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2008年05月25日

『ポスト消費社会のゆくえ』辻井喬・上野千鶴子(文春新書)

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「セゾンの失敗から学ぶ」

 東京在住時代、西武新宿線沿いに住んでいた。西武鉄道は移動の足だった。
 その経営母体である西武鉄道グループの代表である堤義明が、粉飾決算(証券取引法違反。有価証券報告書の虚偽記載)で逮捕されて辞任。その後、有罪が確定。堤義明といえば、長野オリンピックの黒幕として、月刊誌『噂の真相』などのメディアで批判され続けてきた、西武グループの独裁者である。マスコミはこの独裁者への批判をすることなく、長くその体制を看過。刑事事件に発展してから、集中砲火を浴びせ、堤義明は社会から抹殺された。このため、なぜ堤義明という独裁者が登場したのか? という歴史の証言をひきだすことが困難になっている。
 しかし、同じ西武グループでも、堤清二(堤義明の異母兄弟のひとり)は饒舌である。文人として「辻井喬」として活躍しており、堤清二の経営者の顔とを自由に使い分けながら、歴史に記録を残していこうという旺盛な意欲がある。
 本書は、セゾングループ代表だった堤清二と、社会学者上野千鶴子の対談である。
 ひとつの企業が時代の波に乗って成長し、破綻していった歴史を、上野が綿密にききとっていく。すぐれたオーラルヒストリーの仕事になっている。
 私が興味を持ったのは、組織のトップが、経営情報から遮断されるという現象が起きる点だった。

 セゾングループは、関連会社のリゾート開発事業と消費者金融ビジネスで失敗。これが引き金になって、本業である小売業でも経営が行き詰まり、結果的にグループの解体を迎えている。

 辻井は、経営者堤清二として、「敗戦処理」をしていくとき、部下から情報が出てこないなかで、情報を収集する苦労をこう語っている。

責任者からデータを引き出すのはものすごく時間がかかるんです。まず一緒に飯食いながら、「いや、きみを責めているんじゃないよ」と安心させないとダメなんですね。「君の責任だとは思わない。負債が嵩んでいても、きみが私利私欲で会社のお金をごまかしていたんじゃないことはわかっている。どんなデータが出てきても、君を背任横領で訴えることはしない。長年一緒に働いてきた仲間なんだから」と少しずつ説き伏せて、「僕が事後処理をするから、信用してあらいざらい話してくれ」と言ってから、実情を聞き出すんです。その責任者は、当然「ありがとうございます」と言いますけどね。

 この経営幹部達は法的な責任をとられることなく、辞表を出して会社から去っていった。

上野「企業の失敗の責任を取らないというのは、日本的な解決方法ですね」

辻井「そうです。まさに日本的です。ですから最終的には、私一人が責任を取るしかないな、と認識しました」

 辻井は、堤家のボンボンである。西武鉄道をつくった父に反発するが、その父の命令で会社経営に乗り出す。本人は、父への反逆者として振る舞っているつもりでも、周囲はボンボンとしてしか見ない。文人、辻井喬として活躍する場を確保して、堤清二という社会的な存在を相対化する視点を捨てなかった。経営者として徹底できなかったために、セゾングループ解体という最悪の結末を迎えた。こうした「辻井喬・堤清二」という存在を、消費社会の牽引役としての功労者、ボンボンとしての愚かさ、といった等身大の人間としてあぶり出していく上野の手際のよさは見事。これに応じる辻井喬も、批判を甘んじてうけることで、歴史の証言者としての仕事を全うしようとしている。

 本書で描かれたセゾン解体劇は、大会社を経営しているトップにとっては現在進行形のドラマであるはずだ。

 消費によって幸福になるかどうかはわからない、という意識が普遍化されたポスト消費社会においては、巨大企業の経営者はみな気まぐれな消費者に振り回される。

 会社が経営破綻したとき、経営者はアイデンティティの全てを喪失するかもしれない。だが、 堤清二は経営者として終わったが、文人辻井喬は残った。普通の経営者は、このようなダブルキャリアを送っていない。このことを辻井は深く理解し、いまの自分のおかれた環境に満足しているようだ。

 堤清二のような才人でも、これだけ多くの失敗をすることがある。それが経営だ。



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2008年05月19日

『不安の力』五木寛之(集英社文庫)

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「五木ワールドのリアル」

 先日、「ケータイ小説のリアル」を紹介した文章をこのブログにアップした後で、中高年向けの生活苦をテーマにしたケータイ社会批評があったら読みたい、と思った。そのあと書店にいって文庫を眺めていると、五木寛之『不安の力』が、読め、と語りかけてきた。私にとって、軽いタッチで空虚な自分と向き合いたいときは五木ワールドに入り込む。居心地がいいのだ。中高年の生活苦を平明な文体で解説する小説、エッセイ。この20年ほどの五木寛之の仕事はそれにあたる。
 五木ワールドの特徴は、何が書いてあるのか、読まずしてわかる、という点だ。彼の文章には中毒性がある。1冊読むと、五木ワールドの物語構造が、自分の思考にしっとりなじむのだ。その印象が、何冊読んでも味わえる。五木文学とは、毎日たべても飽きることがない、近所の定食屋のメシだ。ご飯、味噌汁に一品おかずをつける。ときにはキリンビールをつけて、串カツで一杯。翌朝になると、昨夜、何を食べたのかは覚えていないが、元気になっているのである。五木の文章は読んでいるときは心地よいのだが、翌朝思い出すことがない。すっきりしている。私は「不安の力」を昨日、読んだが、10時間後のいま、ほとんど内容を思い出すことがない。「私もそう思います」と感じられることばかり書かれているからである。違和感のない読書体験。これをコンスタントに提供できる五木は本物のプロ作家である。
 日本人全体への憂愁、共感、反発がわかりやすい文体で書かれている。難しい専門用語は出てこない。五木は仏教を知識が豊富である。そのため、仏教用語をひとつ解説しようとすると数十ページ、場合によっては1冊まるまる使うことをいとわない。衆生は、複雑な仏教の神髄を理解することができない。それゆえに過去の仏教宗派の始祖たちは、お題目などの短い言葉で人々を救おうとした。五木の言葉がシンプルなのはそのためだ。
 読んでいて、あざとい、しかし、潔いと感じるのは、書くネタに尽きたとき、枯渇したと正直に書く点だ。五木ワールドに慣れない時期は、舞台裏を書くな、と思っていたのだが、日本人のほとんどは、「生きるネタに尽きた!」という諦観のなかであがいているので、五木の「書けないときは仕方がない」という開き直りを読むと、救われるのであろう。五木のスゴイところは、その個人的な執筆業の焦燥感を、日本人全体の閉塞感につなげてしまえる筆力である。
 これに仏教の知識と体験が加わってから、五木は国民的な作家になったと思う。ベストセラー作家が年に数人登場するが、五木の仕事の営みをみていると、すべて小粒にみえる。五木は毎年ベストセラーを出し続けているのではないか? 数字を確認したわけではないが、そう思う。どんな書店にも五木の本は入手可能。仏教の知識を獲得したあとは、作家というだけでなく、自己啓発ライターとして不動の地位を獲得している。
 ビジネスをするうえで必要な知識を獲得しようと、さまざまな自己啓発書を読んできたが、五木の書く自己啓発書は日本人に優しい。会計、英語(外国語)、パソコン、時間管理、マネジメント、という現代人に必須になったスキルがなくても、自分らしく生きることはできるよ、という語りを読んでいるといやされるのである。五木のいうことを真に受けると、競争社会ではサバイバルしにくくなるのだが、五木ワールドに滞在しているときはそれでいい。
 私は五木ファンである。

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2008年05月17日

『ケータイ小説のリアル』杉浦由美子(中央公論新社)

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「書き手と読者が求め合ってできた文芸はいかに生まれたのか?」

 私はケータイ小説を読んだことがない。ケータイ小説からミリオンセラーが出ていることは知っている。名の知れた書評家がケータイ小説のヒット作を酷評していたことを覚えている。
 ケータイ小説そのものを読むのには抵抗感かあるが、新しい小説のジャンルの登場を気にしている。しかし、読むに値する小説があるのかどうか、と思う。だから、その周辺の言説を読んでしまう。  本書は、ケータイ小説というブームの真相を読み解くための手引き書であり、女子読者の心理を分析した文明批評になっている。  かつて摂食障害ややおいを論じた、批評家の中島梓による『コミュニケーション不全症候群』(筑摩書房)に匹敵する仕事だ。感嘆した。中島梓の後継者が出てきた。  杉浦由美子は、『オタク女子研究』(原書房)でデビューした、フリーランスライター。その豊富な読書体験をベースに、ケータイ小説が売れる理由をルポしている。  
ケータイ小説とは、携帯電話を使って書かれ、携帯電話の画面で読まれる小説のこと。著者の多くはプロの作家ではなく、一般の若者によって書かれている。

 私が、なぜケータイ小説に手を伸ばさなかったのか。本書を読んでその理由が分かった。
 著者が匿名であり、その存在感が希薄だからである。このような信用性の薄い商品、作家性の低い商品をお金を出してまで購入することに大きな抵抗感があったのだ。ようするに、どこの馬の骨が書いたのか分からないものにお金を出したくない、ということだ。なんと頭の堅い人間になってしまったのだ、と思う。
 ところが、この匿名性が、若い女子読者にとっては、共感を呼ぶ属性になっている。この価値観の転換にはひっくり返った。

 普通の人が匿名でケータイ小説を書いている。書くことが喜びであって、お金や名声を求めているわけではない。そういう書き手がケータイ小説を支えている。書き手たちの多くは若い女性。彼女たちは、匿名的な存在であるために、読者からの妬みを避けることできる。いわば自己防衛としてのペンネーム。読者からみると、特別な才能のある実名をもった現実の書き手よりも、自分でもマネができそうな稚拙な文体と、ありきたりの舞台設定のほうがその物語に共感しやすい。

 ケータイ小説作家たちは、書くという行為を楽しむ。「書くという行為が消費」なのである。クリエイティブなことをする、という時間消費行動をとっているのだ。彼女たちは、世界最大のブログ執筆文化をほこる日本で、自由気ままに物語をケータイで打ち込み、小説サイトにアップしていく。読者は、その小説を携帯電話で読むという時間消費をして、感想をブログにアップしている。相互にコミュニケーションをしながら、小説は完成されていく。読者が作家を励ましているのだ。ネット社会ならでは。ケータイ小説作家と読者は、携帯電話の液晶画面を通じて、コミュニケーションをしながら、物語を違いに別々の方法で消費しあっているのである。
 共感するために。自分自身の存在感の希薄さを埋めるために。

 杉浦によれば、ケータイ作家の多くは若い美人であるという。普段は普通に会社で働き、余暇としてケータイ小説を書きつづっている。若い美人には、「小さな事件」が起きやすい。この「事件」を通じて、美人たちは自意識を拡張させる機会を得る。そしてブログにその心境を書いているうちに、妄想が生じ、フィクションが生成していく。日記という実録から、小説というフィクションに物語が変質していく。
 この過程を杉浦は丁寧に追体験させてくれる。杉浦自身が、ネットに書評を書くという消費行動によって、プロの書き手になった当事者だからだろう。プロの気持もわかるし、ネットに無報酬で記事を書くアマチュアの気持も理解できるのだ。

 権威主義で固まった文芸業界のつくる書籍が幅広い読者から支持されなくなって久しい。ケータイ小説はこの空白を埋める役割を果たしている面もある。

 最近になってケータイ小説の売上げは下がっているという。ブームは必ず去る。ケータイ小説作家たちの自己表現は、陳腐化していくのか、ほかの自己表現方法に移っていくのか。
 ケータイ小説の主要な消費者である、若年人口は少子化のために今後は加速度的に減少していく。若い女性の書き手と、読み手をターゲットにした小説ビジネスが突然消え去る可能性もある。いつ消えるかわからないはかなさがよい。ケータイ小説のリアルは、少子化社会のリアルを感じ取る格好の材料でもあるのだろう、と思う。
 そしてひとつのことがブームになると、それに殺到し、しゃぶりつくすまで演出されていく日本人のコンテンツビジネス消費のありようをみる鏡でもある。
 こうして書いてわかってきた。私は、ケータイ小説のワンパターンさにつきあうのが面倒くさいのだ。時間がたくさんある、という幻想をもっている若い女性たちのためにあるコンテンツは、私にとってノイズである。しかし、そのノイズとほどほどの距離感を持ってつきあうことは、生きるために必要な知恵である。その知恵を、杉浦は丁寧に教えてくれたと思う。
 私はケータイ小説を1冊も読んでいない。
 読む必要がないと思っている。
 仕事であれば読むだろうが、いまの私には必要がないコンテンツだからだ。
 万人受けするコンテンツはないのでそれでいいのである。  


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2008年05月07日

『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか?-アウトサイダーの時代』城繁幸(ちくま新書)

3年で辞めた若者はどこへ行ったのか?-アウトサイダーの時代 →bookwebで購入

「「アウトサイダーの時代」の開幕を告げる、元気のでる新書」

 あの富士通の人事担当者として、成果主義の実態を暴露した「内側から見た富士通「成果主義」の崩壊」の著者、城繁幸氏の新刊だ。これは読むべきだ。売れている。新書のベストセラーランキングで上位に食い込んでいる。この本が売れていることは、自分のことのようにうれしい。
 なぜなら、私もまたこの本で紹介されたアウトサイダーたちの生き方に共感するからだ。
 アウトサイダーが増えるほど、日本は面白くなる、エキサイティングな国になると信じているからだ。  私もまたアウトサイダーのひとりであるという自負があるからだ。
 本書で書かれていることは、この日本のくそったれ会社から決別したいと願う全ての人々の夢だからだ。

 斬新な企画を上司に提案しても却下される。社内の人事は、結局、上司の人気投票できまっていく。高齢幹部たちは高給をとれるのに、中間管理職、新人、外注先は低賃金重労働に甘んじるしかない。30代の働きざかりなのに、年寄りがポストを独占しているために、昇進して部下をもち新規事業を立ち上げるチャンスはゼロといっていい。しかし、「自分にはこの会社を辞めて、独立する自信がない」。そうあきらめる人間が大勢いるうちは、現体制は安泰である。昇進と昇給、そして新規事業をまかされる可能性ゼロの正社員は、会社の鎖につながれた奴隷である。格差社会の報道のなか、もし会社を辞めたら自分もフリーターになってしまい、「希望は戦争」とか、会社や社会批判を2ちゃんねるに書き込む鬱屈した中年になるしかないのか・・・。

 そんな不安をもった人たちは、本書を読むとよい。

 元気がでるぞ!

 いわゆる一流企業が若手の有能な正社員を絶望させるような無意味な労働をあてがっていること。その会社の内情を知った、優秀な大学生や第二新卒たちが、日本の大企業を見限って外資に流出していく動き。インターネット社会になり、会社内部でどのような労働実態があるのかを容易にアクセスできるようになったため、情報に敏感な若者ほど大企業幻想がなくなっている。

 彼らの中から、大企業のキャリアを捨てて自分らしい会社にうつるもの、起業するものたちが現れている。

 
モータウン浜松市在住の人間として、膝をうったのはこの記述である。
 

「(労働人口減少に対し)高齢者とか女性とかITを活用して減少分を補えなんて、経営者から見ればバカな話」
「日本には200万人もフリーターがいますが、彼らを活用すればいぽてんて言うのは私に言わせれば滑稽千万」

と、某自動車メーカーのトップの放言を紹介したあとに、著者はこう述べている。

「要するに自分たち企業が変わるはいやだから、国の形を変えてしまえということらしい。少なくとも自分が『はじかれている側の人間』だと、感じた人はこの会社の車は金輪際買うべきではない」

 東海地方在住者で、こう発言することはかなりの勇気を要する。東京在住の城繁幸氏にはもっと暴れていただきたい。



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2008年05月06日

『ビューティ・ジャンキー』アレックス・クチンスキー(バジリコ)

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「美容整形の先進国アメリカの現実」

 美容整形の内幕を描いたルポである。
 いま美容整形をしたいと考えている人は読んで欲しい。一冊2000円(税抜き)で、美容整形産業のエッセンスが理解できる。たいへんお買い得である。肉体にメスを入れると後戻りできないが、書籍によって知識を得ると選択肢がぐっと増える。美容整形をするかしないか。するとしたらどのようなサービスにするべきか。多忙な医師は、無知な患者に高い利益率のサービスをオススメする。そのサービスが自分の身体、そして希望にマッチするのかどうかは、自分自身しか分からない。人に頼ることなく、選択しきって欲しい。美容整形ノンフィクションは有益な情報源である。
 日本の産業は、アメリカで成功したビジネスモデルを日本国内でも実践することが多いので、ここで描かれた事実は、数年後の日本の現実に変わると思ってよい。

 人間はなぜ顔などの外見に執着するのか? そして身体改造にはまるのか? という問題については拙著『自分の顔が許せない!』『肉体不平等』『「見た目」依存の時代』で詳述した。その過程で、日本語になった美容整形についてのノンフィクションの全てに目を通してきた。

 本書を読んだのは、美容整形問題の最新のアメリカ情報を確認するためである。事実や現象の変化はある。しかし、美容整形産業の底流にある、美と資本主義の関係については変化はない。そして、ジャーナリズムが美を取り扱うときの限界にも変化はなかった。

・2005年、アメリカ国内では1150万件の美容整形手術および手術によらない美容術が行われた。

・患者の大半は35歳から50歳。

・米国美容形成外科医学会の登録医は約5000名。

・35年間で、鼻の形を治したり、顔の皮膚を持ち上げたりできる医師の数は約100倍。

 美容整形へのニーズはウナギもぼりというわけだ。

 日本では、美容整形を受けるハードルが低くなった。ヒアルロン酸の注射で知られるプチ整形が流行して、美容整形サービスとしてすっかり定着した。親が娘に美容整形を受けさせるとか、就職試験対策として美容整形を受ける学生もいる。すべて報道されており、批評されている。

 日本では『ビューティー・コロシアム』という美容整形普及番組が人気である。美容整形大国アメリカにも同じような番組がある(余談だが、きっとアメリカの番組を真似して、日本でも『ビューティー・コロシアム』が制作されたと思う)。この美容整形番組に出演し、顔面を改造した女性のなかには、肉親と異なる顔になってしまったため、毎夜後悔のために泣いている、という人もいる。美容整形番組に出演しようとしていたのにテレビ局から土壇場でキャンセルされたために、悲嘆して自殺した女性がいたということもレポートされている。人はいろいろな理由で絶望して自殺するのだ、と驚くばかりだ。

 さらに、本書を書いたジャーナリスト自身が、美容整形手術体験者てあることをカミングアウトし、そのときの心境を正直に記録している。

 このように多面的に美容整形をレポートしているという点で、過去の美容整形ノンフィクションのなかでも良質である。

 アメリカには恐ろしいほどのエゴイストそしてナルシストがいる。「ネコそっくりになることを選択し、外科医を見つけて顔をネコそっくりな表情にしてもらった」という女性がいるのだ!

 著者は、このような事実を評して「結局、美容整形についての議論は選択という概念にかかっている」「つまるところ、自分を破滅させるか高めるかを選ぶのは自分自身なのである」と書き留めている。

この書評空間で紹介した「生きるための経済学」の書評を読み返してほしい。

 著者の安冨歩は、選択の自由こそが人々を不幸にしている、という新しい視点を提示している。

 この「生きるための経済学」の観点からいえば、美容整形ビジネスとは、人々を焦燥感と不安に駆り立てることで利益をあげる産業である。

 本書の著者であるアレックス・クチンスキーは「選択の自由」という資本主義の根幹を懐疑することができなかった。それゆえに、結局のところ高級な美容整形ガイドブックになっている面がある。

 著者は本書執筆時38歳。この肉体年齢では、美という価値の虜になっているのも無理はない。もうすこし歳をとり(たとえば更年期を経てから)、美容整形産業を取材したら新しい視点が発見できるのではないかと想像した。

 美容整形産業とそれに魅せられる人間(とくに女性)をレポートするにはジャーナリズムだけでは力不足なのだろう。今後、美容整形産業は、生殖細胞、子ども、男性、老人を巻き込む巨大なビジネスに成長する。多面的な分析が必要である。

追記

 私は美容整形反対論者ではない。顔にメスをいれて改造したいという渇望は理解できる。しかし、美容整形をひとつの産業としてみると、きわめてリスクがある。肉(水分とアミノ酸)と骨(カルシウムなどの塊)は、一時的にコントロールできても、すぐにグニャグニャになるからだ。人間の美意識も変容する。その流動性を知ったうえで、顧客を満足させるのは神業である。

 美容整形産業は、消費者からのクレームを押さえ込むための高度なスキルが必要なのである。このリスクに見合った利益がでなくなったとき、このビジネスはどうなるのか。美容整形ビジネスが隆盛を極めようが、破綻しようが、その後には、傷だらけの顔面と肉体が残される。表面的には美しくとも、キズは残るのである。キズを隠すための葬式ビジネスにもニーズがある。老醜を断念することを拒否した現代人はどこにいくのだろうか。日本もアメリカと同じ道を歩むのだろうか。


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『ブラジル人と国際化する地域社会-居住・教育・医療』池上重弘(明石書店)

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「未来都市ハママツへ ようこそ!」

 静岡県浜松市は日本最大の日系ブラジル人コミュニティがある地方都市。その浜松の現在を知るための必読書だ。
 発行は2001年8月。浜松に日系ブラジル人が急増するのは1990年。この年に施行された新しい出入国管理および難民認定法(入管法)によって、日系2世、3世やその家族の就労が合法化されたためだ。
 ホンダ、ヤマハ、スズキという自動車関連企業の本社と、その下請けが集積している浜松では単純労働者のニーズが高く、企業は慢性的な人手不足に悩んでいた。浜松市に生産拠点のある大企業から中小企業まで、日系ブラジル人を雇用することで経営の安定を目指したのである。
 その結果、90年代、浜松市の日系ブラジル人は急増した。
 1989年には189人だったが、1990年には1457人。1年で10倍以上の増加。1991年には4072人。前年の約3倍。2001年には11716人にまで増加する。2000年当時の浜松市全体の人口は約59万人。日系ブラジル人のしめる割合は1.9%。50人に1人が日系ブラジル人という街になった。2008年12月の浜松市のデータによれば、全人口807799人に対して、日系ブラジル人は19047人。2.3%である。
 浜松市は2007年に周辺の自治体と合併をして人口が約20万人増えた。日系ブラジル人は職場のある旧浜松市に多く住んでいるのは改めて言うまでもない。合併しても居住地域の分布に変化はない。
 地域によっては、生徒の約4分の1が日系ブラジル人の子どもという小学校もある。私が住んでいる東区では、住民のほとんどが日系ブラジル人となってアパートもある。急増する日系ブラジル人達をターゲットにしたビジネスが成立する。ブラジル人のための学校も複数経営されている。
 ニューヨークのように、街の一角がまるごとひとつのエスニックグループ(たとえばチャイナタウン)の生活圏になっているということはない。日本人社会のなかで、日系ブラジル人たちは点在して暮らしている。
 その日系ブラジル人たちの生活を調査した成果が本書である。
 浜松で日系ブラジル人が急増した1991年から10年。1996年の研究開始からわずか4年で、300ページを超える充実した内容の研究成果がまとめられている。編著者たちの努力と熱意に敬意を表したい。
 内容は、日系ブラジル人と日本人の異文化の出会いによって発生したさまざまな現実に、それぞれのコミニュティがどう対応したのか。その過程が学問的な立場から詳細に検討されている。第一級の資料になっている。
 日本人社会は外国人に対して差別をする傾向がある、と言われる。もちろんそういう面もあるだろう。浜松でも差別はあった。急増する日系ブラジル人の対応に、行政が無力だったこともある。日系ブラジル人への医療や教育サービスはたしかに不備だった。住民同士のコミュニケーションは不足していた。  しかし、本書で何度も述べられているのは、浜松市の日系ブラジル人に対する取り組みは日本国内で先駆的であり続けてきた、高く評価できる、という視点である。この観点に私も同意する。
 日系ブラジル人とひとことでいっても、その生き方は多様。日本語を学び、日本社会から学ぼうというまじめな人は少数だ。それは日本人も同じだ。ポルトガル語を学び、日系ブラジル人と対等につきあうことを苦手とするのが大多数だ。
 それでも、人々は生活圏をともにしていく。誤解と不信から、相互理解へと歩みだす。本書はこれらの人間の営みを活写することに成功している。
 浜松における日系ブラジル人をとりまく環境変化は激しい。
 昨年から地元新聞は、ホンダ、スズキという大企業が、生産拠点を浜松市から他の地域に移転する、という報道に集中している。90年代に人手不足から日系ブラジル人を雇用すると決断した企業群が、さらに安いコストで生産しないとグローバル競争に勝てない、と経営判断したのだ。企業群は九州などに工場を移転した。新工場では極限まで人を減らす方針だ。これまでのように、日系ブラジル人たちの単純労働に依存することはありえない。日系ブラジル人たちにとって、雇用不安が広がっていくだろう。ブラジルに帰国したとしても、日本で稼いだ貯金を狙う強盗に警戒しなければならない。日本の治安の良さは魅力である。迷いはあっても、日系ブラジル人が浜松市に定住する流れは止まることはないだろう。
 さらに大きな問題がある。日系ブラジル人の子どもたちの未就学、未就労である。長時間残業をする親たちは子どもの面倒をみる時間がとれない。この子どもたちのなかから、母語であるポルトガル語も、日本語も満足に話すことができないということが起きている。
 浜松市における日系ブラジル人との共生は、日本のひとつの未来を指し示している。
 東京などの大都市に集中する日本人の若者達。人手不足の地方企業は外国人を雇用するしかない。地域は外国人との共生をする道に踏み出す。しかし、日本人社会は、これほどの急激なスピードでの移民を受け入れた経験がない(戦争中の朝鮮人強制連行をのぞく)。試行錯誤のなかで、モデルのない道を日本人も日系ブラジル人も歩んでいく。浜松市でいま起きていることは、日本中が直面する現象になるだろう。製造業がない地方都市では、介護労働者として日本にやってくるフィリピンなどの東南アジアの女性たちとの共生の道を選択することになるだろう。
 東京のような若年の日本人労働者が集中する都市は特別なのだ。
 浜松市は、「未来都市ハママツ」になっている。

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2008年05月05日

『田舎暮らしに殺されない法』丸山健二(朝日新聞出版)

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「少数派を殺す田舎を変えるためには、よそ者、若者、馬鹿者の特徴を持った人間が必要だ。」

浜松まつりで駅前を歩いた。外国からの移民が多い。駅前を歩く人々の約10%は日本人ではない外見だ。日本人の外見と見分けがつかないアジア系の人たちをあわせば15%くらいは外国人ではないかと思った。近隣からの外国人も浜松まつりに来ているはずなので、ニューカマーたちがいつもよりも集まったのだろう。
  浜松市は人口、企業の集積度などから静岡県最大の都市である。そして外国人の在住者数は静岡で一番。日系ブラジル人の在住者は日本一。
 浜松は田舎とは言えないが、つい20年前までは田舎だ、と言いうる土着性があった。いまもその日本的な共同体意識は強く残っている。浜松まつりは、その地域の共同体(自治会)の強さがあるから実現しているのである。
 その浜松という田舎に、ホンダ、ヤマハ、スズキというグローバル企業があり、単純肉体労働という需要があった。若い日本人達は、その労働を嫌い、都市に新しい人生を求めていった。その隙間を埋める労働力が日系ブラジル人たちだった。彼らは、浜松の田舎性と直面することになった。浜松の人も、ブラジルの異文化と衝突することになった。一部はうまくつきあっており、多数は互いに距離を置いて仕方なく付き合っている。
 私も浜松市のニューカマーの一人として、浜松の人たちとの交流が増えている。
 いま日本の田舎に何が起きているのか? を知るために手に取った。
 相変わらずの丸山健二節。普通の日本人の脆弱な生き方を苛烈に批判する。老人の繰り言のように感じる文章もあるが、全体のトーンとしては正鵠を得ている。
 日本人の都市住民と、田舎住民との軋轢くらいでは、田舎文化は消滅しない。いま田舎文化が消滅しつつあるのは、田舎そのものが「限界集落」として、地域まるごとが消滅する危機に瀕しているから。ここに取り残された人たちは、いま困窮のなかにある。それに対する同情的な言説が増えており、それには一定の真実性はあるが、過疎を超えて、限界集落にいたるには、その地域住民にもまた責任がある。それは、外部からの 知恵を導入することを拒否し続けた閉鎖性、自民党政治のような利権政治への盲従、プライバシー意識なき近所づきあいしかできない感性の硬直性・・・そんな ことを、丸山健二はぐいぐい描写している。
 都市生活に疲弊した団塊世代たちは、静かな田舎生活、スローライフにあこがれるが、人口減少地域において生きると言うことは、日本のなかの暗部と向き合うことも強いられる。その覚悟を決めて移住しても多勢に無勢。多数派である先住民のいうことをきかないと生活がなりたたない。短期的に自由にくらせても、老いていく肉体はいかんともしがたい。こうして、都市住民は、田舎住民に支配されていくことになる。この支配から脱皮する力をもった移住者だけが、自分らしい生活をすることができるのだろう。 それには、「よそ者」「若者」「バカ者」という地域活性化のためのキーワードを見つめ直すことだ。 疲弊した田舎は、これら3者をはじき出して、共同体の安寧を保持してきた。その代償が限界集落という、地域自死の風景である。この3者を一気に注入できる属性を持った人間集団、それが浜松では日系ブラジル人だったのだ。
 大勢の異人が大勢の土着民と出会えば、まっとうな文化衝突が起きる。その衝突によって発生する化学反応が浜松という田舎を変えてきた。
 この本を読みながら、東京という都市生活者の困窮にも気づくことができた。
 人間はどこまで、過密、高騰家賃、長距離長時間通勤、まっとうな身体運動が不可能な環境に耐えることが可能なのか。これもまた別のアングルからみれば、限界集落の一形態である。
 本書によって、空虚な人生を送ってきた都市在住の団塊世代と、やはり、空しい生活を送ってきた田舎住民とが、絶望的な出会いを繰り返しながら、田舎おこし関連産業に搾取されていく構造を知ることができた。 この国の人々の閉鎖性を突破しようとする勇気ある人々は、本書に書かれている現実を知ったうえで田舎にいくと良いだろう。日本の田舎住民の精神風景、ひいては、都市住民たちの原風景を知るための好著である。



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