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2010年08月31日

『奪われた性欲』今一生(毎日コミュニケーションズ)

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「性欲減退男子よ、どこへ行く?」

 近年、マッチョな文体で社会起業を語ることに専念しているフリーライター、今一生の最新作である。
 今一生のマッチョ信仰は強固でシンプル。尊敬する人は漫画家の本宮ひろし。サラリーマン金太郎のような、低学歴だけど元気な社会起業家を育てたい、という思いが強い。これはという社会起業家を取材し、それをツイートしている。時間をつくっては依存症で苦しむ若者と対話する。10年以上に及ぶ依存症問題の取材で、多くの当事者たちを支えてきたと胸を張る。

その熱血ライター、今一生が、いま時の草食系男子の性欲をとりまく社会構造を批評したのが本書である。

婚活という言葉が飛び交っている中で、女性との恋愛どころか、自分の性欲という生命活動をうまく発動させることができない男性のために書き下ろされた。

作家北方謙三氏の人生相談の決め台詞「ソープに行け!」という言葉が通用しない男たちへの、今一生からのエールである。

今の分析によれば団塊ジュニア男性たちは、自分に性欲という欲望があること認められない。自己の性欲を恐れている。

 彼らは,育児に自信がない母親に育てられた。仕事に埋没して育児をしなかった団塊の父親。ゲームという室内のバーチャル遊技で、肉体と精神のバランスをなくした。その結果として基礎体力がなくなった。体力がなくなれば性欲が発動しなくなる。
 団塊ジュニア草食系男子が、性欲減退に追い詰められていくのに対して、同じ世代の女性たちは、旺盛な性欲を発動させてセックスを堪能する。
 こうして今一生の論旨をまとめていると、団塊ジュニア男子のひ弱さを強調することになってしまう。一つの世代の分析としてはかなり悲惨だ。

 今一生は、男子が肉体を思う存分使うことなく大人として成長できる日本社会の構造のしわ寄せが、団塊ジュニア男子に集中的に及んでいることによる、性欲減退現象を解明しようとしている。
 その語り口は、マンガのサラリーマン金太郎的であるために、少々粗雑ではある。が、精緻すぎて、一般の人には届かない論理よりも平明さを今一生は優先する。
 この状況を放置すると、社会全体は少子化となる。その団塊ジュニア男子の個人の人生は、女性の恋人なし、女友達なしとなる。女性との身体コミュニケーション(セックス、育児など)と無縁になってしまう。
 生身のセックスを避ける。女という不可解な存在とのコミュニケーションを面倒くさいと感じる(面倒くさいことが多いのは事実だ)。その行き着く先は「孤独の底割れ」であるという。自分が孤独だと認識することもできない状態。孤独の底割れが続くと、自己破滅的な行動になっていくだろう、と今一生は危惧する。

 今一生が提示する処方箋は、格闘技による痛みを伴う身体コミュニケーションである。格闘技によって肉体と精神のリセットができる。性欲を奪う構造を、格闘技で一掃できるという信念が強引な論旨を支えている。性欲が乏しい男子に向かって論理的で優しい言葉をかけても事態は変化しないだろう。

 今一生の言葉は真正直すぎるのだ。これでは、性欲減退男子は、女性を口説いてみるか、という意欲はわかないと思う。

 「ソープに行け!」という北方謙三のシンプルさを乗り越える、ワンフレーズが求められている。

 いまの時流は「婚活に行け!」である。ユーモアがない。婚活は高くつく。

 団塊ジュニアよ、どこに行く?。


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『怒らないこと』アルボムッレ・スマテサーラ(サンガ)

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「怒らないという生きるスキル」

 ブロガーの小飼弾さんの著書『働かざるもの、飢えるべからず』小飼弾(サンガ)のなかで、弾さんと対談していた仏教者、アルボムッレ・スマテサーラの語りである。
 弾さんのベーシックインカム論を補強する形で対話をしている相手が、経済学者ではなく仏教者であることがずっと引っかかってきた。その対話相手の著作のメッセージは、「怒らないこと」である。

 僕は比較的よく怒ってきた部類の人間だろうと思う。怒ると疲労する。なるべく怒らないようにするために、ひとつの方法として仏教関連の本を読んできたが、もうひとつしっくりこなかった。本書は、怒ることのデメリットを論理的に説明している、と思う。「と思う」と留保つきのことを書いてしまうのは、怒りの感情にもよき面があるのではないか、と思っているからだ。
 怒っているからできることがあるのではないか、と。確かに怒りにまかせて可能なことはある。しかし、その結果が自分の人生に豊かさをもたらすのか、と考えるくらい僕も大人になった。

 この本は、怒りという感情を哲学的にわかりやすく分析している。

 怒りを冷静に分析する方法は、観察することだ。
 自分の内面にわき上がった怒りという感情を冷静に見つめる。それができた時点で怒りは収まっている。怒りのままに、その感情を噴出すると、その毒が回って自分が生きづらくなる。そんなことを言っても、怒りたいときは怒るよ。と僕も思っていたものだ。しかし、僕よりもよく怒る人の、怒りの感情の噴出を長く観察する機会があった。はじめは怒りの感情を調子よく出して、本人はすっきりするのだが、周囲からの反撃が始まる。それに対してまた怒りを出す。すると時間をかけて、やんわりと反撃される。これを繰り返されているうちに、怒っている人間が自責の念と周囲からの呆れという感情にさらされて、消耗していく。なるほど、怒っても損である。

 ネットでもそうだ。揶揄や中傷をするネットイナゴ(匿名の卑怯者)たちは、怒らせることを目的としている。「世の中にはこんな気の毒な人がいるのだな」と冷静に観察していると、怒りが消失していく。むしろ、会ったこともない人間に対して中傷と揶揄の言葉を紡ぎ続ける人たちの不毛な努力を哀れみ、そのような言葉にかかわらずに健やかに生きていこうという気持ちになっていく。

 怒ったほうがいいことはある。そのときは「怒りではなく、問題をとらえる」ことで解決するとアルボムッレ・スマテサーラは説く。

 まことに論理的である。相手が怒ろうが、攻撃しようが、それは相手にしないで、その人が直面している「問題」を把握する。「あなたが怒っているのは、こういう問題があるからですよね」と共有できれば、その人はずっと怒り続けるという苦役から解放される。怒りの矛先を向けられた、こちらも怒りを受け止めるという不毛な努力から解放される。

 僕は、浜松に住んでからあまり怒らなくなった。理由は、地縁血縁のない異文化の地域というアウェーだからである。土着の人たちの行動と思考パターンが分からない。怒られても、怒っても、すべて学びである。
 このアウェーな感覚が、怒りという感情にとらわれずにすんでいた理由なのだ、と本書を読んで気づいた。

 本書は怒りっぽい人にとって良薬である。


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『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』藤原新也(東京書籍)

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「都会に追い詰められない、静かな語り」

 浜松から東京に行く用事があった。私は、新幹線なのかなでiPhoneをいじり、ツイッターでつぶやきを仮想空間に発信していた。静岡県内の風景は美しい青空だった。小田原駅から空がガスに覆われていく。横浜に至ると完全にヒートアイランド現象が始まっている。新幹線の窓の外はサウナ状の熱気である。東京駅に降り立つ。そこにはねっとりした熱気が渦巻く。錦糸町に移動する。客に見放された商店街には、アジア系の移民が経営する小商い。建設中のスカイタワーを見上げる。その塔の下には、さびれた商店街。この商店街には後継者はいない。数年以内には、跡形なく店は変わる。野心的な若い経営者がスタイタワーにむかう観光客のニーズにあった店を出していくことだろう。
 地方都市と東京の関係はいまさら論じるに値ししないことだろう。不況のなかで気の利いた人間たちは、よりいっそう東京に吸い寄せられていく。それと同時に、地方の人材の枯渇と、それにつけ込む大資本による店舗で地方はいままで以上に画一化していく。

 その大状況のなかで、ひとりの個人の悲哀は語られなければならないだろう。
 
 その語り部として、私は藤原新也さんに絶対の信頼を置いている。

 九州の最北端門司の旅館で生まれ、東京で学び、アジア放浪をしたこの表現者は、日本の地方、東京というメガシティ、アジアの辺境、アメリカをクールに見つめてきた。

 最近は、国内の人々の暮らしにじっと目をこらしている。ときに文章で、ときに写真で。

 本書は、東京の「メトロ」というフリーペーパーでの連載をまとめたエッセイ集だ。

 東京都民の多くは、地方では食っていけないという理由で流れてきた田舎の人々で構成されている。この新東京都民は、東京の加速感のある生活のなかで、自身のルーツを忘れていく。

 東京と地方(海外)を往復する無名の人々の生きる姿を活写する。

 読んでいると、新東京都民が忘れていたことを思い出させる力がある。

 表題となった同名のエッセイ「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」。
 ひとりの青年は大学を卒業したあとにIT企業に入社した。しかし毎日パソコンに向かう生活がいやになって退社。就職先が見つからない。ネットカフェ難民になってシブヤで暮らしていた。その青年は3年後、北九州のなにもない離島でひとりで暮らす。猫が一匹いる。「この島、東京と同じです」。自分が世界から忘れられているようなところが似ているという。その青年が「正気」にもどったときの風景。それがコスモスのある原野だった。はっとするような美しいコスモスの花。
 
 藤原は、青年との対話を再現したあとに、さらりと地の文でこう書いていく。

 「だけどそのコスモスの群生地も造成され、今は寒々とした工場の資材置き場になっているよ。こうして世界の美しい場所や思い出の地は人間の営利のために次々に壊され、僕たちはこうして都会のネットカフェに追い詰められていくのさ」

 東京メトロ。通勤客は、この藤原の文章を読んで会社に向かったのである。

 この本があれば都会に追い詰められない。



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2010年08月30日

『バブル女は「死ねばいい」 婚活、アラフォー(笑)』杉浦由美子(光文社新書)

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「出産と仕事にゆれるアラフォー女と団塊ジュニア女の生きる道」

団塊ジュニア世代の著者が、1960年代に産まれたバブル世代の女性を批評している。30代の女性から見た、10歳ほどの上の世代の女性を評論している。
まずバブル女と、団体ジュニア女の立ち位置を著者の杉浦はこう定義する。

バブル女とは「1960年代後半生まれの女性たち。80年代後半から90年代初頭のバブル景気の頃に社会に出た。

団塊ジュニアとは「1971年から74年生まれ。ベビーブーマー世代であり、苛烈な受験戦争を乗り越えて大学に入ったが卒業する頃には、バブルが崩壊してして途方にくれた世代。精神科医の香山リカは、貧乏クジ世代、と名付けている」

世代論の多くは、男性が書いたものがおおい。または、女性の書き手による、上野千鶴子を代表格とするフェミニズムのイデオロギーに影響を受けたものが目立つ。

杉浦はそのどちらでもない。


腐女子のフィールドで仕事をはじめた著者である。メディアのなかに埋もれている記号を切り出して、批評する手並みはお見事。ちょっと斜に構えたユーモア文体。癖があるが、独自のリズムがあって、慣れるとすいすい読める。


ぐるぐるした論理のベースにあるのは、日本が女性が働きやすい社会になっていないということだ。

男性が支配する経済ゲームのなかで、女性がいかに収入を安定させるか。古くて新しい論議を、ふたつの女性の世代間価値観の相違によって描き出す。安定収入のために、男と結婚するべきか。出産育児をすると、キャリアが断絶されてしまうのでどうするか。未婚の母はいかにして収入獲得の方法として再婚するか、といった「女の生きる道」が細かく論述されていく。

ときに「突出した経済力や性的な魅力もない40男に「かいがいしく世話をやいてくれる女」など現れるわけがないのだ」、なんて暴論を書くけれど、杉浦の根底にあるのは、生きにくい時代のなかで女たちよ幸福になってほしい、という願い。

「出産が難しい時代になっても、助成たちの母性は退化していない。

いくら母性をバーチャルに処理しても、しつくせない場合にはどうすればいいのか。

子どもを産むこと。そして、子どもを育てること。これ以上に価値がある「生きる理由」が他にあるなら教えて欲しい。あんなに豊潤で愛おしい存在が他にあるだろうか」

 ひとつだけ、注文があるとすれば、地方と東京都を中心とした関東圏の価値観の差異についての記述不足。著者は地方取材を精力的にやったと書いているが、どの地方なのかが明示されていないのが歯がゆかった。関東圏のライフスタイルが多様なように地方も多様。女性の意識も地方の風土、産業構造によって違っている。僕が住む浜松市でいれば、キャリア指向の女性はみな外に出て行って、地元には残っていない。イオンにいくと出産したママが幸福そうに闊歩している。関東圏は女性がきわめて出産しにくい社会構造になっている。そのことだけを詳述してもよかったかもしれない。




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