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2009年05月19日

『子どもの貧困』阿部彩(岩波書店)

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「子どもの貧困問題は、まだ市民権を得ていなかった」

格差社会についての文献を読み継いできましたが、子どもの経済格差については知りませんでした。そのような情報が少なかったからです。いえ、そんなことはないでしょう。情報があったとしても、それを深く考えてこなかった。子どもの問題は、語られつくしている「はず」なのだから、情報も専門家も多くいて、それなりに問題解決のために前進しているのだろう、となんとなく思っていたからです。
 本書は、その思いこみを打ち砕きました。読了して、子どものいるすべての人に読んで欲しいと心から思いました。

 人間として「許すべきではない生活水準=貧困状態」で生活する子どもたち、は語られてこなかった。


 著者の阿部彩氏は、2008年5月に『週刊東洋経済』が「子ども格差」と題する特集を組んだことに触れて、「とうとう「子ども」と「格差」が同じ土俵でマスメディアにて語られることになったのである。このことは、われわれ、長く貧困研究に従事している研究者のなかでも、ひとつのエポックと受け止められた」と書いています。長くマスメディアが注目してなかった、つまりは一般の人が関心を寄せなかったこと、それが「子どもの貧困」ということなります。

 このことにまず驚きました。

 次に国内に子どもの貧困を示すデータが少ない、または存在しないことにも驚きました。

「実際に、子どもの健康と子どもの属する家庭・経済状態の関連を示すデータはあるのだろうか。残念ながら、筆者の知る限り、日本ではそのようなデータは存在しない。しかし諸外国においては、いくつもの研究が「子どもの健康格差」を実証している」


 このような国内研究データの不在は、私がライフワークとしているユニークフェイス問題では常に直面する壁です。しかし、ユニークフェイス問題はスーパーマイナーなテーマですから、データがないことに、いまさら驚きません。

 日本の「普通の子ども」という人間集団についての客観的なデータがない? 

 これでは、まともな子ども政策が立案できるとは思えない。


 格差論争がマスコミを賑わしてきましたが、その対象となっているのは「大人」であり、それは「自己責任か否か」、という前提で論議がなされているのが一般的です。

 現実には、日本が経済成長をしていた時から、男性よりも女性が、二親世帯よりも片親世帯(とくに母子家庭)が、正社員よりも非正規社員が、貧困に陥りやすかった。生活保護について世相を騒がせる事件が起きても、その事件の当事者は成人男性であることが多かった。そのことに私たちは慣れてしまった。

 貧困状態にある子どもたちは一般からは見えない存在になっています。

 貧困のなかにある子どもに「自己責任」ということはできません。自己責任ではないからです。

 貧困状態にある子どもを救済するための社会制度を利用しようにも、予算不足、政策不在のなかで不十分な対応しかできない現実があります。その予算と政策の不在は、国民が子どもたちの貧困に興味を持っていない、という価値観に支えられています。

 著者は客観的データをもとに、日本国民は、他国と比較して、「教育の平等」や「機会の平等」を支持していない、ということをも明らかにしています。この記述にも驚きました。日本人は、平等というイメージを愛しているだけで、平等を求める努力を放棄しているのではないか、と。

「自らが属する社会の「最低限の生活」を低くしか設定せず、向上させようと意識しないことは、次から次へと連鎖する「下方に向けてのスパイラル」を促し、後々には、社会全体の生活レベルを下げることとなる。私たちは、まず、この貧相な貧困観を改善させることからはじめなければならない」


 日本の子どもたちの貧困を放置したまま、少子化対策をしたところで、貧困な状態にある子どもたちが増えるだけになってしまいます。


「子どもの数を増やすだけでなく、幸せな子どもの数を増やすことを目標とする政策」が必要であり、「少子化対策大臣」ではなく「子ども大臣」が必要なのである(阿部彩)


 子育ては、自己責任ではなく、政治的な課題になっています。私のように、子どもの貧困を知らなかった人にとくに読んで欲しいです。



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