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2008年04月27日

『世界をよくする簡単な100の方法』斎藤槙(講談社)

世界をよくする簡単な100の方法 →bookwebで購入

「ひとりでポジティブに世界を変えていこう。」

 前回、紹介した「生きるための経済学」では、いまの市場経済は「死に魅入られた経済」によって形成されており、そこから脱出するため「生を肯定する経済」に転換されるべきであると説かれていた。その全貌は、近い将来、著者の安冨歩によって学問的に明らかにされるだろう。
   生を肯定するための経済は、すでに形をなして、現実の経済活動にインパクトを与えようとしている。
 そのきざしを、一般向けの平易な言葉で、ひとつひとつたどったのが本書「世界をよくする簡単な100の方法」。
 安冨の「生きるための経済学」のあとに、本書を読むと、「生を肯定する経済」は、死に魅入られた経済活動の隙間から止めることが出来ない勢いとして吹き上がっているように感じる。
 著者の斎藤槙氏は、米国ロサンジェルス在住の社会貢献コンサルタント。日米の社会貢献活動に詳しい第一人者だ。
 私は、この書籍「世界をよくする100の方法」という前向きなタイトルにちょっと抵抗があった。きれい事すぎるのではないか、と。その抵抗感をなくせるように、前書きではこう書かれている。


「世界をよくしたい」という気持を誰もがもっているものです。
でも、「世界をよくしたい」なんて声高に言うのは大仰すぎると萎縮したり、そんなことを言うのはかえって無責任だと感じる人がいるかもしれません。また、自分ひとりが何かしたからといって世界が変わるなんてありえない、と思うかもしれません。
 そんな謙遜や悲観は早計です。21世紀の今、テクノロジーの発達を受けて、「ひとり」の力が、これまでは考えられなかったほどに大きくなっているからです。

 この文章を読んで、顔にアザや傷のある当事者を支援するユニークフェイス活動を開始した1999年当時考えていたことを思い出した。

 いまとなっては恥ずかしい夢想であるが、ユニークフェイスという活動を着想したとき、こういう活動をしたいと思っていた。

 ひとりの少年(顔にアザがある)が学校でいじめられている。生命の危険を感じたとき少年は携帯電話を鳴らす。すると私のオフィス(NPO法人ユニークフェイス)に電話がつながり、1時間以内にレスキューチームが現場学校にヘリコプターで急行。私はヘリに乗って無線で部下に指示。黒いサングラス。ヘアスタイルは角刈り(「西部警察」のノリだ)。運動場の真ん中にヘリが着陸。私の部下たちがいじめている当事者たちを、非暴力的な手段(たとえば合気道)でばったばったとなぎ倒し、凶悪犯罪容疑者であればそのまま警察に引き渡す。子供にカウンセリングを提供。学校関係者にフォローアップを依頼。こうしてユニークフェイス当事者をいじめから救う。(現実には燃料代が高額すぎて無理だろう。レスキュー代金の請求書はどこにまわすのか? こういう夢想はハリウッド映画的ではあるが考えるだけでも楽しい)。

 これは与太話として、当事者同士がつながることはきわめて容易になった。それが21世紀である。

 1999年当時、国内でばらばらに孤立したユニークフェイス当事者をつなげるために、マスメディアによる報道と、インターネットによる情報環境の2つは強力な味方になってくれた。とくに後者についてはいくら感謝しても足りないほどだ。マスメディアの情報は単発的だが、インターネット情報は「ひとり」でも持続的に発信することが可能であり、しかもその発信コストは限りなくゼロに近い。

 いま、顔にアザや傷のある当事者で、「ユニークフェイス」という言葉を知らぬ人は、インターネットをしていない人だと思う。

 私は、このインターネットによる情報革命が進行していく中で、ユニークフェイスという社会貢献事業(ユニークフェイス当事者支援)を始めたのである。

 同時期に、私だけでなく、世界中で「ひとり」の力がたくましく成長していった。

 ユニークフェイス活動家である私は、その末席にいる一人にすきない。 

 私が興味をもったのは、Action50 「夫婦で社会貢献する」。カメラマンの八重樫信之さんとライターの村上絢子さんの夫婦が、ライフワークとしてハンセン病問題を取材しているという文章だった。

 斎藤氏の目線には、米国元大統領のビル・クリントンの設立したクリントン財団も、日本のハンセン病問題をライフワークにするジャーナリスト夫妻も、同じように世界をよくするためのチャレンジをする当事者なのである。

 この視野の広さ、鷹揚さが、これまでの社会貢献本にはなかった特色だと思う。

 社会貢献活動では、そのリーダーだけにスポットがあたりがち。その活動を知るだけ、関係する商品を購入するだけでも、世界をよくする行為につながっている。そのこともわかりやすく伝えている点もすばらしい。

 帯文もいい。

 「買うなら、よい会社の製品」、「食べるなら、スローフード」、「着るなら、エコファッション」、「洗濯するなら、重曹利用」、「ドライブなら、省エネ運転」、「旅するならエコツアー」、「チョコレートなら、フェアトレード」「泊まるなら、グリーンホテル」、「外食するなら、グリーンレストラン」

 きれい事かもしれないが、ひとつずつ続けることで、世界は変わる。資本主義が世界を悪くしたといくら言っても世界はよくならない。営利、非営利を問わず、普通の生活のなかから世界を変えていくことができる、と斎藤氏はポジティブなメッセージを発信している。

 本書を読んで、そのメッセージを受け止める人が増えて欲しい。

 
 私も世界をよくするために行動している。NPO法人ユニークフェイス以外ではジャーナリズムへの貢献があるだろうか。

 友人のジャーナリスト烏賀陽弘道氏が、(株)オリコンに名誉毀損で訴えられた。烏賀陽氏を支援するためにこの問題について書き発表しつづけることは、「表現の自由」が尊重される社会を創るための社会貢献活動だと思っている。雑誌にコメントをしただけで、5000万円という高額な損害賠償請求の名誉毀損訴訟を起こされる! 司法もそれをよしとする。こんなとんでもない裁判が二度と起きないように、自分のできることをやっていく。


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2008年04月13日

『生きるための経済学-<選択の自由>からの脱却』安冨歩(NHKブックス)

生きるための経済学 →bookwebで購入

「虐待された迷えるアダム・スミスの亡霊に市場経済は支配されている」

 マイペースで経済の勉強をはじめて1年ほど経ったろうか。
 そうしたら、昨年、サブプライムローン問題が顕在化して、世界経済が大混乱に陥った。優秀な頭脳をもった経済の専門家たちがとんでもないことをしてくれた。日本でも、国会が日銀総裁を決定できないために空転した。すったもんだのあげくに決まった日銀総裁は迫力がない。福田総理は自信喪失した老人というイメージがすっかり定着している。これでは世界から舐められるだろうな、と思う。

 著名経営者によるビジネス書も読んでみた。彼らの主張を整理すると、人並み以上に仕事をし、いつも感謝の気持を忘れないでいると、顧客のニーズがわかり、その満足を得るために働くと仕事は楽しくなる、と説く。ワーキングプアが増えている時代に不可解である。大衆をだますための創作話のようであるが、多くの人が信用しているようなので、ヘンだ、とは言いにくい。

 市場経済とはそんなにかんたんな原理で動いているのだろうか。
  
 この市場経済という、わかったようでわからない概念を知るために本書を手に取った。
 著者の安冨歩氏は、この市場経済学の土台が非科学的な仮定の上に成り立っていると論じている。

 「市場経済学は、さまざまの仮定の上に成り立っているが、その仮定の多くはじつは非現実的である。非現実的というのは『現実の経済の姿をゆがめている』というような生易しいものではない。多くの仮定が物理学の諸原理に反している、という意味で非現実的なのである」


 市場経済学は「相対性理論の否定」、「熱力学第二法則の否定」、「因果律の否定」という三重苦のうえに立っているのである。きわめて脆弱な基盤と言わざるを得ない。著者が、そのひとつひとつを証明していくさまを読みながら、経済学とは人々をだますインチキ学問ではないかといぶかしんだ。

 この3つの非科学性を論証した後に、市場経済学の中核の考え方のひとつ「選択の自由」という「希望」こそが、現代社会にいきる私たちを呪縛し、生きづらいものにしていると分析する。

 資本主義を維持、発展させるためには、人々が本来必要な消費よりも多くのものを消費するようにし向ける必要がある。「消費の自己目的化」である。

 「消費を自己目的化するということは、消費依存症になることである。自動車・携帯電話・インターネット・ファッション・ダイエット食品などはその典型である。それなしでは生きていけない、という気分になることがその症状の特徴であり、消費者の多くがそうなったときにはじめて、その業種は産業として安定するのではなかろうか。今日では、企業活動の主たる目的は、消費者を自社の商品やサービスの依存症にすることであると言うこともできる」

 このような過剰な消費を批判する言説をつくりだすことは、ジャーナリズムの得意分野である。著者のような経済学者が、こうした発言をすることが意外に感じられた。経済学とは、膨大な統計データをよみこんで、解読・分析し、それに基づいて、資本主義がさらに発展するために貢献する学問ではないかと、思っていたからである。(マルクス経済学のような、思想的立場が明らかなものは別)。そこには、学者としての主観やインスピレーションよりも、数値というデータを信じ、客観的に論じるべきという、確固としたルールがあるもの、という先入観があった。その先入観を著者はきもちよく裏切ってくれた。

 著者は、自分自身の体験も書かずにはいられない。
 仕事依存症になったこと。結婚を2回して、その結婚生活に破綻したこと。自殺を考えていたこと。個人的な事件さえも、市場経済の歪みが影響していると、深く洞察し表現している描写は見事。著者は、身を投げ出して本書を書き上げているのだ。


 現代の経済学では「選択の自由」とは疑うことができない真理とされているようだ。その市場経済学の前提を懐疑していくと、資本主義の父たる、アダム・スミスへの批判にゆきつく。

「人間の利己心の正体は虚栄心であると主張したスミスは、この利己心に従うことが社会秩序の根源になる、という議論を展開した。この主張の急所は、人々の利己心の本質である虚栄には最初から他者の目への意識が入っている、という点にある。  利己心の基盤は虚栄であり、虚栄とは人の目に自分が立派に映っているようにと願う心である。人が激しく競争するのが虚栄のためであれば、財産を求めるのも虚栄のためであり、とすれば、露骨な略奪によって財産を築いたのでは、虚栄が失われてしまう。こうして自由放任政策を採ろうとも、秩序が保たれる、ということになる」

 論理の詳細については本書に譲るとして、この虚栄に基づいて生きていくとどうなるか。他者からみて望ましい人間にならないと不安でたまらなくなり、激しい労働に駆り立てられる、満たされない思いを解消するために消費依存症になる。著者のいう、自我を喪失した「自動人形」になってしまう。

 これは「死に魅入られた経済」(ネクロフィリア・エコノミックス。略してネクロ経済)である、と著者は言う。このネクロフィリアの思想が経済学に持ち込まれたのはなぜなのか。著者はアダム・スミスが母親から虐待を受けていたからではないか、と推察している。幼児期に母から疎外されたスミスは「精神的苦しみに苛まれ、恐怖と懸念とに脅かされ、死に魅入られていた魂」の持ち主だった。簡略して紹介すると、強引な論理展開に見えると思うが、たいへん説得力のある記述なので、ぜひ、実際に本書を読んで確かめて欲しい。

 著者は、この「死に魅入られた経済」を克服し、「生命を肯定する経済」(ビオ経済)に歩むべきである、と提唱して本書を終えている。

 死に魅入られた経済から、生命を肯定する経済の動きはそこかしこに見られる。社会起業家たちの登場と、社会からの期待は、その現れのひとつだろう。

 虚栄と不安を養分に成長した「ネクロ経済」から、善意と肯定を養分にした「ビオ経済」への転換期に私たちは立ち会っているのだ。


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