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2010年06月30日

『自由をつくる 自在に生きる』森博嗣(集英社新書)

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「自由とは人間だけが生み出す人工的なイメージである」

 天才、森博嗣による「自由論」である。
 森は自由に生きてきた人である。いまも自由だろう。だから、凡人である私たちはその生き方を特別視してその自由な姿勢を、天然のものであると見なしてしまう。大学教授とミステリィ作家の二足のわらじを履けるのはスゴイ、自分にはできない。と思考停止する。 別に思考停止してもいいのだが、そういう生き方ができるノウハウを公開してくれたので読む。廉価な新書で、いま同時代を生きている天才の言葉を読めるのだ。学ぶ。自分の考えている自由と、森の自由を比較する。比較することで、自分の自由が見えてくる。見えてくれば自由に近づくことができる。

至言が多い。

自由とは「自分の思った通りにできることです」という。さらっと書く。剣豪のような表現だ。
思ったようにできることは、現代社会では不可能と思われている。カネがいる、時間がいる、家族を説得する、会社の有給休暇を取得する。もろもろの雑務が浮かぶ。何よりも、自分が本当に自由を欲しいと思っているのか。あやしい。自由であることをもてあますのが人間かもしれないのだ。

それでも、森はその自由を実践してきたし、実現してきた。もう一生食べるのに困らないお金がある。ゆえに自由がある。

僕が感銘したのは、人間だけが自由について考えているという記述だった。

自由とは、人間がつくる、人工的な概念なのである。
それゆえに不自然である。不自然であることのなかに自由がある。と僕は理解した。

たとえば、夢と自由について論じた記述がある。


どんな場合であっても、人間は自分が思ってもいない方向へは決して進めない。人に話すときには「いやあ、思ってもみない幸運でしたよ。」とか、「こんなふうになるとは予想もしていませんでしたね」と謙遜するけれど、それはけっして正確ではない。必ず、よい結果というものを夢見るのが人間なのだ。そして、その人が見た夢よりもすばらしい現実は、絶対に訪れないのである。すべては本人の想定内、といって間違いない。これはつまり、実現したかったら、少なくとも、そうなることを夢見る、成功する状態を予測することが必要である。自由になりたかったら、自由を夢見ることから始めなくはいけない。知らないうちに自由になるなんてことはありえないのだ。

 僕は、夢を実現するためのノウハウを開陳するような人間をどこか軽蔑していた。しかし、自己啓発を一生書かないだろうと思っていた天才森にして、こう書いた。これは僕にとってはちょっとした事件である。




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2010年06月29日

『リハビリの夜』熊谷晋一郎(医学書院)

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「意識と身体のままならなさが、敗北の官能を呼び込む」

脳性麻痺とは何か。さまざまな本が書かれてきた。当事者、家族、専門家・・・。マイノリティのなかのマイノリティといえる脳性マヒ者たちは語られつくされている。そう思っていたが、この障害者の世界は深い。また、新しい書き手が登場した。
 熊谷は、脳性麻痺の当事者であり、東京大学医学部卒業後に小児科医になった。不可能を可能にした男だ。

 熊谷には楽観的な視座がある。悲壮感はあったのだろうが、とうにくぐり抜けたのだろう。あっけらかんとしている。自分自身の身体にまつわる官能、便意、性欲などを楽しげに語ってくれる。

 身体はやはりいまだに書かれざる未踏の部分がある。身体はひとりひとり異なる。故に、物語の多様性は担保される。

 本書を読んでわかったことは、熊谷という青年が、脳そのもので、自分の身体を観察していることだ。不随意運動という、自分の意識で思い通りにならない身体感覚を飼い慣らすための工夫をするとき、熊谷は自分の意識をコントロールする。その意識に反する行動を勝手にする、自分の身体を把握する。その把握の手触りを言葉にできている。普通ではない筆力だ。

 脳と身体との、ままならないコミュニケーションの実相が、本書によって明らかにされている。

 興味深いのは、脳性マヒ者の身体運動が、「他者からのまなざし」「まなざされる自分自身」という関係性の中で、緊張したり、弛緩したりしていくことだ。これは、健常な身体をもった人間にはない感覚なのだが、読むことで理解できる。この理解させるだけの筆力がある。尋常でとはない文才だ。自己の身体意識を、他者に言葉で伝達することに成功することはたいへんな困難だからである。

 「敗北の官能」という表現がすばらしかった。便意を催して、自力でトイレに挑む。トイレは彼の身体を拒絶し、彼は大腸が勝手に動くことを防ぐことができない。床の上に転がりながら彼は「敗北の官能」を味わうのである。
 障害者の不自由さを嘆くわけではない。思うように動かない身体に、脳が敗北することで、味わえる快感というのがある。これは脳によってすべてを支配したいという私たちの身体感覚とは別の感覚である。その感覚は、老いる、という万人が経験する場面で、私たちも必ず味わう。否。乳児のときにはその体験をしているのだ。ただ忘れているだけなのだ。

 このままならない心身を障害者の人たちは先取りしている。脳も身体もままならない。そのままならないことは自然なことであるはずなのに、異常、逸脱ととらえてしまうのが私たちなのだ。熊谷の身体を鏡像にして、私たちのままならない心身が浮かび上がってくる。

 ゆえに普遍的な書物となっている。傑作である。


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2010年06月22日

『小説家という職業』森博嗣(集英社)

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「小説家になりたいなら小説を読むな!!」

小説家という職業
 天才作家、森博嗣の執筆のノウハウがすべて公開されている。おもしろい。読むべし。(と書いたものの、僕は森博嗣の小説作品をまともに読んだことはないのだ。エッセイのほうが好きな読者である)

 森は、名古屋の国立大学教授をしながら、趣味の工作の資金を稼ぐためのアルバイトとして娯楽小説を書いてきた。彼独自の方法論、執筆姿勢について書かれている。

 僕はこの手の本(小説のノウハウ本)を沢山読んできた。本書を読んで、「小説を書くためのノウハウ本」を読むのを辞めることにした。最後の一冊である。

 書きたいことがあればさっさと書く。書いたものをおもしろいと思うかどうかは読者が決めること。書いたら内容は忘れる。読み返すことはない。小説を書くことは職人の仕事である。1人で取り組む。いわばひとりベンチャー起業である。

 1人で始める仕事の魅力は、チームワークでは得難いものがある。

 冒頭にいきなり太ゴチックでこう結論が書かれている。

 もしあなたが小説家になりたかったら、小説など読むな。

 他者の作品を読んでばかりいると、影響される。影響されると、オリジナルなものが書きにくくなる。普通とは逆の発想でものを書くためには、小説を読まなくてもいい。読むことで他者のイメージで自分の脳を占領されるよりも、自分の脳から生み出されるイメージを言語化していくほうが建設的な時間の使い方、というわけだ。

 まったくその通りだ。

 そして感銘を受けたのは、出版不況であり、小説の危機と言われている時代ではあるが、森は小説の可能性を信じていることだ。

 たった1人でできる。文字だけの表現である。ほとんどコストゼロで始められるし比較的的短時間で可能。(森の1日の執筆時間は約2時間で、10日くらいで一冊書いてしまうのだ。天才だと思うが、本人にその自覚はまったくない)。失敗しても失うものは時間くらいのものだ。
 にもかかわらず、読者は、すぐれた小説作品を読んだとき、たった1人の人間がゼロから生み出したことに感動する。人は、人に感動する動物なのだ。その迫力は未来永劫続く、というのだ。

 まったくその通りだ。

 僕はユニークフェイスという問題を私小説的に書いてきた。いまも書いている。
 組織は消えても本は残る。僕が死んでも本が残る。だから書いてきた。本を書くという営みはすばらしい。
 
 小説ノウハウ本を読むのは、これが最後だ。悔いのない読書体験だった。
 


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2010年06月16日

『障害者の経済学』中島隆信(東洋経済新報社)

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「「障害者ビジネス」に参入するときの必読書」

 タイトルの通り、障害者を取り巻く経済についてまとめられている。ストレートな内容である。しかし、このような直球の書籍はこれまでなかった。
 障害者について論じられた書籍というと4つのタイプにまとめられる、と著者は書く。

 第一に、障害者本人またはその親が経験を書いた「自伝タイプ」。第二は、障害者の法制度を書いた「制度論タイプ」。第三は、障害者本人またはその関係者が障害者観について語る「観念論タイプ」。そして、第四が障害者の知られざる意外な一面を書いた「意外性タイプ」。

 多くの障害者関連の書籍は前者の3タイプに属する。出版社は障害や福祉をテーマにした小出版社が多い。読者層も障害者の関係者という狭い世界に止まっている。多数派である健常者には、障害者の現実は伝わらない構造になっている。「意外性タイプ」は、一般読者を想定しているため大手出版社から出されることが多いが、特異なケースを紹介するだけなので、障害者の生活についての実態に迫ることはできない。

 こうして障害者問題はずっとマイナーであり続けてきた。

 専門家にも責任がある。「日本の経済学者は障害者の問題を避けて通ってきた」という歴史があるのだ。その意味でも、本書はきわめて貴重な書籍である。
 
 経済学という方法論を採用することで冷静な分析ができるようになった。これまで障害者問題を論じるときには、障害者当事者と家族の苦労、政治の貧困、というような「悲惨な現実」からスタートして、「社会は間違っている」という結論になっていた。それだけでは、障害者をとりまく経済は分析はできないし、経済状況の改善もない。

 どうしたらもっと効率的に有限な資源を分配できるのか。その観点で、障害者を取り巻く、モノ、人、カネの動きを分析していくのである。

 僕が本書を手にとったのは「障害者ビジネス」をするための基本的な情報が欲しかったからである。
 さまざまなNPO法人、株式会社が、障害者と家族を対象にしたビジネスを始めている。「ユニバーサルデザイン」はその最たるものだ。しかし、その消費者のニーズを調査するノウハウはほとんど知られていない。障害者ビジネスに参入する企業の側も、障害者に高付加価値商品を売って良いのだろうか、という奇妙な罪悪感をもっている人がかなりいるのである。

 それぞれの関係者に話を聞いても、障害者を対象にしたビジネスは難しいですよ、と意味深である。どんなビジネスにも固有の難しさがあるのであって、そのこと自体はどうということはない。問題だな、と感じるのは、「障害者ビジネス」へのタブー意識である。

 正確な知識があれば、タブー意識は払拭できる。本書は、その役割を十分に果たしている。
 僕は福祉車両のマーケティングについて調べている。本書のなかにも該当する文章がある。福祉車両とは、「転ばぬ先の杖」の発想でできた車両だというのだ。障害者を安全に搬送するために、荷室の中央に車いすを設置するという安全基準がつくられる。しかし、この車両では家族4人が乗車することができない。なぜならば実態として「障害者専用車両」になっているからだ。著者は、障害児の父親である。十分に調べて購入しても、福祉車両についての基準についての知識不足から残念な思いをもってしまう。自動車のユーザーとしては不満が残った。ディーラーに抗議をすると当時の運輸省の基準ではどうしようもないという。障害者の安全をおもんばかりすぎる「転ばぬ先の杖」では、快適な自動車ライフはできない。もっと融通の利くルールが必要だと書く。そうしたほうが、消費者の満足度が上がり、経済が活発になるからである。

 一般ユーザーを対象にしたビジネスであれば、かんたんに解決・改善が可能なことが、障害者ビジネスだから、ということで放置されていたりする。

 なぜそのような構造になるのかを経済学の視点ですっきり解説してくれる。知的刺激を受ける好著である。
 


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