力があるため、訴訟を跳ね返すことができた。一般の人ならば、屈服するしかないだろう。
 
 この二人の経験した名誉毀損の経験が、一般の人にとって必要となる時代が来ている


→bookwebで購入

2009年11月16日

『twitter社会論』津田大介(洋泉社)

twitter社会論 →bookwebで購入

「twitterのつぶやきで世界は変わる」

 twitterにはまるとは思っていなかった。僕がtwitterのアカウントを取得ししたのは1年以上前。アメリカで流行しているというネット情報を知ったときだった。日本人のユーザーが少ないということもあり、英文を書き、海外の人と単文のやりとりをしてみるか、というノリだった。
 それがどうだろう。今年になってから、twitterの爆発的な流行が始まった。その中心人物が、本書を書いた津田大介だ。ITジャーナリストとして活躍する彼のブログ「音楽通信メモ」をときたま見ていた僕は、ある時から、彼がエントリーを書き込むステージが、twitterに変化したことに気がついた。「津田大介」で検索すると、twitterでのつぶやきがヒットする。140字以内という文字数設定があるため、一瞬でその書き込みの要旨を理解できる。どこで誰と会った、いま眠い、腹減った、原稿の督促がtwitterを通じてきたから焦っている、というような、些細なことがつぶやかれている。長文を書くならばブログのほうがいい。津田はジャーナリストなのだから、長文を書くスキルはある。それなのに、断片的なメモのような言葉をtwitterに書き込んでいる。  ある時から津田は、自分が取材をする現場にノートパソコンを持ち込んで、オンライン状態でその現場の生中継をtwitterで始めた。twitterはメールと違って、そのリアルタイム性が特徴。現場で会議をしている人たちの肉声を、津田はtwitterで外部世界に中継していく。これが大好評となり、twitterで取材の中継をする行為が「tsudaる」と呼ばれるようになった。  ぽくはこの書評をオンライン状態のノートパソコンで書いている。twitterにつなぎっぱなし。いままさに気になるシンポジウムが東京で開催されており、その会議を「tsudaる」人をフォローしている。シンポジウムの息づかいを画面で確認しながら、エディタで入力しています。  twitterのタイムラインからざわめきがわかる。世界は動いていると感じ取れる。僕もがんばろう!という元気が出てくる。  そんなことを書くと、twitterって専門家のコミュニケーションツールなの? 難しそう!と思ってしまうかも。違うんだ。

 twitterって聞いたことがあるけれども、どういうものかを知らない。少し使ったけれども、なにがおもしろいのかさっぱりわからない。本書はそんなtwitter初心者のためのよき入門書になっています。

 僕もtwitterのおもしろさがわからずやめようかな、と思ったときがありました。100人くらいフォローをして、その100人のつぶやきを読んで、なんだ時間の無駄だな、と思いました。書き込みの大半が日常的なこと。ブログのようにまとまった文字量で表現できる主張や解説になっていないのですから。
 しかし「tsudaる」技術をもった、さまざまな人たちが、それぞれのこだわり、仕事、趣味の事柄についてのつぶやきを選択的に、読むことができるフリーソフト(たとえば、TweetDeck)を導入して、twitterの見方ががらりと変わりました。
 ある特定の分野を得意とする集団の雑談に参加している感覚になったのです。
 政治家が自分の現場で感じた不条理をつぶやく。主婦が子育てのなやみをつぶやく。社会起業家がアジ演説をする。それぞれ深みのある事柄なのですが、なにしろ1エントリーあたり140字ですから気軽に読める。気軽に感想を書き込める。しかも、そのつぶやき群は、ブログのコメント欄のように固定されることなく、瞬時に流れていく。映画のテロップのようなスピードで動いていく。言葉が通り過ぎていくスピードが、雑談を聞くスピードと同じように感じられてストレスフリー。不作法なつぶやきをする人についてはその言葉を読めないようにブロックすればいい。誹謗中傷が起きにくい適度な距離をもてる。
 このtwitterをオバマ大統領のような世界を動かす権力者も活用している。大統領のつぶやき読みたい!という人たちが全世界からフォローしています。

 twitter社は10億人のユーザー獲得を目指しているらしい。実現したらそのつぶやき群によって世界を変える可能性もあります。(デマが瞬時に拡大する危険性もあるので、その使い方には注意が必要になっています)

 津田が巻末に書いた言葉がいい。この言葉を書いた津田を賞賛するつぶやきがtwitterであふれたけれど、改めて引用しよう。

「社会なんてなかなか変わるものじゃない。変えるには、個人個人がリスクとコストを取って実際の社会で何かしら動く必要があるからだ。変わらないことに絶望してあきらめてしまった人もたくさんいるだろう。それでも、人々が動くための一歩目を踏み出すツールとして、ツイッターは間違いなく優秀だ。何かをあきらめてしまった人が、ツイッターを使うことで「再起動」できれば、少しずつ世の中は良い方向に動いていく。そんな希望を持ちたくなる、得体の知れない力をツイッターは持っている」

 僕のツイッターとのつきあい方を紹介しましょう。起床すると生後8ヶ月の息子の面倒をみます。テレビはつけない。朝っぱらから猟奇殺人事件や覚醒剤使用の報道をしている。そんな映像を子供に見せたくない。息子の成長をtwitterでつぶやく。ブログで書くような主張はない。今日はよく泣くなあ。それだけのことが、twitterにふさわしい。静かな日常をつぶやきながら、希望をもって生きているということをでゆるく伝えるメディア。twitterで僕が書く言葉は軽い。その軽い言葉が、いまその瞬間を共有する友人とつながっていく。
 twitterがすべてだとは思っていない。朝のテレビニュースにかわる有意義な時間を僕はtwitterに振り向けた。まえは文庫の読書だったけれど、息子の成長を伝えたいという親ばか意識をすくいあげるメディアとしてtwitterは使えた。
 こういう使い方が世界を変えるって? ええ、変えると思います。
 twitterをするとき、人は詩人になるから。そうなるような仕様になっているから。140字という字数に思いを込めると詩になってしまう。できが悪い詩でも、単文で詩は詩ですよ。事務連絡のつぶやきは読まなきゃいい。

 10億人の詩人が登場すれば、世界はいまよりもよくなっていくでしょう。そう思いませんか?

 この続きはツイッターで!(と津田も書いていたっけ)。


→bookwebで購入

2009年09月30日

『新世紀メディア論』小林弘人(バジリコ)

新世紀メディア論 →bookwebで購入

「あがく者のためのメディア・スピリッツ・ブック」

 
未来の菊池寛(文藝春秋の創業者)、野間清治(講談社の創業者)、村山龍平(朝日新聞の創業者)に向けて書いた「新しいメディア人よ、出よ!」。

 著者の小林弘人(インフォバーン代表取締役)は、本書をこの挑発的な言葉で締めくくっています。現在のメディアビジネスをこの世につくりだした、当時のベンチャー経営者たちのように生きろ!という啓蒙書です。

 出版不況に関するニュースはひきもきりません。先日も、ケータイ小説でミリオンセラーをとばしたゴマブックスが倒産し、出版業界のなかには大きなため息が出たばかり。この苦境をバネにして、新しいビジネスモデルを創出するメディア企業がどのように登場するのか。どんな個人・組織が、チャレンジをするのか。暗いニュースよりも、メディアの荒波をつっきる冒険家の物語こそ読みたい。

 出版不況を乗り越えるための言葉の束として「メディア新世紀論」は今こそ読まれるべき。メディアに関わる組織、個人であれば、ここに書かれていることの多くは、いますぐ仕事の現場に活かすことが可能なことばかりです。

 本書の基本機能は、「『あがきたい』、という人に対して、『励ますこと・注意すること・触発すること』。小林さんが設計したとおり、たしかにこれらの基本機能は本書に装備されていました。。

 現実に、わたしは本書から大きな影響を受けましたから。

 本書によって、成功している地域メディアの事例として「みんなの経済新聞ネットワーク」を知りました。すぐに渋谷の本社に電話をかけて「静岡県浜松市で、浜松経済新聞を立ち上げたい!」と提案。創刊に興味を持つ仲間とともに渋谷本社で交渉してまもなく創刊となります。
 ネットによって誰でもメディアが発信できるようになった今こそ「得意分野を絞ること」が重要という言葉に触発されました。これまでライフワークとしてやってきたユニークフェイス。顔面問題のオンリーワン・メディアとして成長させるために、自分が書きためてきたコンテンツを、Wordpress、はてな、などのブログサービスをもとに再構築・再リリースをはじめました。だらだらブログを続けていた自分に渇が入りました。執筆の姿勢を変えることで読者からの反応が変わる。そう信じてエントリーをアップしていくと好感触のメールが確実に増えていきました。メディア都市東京から離れた今、ネットによる読者との出会いはきわめて重要。距離を超える言葉の創造力を、もういちど信じ直す。新しいネット時代の情報への手触りを体感する。

「雑誌の本質は、コミュニティを生み出す力」という言葉を読んで、過去に出した出版物が絶版になっても、オープンソース化することで、アクセスを増やして、新しい世代の読者との出会いづくりを構築し続けようと思い直しました。手始めに「顔面漂流記」のオープン化を開始。いま20歳前後の若者のユニークフェイス当事者たち、ユニークフェイスな子供を持った若い親たちは、わたしの過去の書籍を読む機会がありません。ネットで無料公開することで、未開拓のユニークフェイス当事者と家族との出会いを創出が可能。このコミュニケーションによる、当事者の掘り起こしはそれ自体が社会貢献になりえます。ネット版「顔面漂流記」によって、社会実験をすることにしたわけです。

 これはわたしが本書から触発されて実行したちいさなアクションに過ぎません。触発されて、メモをとり、キーボードをたたき、ネットにログインする。そのプロセスが実に楽しかった。ネットに接続することで世界を編集しているかのような快感を覚えたのです。久しぶりに。20歳の時に、ミニコミ誌を創刊して、世界中を旅した冒険家をインタビューしたことがありましたが、そのときの興奮をすこし思い出しました。

 文章を書いて、他者にメッセージを伝えるという営みは、ベンチャーの第一歩。100%無視されるかも、儲からないかも。そんなことはわかっているけれども、何かを言いたいことがある、仕事にしたいことがある。そういう連中にとって、本書は、「メディア・スピリッツ」の原点を思い出させてくれる力があります。

 これからも技術が進歩していく。その技術の多くは短期間で、陳腐化していくことでしょう。

 人がメディアを通じて、物語を読み取り感動する。感動した人たちのなかから、テキストを自己解釈・編集をする者が現れる。メディアの受信者から、送信者へと進化していくという営みは不況になっても続きます。メディア革命は、素人、他業種、周縁からやってくる。
 もう少しあがいてみるか。


→bookwebで購入

2009年08月27日

『新世紀書店』北尾トロ・高野麻結子(ポット出版)

新世紀書店 →bookwebで購入

「田舎に本の町を作るという夢が実現する!」

 今週末、8月29日、30日の両日、長野県伊那市高遠町で「高遠ブックフェスティバル」という日本初のイベントが開催されます。
 私はこのイベントに、「移動する書斎・書店」というコンセプトのワンポックスカーを展示するために静岡県浜松市から乗り込む予定です。7月中旬に下見のために高遠入りして、このイベントの実行委員会がおかれている「本の家」 の斉木店長に挨拶をして、展示用のクルマを交えたうち合わせをしてきました。

 そのときに買ったのがこの『新世紀書店』でした。

 なんで長野県の田舎で、ブックフェスティバルなのだろう? なぜ斉木さんは東京の西荻窪の古書店を引き払って移住したのだろう? 

 高遠ブックフェスティバルの公式サイトで告知済の情報には書かれていない、理由を求めていたのです。

 だって、東京という出版ビジネスの都から遠く離れた田舎で、本の町をつくる、という大きな町おこしが成立するわけがないじゃないですか?

 ところが、その非常識を成功させた事例があります。

 イギリスの古本の町「ヘイ・オン・ワイ」

 ライターの北尾トロ氏は、斉木氏とともに、ヘイ・オン・ワイという古本の町の「王様」リチャード・ブース氏にインタビューをし、その町おこしの歴史をたどります。

 

「1961年、リチャード・ブース氏が1軒の店を買い取って古本屋を開店するまで、ヘイはどこにでもあるさびれた過疎の町だった」。

 ブース氏は着実に店舗を拡大し、さまざまな古書店が出店するようになり、1960年代後半には古本の町として有名になっていきます。ブース氏が1号店を開店してから約半世紀がたち、30以上の古書店が軒を連ねています。そして年に1度の「ヘイ・フェスティバル」では、作家のリーディング、サイン会、コンサートなどが開催され、国内外から多くの観光客がやってくるという大きな経済効果を生み出すようになっている。

 ヘイの旅を終えての北尾の感想がいい。

「さて、我々の目指すブックタウンはいかなるものか?」

 神田の神保町のようななんでもそろう書店群が、田舎に出現しても意味はない。地域住民と、新しい移住者との関係作りも重要。アマゾンのようなブックビジネスにはない別の本の楽しみ方を提供しないといけないだろう。

 「そこにいるということ自体を目的にしても十分楽しめると共に、生きていくに足る収入が得られて生活が可能なこと。そして、ゲスト皆様には我々が最初にヘイに着いたときに感じたようなワクワク感をいつも感じてもらえるような場所。  さらに、その周辺に住む人々、とくに子供たちの好奇心を満たすような存在にならなければならない。学校とは違う学びの場所として、本の町に行けば何かがある、そんな秘密基地のような楽しいところを作りたい。売れそうな本、売れている本だけではなくていつか必要とされる地味な本たちもいつもそこに存在すること。よき図書館のように」

 下見に行ったとき、伊那市から高遠に至る緑の景色の美しさにはっとしました。急ぎの旅ではなかったせいもあるかもしれません。道沿いの川には、若い父母と、小さな子供の3人家族が、網を持って水面をのぞき込んでいました。魚か虫をとろうとしてたんじゃないかな。高遠に着くと静寂。蝉の鳴き声。風の音。それだけしか聞こえない。「本の家」に入ると、西荻の書店としても通用する品そろえの人文書がつまった書棚。できることならば1日ずっと居座って珈琲をすすって本を読んでいたい、という居心地の良さ。
 
 高遠という町も、そこにある本屋もすばらしい!

 数人の着想から生まれた、日本版ブックフェスティバルがこの高遠で開催されます。

 高遠が本と旅が好きな人の聖地になる現場に立ち会いましょう!


→bookwebで購入

2009年07月30日

『2011年 新聞・テレビ消滅』佐々木俊尚(文藝春秋)

2011年 新聞・テレビ消滅 →bookwebで購入

「私たち自身が一生懸命考えて、新しいメディアを作っていけばいい」

日本のテレビ、新聞などのマスメディアのビジネスモデルがまもなく崩壊する、ということを事実を元に提示したノンフィクション。著者は、IT分野を専門に、ネットとリアルの世界の両方を取材してきた、この分野の第一人者、佐々木俊尚氏。佐々木氏は毎日新聞で約12年、事件記者してきたという経歴の持ち主。紙媒体というオールドメディアと、ネットという新しいメディアの特質の両面を知った貴重なジャーナリストです。

マスメディアのビジネスモデルが揺らいでいることは、この書評欄でも再三にわたって伝えてきました。

新聞の発行部数を偽装する「押し紙」問題を追求した、黒藪哲哉氏の「危ない新聞」、記者クラブの崩壊をユーモアたっぷりの筆致で描いた、上杉隆氏の「ジャーナリズム崩壊」。ほかにも多数のメディア批判の書が刊行されるようになりました。

しかし、はたから見て、どんなにひどいビジネスをしていようが、それが法的に問題にならず、キャッシュフローが動いている限りにおいて、そのビジネスモデルは崩壊しません。

本書では、そのビジネスモデルが崩壊していることを、さまざまな事実をもとに検証していきます。

今年2008年は、日本のジャーナリズムが手本としてきた、アメリカの新聞ジャーナリズムが崩壊した年でした。

アメリカでも日本同様に、読者の新聞離れによる購読者数の減少と、それにともなう広告収入の減少がずっと続いていました。そこに昨年夏に発生したリーマンショックによる金融危機が追い打ちをかけて、バタバタとアメリカの新聞社が経営危機、廃刊に追いやられていきました。アメリカでは失業したジャーナリストたちが新しい職を求めてさまよっています。

あのニューヨークタイムズでさえ、いつ倒産してもおかしくない、と見られています。

佐々木氏は、アメリカで起きたことは3年遅れで日本にやってくる、という仮説をもとに、日本のメディアビジネスモデルの変化を読み取っていきます。

ウィンドウズが発売されてインターネットによる情報革命が始まり、二つの変化が、マスメディアのビジネスモデルを揺るがしています。

第1に、インターネットの普及によって、情報は無料で入手可能、という常識が人々にゆきわたったこと。

第2に、情報を伝達・入手するために必要なインフラコストが極限まで安くなったこと。

このふたつの大転換によって、インターネットが登場する以前の、マスメディアから読者への一方通行型の情報提供(それに付随する広告)によるビジネスモデルが通用しなくなりました。

ひとりでも、ひと昔前のマスメディア並みの情報発信力をもつことが可能になったのです。

テレビ、新聞、雑誌の現場で働く人たちも、自分が所属するメディア企業としてのピークが過ぎたことは知っています。でも、どうしたらいいのかわからない。私の知人が所属する新聞社では、30代の記者のうつ病が増加しているといいます。将来が見えない。団塊の世代の新聞記者たちは、自分たちの退職金のことしか念頭にありません。記者クラブでの発表資料からのリライト作業ばかりさせられてきた(新聞紙面の多くは発表モノばかりです)、多数の記者たちは閉塞感のために立ちすくんでいます。


ネットの掲示板にアクセスすれば、既存のマスメディアへの批判が溢れています。なかには的外れの批判もあるでしょう。その一部のネットユーザーを敵視、軽視してきたのが日本のマスメディアです。

アメリカでは、オールドメディアの代表格の企業群が、積極的にネットをビジネスに採り入れてビジネスモデルの再構築を急いでいました。日本のように片手間ではなく本気で。しかし、ネットによる情報革命によって、もうネット以前に維持できた収益・組織・人材を維持することはできなくなったのです。

本書を読むと、3年後の2011年といわず、遠からず、日本のマスメディアの崩壊が「表面化」することに納得できます。

これからの数年で、大手の新聞社、テレビ局、雑誌発行元の出版社が、倒産、破産していくことでしょう。または、大規模なリストラの断行、それに抵抗する社員たちによる労働争議も勃発することでしょう。大手記者出身のホームレスも出てくるかもしれない。私の身近では、フリーライターの先輩がホームレスになりました。(すごい雑誌を作るという構想があるんだけど、石井も参加しないか?とたまに電話がかかってきます)

どんな不況になっても、信頼される情報を提供するジャーナリズムは生き残ります。きちんと取材した記事を読みたいというニーズはある限りジャーナリストに仕事はある。ただし、そのジャーナリストとは、大きなメディア組織に所属する社員とは別のワークスタイルになっていることでしょう。

旧来型のマスメディア産業が崩壊するのであって、ジャーナリズムはこれからも必要とされる、と佐々木氏は強く語りかけてきます。

「私たちにとって必要なのは、新聞やテレビじゃない。必要な情報や良質な娯楽、そして国民として知らなければならない重要なニュースにきちんと触れられるメディア空間だ」

「私たち自身が一生懸命考えて、新しいメディアを作っていけばいい」。

情報革命によって、そのメディア空間をつくるためのインフラは整っています。
あとはやるだけですね。



→bookwebで購入

2009年01月10日

『〈盗作〉の文学史』栗原裕一郎(新曜社)

〈盗作〉の文学史 →bookwebで購入

「盗作検証というタブーはこの本で消滅!?」

 ある小説が盗作であると噂されたり、ニュースになることがあります。その多くはどういう決着になったのか報じられないまま、話題そのものが消えていきます。
 文学業界のなかでは、盗作問題を徹底的に議論するということを避ける傾向があるのです。表現の自由を標榜している業界なのですが。

 「文芸における盗作事件のデータをここまで揃えた書物は過去に例がなく、類書が絶無にちかいことだけは自信を持って断言できる」(栗原)

 と、著者は控えめに書いていますが、現時点では盗作資料として、第一級にして唯一無二の書籍である、と私が太鼓判を押します。

 なにしろ、巻末のデータを含めても492ページの大著。それなのに、たいへん読みやすい。盗作問題に興味がない人でも、文学業界という一般人のうかがい知れない世界を「盗作」という切り口でたのしく探索できるように書かれていると思います。

 私が栗原さんの存在を知ったのは、本書でも紹介されている小説家の田口ランディの盗作騒動をまとめた『田口ランディ その盗作=万引き」の研究』(鹿砦社)でした。そのなかで、しっかりとした調査に基づいて客観的な視点で、原稿を書いていたのが栗原さん。一読してわかったのは、普通の書き手がやらないことをする、というタイプのライターであるということ。普通のライターは、出版業界の稼ぎ頭である売れっ子作家を批判的に検証するという仕事をやりません。出版業界は小さな村のような世界であり、作家と編集者の関係はビジネスパートナーというよりも、お友達であったりする。その友達の輪にひびを入れるような行為を、出版業界の内部からわざわざする必要などありません。編集者に嫌われますから。
 努力をしても報われない。それが盗作検証です。盗作本とは、他業界でいうと「不良品」や「欠陥商品」といえるでしょう。栗原さんが本書でやったことは、文芸業界にとって「目を背けたい現実」。この盗作事件の顛末を、栗原さんというフリーライターが、商業出版の書籍としてまとめ上げたことは、本当にすごいことなのです。自動車産業にたとえると、組合にも見放されたひとりの貧乏な派遣労働者が、独力でリコールの歴史をまとめあげたようなものです。

 なにしろ大著。俎上にのせられた作家と作品は膨大です。まさに「盗作の文学史」。


 ある小説を丸写しして新人賞を取った男は、その受賞の言葉までパクリだった。ブラックユーモアのような事件。
 若くて美しい新人女性作家の盗作には徹底的にくらいつくマスメディアの偏向ぶり。
 原爆文学の名著『黒い雨』の井伏鱒二の盗作疑惑。
 大物作家、山崎豊子の盗作疑惑を批判した、当時の日本文芸家協会会長の丹羽文雄も盗作していたというお粗末な顛末。
 そして、インターネットでその盗作ぶりが徹底検証された「インターネットの女王」田口ランディへのバッシング。


 よくもまあ、ここまで調べ上げたものだ、と唖然とします。盗作とされた作品群が、国会図書館のかび臭い書棚から「読んでください! 盗作なんて濡れ衣なんだ! 私たちの正確な歴史を残してください!」と訴え、それに栗原さんが共鳴したかのような仕事ぶりです。田口ランディ現象についての批評に注目した編集者から、声をかけられて調査に約2年をかけて脱稿。しかし、原稿をみた編集者は出版を土壇場キャンセル(このことを知って、本書を絶対に書評空間で紹介すると決めました)。途方に暮れたときに新曜社が出版を決めたという経緯で世に出たのです。

 盗作疑惑があっても、売れるのであればその作家の作品を発行する度量があるのが、良くも悪くも出版業界の懐の深さであると思います。他業界では、欠陥商品を売ると人命にかかわりますし、被害者から訴えられたらその企業は回復不能のダメージを負うのでそんなことはできませんから。

 本書によって、盗作検証はタブーではなくなった、と思いたい。

 まっとうな盗作検証を在野(ようするに調査費用は自己負担)でやってきた一介の物書きのすばらしい仕事です。



→bookwebで購入

2009年01月04日

『ブログ論壇の誕生』佐々木俊尚(文藝春秋)

ブログ論壇の誕生 →bookwebで購入

「新しい論壇は、世代間対立の戦場になった」

 ウエブの行方をウォッチングしているジャーナリスト、佐々木俊尚さんが、インターネットの世界に日々生成されている「ブログ論壇」について分析した一冊。いま日本語のブログ執筆者は、英語圏のそれを超えている。それほど日本人はブログ好きな人間が多いのである。公私ともに、日々、複数のブログを更新している者として見逃せない内容だ。
 論壇とは何だろうか。一部の知識人が、老舗出版社が発行する一部の総合雑誌などにその意見を評論などの形で寄稿して生成させる言論の場のことだろう。このような言論空間には一般人は立ち寄ることができなかった。論壇を仕切る編集者もまた知識人でなければならず、一般人とは異なる物言いが期待されていた。  そうした閉鎖的な空間は、インターネットの普及によってその存在感がいっそう小さくなっている。  「ブログ論壇」が登場したからである。佐々木はこう説明している。

 

「インターネットの世界にはいまや巨大な論壇が出現しようとしている。このブログ論壇の特徴は次のようなものだ---発言のほとんどはペンネームで行われ、したがってその社会的地位はほとんど問題にされない。そしてマスメディアがタブー視してきた社会問題に関しても積極的な言論活動が行われている。その発言が無視されることはあって、発言内容を理由にネット空間から排除されることはない。その中心にはブログがあり、2ちゃんねるがあり、ソーシャルブックマークがある」

 ネットで展開された数々の「有名な論争」が紹介されている。「括弧」をつけたのは、一般的---マスメディアで紹介されるようなニュースになるような事柄、という意味---にはまったく知られていない論争であっても、ブログで激しい論争があった場合、ネットの住人にとってはそれは有名ということになるからだ。また、ネットでの論争、紛争がマスメディアに報じられて、その論争が世に広く知られて、論争が激化することもある。ブログ論壇とマスメディアのニュースが互いに影響を与えるようになっている。

 本書のなかで、なるほど、と思ったのは、ブログ論壇が「激烈な世代間対立」空間になってるという指摘である。パソコンやケータイをつかってブログを書くブロガーたちのおおくは就職氷河期で苦しんだロストジェネレーションという20代後半から30材前半の若者たち。社会の権威(エスタブリッシュメント)がクチにする「若者にはやる気がない」「がまんが足りない」という年寄りの説教型言説への激烈な反発に、ブログや掲示板が使われている。マスメディアが生成した論壇では少ししか紹介されることなかった、若者たちの老人団塊世代への怨嗟の声がブログ論壇を活性化させているのだ。
 ブログ論壇のなかには秀逸な意見が確かにある。しかし、それが日本社会の現実を変えるような言論には成長しているとはいえないだろう。その理由を、佐々木さんはこう分析している。

第1に、日本でネット論壇を担うロストジェネレーションは、日本の戦後社会の喪失期に育った被害世代であり、弱者階層であるという認識が蔓延しているため「社会を担っていく」という自信がない。

第2に、問題についてつねに議論し、解決策を考えていくという討議(ディベート)の文化が日本には欠落しているということ。

第3に、理念としての「社会」と、リアルな「世間」との乖離。いくら討議を行い、理念を語ったとしても、現実の社会は説明のできない「世間」という同調圧力に覆われていて、理念も道理も通らない。


 要するに、被害者意識ばかりで自信喪失した若者たちがもっと前向きに頑張れば、ブログでの論議が現実社会への影響力をもつようになるだろう、ということである。
 
 この分析にはおおむね同意できるものの、もう少し若者に期待をしても良いのではないかと思う。いまのネット環境があれば、ブログ論壇を生成することができる。その論壇をよりよいものに昇華していこうという人間集団もまたつながっている。そこから、現実社会に影響力をもち、日本社会の閉塞感を変えていこうという動きはすでにいくつもある。
 こうしてブログを書いている間にも、本書の内容は古くなっていく。どこかに新しいブログや掲示板が開設され、匿名の人間による対立、エスタブリッシュメントをターゲットにした批判エントリーが書かれているのだろう。
 それはそれとして、批判的なエントリーやコメントの執筆をエネルギッシュに継続したとして、それを読んで同調する人間もまた匿名存在であるとき、書き手と読み手は、もの悲しくなっていないのかな、というのが気になる。空虚にむかって、言葉をつむいでいる心象とはどういうものだろうか。
 おおくのブログは継続されることなく消滅していく。人生において論争すべきことなどそれほどおおくはない。だからこそ、ほとんどのブログは極私的な日記やつぶやきを書き留めるだけのものになっている。それが日本的なブログの王道だ。続けられたとしても、できのわるい私小説か、ひたすらにポジティブな言説を紡ぎ続ける自己啓発ブログになっているものが目立つ。ひっそりとだが、良質な文章を書き続けているブロガーもいるのだが。
 うつ的なブログも、とにかくポジティブなブログも、どちらももの悲しい。
 私は、自己主張をしないという生活態度を守り、日本人同士でも本音を語らないという習慣のなかにあった人たちが、実は語りたい、書きたい、という欲望を噴出している様子そのものがおもしろい。ブロゴスフェアのなかで、必死になって空気を読んで文章を書く営みは、ある種の文芸の域に達していると思う。
 いまは、ロストジェネレーションたちの恨み節が流行している。それがうけることが分かっているからだ。次は人間を幸福にするための歌が流行するかもしれない。いずれの言説も、読み手がいれば流行し、いなくなれば廃れる。
 このままブログが増殖し続けたとして、それを読む人が増えるのだろうかという疑問もある。すでにブログや掲示板はひとりの人間が読める情報量をはるかに超えている。
 ネットを調査のためのデータベースとして使っている人が大半になっているいま、ブログ発の情報はノイズが多いため、ブログを検索対象から外す検索サービスもある。こうなってくると、懸命になって、良質のブログ関連コンテンツをアップしても、現実社会からは認識されないということもおきるはずだ。
 ブログ論壇の荒廃、またはカオス状態になった過剰な情報によって、一覧性の高い紙の論壇がさらに必要とされている、と言えるのかもしれない。


→bookwebで購入

2008年10月02日

『わたしの戦後出版史』松本昌次(トランスビュー)

わたしの戦後出版史 →bookwebで購入

「回顧からは希望はみえず。希望は自分たちでつくりだそう」

 出版不況といわれて幾星霜。月刊現代、月刊プレイボーイという歴史のある雑誌が休刊される。一方で、年間8万タイトルの書籍が生み出され、その約40パーセントが売れ残って裁断される。その一部はブックオフに流れて100円で売られては消えていく時代。
 編集者は、DTPとPOSデータに縛り付けられている。企画の焦点は、売れ筋かどうかに傾斜していく。  閉塞感に満ちた出版業界なんとかならないだろうか? と考えた二人の大手出版社の編集者(小学館の上野明雄、講談社の鷲尾賢也)が、伝説の編集者「松本昌次」にインタビューをしてつくったのが本書である。  松本氏は、編集者歴50年のベテラン。いまも現役である。これまで担当した書き手は、花田清輝、埴谷雄高、丸山眞男、平野謙、野間宏、杉浦明平、溝上泰子、廣末保、藤田省三・・・戦後の思想史、文学史を彩る綺羅星ばかり。  私にも少なからず編集者の友人がいる。  いろいろな編集スタイルがある。  「売るための本を3冊つくり、自分がどうしても編集したい本を1冊つくる。それでサラリーマンとしてのつとめと、自分の仕事のやりがいとのバランスをとっている」  「売れることは、読者の求めているニーズに合っている。これが出版の仕事の普通の姿」

 「自分が面白いと思う著者と、面白い本をつくりたい。ほかのことには興味はない」

「広い読者に受け入れられるためには、企画内容をすこしトーンダウンさせていく。日本人の民度にあわせたとき、ベストセラーが生まれる」

 それぞれが、その編集者の人生観だし、仕事観を反映されている。

 しかし、その結果が年間8万タイトル、4割が裁断という本の墓場行きという惨状。利益率はダウンし、著者も編集者も燃え尽きかけている。元気な著者は、アイデアだけを提供し、執筆はゴーストライターに任せている著名人といった状況である。もちろん仕事術の工夫によって、良質の書籍を量産できる一部の筋金入りのプロはいるが、それは一部であって全体ではない。

 伝説の編集者の言葉はシンプルである。これに大手編集者は頭を垂れて耳を傾けている。

「わずか数十年前の、戦後の思想家や文学者でも、よほどの方をのぞいてはどんどん忘れ去られ、著書なども書店で見当たらないというのが現状です。そんなに次から次に文化が入れかわって、いったい何が継承されるんでしょうか」

「時代の反映でしょう。なんでもカネですから、出版界もそれに引きまわされているわけですね。30年ほどまえに「消去の時代」という短い文章を書いたことがあります。70年代半ばあたりですが、そのころからすでにいまの状況が強まっているんです。それが現在ピークにきているんだと思います。「消去の時代」とは、人を押しのけて何かをやるより前に、こういうことはしない、こういうものは出版しない、と決心することが大事だということでたす」


「人文書どころか、いまや出版物全体がほとんど実用書と娯楽本で、読んで身になるとか、考えさせるとか、本当に我を忘れておもしろいというような新刊は見つけるのが容易ではない。しかも、もしあったとしても新刊洪水のなかで多くの読者には迎えられない」

 「本はかつてのような力を失っているんじゃないでしょうか。そういう意味での絶望なんですよ。もしわたしがいま若ければ、本づくりなどしないで、別の直接的な文化運動なんかをやるほうがいいなという気持です」

 松本氏のような昔気質の編集者はいまもいるのだ。しかし、経済的に、社内的にも評価されることはない。思想家は絶滅したようだ。文学者の役割はなくなった。

 本書を読むことで、次の世代の出版ビジネスの希望が見つかるのではないか、と思っていたのだが回顧だけでは未来の希望は見えない。

 松本氏が活躍した時代と今とでは環境が違いすぎるのだ。

 情報が氾濫する社会では、新しいタイプの編集者と書き手が必要とされている。

 ひとつの時代が確実に終わった、新しい世代が新しい本を作るしかない、という平凡な読後感を持った。

 それにしても松本氏は幸福な編集者であった。私たちは別の形の幸福を、出版からつくりだしていかなければならない。



→bookwebで購入

2008年02月11日

『崩壊する新聞』黒藪哲哉(花伝社)

崩壊する新聞 →bookwebで購入

「新聞販売店からみえる、新聞ビジネスの闇」

前回は『トヨタの闇』を取り上げた。今回は「新聞の闇」を取り上げる。
著者の黒藪哲哉氏は、フリーランスジャーナリスト。私もたびたび寄稿してきたニュースサイト、MyNewsJapanの常連寄稿者のひとり。新聞業界、とくに新聞販売の問題点を取り上げるインターネットサイト「新聞販売黒書」を主宰している。「新聞販売黒書」の黒は、自身の姓である黒藪とリンクしているのだろう。

日本における新聞発行部数は、他国と比較すると突出して多い。

2006月の段階におけるABC部数は

読売新聞:999万部
朝日新聞:813万部
毎日新聞:399万部
日本経済新聞:286万部
産経新聞:216万部

これに対して、2006年頃、外国の新聞では

USAトゥデー:227万部
ニューヨークタイムズ:114万部
ル・モンド:35万部。

となる。日本の新聞の発行部数の多さがわかる。

よく知られているように、日本の新聞には個性といえるようなものがない。同じようなニュースを同じような論調、文体で書いている。

日本人が退屈な新聞を読むことが大好きだから、このような数字になったわけではない。
各新聞社が全国に強固な販売網を作り上げたためである。

本書は、この新聞販売制度を軸に、新聞ビジネスの闇が描かれている。

ここでは2点にしぼって内容を紹介したい。

 まず第一に、本書が明快に指摘しているのは、新聞販売店には「暴力装置」が組み込まれており、新聞社はこの装置を使って新聞部数の拡大維持をしていること。 新聞拡張団という男たちが、地域をまわり新聞を強引にとらせる。
 この拡販団のメンバーが受け取る報酬は完全歩合制である。その日に新規の読者を獲得できないならば収入はない。収入面では下層階級に所属する者たちが多いことが容易に想像できる。だから日銭を稼ぐため強引で押しが強くなる。そうしないと生活できないのだ。この拡張団のなかには闇社会とつながりのある者もいる。

 第二に、新聞社はその実売部数をごまかしており、読まれない新聞を「押し紙」として新聞販売店に押しつけている。膨大な新聞が読まれないまま、リサイクル業者に渡っている。ペット業者が糞尿処理のために、真新しい押し紙をまとめて購入することもある。
 「押し紙」とは、実際に読者がいないのに、新聞社が販売店に押しつける新聞(紙)のことである。たとえば、ある販売店の担当地域に読者が300人いるとして、新聞社はそれに上乗せして500部押しつける。この上乗せした200部の読者が獲得できないとしても、新聞社は500部で代金を販売店に請求する。断ればその販売店の販売契約を打ちきられる。契約が切られたら廃業を余儀なくされる。販売店は新聞社の指示に従うしかない。早朝の新聞販売店をのぞくと、封が開けられていない新聞の束をみかけることがある。配達するあてのない「押し紙」だと思われる。

 社会の公器たる新聞社が、非人道的な経営をしているのだ。
 この経営に疑問を持った販売店経営者たちが、新聞社を相手に訴訟を起こし、その責任の追求をはじめた。黒藪は、これらの訴訟の取材を通じて「新聞社経営の闇」が暴かれていく。裁判資料を入手しているためだろう。黒藪の記述はきわめて詳細である。

 これらの重大な事実は、新聞やテレビで報道されることはない。これは新聞業界にとって、一般の人に知られたくない「不都合な真実」だからである。
 本書が、専売店制度で支えられている毎日、朝日、読売などの大手新聞の書評欄で取り上げられることはないだろう。新聞記者も、実名で本書の内容を克明に紹介することはないだろう。


 私の個人的体験を紹介しよう。
 東京の下町、亀有でひとり暮らしをしていたとき、読売新聞の勧誘を受けたことがある。中年の男性がドアのまえで笑っている。
「新聞は取っていますか?」
「毎日をとっています」
「読売をとってほしいんです」
「いえ、いりません」
「いまなら景品を差し上げます。新聞をとらなくてもいいですよ」
「じゃあ、ください」。
 そのとき、私は毎日、朝日、日経を3月毎に購読しては、契約を解除することを繰り返していた。毎日読むに値する新聞を見極めるためである。読売の勧誘員は、私の両手に洗剤と商品券、ビール券をのせていく。
「ありがとうございます。こんなにいただいて。ひとりぐらしなので助かります」
「いえいえ、それじゃあ、お願いします」と新聞契約書を取り出した。
「それじゃあ、また」と、私がドアを閉めようとすると形相が変わった。
「こら! 新聞とれよ!」
「景品は無料でいただけるって言ったじゃないですか。新聞はとらなくてもいいって」
「なめとんのか。こら! 俺はこのへんでは顔なんだぞ」
「でも、新聞は取りません」
すると男は、私の両手からすべての景品を奪い取って、「なめんなよ!」と捨て台詞を吐いて去っていった。
 こんな勧誘をひとりぐらしの老人や女性が受けたら、恐怖のあまり抵抗できない。怖いひとに私は目をつけられたのだ。いざというときは、亀有公園の派出所にいって、相談に乗ってもらうしかないな、と思った次第である。

 もし、この強引な新聞拡張をしている専売店制度がなくなったら、日本の新聞発行部数を維持することは不可能になる。
 ネットの普及によって、減少の一途をたどる新聞読者離れが止まることはありえない。「押し紙」は増え続けるだろう。

 私は同世代の新聞記者と会うと、折に触れて、将来のことを聞くようにしている。勤務先の新聞社が倒産する、自分がリストラにあう、という前提で行動している記者はほとんどいない。この危機感のなさがたいへん心配である。

参考になるサイト
MyNewsJapan 黒藪哲哉氏の寄稿まとめ
・黒藪哲哉氏が主宰する「新聞販売黒書」


→bookwebで購入

2007年06月01日

『新聞社-破綻したビジネスモデル』河内孝(新潮社)

新聞社 破綻したビジネスモデル →bookwebで購入

●毎日新聞はなぜ破綻していないのか?

新聞を定期購読しなくなって、3年ほどたつ。何度か定期購読をしては辞めた経験がある。

大学卒業後に初めて定期購読した新聞は朝日新聞だった。人権とか環境保護とか、不正に怒っているような論調に好感をもったことと、ジャーナリズムに興味をもっている若い学生のほとんどが「朝日では・・・・と書かれていた。だから・・・」というような会話がなされていたからである。ふむふむ、と内容はよくわからないけれど読んでいた。いまから19年前、昭和天皇が死んだ。天皇崩御を伝える朝日を読んで、定期購読を辞めた。反天皇的な言説をにおわせていた朝日が、昭和天皇が死んだときは、読売新聞との違いがわからないほど、つまらない紙面をつくっていたからだ。上京してから、毎日新聞、読売新聞をそれぞれ3ヶ月定期購読した。メディアの仕事をしている手前、何か一紙とっておく必要があると思ったからである。結局、朝日に落ち着いた。理由をあえてあげれば、他紙よりも、書評欄が充実していること、個人的に朝日新聞記者の取材をよく受けるようになったから。

そのうち、ブロードバンド回線を利用するようになって新聞を辞めた。定期購読を辞めることを決めた直接のきっかけは、2004年のイラク人質事件報道だった。朝日新聞の記事は、明らかに外務省筋のリーク情報をもとに、人質にされた若者3人の批判を展開していた。たしかにこの3人のセキュリティ意識は低かったろう。しかし、それを大新聞が批判してしまっていいものか。ネットで人格攻撃も含めて徹底批判されているのだから新聞が便乗しなくてもいいと思った。その後、反戦活動家とフリーランスジャーナリストの男性2名が人質になって解放されたときは、この2名への新聞からの批判はほとんどなかったことにも納得できなかった。

私の周りでも、新聞は読まれていない。「・・・新聞ではこう書かれていたよね」という会話はなくなった。もし、そういう会話になったときは「新聞とっていない。それどういうニュース?」と聞けばよい。新聞記事を読むよりも、その人の語りのほうがおもしろいことが多い。人に語りたくなるニュースには力がある。それは当たってみる価値がありそうだ。

長い導入になってしまった。新聞はわざわざ定期購読するような価値ある商品とはいえない、ということだ。情報の質と価格が見合っていない。

     *

この新書『新聞社』の副題は「破綻したビジネスモデル」。新聞経営のビジネスモデルが既に破綻していることが詳細に述べられている。書き手は元毎日新聞の常務取締役。毎日新聞の経営改革を試みたが、社内で大きな反発を受けて、退社してこの本を書いたという。この本に書かれているようなことは、
フリーランスジャーナリストの黒薮哲哉氏、そして
MyNewsJapanマスコミえっ?まだ新聞、定価で読んでるんですか?
が息長く報道しているので、内容的に新しい情報はとくにないけれど、毎日新聞の内情を知った当事者が、新書という普及しやすい形で発表したことに大きな意義があると思う。

気になったことは、毎日新聞で働いている普通の記者たちが、いまの新聞経営の破綻をどのように考えているのか、という情報が盛り込まれていない点だ。この点で、この本には当事者が書いたメリットを最大限生かそうという貪欲さが欠けている。

著者は、この本の中で、中日新聞、産経新聞、毎日新聞の3社が業務提携をして、読売、朝日につぐ第3極をつくる、という改革構想を提言している。3社を足すと1000万部の勢力になるという。これは、巨額の不良債権によって経営が行き詰まった銀行が、吸収合併と人員整理によって生き延びていった方法と同じ。経営破綻はしたけれど市場から退場する気はないし、シェアも失いたくない、という往生際の悪さが出ている。

東海地方で絶大な力をもつ中日新聞が、赤字媒体を吸収してもよい、と納得できる土産があるのか、という疑問もある。1000万部あれば、広告収入が大いに見込めるという目算もあるのだろうが、紙の新聞を毎日読むという習慣そのものがなくなりつつあるので現実味を感じない。

     *

私なら、新聞改革のためにこう考える。

官公庁発表記事だけを載せる「日官紙」(日刊紙ではない)を創刊する(大企業の発表モノを載せる媒体としては、日経があるので新創刊は不要だろう)。記者クラブがその記事執筆を全面的に引き受ける。プレスリリースのリライトは大学生のバイト(インターン)にやってもらう。夜討ち朝駆けは原則としてやらない。「ひと」欄には、天下りした官僚が楽しいセカンドライフを送っていることを紹介する。有能な記者の養成をする教育コストは不要と割り切る。発表モノの商品化に特化して、コストのかかる調査報道は一切しない。
他紙はこの「日官紙」と誌面で競争する。今の新聞は中途半端に「日官紙」になっているから、購読意欲がわかないのだと思う。

それにしても毎日新聞の経営危機は深刻である。なぜ破綻していないのか? その自己分析も書いて欲しかった。

→bookwebで購入