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2008年09月29日

『アーティスト症候群』大野左紀子(明治書院)

アーティスト症候群 →bookwebで購入

「アーティストをやめた人間によるアーティスト論のおもしろさ」

 約20年にわたってアーティスト活動をして、5年前にアーティストを廃業した、元アーティストによる「アーティスト論」である。
 カタカナ職業の現実を知りたいという人は本書を読むとよい。

 カタカナ職業。

 スタイリスト、フォトグラファー、ライター、デザイナー、クライマー、アクター、アクトレス・・・なんでもよい。

 その職業、生き方を指し示すイメージがアート的であればなんでもよい。

 普通でない何かをもった人間にしたできない仕事があり、それに取り組む資格が自分にはある、と信じている、信じたい人、そんな人は、この本を読んで欲しい。

 アーティストは食えないのが常識。それでも食えている人はいる。そのような人は破天荒な戦略と幸運、そしてバイタリティによって奇跡的に食えている。たとえば村上隆である。村上隆はひとりで十分である。すべてのアーティストが村上隆になることはできないし、その必要もないし、そんなオンリーワンの芸術をもとめるニーズは世界広しといえどもきわめて小さいのだ。したがって、彼が食えている方法論は、ほかのアーティストには使えない。

 アート業界に詳しくない人は、食えるアートを目指す。食えないことに気づくと、評価されるアートを目指す。評価されないことに気づくと孤高のアーティストを目指す。際限のない自己肥大したアーティスト志向が蔓延している。

 それは人生をかける価値があるのだろうか? 深く考えるための情報が少ない。その欠落を本書は埋めている。アートのための学校やギャラリーは数多くあるが、そのアーティストたる存在の実態を私たちは知らない。その実態を、引退した元アーティストが教えてくれた。

 ただし、大野はアートで食えていたわけではない。食っていく気もなかった。

 「だいたい年に1回か2回個展をやって売れるのはせいぜい1個か2個(数万から十数万円)だから、それで生計を立てるという考えもなかった。だから私は美術を辞めることができたのだった」
 この感覚が、アーティストとは何かを語るための適度な距離感を用意したのではないかとおもった。  
「作品が唯一の収入源でそれで生計を支えていたら、もうやめたいな、と思っても簡単にやめられなかっただろう。プロの歌手が、簡単に引退できないのと同じように。そういう意味で、プロとは言えなかった」
 ちまたにはアーティストとしての知識と訓練を受けることなく、またアーティストたるべく厳しい鍛錬をくぐりぬける気がないのに、アーティストと自称する者がいる。こうしたアーティストもどきたちを、大野は批評していく。が、私は、その現代アート批評よりも、大野の内面の変化が面白かった。大野のなかにあるアーティストというイメージが成長し、最後は解体していく過程を楽しみながら読んだ。  本書を読む前は、ひとりの女性がアーティストでありつづけることに挫折した体験をベースにして書かれた作品ではないかと思っていた。読み進めるうちに、窮屈なアート業界からの卒業を果たしたひとりのアーティストの貴重な記録だと分かった。

 アーティストという「特別な人間」を目指した人が、その過程で物事を深く洞察する創造力を身につけた。売れなかった。大成功はしなかった。が、人間として成長した。

 女性「アーティスト」を廃業した後、残ったのは、「女」と「性」だったという気づきは、「生きる」ということそのものががアートなのだろう、と平凡ではあるが示唆的であった。


 「結局、言葉しかないのかなと思った。アート作品をつくらないのだったら自分には言葉しか残らない」

 そして大野は、「誰に何も頼まれもしないのに何かを書き出してしまう」
ツールはブログだった。
 私が読んだのは3刷。売れている。大野は、もやもやとした何かを伝えることに成功している。
 書かずにはいられないことがあって書き出してしまい書き終えたこと。アートという存在を疑うための情報をアートを知らぬ他人に提供したこと。この2つに成功しているのだから、大野はアーティストである。
 アーティストを廃業したことで、アーティストとして再生したということか。ややこしい女性である。


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『日本浄土』藤原新也(東京書籍)

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「日本の滅び行く風景を、しずかに切り取った」

『東京漂流』で衝撃を受けてから、藤原新也さんの著作を読み継いできました。私のように藤原さんの読書体験をもった共有できる人が多いことを嬉しく思います。(ちなみに拙著『顔面漂流記』は、『東京漂流』をヒントにして名付けたのです)
最新刊『日本浄土』の刊行は藤原さんのブログで知りました。もはや書評雑誌や新聞の書評欄を読まなくても、好きな作家の最新刊の情報を知ることができます。情報化社会は書との出会いを変えていきます。

初期の著作なのかで、情報技術への嫌悪をあらわにしていた藤原さんも、時代と人の変化を知るために、ホームページをもちブログをしています。いまは消滅した、詐欺的な自費出版ビジネスの実態をブログで公開し、これがきっかけとなって被害者が声を出して、この出版社が消えるきっかけになったことを覚えている人もいるのではないでしょうか。

日本浄土。

日本には浄土といえる美しい風景と人がいる。それを目撃して、衆生に伝える役目の人がいる。それが藤原さん。

今回の旅の現場は日本。とくに西日本でした。

旅のスタイルは、バブル経済はなやかな『東京漂流』の時代とは大きく変わっています。情報化社会が浸透し、地方の産業が衰退して、「地方の死」を見つめる旅。

地方の独自性は、画一均一な情報環境のなかでなくなっている。自然破壊をしてきた土木産業さえも、地方では立ちゆかなくなり、人も仕事もない。

そんな日本の風景の中で、藤原さんは過去をたどりながら旅をしていきます。

父が経営していた九州門司の旅館で働いていた美しい仲居さんが死んだという話を耳にする。その人は旅の男と駆け落ち。その後の消息は分からなかった。ひとりで門司を歩いて、幼少期の思い出をたどりながら、いまの門司を写真で切り取っていく。。

私も門司は何度か行ったことがあります。異国風情のある門司港から、関門海峡を越えて下関に移ると、商店街が死にかけており、一部の店舗だけが繁盛し、それ以外の風景は停止しているという無惨な風景がありました。

故郷である門司を起点に、長崎、山口のよき時代を知る、藤原さんは愛情をもって地方を描いていきます。

島原、天草、門司港、柳井(山口県)、祝島(瀬戸内海)、尾道、能登、そして藤原さんの住まわれている房総。

本書のなかには、名所旧跡はなく、濃密な人との出会いもありません。

旅の中で無名の人になった藤原さんが、無名の人と土地を通り過ぎながら、いまの日本を感じるという、ちいさな営み。

東京などの大都市の喧噪と、ネットでの情報交換という騒々しい世界に私たちは生きている。たとえ地方に住んでいても、メディアは騒々しく、私たちの心のなかに、無用な情報と欲望を届けてきます。

そんな喧噪から離れてみれば、これほどの清逸な時間と空間がある。

藤原さんは怒れる人。『東京漂流』とは別の形で怒っているのか。達観しているのか。それを確かめるために再読をしたくなる。

静かなる書です。


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2008年09月18日

『ジャーナリズム崩壊』上杉隆(幻冬舎)

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「大手メディアの「ジャーナリズムごっこ」を暴露した軽薄な文体で書かれた硬派ノンフィクション」

 最近ではテレビの報道番組(バラエティ番組かな?)にも出演されるようになったジャーナリスト上杉隆さんの最新刊。実は、私、上杉さんの著作を初めて読みました。雑誌に寄稿された記事を何本か読んだことがあり、冴えている仕事ぶりは知っていましたが。
 上杉さんのブログ「東京脱力新聞2.0」 を読んで、ときの政治権力にすり寄るジャーナリストたちの無様な仕事ぶりが実名で晒されている、ということを知って、早速読みました。

 面白い!

 長年もやもやしていた日本独自の「ジャーナリズム業界のしきたり」への疑問がかなり解消されました。

 読者や日本国民よりも、政治家や官僚と仲良くすることに仕事のエネルギーの多くを費やし、ジャーナリストとして真摯に働いていない人間がいる、ということは知っていましたが、私は政治取材をしたことがないへっぽこライター。日本の権力中枢の取材をしているエリート・ジャーナリストたちの取材活動を見る機会はほとんどなかったのです。上杉さんの文章を通じて、つぎつぎと中身がスッカラカンの日本流ジャーナリズム活動を目撃させてもらいました。

 内部告発モノではありません。なぜかというと上杉さんは日本の報道業界の監獄たる「記者クラブ」に加入していないからです。同業者から面と向かって誹謗中傷されている描写は迫力満点です。はい。

 他人事だけでなく、身内の恥までも晒しています。文体は軽薄なんですが、まじめにしごとをされていることが分かります。

 上杉さんは昨年、『官邸崩壊』という著作を新潮社から刊行してますが、その編集作業の中で、新潮社編集者から3つのチェックが入ったときのエピソードを紹介。

「3人の政治部記者の実名を登場させるのはどうか」

「連載陣である櫻井よしこ氏に言及している部分については、相応の配慮を願いたい」

「世耕弘成氏の出版物(新潮社)に関する記述に関して、もう少し配慮してもらえないだろうか」


 
 タブーが少ない新潮社でも、こういう自主規制を著者に求めているのか! とたいへんびっくりしました。
 
 本書によって再認識できた、日本のメディアの特徴をざっとまとめてみます。

 論争や批判がメシの種のはずなのに、大手メディアに所属するジャーナリストたちは、自ら名乗って記事を書き、その記事に責任を持つ習慣がない。
 ジャーナリストであることよりも会社員であることを優先する。
 画一的な採用システムで、似たような大学出身者が、満足なジャーナリズム教育を受けないまま現場に放り込まれるために、権力との距離感をとることができないジャーナリストになる。
 ニュースソースを明らかにしない記事を出稿してもとがめられない緩いシステム。
 仲間はずれをおそれる。集団による取材を好む。できあがる紙面は画一的になる。
 原則として誤報を認めない、訂正記事を出さない。

 というわけで日本のジャーナリズム状況は悲惨。記者クラブを開放して、自由な取材ができる基盤を作るべきなんだけど、そういう議論をいくらしても何も変わってこなかったのが、日本のメディアの歴史。記者クラブに立てこもって仕事をするのが習慣になり、ほかの選択肢を見ることができなくなっているんですね。
 必要なことは、上杉さんが本書でやっているように、どの新聞、テレビ、雑誌の記者(編集者)が、権力の広報機関役を担っているのかを、実名で報道していくことなのかも。(テレビ局は、政治家の子どもたちが縁故入社して高給を取っているのですが、そういう事実を大手メディアは報じないので、厳しい競争を勝ち抜いた人が働いているという幻想が生まれてしまう。困ったモノです)。
 情報公開をせよ! と権力に向かって叫んでいる、当の報道機関のやっていることは、ジャーナリズムではなく「ジャーナリズムごっこ」だった。
 結論自体は、目新しくはありません。が、エピソードが面白い。
 本書がベストセラーになれば、柳の下の二匹目のドジョウをねらう出版社がでてくるのがメディア業界の常識。ベストセラーになって欲しいですね。でも、同業者を批判したり、皮肉ったりすることに、心理的な抵抗感のある人が多すぎるので、しばらくは上杉さんの独走がつづくでしょう。


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2008年09月03日

『男の隠れ家を持ってみた』北尾トロ(新潮社)

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「ちいさな変化の大切さに気づく時」

結婚してから、既婚者の手によるほのぼのしたエッセイが気にかかるようになりました。大きな心境の変化です。独身のときは、同じように独身生活をしている人の書いたものにリアリティを感じていていて、その嗜好はずっと変わらない、と思っていたのですから人間変われば変わるモノですね。
 というわけで、今回は生活者の真実に迫る書籍を選んでみました。

 本書『男の隠れ家を持ってみた』は、自動車(ワンボックスカー)のなかに「隠れ家」をつくる,という、今私が取り組んでいる企画のために手に取りました。仕事のネタとして買い求めたのです。
 読んでみて、これは「中高年男性の生き方再検討ノンフィクション」の秀作である、と思いました。
 著者の北尾トロさんは、東京都杉並区の西荻在住のフリーライター。結婚して2歳の娘さんがいます。執筆時は47歳。子どもを持った年齢が40代後半。子どもが成人したときは65歳すぎ。フリーライターの稼ぎで大丈夫なのか? 将来を考えているのか? と、北尾さんの立場をこうしてまとめているだけで、スリリングであります(現実には、将来を深く考えても仕方ないのですが・・)。
 北尾さんは、家族と住む自宅とは別に徒歩圏内に仕事場を構えている。仕事のスタイルとしては、自分の興味のあることを体験をベースにエッセイ風に書く。普通の人にとってどうでもいいことでも、自分が気になったことを書く、というタイプ。マーケティング意識ゼロのライターです。なんでもかんでも売れることを中心にまわっている世知辛い世の中で好感の持てる執筆スタイルといえるでしょう。
 北尾さんは、雑誌記事の企画を考えているうちに、自分の人生を振り替えることに。
 いま自分がやりたいことは何だろう。
 それは、ペンネーム北尾トロという虚飾をなくした「素の自分」として生きることでした。そのために北尾さんは東京の西日暮里の近くに家賃4万2千円のアパートを借ります。自由業者としての文筆業が使用するペンネームは、サラリーマンが仕事で使う「立場」に相当するラベル。ペンネームを使わないで生きるとき、裸の自分と向き合うことになるわけです。
 その立場とは社会的な役割を示すモノ。資本主義である以上、この立場は「交換可能」であることは改めて言うまでもないでしょう。交換可能である限り、むなしさがつきまとう。不安は消えません。
 北尾さんは、長くペンネームで仕事をし、生活してきました。したがって、出会う人のすべては北尾トロしか知らない。本名の素の自分自身を知っているのは、家族とごく一部のライター以前の人生を知っている人間だけ。
 北尾さんはアパートを本名で借り、そのアパートを拠点に、本名での人間関係をつくろうとしていきます。
 このプロセスがじつに些末な記述に終始しているのですが、それが実にいい。
 (私はこの北尾さんの新生活を読みながら、海外での旅を想起しました。日本での立場や職業が完全にリセットされて、ただの人間になったとき、どういうふうに友人をつくり、自分のアイデンティティを確保していくのか。長旅を経験している人たちは、これを体感しているはず。そのリセット感覚が心地よいという人は、真の旅人だと思います)
 北尾さんは家族がいます。したがって隠れ家にずっといることはできません。同居する妻の理解を得て、西荻から東京某所の隠れ家に通うのです。近所の居酒屋、バーにでかけては、見知らぬ人との交流をもとめる。大家さんに、離婚して子どもとあえない中年男であると、誤解されても、真実を告げることができないため、立ちすくむ様子。こうした描写が、中高年のよるべない孤独として迫ってきます。
 独身の酔いどれオヤジに北尾さんがいわれた言葉がふるっています。
 

「おらぁ食えてるだけでめっけもんだと思うからさ。いろんな可能性があったかもしれないよ。仕事だってそうだし、結婚して孫でも抱いている人生だってあったかもしれないじゃん。けど、それ言い出したらキリないもんね。なんとかなってるってことは、悪いことせずにちゃっと働いているってことなんだから」
 「よくわかんねぇけどさ、仕事とか家庭とかいちいち切り離して考えなくてもいいじゃん。お兄さんは何だか悩んでいるようだけどさ、何したってその人らしさって隠せないもんでさ、つきあうほうは案外わかってるもんだよ」

 北尾さんは、心情を吐露します。
 「飾り気のない言葉が胸に染みてくる。ぼくが出会いたかったのは、このオヤジみたいに実直で、しっかり地に足をつけた生活者なのだ。こういう人との出会いが、僕の人生にはありそうでなかったのだと思う。ライターをしていれば、取材で多くの人に会う。いい顔をしたオヤジもたくさん見てきた。でも、しょせんは取材。聞く者と話す者である」

 北尾さんは本の中でうまく言葉にしていないけれど、この隠れ家生活によって、ライターという社会的な役割から自由になった、と思いました。役割で得られる人間関係には深みがありませんから。
 いま北尾さんは長野県のちいさな街、理想の書店をつくるという活動を始めています。地に足がついたのでしょう。自分探し本とは一線を画す、いい本です。


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