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2009年02月24日

『ダブルキャリア』荻野進介・大宮冬洋(NHK出版)

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「副業が新しい人生を見つけてくれる」

 ひとつの仕事だけで自己実現をしたい。安定した生活を得たい。こうしたささやかな夢は、昨今の世界金融危機による不況のなかでは、非現実的な選択に見えているのではないでしょうか。
   そんな人にオススメしているのが「ダブルキャリア」という生き方です。

 まずは生活の基盤をつくるために、定期収入の道として就職する。好きな仕事、会社であればベストですが、そういう恵まれた職業選択ができる人は少数派でしょう。そこで、好きな仕事ではなかった、と腐らないこと。余った時間で、自己実現や、本当にやりたいことをやってみる。
 本当にやりたいことは人それぞれ。趣味、ボランティア活動、旅、留学・・・。
 こうした余暇としての時間を過ごすのではなく、「べつの仕事」=「副業」にやりたいことを見つけた人がいます。
 「二足のわらじを掃く」という生き方です。本書でいう「ダブルキャリア」です。
 
 

「景気や会社の都合に左右されない、自分なりの確固たるキャリアを作る方法はないものか。ある。それが本書で私たちが提案する「ダブルキャリア」(副業)なのだ。「自分らしいキャリアを作る」というと転職や起業を思い浮かべるだろう。確かにそれも一案だが、いきなり会社を飛び出すのはリスクが大きすぎる。私たちがすすめたいのは、副業という形で、もう一つのキャリアをもつことだ。」

 二人の著者は、ダブルキャリアの成功事例、日本における副業の歴史、ダブルキャリアを無理なく実践するための8つのステップまで、丁寧に教えてくれている。

 私が、注目したダブルキャリアの実践者は、「半農半X研究所」を主催している塩見直紀さん。京都府綾部市で農業と社会起業家の二足のわらじを履かれています。
 「X」(エックス)とは自分の天与の才が発揮できる「天職」。「農」も、農業という意味には限定されていません。自然を基盤に置いた生き方を指している、ということです。
 東京で生活していたときに、本書を読み、この塩見さんの考えを「エコロジー的な生き方」なのであまり身近に感じなかったのですが、静岡県浜松市に引っ越してから再読したところ、印象ががらりと変わりました。
 浜松は、浜名湖、美しい海岸線、農林業、グローバルな製造業・・・都市機能のすべてがバランスよく集積している街。「半農半X」な生き方をするには絶好の立地だったのです。
 浜松市で出会ったある社会起業家が、「浜松には、アメリカのシリコンバレーのような街になれるポテンシャルがある」と私に言ったことがあります。その言葉に納得してしまいました。「半農半x」という言葉は知らずとも、私からみるとそのような生き方を自然に実践している人が多くなってきました。そのような人たちは、昨今の金融危機でもあわてていませんでした。
 
 無責任な副業のススメ、自分探しのススメで終わっていないのも良書たるゆえんです。「ダブルキャリアが終わるとき」という最終章では、いくつもの副業をしていく中で本当にやりたいこと、向いている「本業」が見つかったとき、余計な枝を払う必要性をも説いています。

「ダブルキャリアは永遠ではない。人によって違いはあるだろうが、そのうち終わりを告げる可能性が高い。でもその過程で身につけたものや学んだこと、人脈は決して無駄にはならない。それどころか今後、仕事人としてのオンリーワンブランドを築く大切な礎になってくれるはずである」



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2009年02月20日

『東京スタンピード』森達也(毎日新聞社)

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「人間の愚かさをわかっちゃいるけど、見つめることをやめられない」

 ノンフィクション作家、森達也の最新刊。これまでのノンフィクション取材で収集した情報と、森自身の体験と実感をベースに、近未来の東京で発生するジェノサイド事件を小説としてまとめた。森のノンフィクション作品になじみのある読者であれば、この架空があたかも発生し、これに当事者として巻き込まれながら取材した記録を読んでいるような感覚を味わうことができるだろう。
 主人公はロスジェネ世代のテレビ制作会社勤務の「伊沢」39歳。この伊沢は、ほとんど森自身と同じキャラクターである。普通の人達の行動と思考パターンから、なんとなくずれていく感性をもちながらも、自分のことを普通の人間であると認識している。特段優れた能力があるわけではない。使命感があるわけではない。中途半端な人間。成り行きでで就いた職業がテレビディレクター。この成り行き感覚で、「伊沢」はテレビ業界のいい加減さを独白しながら、東京で発生しつつあるジェノサイド(虐殺)事件に巻き込まれていく。

 主体的に行動しない。突然の携帯電話、唐突な訪問者が、伊沢を事件に誘う。伊沢はトラブルメーカーではない。トラブルメーカーたちが、伊沢を通過していくのだ。まさに現実の森と同じである。

 通り魔殺人や理由なき不条理殺人がマスメディアを通じて大きく報じられている。統計的には、日本国内での殺人事件の発生率は減少しているのだが、人々の意識は殺人事件の凶悪化と増大がすり込まれている。マスメディアと視聴者たちが共同でつくる幻想が、現実を作り出していく。凶悪事件は増加していく。この現実と虚構の連続性をひょいと飛び越えるために小説という手法は有効だ。科学的には証明されにくいが、マスメディアの煽りによって、殺人事件が増加していくという実感はたしかにある。

 数年前に大阪で小学生を惨殺した宅間という男がいた。法廷で、自分のような人間がもっと現れるだろう、という不規則発言をして遺族感情を逆撫でしたが、この宅間の予言は当たった。当たった、と言いうるだけの、質と量をともなった凶悪事件は起きている。

 本書では、ある夏の日に、東京で自然発生的に虐殺事件が起きる。

 死者3400人。行方不明6000人。重軽傷者2万4000人以上。逮捕者は東京だけで1400人。

 伊沢は、匿名の暴徒に暴行されて骨折する。重軽傷者のなかの1名になった。この騒動のなか、ジェノサイドを止めようとした秘密結社のリーダーは暴徒に殺害される。繊細な感性を持った映画監督の友人は自殺する。日本人同士が理由なく殺し合う描写は、過去の世界史で起きた数々のジェノサイドを彷彿とさせる迫力がある。

 虐殺の加害者は、善意ある普通の人達が組織した市民パトロールと民間警備会社、そしてご近所さん。あまりにも加害者が多いと処罰は難しい。

 伊沢の同僚のテレビマンはこう嘆く。

「もしも国民全体が犯罪者になったとしたら、法はもう機能できないというわけだ。つまり近代法治国家は、社会の多数派は善良で法に触れるようなことをしないという前提がなければ成立しないというわけだ。当たり前といえば当たり前だけどな」

 普通の日本人が集団化して、理由なく殺し合う可能性。

 それを想像してみませんか? と森は小説で語っている。

 テレビは殺人事件に興奮する。仕事として視聴率を獲得するために事件を詳細に伝える。それを見た視聴者は、不安と恐怖で過剰なセキュリティ意識をもつ。その負の感情が感染していく。警察の警戒が強化される。犯罪報道の視聴率がアップする。不安と恐怖はますます増大する。普通の人々の心のなかにジェノサイドへの意識が用意される。

「わかっちゃいるけど、やめられない」

 暗喩としてのキャラクター植木等が話すフレーズが、奇妙にリアルに響く。

 森はノンフィクション作品と同じように、人間は愚かだが、人の優しさを信じる、という言葉を伊沢につぶやかせている。

 まるでお経のようである。
 人間の愚かさをわかっちゃいるけど、見つめることをやめられない。



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2009年02月19日

『移民環流』杉本春(新潮社)

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「日系人は日本人。緊急支援がないと難民化する!」

 昨年秋に表面化した世界同時金融危機。この影響で日本の自動車産業は壊滅的な打撃を受けています。そのしわ寄せは、日本社会でもっとも弱い人達、外国人に押し寄せています。製造業で働いてた日系ブラジル人の派遣切りが止まらないのです。いま日系ブラジル人の失業率は50%以上。3月末には80%を超えるという予測もあります。
 本書は気鋭のノンフィクション作家が、ブラジルと日本を4年間往復してできあがった作品。日本最大の日系ブラジル人コミュニティのある静岡県浜松市の人間として、興味を持って読みました。

 時代の変化にめまいがしました。本書が刊行されたのは08年11月末。夏に校了して、印刷されたはずです。この時までは、日系人は派遣社員という不安定の立場ではありましたが、それなりに普通の生活を送っていました。この半年間で、普通の生活から失業者の群れへと転落していったのです。

 本書は、約100年前に日本から南米に移民した農民の子孫たちが、1990年の入管法の改正によって、日本社会のなかで漂流していく様子を見事に描いています。

 約20年前、バブル経済で好況にわいていた日本では、若者が工場労働を嫌い、製造業では慢性的な人手不足に陥っていました。このとき、産業界が、日本社会からの反発が少ない外国人労働者として注目したのが日系人でした。日本がバブルで踊っていたとき、ブラジルはハイパーインフレで経済はどん底。仕事を求める日系ブラジル人は、単純労働で高給がはいる日本社会に押し寄せました。それはジャパニーズドリームだったのです。しかし、この「デカセギ」は、さまざまな歪みを抱え込んでいました。20年前から、家族で日本に移住した日系人たちは、日本で結婚して子供を産み、育てました。その子どもたちは、残業手当による豊かな生活を目指す両親に放置されました。親子間で、満足なコミュニケーションができない、ポルトガル語も日本語も満足に理解できない、中途半端な「文盲」の子どもたちが育ってしまったのです。日本社会には、移民政策というものがありません。したがって、彼らの教育はすべて「自己責任」とされてしまいました。こうして、日系ブラジル人の悲劇的な状況を生み出す火種は蒔かれたのです。自動車産業が好調であれば、人々はその火種をなかっことにして目を逸らすことができました。しかし、いま、世界金融危機によって、火種は紅蓮の炎として立ち上っています。

 言葉が理解できない、日本社会でまともな仕事につけない。疎外感からアウトローになる若者が現れます。窃盗団にはいり、数分の「仕事」で何十万円のお金を手に入れる方法を知った彼らを止めるのは刑務所しかないという、暗い現実を、著者は緻密な取材で浮き彫りにしています。

 デカセギにきた大人も幸福とは言えません。家族が日本とブラジルに引き離されたため崩壊。デカセギ日系人の離婚率は約50%。稼いだお金は、電化製品、住宅ローン、新車ローンに変えてしまい、将来を描けない大人たちはこの経済危機になすすべがありません。

 著者は、本書の末尾で、日系人たちを支援するボランティア活動を紹介します。しかし、超人的な善意を発揮する一部のボランティアの力では、この未曾有の危機には無力なのです。

 そろそろ私たちは真剣に考えなければならないし、認めなければならない。

 日系ブラジル人たちは、日本に移民に来てくれた「新しい日本人」であるということを。彼らを外国人であるからと、放置するのであれば、日本国内には何十万人もの難民集団が忽然と生まれることになってしまいます。

 援助がない、食料もない、仕事がない。絶望した難民たちが、どのような行動をとるのかは歴史が証明しています。



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『すごい本屋!』井原万見子(朝日新聞出版)

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「息子と行ける、普通の本屋を探しています」

 もうすぐ子供が生まれます。子宮内を撮影した写真にはしっかりキンタマが映っていましたので男の子です。
 妻とふたりで考えて昨年末には名前もつけました。  ついさっき妻と電話で話をしたのですが、胎内ですくすく育ち3000グラムほどになっているそうです。いつ生まれてもおかしくない!

 東京から静岡県浜松市に移住して1年半。いまも、時間があるとなんとなく書店に足を向けてしまう癖は直っていません。
 息子が生まれたら書店に行くことになるだろうな、と思っています。
 じゃあ、 息子を連れて行くならどんな本屋がいいだろうか?
 考えてみると、子どもを連れて行くにふさわしい書店はありそうでない、と感じます。

 大型ショッピングセンターは店内が大きな商店街になっています。自動車がない環境なので安全だけれど、子どもが高度消費文化に洗脳されるような気がします。
 ご近所の書店はどうでしょうか? チェーン店ばかりになってしまい、店員はアルバイトしかいない。子ども向けのサービスマニュアルがないならば何もできない店舗になっているような気がします。

 私が本を好きになったのは保育園のとき。怪獣大図鑑を買ってもらって、それを読みふけって、怪獣の身長、体重、得意技を丸暗記してから、読書の楽しみを知りました。接客はテキトー。笑顔なしでも書店経営ができました。
 その子どものときに通った書店はまだあります。2年前に実家に帰省したとき立ち寄ったのですが、エロ本と、時代ものの文庫しか置いていませんでした。店番をしていた店主は高齢で、年金を受け取りながら、細々と経営しているという風情。跡取りがいない書店はこうなってしまうのか、と嘆息しました。

 本書の舞台は和歌山県の過疎の山村部、日高。「イハラ・ハートショップ」の経営者がつづる軽いエッセイです。
 日高には遊びに行ったことがあります。彼の地には漫画家をしている先輩がいます。いつか妻と一緒に浜松からドライブに行こうと約束していたのですが、漫画家の奥さんが「妊娠中に長距離移動は無理よ」と心配して、ドライブは先送りしていたのです。

 もうあと10日くらいしたら息子が生まれます。家族そろって日高に行くのは1-2年は無理でしょう。代わりにこの本を読むことにしたのです。

 山奥の本屋「イハラ・ハートショップ」では、本と一緒にお菓子や日用雑貨、食料品が置かれています。
 お客さんは都市部とは違います。80歳のおばあちゃん。ご近所の子どもたち。絵本や童話を、みんなで座り読みして、お菓子と一緒に気に入った本を買っていきます。
 絵本の読み聞かせもやっています。東京の書店ならば、文化イベント、ということになるのかな。本書のなかに掲載された店内写真をみると、子どもが6人、椅子に座って、店主がレジ前から朗読しているといういたってシンプルなものでした。イベントというよりも、寄り合いです。
 店主は、お客さんが、「塩が欲しいから置いて」と言われれば置く。こういう絵本がないかな、と聞けば、探し出して置く、というシンプルな経営をまじめにしているのでした。
 この本屋が、全国の書店業界で注目されるようになり、東京からメディアが取材に来るようになります。ある人は「周回遅れの最前線」と高く評価したそうです。東京から文化人が、この店の魅力を知って立ち寄るようになっていきます。
 
 私たちは、大型化した書店、コンビニの書棚の便利さを知っています。前者のタイプの店舗なら、圧倒的な品揃えで知識人層の読者を獲得できます。後者ならば、全国のコンビニネットワークという圧倒的な流通力によって売り上げを確保することができます。この2つの巨人が台頭するなかで、普通のご近所の書店は無くなっていきました。
 イハラ・ハートショップは、過疎地域であったことから、2つの巨人の視野に入らなかった。地域住民が書店にニーズを伝え続け、店主がこれに誠意を持って答え続けていました。だから生き残ってきたと思います。
 同じような本屋。浜松でもつくれそうな気がします。私が知らないだけで、どこかにあるような気もします。
 息子と行ける本屋を探さなくちゃ。浜松で。



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