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2009年01月10日

『〈盗作〉の文学史』栗原裕一郎(新曜社)

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「盗作検証というタブーはこの本で消滅!?」

 ある小説が盗作であると噂されたり、ニュースになることがあります。その多くはどういう決着になったのか報じられないまま、話題そのものが消えていきます。
 文学業界のなかでは、盗作問題を徹底的に議論するということを避ける傾向があるのです。表現の自由を標榜している業界なのですが。

 「文芸における盗作事件のデータをここまで揃えた書物は過去に例がなく、類書が絶無にちかいことだけは自信を持って断言できる」(栗原)

 と、著者は控えめに書いていますが、現時点では盗作資料として、第一級にして唯一無二の書籍である、と私が太鼓判を押します。

 なにしろ、巻末のデータを含めても492ページの大著。それなのに、たいへん読みやすい。盗作問題に興味がない人でも、文学業界という一般人のうかがい知れない世界を「盗作」という切り口でたのしく探索できるように書かれていると思います。

 私が栗原さんの存在を知ったのは、本書でも紹介されている小説家の田口ランディの盗作騒動をまとめた『田口ランディ その盗作=万引き」の研究』(鹿砦社)でした。そのなかで、しっかりとした調査に基づいて客観的な視点で、原稿を書いていたのが栗原さん。一読してわかったのは、普通の書き手がやらないことをする、というタイプのライターであるということ。普通のライターは、出版業界の稼ぎ頭である売れっ子作家を批判的に検証するという仕事をやりません。出版業界は小さな村のような世界であり、作家と編集者の関係はビジネスパートナーというよりも、お友達であったりする。その友達の輪にひびを入れるような行為を、出版業界の内部からわざわざする必要などありません。編集者に嫌われますから。
 努力をしても報われない。それが盗作検証です。盗作本とは、他業界でいうと「不良品」や「欠陥商品」といえるでしょう。栗原さんが本書でやったことは、文芸業界にとって「目を背けたい現実」。この盗作事件の顛末を、栗原さんというフリーライターが、商業出版の書籍としてまとめ上げたことは、本当にすごいことなのです。自動車産業にたとえると、組合にも見放されたひとりの貧乏な派遣労働者が、独力でリコールの歴史をまとめあげたようなものです。

 なにしろ大著。俎上にのせられた作家と作品は膨大です。まさに「盗作の文学史」。


 ある小説を丸写しして新人賞を取った男は、その受賞の言葉までパクリだった。ブラックユーモアのような事件。
 若くて美しい新人女性作家の盗作には徹底的にくらいつくマスメディアの偏向ぶり。
 原爆文学の名著『黒い雨』の井伏鱒二の盗作疑惑。
 大物作家、山崎豊子の盗作疑惑を批判した、当時の日本文芸家協会会長の丹羽文雄も盗作していたというお粗末な顛末。
 そして、インターネットでその盗作ぶりが徹底検証された「インターネットの女王」田口ランディへのバッシング。


 よくもまあ、ここまで調べ上げたものだ、と唖然とします。盗作とされた作品群が、国会図書館のかび臭い書棚から「読んでください! 盗作なんて濡れ衣なんだ! 私たちの正確な歴史を残してください!」と訴え、それに栗原さんが共鳴したかのような仕事ぶりです。田口ランディ現象についての批評に注目した編集者から、声をかけられて調査に約2年をかけて脱稿。しかし、原稿をみた編集者は出版を土壇場キャンセル(このことを知って、本書を絶対に書評空間で紹介すると決めました)。途方に暮れたときに新曜社が出版を決めたという経緯で世に出たのです。

 盗作疑惑があっても、売れるのであればその作家の作品を発行する度量があるのが、良くも悪くも出版業界の懐の深さであると思います。他業界では、欠陥商品を売ると人命にかかわりますし、被害者から訴えられたらその企業は回復不能のダメージを負うのでそんなことはできませんから。

 本書によって、盗作検証はタブーではなくなった、と思いたい。

 まっとうな盗作検証を在野(ようするに調査費用は自己負担)でやってきた一介の物書きのすばらしい仕事です。



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2009年01月04日

『ブログ論壇の誕生』佐々木俊尚(文藝春秋)

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「新しい論壇は、世代間対立の戦場になった」

 ウエブの行方をウォッチングしているジャーナリスト、佐々木俊尚さんが、インターネットの世界に日々生成されている「ブログ論壇」について分析した一冊。いま日本語のブログ執筆者は、英語圏のそれを超えている。それほど日本人はブログ好きな人間が多いのである。公私ともに、日々、複数のブログを更新している者として見逃せない内容だ。
 論壇とは何だろうか。一部の知識人が、老舗出版社が発行する一部の総合雑誌などにその意見を評論などの形で寄稿して生成させる言論の場のことだろう。このような言論空間には一般人は立ち寄ることができなかった。論壇を仕切る編集者もまた知識人でなければならず、一般人とは異なる物言いが期待されていた。  そうした閉鎖的な空間は、インターネットの普及によってその存在感がいっそう小さくなっている。  「ブログ論壇」が登場したからである。佐々木はこう説明している。

 

「インターネットの世界にはいまや巨大な論壇が出現しようとしている。このブログ論壇の特徴は次のようなものだ---発言のほとんどはペンネームで行われ、したがってその社会的地位はほとんど問題にされない。そしてマスメディアがタブー視してきた社会問題に関しても積極的な言論活動が行われている。その発言が無視されることはあって、発言内容を理由にネット空間から排除されることはない。その中心にはブログがあり、2ちゃんねるがあり、ソーシャルブックマークがある」

 ネットで展開された数々の「有名な論争」が紹介されている。「括弧」をつけたのは、一般的---マスメディアで紹介されるようなニュースになるような事柄、という意味---にはまったく知られていない論争であっても、ブログで激しい論争があった場合、ネットの住人にとってはそれは有名ということになるからだ。また、ネットでの論争、紛争がマスメディアに報じられて、その論争が世に広く知られて、論争が激化することもある。ブログ論壇とマスメディアのニュースが互いに影響を与えるようになっている。

 本書のなかで、なるほど、と思ったのは、ブログ論壇が「激烈な世代間対立」空間になってるという指摘である。パソコンやケータイをつかってブログを書くブロガーたちのおおくは就職氷河期で苦しんだロストジェネレーションという20代後半から30材前半の若者たち。社会の権威(エスタブリッシュメント)がクチにする「若者にはやる気がない」「がまんが足りない」という年寄りの説教型言説への激烈な反発に、ブログや掲示板が使われている。マスメディアが生成した論壇では少ししか紹介されることなかった、若者たちの老人団塊世代への怨嗟の声がブログ論壇を活性化させているのだ。
 ブログ論壇のなかには秀逸な意見が確かにある。しかし、それが日本社会の現実を変えるような言論には成長しているとはいえないだろう。その理由を、佐々木さんはこう分析している。

第1に、日本でネット論壇を担うロストジェネレーションは、日本の戦後社会の喪失期に育った被害世代であり、弱者階層であるという認識が蔓延しているため「社会を担っていく」という自信がない。

第2に、問題についてつねに議論し、解決策を考えていくという討議(ディベート)の文化が日本には欠落しているということ。

第3に、理念としての「社会」と、リアルな「世間」との乖離。いくら討議を行い、理念を語ったとしても、現実の社会は説明のできない「世間」という同調圧力に覆われていて、理念も道理も通らない。


 要するに、被害者意識ばかりで自信喪失した若者たちがもっと前向きに頑張れば、ブログでの論議が現実社会への影響力をもつようになるだろう、ということである。
 
 この分析にはおおむね同意できるものの、もう少し若者に期待をしても良いのではないかと思う。いまのネット環境があれば、ブログ論壇を生成することができる。その論壇をよりよいものに昇華していこうという人間集団もまたつながっている。そこから、現実社会に影響力をもち、日本社会の閉塞感を変えていこうという動きはすでにいくつもある。
 こうしてブログを書いている間にも、本書の内容は古くなっていく。どこかに新しいブログや掲示板が開設され、匿名の人間による対立、エスタブリッシュメントをターゲットにした批判エントリーが書かれているのだろう。
 それはそれとして、批判的なエントリーやコメントの執筆をエネルギッシュに継続したとして、それを読んで同調する人間もまた匿名存在であるとき、書き手と読み手は、もの悲しくなっていないのかな、というのが気になる。空虚にむかって、言葉をつむいでいる心象とはどういうものだろうか。
 おおくのブログは継続されることなく消滅していく。人生において論争すべきことなどそれほどおおくはない。だからこそ、ほとんどのブログは極私的な日記やつぶやきを書き留めるだけのものになっている。それが日本的なブログの王道だ。続けられたとしても、できのわるい私小説か、ひたすらにポジティブな言説を紡ぎ続ける自己啓発ブログになっているものが目立つ。ひっそりとだが、良質な文章を書き続けているブロガーもいるのだが。
 うつ的なブログも、とにかくポジティブなブログも、どちらももの悲しい。
 私は、自己主張をしないという生活態度を守り、日本人同士でも本音を語らないという習慣のなかにあった人たちが、実は語りたい、書きたい、という欲望を噴出している様子そのものがおもしろい。ブロゴスフェアのなかで、必死になって空気を読んで文章を書く営みは、ある種の文芸の域に達していると思う。
 いまは、ロストジェネレーションたちの恨み節が流行している。それがうけることが分かっているからだ。次は人間を幸福にするための歌が流行するかもしれない。いずれの言説も、読み手がいれば流行し、いなくなれば廃れる。
 このままブログが増殖し続けたとして、それを読む人が増えるのだろうかという疑問もある。すでにブログや掲示板はひとりの人間が読める情報量をはるかに超えている。
 ネットを調査のためのデータベースとして使っている人が大半になっているいま、ブログ発の情報はノイズが多いため、ブログを検索対象から外す検索サービスもある。こうなってくると、懸命になって、良質のブログ関連コンテンツをアップしても、現実社会からは認識されないということもおきるはずだ。
 ブログ論壇の荒廃、またはカオス状態になった過剰な情報によって、一覧性の高い紙の論壇がさらに必要とされている、と言えるのかもしれない。


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2009年01月02日

『金融大崩壊 「アメリカ金融帝国」の終焉』水野和夫(日本放送協会出版)

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「リーマン破綻後の世界を読む」

エコノミスト水野和夫さんの名著『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』 では金融帝国アメリカがいかにして成立したのかが描かれていました。資本は国家を超えて動いており、その資本の流れの中心にアメリカが位置していた。そのアメリカ中心の金融システムがいつ崩壊するのか、前著を執筆中は読めなかったといいます。

 このアメリカ中心の金融システムが崩壊し、世界が変わったと認識できたのは、サブプライムローン問題の発覚後。その後リーマン・ブラザーズが巨額な負債を抱えて破綻。わずか半年でアメリカを代表する投資銀行(メリルリンチなど)が消滅したのです。

 本書は新書ですが、たいへん内容が濃い。奥付をみると08年11月10日発行。09年1月2日時点でみても、情報の鮮度はほとんど落ちていません。アメリカのビッグ3の処理が決まる、1月末までは価値ある情報源として読めると思います。経済学とは、日々刻々と変わる経済動向を読み、分析することが責務であるため、ジャーナリズムの仕事と似ています。本書は、複雑な金融システムの激動を伝えるすぐれたジャーナリズムの実践になっています。

 水野さんの分析によれば、今回の金融危機は、「100年に1度」ではなく、16世紀に東インド会社からはじまった約400年続いてきた資本主義の転換点であるということです。

 資本主義が発展するための条件である、国家、資本、国民の三位一体でそれぞれが豊かになる、という「大きな物語」が、今回のサブプライムローンによる金融危機で崩壊しました。資本側が、サブプライムローンという金融派生商品を開発して、国民に売りつけたとき、このシステムは必ず破綻する(リスクは、国民と国家に押しつけられる)ということは明かでした。サブプライムローンをしかけた人間たちはリスクを巧妙に回避し、利益を手にして逃げ切っています。不良債権を押しつけられた国民と国家は、資本に裏切られたと水野さんは分析しています。

 日本の経済発展は、欧米先進国の消費によって支えられています。グローバル経済では日米経済は一体化しているのです。この欧米が金融危機にあるのですから、日本の輸出産業はあわてて収益予測を下方修正、派遣社員の削減に着手して社会問題になっています。 

 アメリカ経済はいつ上向きになるのでしょうか?

 水野さんによれば、今後5年はアメリカの消費は伸びません。サブプライムローン関連の不良債権をなくし、国民が消費する力をもつまで貯蓄するのに最低5年はかかるというのです。アメリカ経済5年分の需要を先食いしてきたため、そのツケを払うしかないという分析です。

 日本はどうすればいいのでしょうか。少子化と高齢化が進む国内市場だけをターゲットしていては先細りは必至。欧米への輸出偏重だった日本の大企業群は、これを新興国にシフトすればよい。中小企業も国外の市場に打って出なければ活路は開けないし、それを政府は支援するべきである、と説きます。

 アメリカという親分が力を失い、いまからようやく、日本は自分でものを考えて行動しなければならないときがきています。

 しかし日本の政治は定額給付金などのばらまき型の経済政策しか思いつかないというありさま。日本の危機感が乏しすぎます。


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2009年01月01日

『カラオケ秘史 創意工夫の世界革命』烏賀陽弘道(新潮社)

カラオケ秘史 創意工夫の世界革命 →bookwebで購入

 オリコンから名誉毀損で訴えられたジャーナリスト烏賀陽弘道さんの最新刊。以前からカラオケの歴史について取材執筆中と聞いていました。法廷闘争で注目されていますが、烏賀陽さんの本業は、言論の自由のために戦う活動家ではなく、フリーのジャーナリストです。本業が形になって、本当によかった。書店でみつけて即購入しました。
 この本をカラオケの歴史として読むのではなく、ひとつの箱(ワンボックス)の有効利用をビジネスモデルにした歴史、として私は読みました。というのはいま浜松市でハイエースなどのワンボックスカーをカスタマイズする仕事をしているため、「箱」という小さな、しかし人が長時間過ごすには十分な広さの空間の可能性を拡大するために知恵を絞っているからです。 自動車とは、移動する箱の可能性を拡大するビジネスである、と解釈すれば、他業種からの知恵や歴史からエッセンスをいただければ、おもしろい商品が作れるのではないか、と考えたわけです。

 カラオケ産業の歴史を書いた本書は、この意味で最適なテキストでした。

■第一段階
はじめに、歌が好きな人がいた。その人がカラオケのビジネス化を試みる。すると当時存在していた「流し」という音楽サービスの職業集団から反発を受ける。この既存のビジネス集団と、カラオケという新事業との共存に成功した人が現れる。こうして初期型のカラオケというビジネスが認知され始める。
■第二段階
標準規格は、すでにあるハードから派生する。8トラックテープという規格は自動車に搭載可能な音響機器からできあがった。ローコストでカラオケ機器の製造が可能になる。
■第三段階
カラオケを楽しむ場所の開発。
水商売という「老人」と「男性」が楽しむ娯楽としてのカラオケ空間から、「女性」や「子供」が楽しむことができるように場所の開発が展開されていく。
スナックから、ロードサイドの「カラオケボックス」への拡大。これによって、カラオケが全国に爆発的に普及していく。ロードサイド、地方、ファーストフード、モータリゼーションというさまざまな要素がカラオケの爆発的普及を促進させた。
■第四段階
カラオケ機器の技術革命。歌というコンテンツが増加するにしたがって、8トラテープでは対応できなくなっていく。これに対して、ブラザー工業(名古屋)の無名の技術者が「通信カラオケ」を開発して商品化に成功。カラオケビジネスが日本のなかで確たる地位をつくっていく。音楽データのデジタル技術化に成功していたローランド社(浜松市)のMIDI規格がこれを後押しした。


 

「カラオケの父たち」を訪ね歩いた筆者が驚いたのは、その誰もがきわめて謙虚で、極めて無欲なことです。(中略)
 そう驚いたことに、誰もカラオケでカネもうけをしたり、虚栄心を満たしたりしていないのです。(中略)
 最初は偶然なのかなと思っていたのですが、次第に私の思い込みが逆に間違っているのだと気が付いた。金銭欲や功名心、虚栄心が動機になって生み出されるものなんて、実はたいしたことはないのです。

 このカラオケビジネスをつくった面々に共通しているのはベンチャーマインド。ミュージシャン、零細企業経営者、無名のエンジニアたちが、同時多発的にカラオケビジネスに挑み、相互の技術と商流が大きな川をつくっていきます。この流れを新書という手軽な価格の大衆商品として再現した、烏賀陽さんもまた、音楽を愛するひとりのミュージシャン。歴史の書き手として最適任でした。


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