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2010年02月27日

『ご遺体専門美容室』中村典子(Wish Publishing)

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「愛知県の「おくりびと」が手で触ってきた死」

 ご遺体をきれいにして、服を着せ、棺桶に納める仕事があります。湯灌師。納棺師ともいわれます。
 2009年にアカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」(監督・滝田洋二郎/主演・本木雅弘)は、この職業をリアルに描き、日本でも大ヒットしました。
 湯灌という仕事のなかには、死化粧も含まれます。この死化粧という「人生最後の美」をつくる仕事をしたい、という人も増えています。死化粧は「エンゼルメイク」という名称で新聞報道されるようになりました。

 このような死に関わる仕事への関心が高まっているのは、つい最近のこと。死に関わる仕事の多くは、忌み嫌われてきました。
 死とは、美醜を超えたものであるからでしょう。
 本書の著者は、愛知県岡崎市で、「ご遺体専門美容室」(株)エンゼルサービスを経営されている中村典子社長のノンフィクションエッセイ。中村さんとは、浜松で開催された起業家塾の講演会でお話をいただいてからのご縁です。もとは会計事務所に勤務。離婚しており、女手ひとつで子供を育て上げました。
 ある雑誌記事で湯灌という仕事を知り、興味を持って調べていくうちに、どうしてもこの仕事をしたい、という思いに突き動かされます。子供の手が離れる頃合いに、湯灌師への転身のための転職活動をするのですが「はじめるには遅すぎる」と年齢の壁で門前払い。諦めることなく、修行させて欲しいとお願いし、修行を受け入れる人と出会います。そして独立。
 順風満帆の湯灌師の人生がスタートしたと思いきや、仕事がない。死に関わる仕事の特徴は、普通の仕事のような営業活動ができないこと。「死を待つ」という仕事に慣れるまで時間をかけたといいます。いまでは、多くの日本人の臨終現場になった病院には、指定の業者が入りこんでいる。創業まもないエンゼルサービスは「ご遺体の市場」に入りたくても入れないという壁に直面した。
 講演で語られる、湯灌師になるまでのエピソードからは、第2の人生を湯灌にかける中村さんの意気込みが伝わってきました。
 そして、本書には、多くのご遺体をめぐる物語が書かれています。
 自殺、事故死、病死、突然死・・・そのご遺体をきれいに洗い、汚れを拭き取り、故人の人柄にふさわしい服を着せて、容貌を整えていく。映画「おくりびと」にあるように、ご遺族が見ている前で滞りなく。
 憤死をした人の容貌を、穏やかにしていく。浴槽で死亡して腐乱してしまったご遺体をきれいにする。
 映画「おくりびと」には、きれいなご遺体ばかりが出てきましたが、現実のご遺体は生臭い、損傷が激しい。人も死ねば腐り、土に還ることを、私たち読者は中村さんの、手ざわりと共に感じることができるのです。
 生後9ヶ月の赤子を残して亡くあった母の湯灌で、中村さんは落涙しながら湯灌。9ヶ月の赤子が亡き母の顔に触れるのですから。同じ年頃の赤子をもつ者として泣かされました。
 気になったのは、本書で中村さんが紹介したご遺体の死因として自殺が目立っていたことでした。
 80歳の高齢で自殺された人もいました。愛知県という平和にみえる土地にも、自殺という現代日本人がとらわれた、「社会的な死」が拡がっているのでしょう。

「あなたの『命』はあなたの愛する人、また愛している人を幸せにしています。
 あなたの『命』はあなたひとりのモノではありません。
 愛する人の為に、愛している人の為に生きることが・・・ただ生きていることだけであなたの生きている意味があるのです」(あとがきより)

 中村さんは浜松の講演で、「人はいつ死ぬのか分かりません。いまこの瞬間を大切に生きてほしい」とおはなしされていました。
 
 ぼくたちは社会の中で生きている。計画的に生きている。仕事で金を稼いでいる。「命のご利用は計画的に!」というキャッチフレーズが似合う生き方ばかり。そうした予測可能な「生」を信じて生きていますが、死が来たときにすべてはひとときの舞台に過ぎなかったと思うもの。さりとて、死を内面に取り込んで生きることは至難。とくに現代日本のようにクリーンで、死の影が見えない社会では。死という抽象ではなく、遺体というモノが、中村さんを通じてぼくたちに死とはなにかを語りかけてくるのです。
  
合掌



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『ソクラテスのカフェ』マルク・ソーテ(紀伊國屋書店)

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「哲学カフェ事始め」

静岡県浜松市という中規模都市で、明日「哲学カフェ」を始めます。
浜松初ということもあり、インターネット新聞「浜松経済新聞」でも取り上げられました。  昨年秋に、哲学カフェをはじめると思い立ち、すぐに「哲学カフェ浜松」というブログを立ち上げたところ申込者が3名。この1ヶ月、twitterで「哲学カフェ」についてつぶやくと、やはり4名ほど申し込み。つぎに「浜松経済新聞」で記事が出ますとやはり3名。現時点で合計10名の参加者となります。当日の飛び入り参加歓迎なので、15名くらいになるのではないかな。  インターネットが普及していない時代には、こういう小さな集まりに、見ず知らずの人を呼ぶというのは難しかった。それがいまはどうでしょう。ネットをうまく使えば、特定のジャンルに関心を持った人から気軽につながれるようになりました。  哲学カフェが浜松でスタートできるのは、このネット時代だからです。


 哲学カフェは、パリの哲学者が始めた文化ムーブメント。本書はその創始者であるマルク・ソーテ氏によるものです。
 哲学が専門用語にあふれてしまい、市民から遠い存在になってしまったことに憤りを感じたマルクは、パリのカフェで、市民が自由に哲学的な対話をするという「哲学カフェ」を始ます。いまでは全フランスで100以上の哲学カフェがあるというのです。この「感染力」を知って、僕は哲学カフェを浜松でやってみようと思い立ったのでした。
 浜松という町はホンダ、ヤマハ、スズキなどのグローバル企業とその下請け工場が集積しているものづくりの町。文化不毛の町だそうです。文化不毛。これは僕が生まれ育った名古屋でも同様。東京と大阪の中間に挟まれた東海地方にとって宿痾でしょう。文化的な資質をもった人材はかなり流出していく。
 そんなわけで、文化的な何かがない、と嘆いていても始まりません。自分でできることをやる。それも持続可能で、楽しいことをやろう。その僕のアンテナに引っかかったのが哲学カフェでした。

 ルールは簡単。「発言してもしなくても自由」「途中参加・退出自由」「特定の考え・思想を参加者に強要しない」。
 こういう哲学カフェを主宰するのだから、石井は哲学に詳しいのか? 
 いえ。デカルト、キルケゴールという哲学をちゃんと読んだことはありません。そういう素養のある人は人口82万人を擁する浜松市にはかならずいますので、難しい話がきたら、そういう知識人に話を振ります。参加者は、哲学書を読んでいないから自分に参加資格はない、と早とちりしなくてもいいですよ。
 哲学というのは、答えの出ないことを考え、問い続ける営みのこと。
 哲学カフェは、「対話」することによって、日常のなかで哲学することを楽しむ、という場です。
 対話のためには相手がいります。その相手とは、哲学したいという意志を持った個人であれば望ましい。
 対話するのもよし。対話を聞くだけで沈黙しているものよし。論争したいときは、進行役である僕が行司役になりますので、どうぞご自由に。ケンカにはならないように。紳士的にお願いします。

 なんて素敵な「仕組み」でしょう。この哲学カフェを創始したマルク・ソーテは尊敬されるべき仕事を成し遂げました。
 しかし、彼の「哲学カフェ」は、フランスの哲学業界からは常に批判にされられていたといいます。
 こんなことでも批判されるの? フランスも保守的だ。
 マルクは、おそらくフリーランスだったのでしょう。哲学的な対話を通じたカウンセリングを有料サービスにしてお金を取ってもいました。その対話のエピソードも面白い。答えは、カウンセラーではなく、当事者のなかにある。その発見を手伝うための時間と言葉を提供するための報酬。筋が通っていますが、哲学業界からは総スカンだった。
 新しいことをするときにはどこにでもあることなのでしょう。
 「哲学カフェ浜松」の前日になって、本書を再読して思ったこと。浜松に固有の哲学的なテーマがある。それを参加者とともに発見し、共有して、世間に明らかにしていく。そういうきっかけ作りの場にしたいですね。
 お気軽にご連絡ください。対話を楽しみましょう。

 


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