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2008年02月18日

『日本を降りる若者たち』下川裕治(講談社現代新書)

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「外こもり、という日本難民の記録」

 まじめに会社で働くつもりで就職したら、老人をだます詐欺のような仕事をさせられた。我慢して働いた。ある朝起きられなくなった。パニック障害と病院で診断された。
 ワーキングホリデーで1年間外国で旅をしながら働いた。1年たっても英語力は今ひとつ。日本に帰国して就職試験を受けた。落ちた。海外の大学をきちんと卒業した者には勝ち目がないことを知った。
 テレビ局の下請けで一生懸命働いた。あるとき上司から「おまえの代わりはいくらでもいる」と言われてショックを受けた。退職して旅に出た。

 そうした、過労死と偽装が横行する日本社会では、ありふれた、しかし本人にとっては耐え難い経験をした彼らがたどり着いたのが、タイのバンコクにあるカオサンである。世界一のゲストハウス街である。一泊300円から1000円程度で宿泊できる安宿があるのだ。

 彼らはカオサンに長期滞在する。日本で稼いだお金でひっそりと暮らす。衣食住という生存に必要な最小限のお金だけをつかって。カオサンでは何もしない。ゲストハウスやアパートの一室で、ひがな一日ビールを飲んだり、パソコンでインターネットをしたり、とのんびり過ごす。

 「なにもせず、どこへも行かない旅行者たち・・・・。
 それはバックパッカーの系譜から見ても、新しいグループの出現だった」(下川裕治)

 長期旅行者のなかで、「沈没」という言葉がある。なにをするわけでもなく、ある外国の町に数ヶ月滞在してしまうことだ。「沈没」には、時期がきたら浮上して旅を再スタートするというイメージがまだ残っている。本書で描かれているのは、「沈没」の最終地点、「外こもり」である。

 「日本でひきこるのではなく、海外の街でひきこもる若者たち」。彼ら・彼女らが、本書の主人公だ。

 日本では「勝ち組」「負け組」という言い方で、人間の価値を収入で決めつける風潮がある。その負け組に落ちないために、人々は会社で過酷な勤務に身をまかせる。余裕のない生活を続けていくうちに、家庭が崩壊する、体をこわす、精神病になる、仕事中毒になる、という悪循環にはまりこむ膨大な人々がいる。その人たちが運良く、働きやすい職場を見つけることが出来ればよいが、一定数の人間は、転職に失敗し労働市場からはじき出され続ける。その一部は、日本の円の力を借りて、のんびり暮らせるタイのバンコクに流れ着くのである。

 日本のように何もかもきちっとした国は世界のなかで少数である。電車が定刻通りに発着する異常さ。 異常な密度の満員電車に乗って、不平不満をいわずに沈黙をかたくなに守っている忍耐力。履歴書に少しでも空白(離職期間)があると就職で不利になり、正社員になる道が狭まる。濃紺スーツという無個性のファッションで身を固めないと働きにくい職場。自己啓発書を読んで、自分を高めるための努力を惜しまないというポーズをとっていないと安心できない文化風土。数えだしたらきりがない。

 社会でおきていることは、自分の力では変えることができないという断念のなかで生きている人たちは、暗黙のルールに従って、異論を表明しない。異論があっても匿名でブログに書くのが精一杯という有様だ。

 日本に適応できない日本人は、昔から海外に脱出してきた。彼らの多くは、海外生活によって、いまよりも自分を高めようとした積極的な人間だった。
 本書では、「負け組」とされる経済的弱者さえも国境を越えてしまう、それほどまでに日本国が日本人に嫌われ、憎まれている現実が描かれている。

 「外こもりとは、突き詰めれば日本社会からの逃避である。うまく逃げ通せれば、余裕がなくなりつつある日本社会で、奥歯に力を入れて生きなくてもいいと思う。しかしそこには、うまく逃げられれば・・・・という前提がある。それはなかなか難しいことだ。日本人であるという事実はいつまでもついてまわる。逃避する自分を探しまわる追っ手もまた自分のなかに棲んでいるのだ。
 だが日本社会が怖い。
 いまの日本社会に怖さを感じ取ってしまう若者が増えている。逃避への羨望をいつも抱えもってしまっている。外こもりの入り口のひとつは、その怖さであることもまたたしかなのだ」(下川裕治)

 砂粒のようにばらばらになった個人をまとめる装置がかつての日本国内にはあった。地域、会社、家族というものだ。それらが機能しなくなり、グローバル経済の影響のなか、格差社会が出現し、砂粒になって飛散している。タイのカオサンには、その飛散した砂粒が集まっているようだ。本書によれば、沖縄も、外こもりの避難所になっているという。彼らは、日本国内のひきこもり当事者と違い、タイや沖縄に逃避するだけの行動力と知恵があるように見えるが、海外に定住するための生活基盤をつくるまでの覚悟がないのだろう。だから外こもり、なのである。

 私は海外放浪者になりたいと思ったことがある。何度か試みたが、日本で自分にしかできない仕事がある、という動機をみつけてしまったために、いまも日本にいる。外こもり当事者たちに、昔の自分の心象風景をみたと思っている。

 海外で野たれ死にする覚悟があるのならば、外こもりでもいいのではないか。そうでないならば日本と向きあうべきだろう。

 と書いたものの、この外こもりの人たちが、バンコクで生きる気力を取り戻して、そのままアジアの地で働き、家族をつくり、死んでいくことが、国際化のひとつの形であるとも思う。

 日本の閉塞感は、海外にも輸出されるのである。それは、外こもり当事者だけの責任とは思えない。華僑のような固い絆をつくることができない、表面的には画一的で結束していても、中身は砂粒のように相互不信と無関心でばらばらになっている日本の自画像を表現することに成功した一冊になっている。

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