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2007年12月31日

『高学歴ワーキングプア』水月昭道(光文社新書)

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「高学歴ワーキングプアはまだ眠っている」

 高学歴ワーキングプアとは、博士などの高学歴をもちながらも、大学職員になれず、フリーターなどの非正規雇用で生活費を稼ぐ者たちのことを指す。貯金はなく、将来の展望も描けないから、結婚もできない。企業がもとめる知的訓練を受けていないので、その知的スキルに応じた職で正規採用される可能性が低い。

 最近、ここ数年、ニート、プレカリアート、ワーキングプアという、労働形態をカタカナで説明することが流行している。ただしい日本語で書けば「貧乏人」であり、「貧困者」である。だが、人はこの「貧」という言葉を嫌悪する。議論がまだろっこしくなる。
 著者は「高学歴の貧乏人」が構造的に生み出されていることを述べている。東大などの一部の特権的な地位にある大学と文部科学省が、少子化時代で大学入学者数が減少する時代を見越して、「大学院重点化」という方針をつくりあげたこと。その方針にしたがって、全国各地に大学院がつくられ、入学しやすくなった大学院で学んだ学生たちが、就職がなくて困っているという現実。。高学歴ワーキングプアの当事者である著者が、同じ境遇にある当事者を取材した、「当事者ジャーナリズム」の成果のひとつである。

 読了して、私が大学院入学をした当時よりも、大学生の進路に関する情報収集能力の劣化を感じた。

 私の出身大学である豊橋技術科学大学は大学院修了が求められるのが前提の大学だった。私は1988年に4年の課程を卒業し、大学院には行かず、「夢」のためにフリーターになった。就職市場は売り手市場だった。母校の求人倍率は4倍。ひとりの学生に4社の求人があるという状況だ。大学院にも誘われた。成績がトップクラスだったから当然である。大学院に行かない決断をした。その理由をいくつか列挙する。

(1)多くの教授が世界水準の研究をしたり目指していた。その知的生活の現場を見て、狂気のような、そして強靭な意志がないとその世界の住人になれない、と分かったこと。

(2)大学院に進む先輩たちに人間的に尊敬できるような人がほとんどいなかったこと。朝9時から夜9時まで研究室にこもって研究する人生は耐えられないし、研究以外に共通の話題が見つけられないのには閉口した。研究者になるためには、「研究村」の住人にならないといけないのだ。

(3)大学院にもブランドがあり、豊橋技術科学大学レベルの大学院を出てもつぶしがきかない。この大学院出身者に求められているスキルは、研究チームの「兵隊」である。ボスになれる可能性は低い。

(4)以上のことは、担当教官と気軽に会話をしていれば、すぐに判明することであり、とりたてて騒ぐようなことではない、と気付いた。

 このような環境をよく理解したうえで、同級生たちは大学院に進んでいった。人生の選択として十分すぎる情報である。たとえその人生に後悔しても、結果は自己責任であると思っていたのだが・・・本書によれば事態はそう単純ではないようだ。

 本書によれば1990年代に進められた「大学院重点化」政策によって、大学院定員が膨張。博士取得者が増えても、それに見合ったポストがない。これまでは、いわゆる地方の3流大学が、このような博士取得者の就職の受け皿になっていたのだろうが、少子化による大学倒産時代が到来し八方ふさがりになっている。

 こうして非常勤講師とコンビニのバイトのかけもちで月収15万円というオーバードクター(余剰博士)ができあがる。
 

「平成18年(2006)年度の博士課程修了者数は15966名。もちろん過去最高だ。その内、「死亡・不詳の者」、1471名(9・2%)、つまり、博士卒の約1割は社会との接点が確認されることなく姿が消えているのだ。
 とくに私の出身である人文・社会科学の分野では、修了者2601人中「死亡・不詳の者」は495名(19%)となっている。ちなみに就職者は897名(35%)。まさに絶望的な数字だ。

 NPO法人ユニークフェイスの代表として、積極的に人文・社会科学分野の研究者と交流してきた。その人たちにオーバードクター問題について話を振ると以下の会話がすぐにできる。

「大学院同窓生のうち何人かは消える」
「どういうこと?」
「突然、研究室にこなくなって行方不明になる。女だったら研究生活をやめて突然結婚するとか。まったく研究と関係のない職に就くとか」
「生きていて、消息が分かっていればいいよね。自殺は?」
「そこまでは分からない。消息が分からない人の中にはいるかもしれないけど」

 私の知っている何人かの研究者は、本書でいう「高学歴ワーキングプア」である。論文を書き、認められれば大学の就職ができるというわずかな希望をもって生きている。このような生き方は、芥川賞を目指す小説家の卵のようだ。報われない可能性が高い。

 運良く大学に職を得ても、若い学生の面倒をみるのに時間を奪われ、学内政治(博士を取得していない人が上司なので、博士取得者は心中穏やかではない)に神経をすり減らしている。精神安定剤を服用している人も知っている。

 著者は、高学歴ワーキングプアにならないためには、大学のポストに就けるという幻想をなくすべきだと主張する。同感だ。

 ある特定の分野の知識を大量に蓄積し有効活用するスキルと、社会をサバイバルするスキルとには常にギャップがある。現状の大学院は、前者も後者も不足している。現状の大学院は、学生から学費を吸い上げ、人間として成長する20代という貴重な時間を浪費させている。いわば研究のモチベーションを収奪するシステムになっているのだ。いま大学に勤務している職員にしても、その大学が少子化で倒産したとき、再就職の可能性ゼロ、起業するガッツゼロという人は人は実に多い。

 こうなったら、高学歴ワーキングプアの当事者の手で新しい大学を創るべきだ、とさえ思えてくる。倒産した大学の建物を活用して、新しい事業を創出することも視野にいれるべきだろう。水月昭道さんにはそんな活動を期待したい。手伝いますよ。


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2007年12月25日

『プレカリアート』雨宮処凛(洋泉社新書)

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「貧乏階級のマリアの爽快な闘争記録---でも、勝てるのか?」

気がつくと、格差社会の本ばかり読んでいる。今回も、前回で紹介した『若者の労働と生活世界』、『新しい階級社会 新しい階級闘争』に続いて格差モノだ。

 プレカリアートとは「プレカリオ(不安定な)」と、「プロレタリアート」をあわせた造語。不安定な雇用・労働状況における非正規雇用者・失業者を総称した言葉だ。
 雨宮処凛の経歴を一言で説明するのは難しい。アトピーでいじめにあい、ビジュアル系バンドの追っかけ、その後、上京して大学二浪をしてフリーター。生きづらさでリストカット。自殺未遂も。右翼団体に入って、街頭宣伝活動をしたり、北朝鮮に行ったり、イラクにいったりと、とにかくめまぐるしく動く動く。いまは「プレカリアートのマリア」である。
 リストカッター・自殺未遂経験者が作家になり、かつての同じような境遇にある当事者のためにデモをしたり、右翼作家(雨宮は元右翼だったので、話がかみ合うかとおもいきやすれ違う。それが面白い)石原慎太郎と対談するという、八面六臂の大活躍が、薄い新書にオテンコモリである。
 雨宮は、どん底から成り上がった、いわば成功者である。フリーターのような底辺層から社会的に認められた物書きになれたことを、社会学的には「モデルマイノリティ」と呼ぶ。作家というリスクの高い職業には、このようなモデルマイノリティが多い。(被差別部落出身の作家中上健次、在日・高校中退・自殺願望者ということを売りにした柳美里など多士済々だ)

 カバーの内側のコピーを読んでここまで事態は進行していたのか、と嘆息した。

 「日本のフリーターの数は400万人を超え、非正規雇用者数は1600万人を突破した。若年フリーター層の平均年収は106万円である」

 1ヶ月の平均収入は9万円以下! そんな人が400万人も日本にいる!

 第三世界、発展途上国並の賃金しか受け取れないブレカリアート(フリーター、ワーキングプア、派遣社員たち)を生み出す社会構造を、雨宮は、貧困ビジネス企業群に対する抗議集会でシュプレヒコールをあげながら取材していく。もともと貧乏な友人たちに囲まれ、愛されて世に出た雨宮である。低予算の取材費で貧困問題に切り込んでいく。読んでいるとき爽快感につつまれる。
 行間には、自殺したプレカリアートたちの声を聞き取ったという自負があるし、そういう悲惨な声に押しつぶされることなく、エンターテイナーとしての心意気をしっかり堅持しているために、その文章もアジテーションも受け取る側に爽快感を与えてくれる。

 いまブレカリアートになっている当事者を支援しないとたいへんなことになる、と支援関係者は言う。ネットカフェに非難しているネットカフェ難民たち、親の貯金でしのいでいるニート、ひきこもりの当事者たちが、数年後には路上に出て、正真正銘のホームレスとなる、と。
 不謹慎だが、このとき、日本にはプロレタリア革命がおきるのかもしれない、という想像力をかき立てられた。人材派遣大手グッドウィルグループの折口や、世界中にありがとうを提供したいと主張している居酒屋チェーン経営者といった資本家階級と、プレカリアート集団が正面衝突するのはいつなのだろうか。このような夢想は楽しい。
 革命のシミュレーションは楽しいが、すこし立ち止まって考えてみれば分かる。夢想や妄想では社会は変わらない。過去の革命妄想による無謀な行動によって左翼は市民社会からの信頼を失った、という歴史的な事実は重い。
 とはいえ、雨宮の問題提起は、サブカル的感性が大衆化した若者たちには届きやすい。ゴスロリという時代遅れの異形のファッションも効果的なのだろう(いつまでこのスタイルを堅持するのか気になるのだが・・・)。
 雨宮は、自分と似たような境遇にある当事者たちが、社会復帰することができないままリストカット、自殺未遂、オーバードーズの悪循環から抜けられないことを見ているはず。生きづらい者たちのなかの、真の弱者たちは、デモをしない、できない。生活苦の人間にはデモをするだけの余裕はない。他者を救うための言葉と時間と体力はないのである。ほんの一握りの人間が抵抗する。抵抗できることを知った者たちは、いつか経済的に自立して、かつての弱者仲間とのつきあいは疎遠になっていく。弱者同士の連帯は困難なのだ。連帯にはコストがかかる。そのコストを支払うことができない者たちは闘争の現場には現れない。自尊心をはぎ取られ、社会から阻害されたために身動きがとれなかった者たちにとって雨宮はアイドルである。
 プレカリアートの悲惨な未来像を変えるためには、雨宮を乗り越える社会運動の担い手が必要なのだろう。ゴスロリという異形のファッションは奇抜だけど、普通の人々=大衆の支持は得られまい。
 貧困者を救うことで健全に利益を出せるソーシャルベンチャー的な経済の仕組み必要だろうし、それらの活動家たちは本書のなかで効果的に紹介されている。貧困者を搾取する貧困ビジネスと対峙する人がいることに安心する。焼け石に水だ、と冷めた言葉がのどから出そうになる。燃え尽きないでほしい、と思う。
 雨宮は表現者である。自分の感性に従って、動き、語り、デモをする。その後ろにいる当事者たちは、静かに絶望している。
 流れゆく者は、立ち止まることしかできない者に何ができるのか。

以下は、蛇足である。 

 
同書の中に収載された座談会に読み応えのある場面があった。


---就職活動も結婚も努力が必要というお話をきいていて気になったのですが、女性フリーターの結婚事情というのは、どのようなものですか?

雨宮:私の知る限りでは、正社員の争奪戦ですね。彼女たちの主婦願望はものすごく強いんです。男性以上に将来の見通しがつかないですから、自分と同じような非正規社員の男性は選ばないので、結果的に高収入の男性の奪い合いになってしまうんです。

---高収入の正社員を獲得できるのは、どんな女性が多いのでしょうか。
雨宮:一言で言うと、もの凄く顔面偏差値の高い女性ですね。それ以外の人たちにとっては、非常に高い競争率になってしまいます。

---顔面偏差値の高いというのはつまり、美人の女性という意味ですね(笑)。赤木さんの言われたような、結婚にかんする男女平等が実現した世の中になったとしても、男性フリーターは顔の選別という激戦を勝ち残らないと幸せになれないわけですね。

赤木:それは厳しいな(笑)


 格差拡大のなかで、貧困から脱出しようする女性のなかでも、美人女性は、高収入男性との結婚の可能性がある、というのだ。そこまで外見資本主義が進行しているのである。モデルやレースクィーン、女優のような外見肉体労働者たちが、ベンチャー企業の社長などと結婚するケースがそれに近いといったらわかりやすいだろうか。
 十代のとき、重度のアトピーのために外見にハンディキャップをもっていた雨宮さんはこういう細かい点に目が届く。格差社会を学問的に研究している専門家とちがう点だろう。不安定な労働者のなかでも、美人はその境遇から脱出できる可能性が高いという指摘は重い。普通の外見をした、普通の能力をもった、普通の人間こそが、ブレカリアートになると、出口がみえず、絶望が深いのである。


 石原慎太郎と雨宮処凛の対談を読んで、大衆心理をつかむ石原の能力は卓越している、と改めて思った。本音を言うことに躊躇がないが、相手の話にあわせる柔軟性もある。
 雨宮さんが、いじめ体験を語り出すと「あなた、何しに来たの!? 愚痴を言いに来たの? 僕に何をしに来たの? 何を聞きたいの?」と切り返す。格差問題のデリケートな議論を仕掛けようとしても、とりあわずに次のようにうまくし立てる。
「格差もいじめもなくならない」「ワーキングプアという人たちは仕事を変えればいいじゃない」「チベットとか、チェチェンとか、国民がシベリアに移動させられている国と違って、そういう悲劇に比べたら、ささやかなもんじゃないですか」「日本の平均所得だって、他の国に比べたら高いしさ。隣の中国だって、あそこの格差と比べたら、当人の意志努力で超えられるものってたくさんあると思いますよ」
 石原の言うことにも一理はある。
 このような格差論争そのものが、橋本健二著「新たしい格差社会 新しい階級闘争」(光文社)でいうところの、階級闘争なのである。石原は、自分自身がアンダークラスにいるという階級意識を自覚していない大衆と、アンダークラスを搾取することでビジネスをしている富裕層に向かって語りかける。雨宮は、プレカリアートというまだ目覚めていない小さな市場に向かって語っていく。そのすれ違いが格差として浮かびあがる対談に仕上がっている。
 足下にある危機は共有されることはない。が、連帯はできる。


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2007年12月21日

『新しい階級社会 新しい階級闘争』橋本健二(光文社)

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「アンダークラスの怒りを鎮めることは可能か」

 講演の仕事のために移動中の博多行きの新幹線で本書を読んでいた。その日に、佐世保で乱射事件が発生、翌日「犯人が自殺」という朝日の号外を読みながら浜松に戻った。

 本書の後半では、格差社会で低所得者層に位置づけられるアンダークラスの若者たちが、犯罪という形でその怒りを暴発させ、自壊していく様子も表現されていたため、佐世保乱射事件とシンクロしながら読むことになってしまった。乱射事件では犯人が自殺。真相は藪の中だが、ストーカー的な動機によるものと新聞報道されている。読書と現実が模倣しあうような感覚。苦い読書体験である。

 本書では、日本社会のなかで急速に格差が拡大し、フリーター、派遣労働者という非正規雇用労働者の階級---アンダークラス---に属する人たちが増えていることがデータによって示されている。ここまでは、格差社会を論じる類書と変わるところはない。本書の特徴は、格差があるかないか、という論争があるということそのものが、階級闘争の一形態であるということを明快にした点にある。さらに進んで、永山則夫をはじめとするアンダークラスを出自とする青年たちによる、連続射殺事件、通り魔殺人事件が発生する背景には、階級の問題が横たわっており、これらの凶悪事件は、階級闘争がゆがんだ形で噴出したもの、という考えが示されていた。

 ソ連が崩壊したことをうけて、マルクスは死んだ---階級闘争や搾取という概念は死んだ---と、その方面に無知の私は考えていたのだが・・・それは誤りでした。すみません。というのは、日本で階級闘争なんか見たこと無いぞ、と思っていたからに他ならない。階級闘争によって政権が転覆されるなんて想像もできない国に生きていると思っていたからだ。

 著者の橋本は、日本における階級闘争の特色をこう表現する。

「日本の労働者階級は、もともと自民党支持率のみならず民主党支持率も低く、政治への参加は少なく、むしろ政治には無関心なのである。そして、非正規労働者からなるアンダークラスはどうか。アンダークラスは労働組合にも組織されていないし、その利害はどの政党にも代表されていない。総じていえば、日本には下層階級の利害を代表する政党が存在しないのである」

 したがって、日本のアンダークラスは「ただ搾取されるだけ」とも言える。だが、その反撃としての階級闘争は、組織化されないまま、「暴発、誤爆、自爆」していると橋本は述べる。1968年、日本を震撼させた連続射殺事件の犯人として逮捕された永山則夫について次のような記述がある。

「獄中で(中略)マルクスをはじめとする思想書を読みふけり、自分の犯行の原因は貧困を生む資本主義にあると主張するようになる。この点だけを見れば、卑劣な責任転嫁のようでもある。しかし同時に、彼は犯行に対する深い反省をも口にしている。ただしそれは、一般的に人を殺したことに対するものではない。『殺す相手を間違ったということ』『労働者を殺した,味方を殺したということ』に対する反省である」

 日本において、正規雇用からはじき出されたアンダークラスが政治的に力をもつことなかった。その利益を代表する政治勢力もない。社会からの理解もないに等しい。希望がない期間が長期化すると人は絶望、自爆していく。

 アンダークラスの一人が「自爆」した思われる事件を橋本は、東京地裁判決から引用する。

「被告人は、高校進学後、両親の借金のため生活が苦しくなったことから高校を中途退学し、アルバイトに専念していたが、借金苦から被告人を残して両親が失踪したため、独力で生計をたてざるを得ない境遇に追い込まれた・・・が、もともと大学へ進学して将来は事務系の仕事に就きたいと考えていた被告人にとって、そのような生活は満たされたものとはいえず、自分の努力が正当にされていないと感じて不満を抱き続け、転職を繰り返していたのであって、その不遇な境遇に照らし、不満を抱くに至った経緯に同情の余地がないわけではない。また、被告人は・・・努力しない者から無言電話をかけられたと思って腹を立て、これを契機として世の中が自分を正当に評価しないというかねてから抱いていた不満を享楽的と感じていた人々への反発心を募らせたものであり、その生い立ちや境遇を考えると、このような気持ちを抱くに至った被告人を一概に非難し得るものではない」
(1999年に発生した池袋通り魔事件。犯人の造田博は1975年生まれ、2人の女性を刺殺、6人に重軽傷を負わせた。判決は死刑)

 出口のない経済的貧困と、自己疎外が長期化することで、人は正気を失っていく。通り魔殺人犯人を裁く司法は、ときに優れた社会批評を書くのである。

 大阪で小学校に乱入、学童を無差別に死傷させた宅間守は、その犯行があまりにも衝撃的かつ法廷での言動があまりにも酷すぎたために注目された。宅間ほど過剰に饒舌な者は希だろうが、社会へのルサンチマンを溜め込んでいるアンダークラスは増え続けているのは確かなことのだろう。いくらまじめに働いても報われないのだから。

 橋本は、現代社会のなかで、永山則夫や宅間守のような者たちが出てくるのは、階級闘争の初期段階では必然だという。

 ひとつの会社が、経済的には奴隷のような待遇のアンダークラスと、年収1000万円以上の高額所得者を抱え込む。

 同じ日本人なのに!
 同じような学歴なのに!
 同じ出身地なのに!
 同じような能力なのに!
 同じような容姿なのに!

 なぜあいつらは高給で、なぜ私は貧困なのか!

 この感情は階級闘争の発火点になりうる。

「永山則夫は1949年の団塊世代、アンダークラスの多くは団塊ジュニア世代である。しかし永山と現代のアンダークラスの若者たちには、ひとつの違いがある。永山は獄中でようやく本当の敵の存在に気付いたのだが、その『子どもたち』には、初めから敵がみえてるのである」

 敵とはアンダークラスを搾取する階級であり、それを見殺しにする政治的に無関心な普通の労働者階級のことだ。

 読後感は苦いままである。
 

―追記―
 永山則夫は顔にヤケド痕のある男だった。永山は、周囲が自分を「ヤクザと疑っている」と思いこんでいたという。
 私の知っているユニークフェイス当事者たちは、「自分を劣った者」と思いこんでいる。外見資本主義が浸透する日本社会のなかで、きわめて生きづらい階層である。「外見のアンダークラス」ともいえる。私はいまアンダークラスにはいない。それは、早くから知的に武装しないと周囲につぶされる、と気付くことができたためだろうし、努力が報われる環境と友人に恵まれただけだったと思う。本書によって、私も階級闘争をしてきた、という気づきがあった。

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2007年12月14日

『若者を見殺しにする国』赤木智弘(双風舎)

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「ひとりの書き手の誕生を祝う」


 赤木智弘という若い書き手の単行本デビュー作である。デビュー前からネットで彼の紡ぎ出す言葉を何度か読んできた。podcastingラジオでその肉声も聞いた。彼が初めて商業雑誌『論座』に寄稿した『「丸山眞男」をひっぱたきたい--31歳、フリーター。希望は戦争。』は、論座を購入するタイミングを逸したために図書館でコピーして読んだ。フリーターという貧困層を出自とした、平凡な若者が論客として世に出ていくプロセスをリアルタイムで観察することができた。私は赤木とは面識はないが、すでに知っているかのような親近感を覚えている。インターネットというメディアの特性なのだろう。  単行本では、論座では書ききれなかった、フリーター赤木のどろどろした主観が丁寧に整理されて書かれている。読みはじめて一気に引きこまれた。文章を書くための専門的なトレーニングを受けていない人間が、自己流の独学で349ページというボリュームを書ききった情念は見事だ。華々しいデビューといってよいだろう。  赤木は、ひとりのフリーター当事者として、フリーターという貧困層の現実を、執拗に書き込んでいく。フリーターには金がない。だから結婚できない。新卒採用をする会社の人事担当者によってフリーターから正社員になる道が閉ざされている。絶望的な生活が続く。なぜフリーターはこんな生活を余儀なくされるのか。それを突き詰めて考えていくうちに赤木は30歳を過ぎる。
「仮に、私が普通の生活を送っているとします。サラリーマンになり妻をめとって子どもを養い、毎日のように満員電車にゆられ、都心からはなれたマンションに帰り、家族に軽視されながら、延々と続く日常をただ生かされ続ける。そのような普通の生活をしていたとすれば、私は自身の人生を暴露する必要などありません。  けれども、すでに私は普通の人生を生きることができない。そして、いまの人生を延々と続けていけば、なんの自己実現をもすることもなく、ただ格安の使い捨て労働者として無念のまま死ぬことになる。そうだとすれば、『自分が持っているもの』をなんとかお金に換えて生きていくしかない。そ『自分が持っているもの』が『私自身の人生』と、この本を書く機会に恵まれたというわずかな『運』なのです。  わずかな『運』に私の人生の暴露を添えて、自分の人生を取り戻さなければなりません」

 欠落を埋めるためのジャーナリズム。何者かが奪っていった自己の尊厳を取り戻すための文筆活動。それが赤木のモチベーションの核にある。この核を育てたのはインターネットであり、火をつけたのは新しいタイプのジャーナリストを世に送り出そうと企てていた数人のジャーナリストだった。

 赤木は「東天王ヨブ」というハンドルネームで自分の主観をはき出していた、ネット上ではよくあるタイプの無名の書き手だった。彼は、ひょんなきっかけからジャーナリストの武田徹氏が企画した東京大学先端技術研究センターの「ジャーナリスト養成コース」に通い、「ジャーナリズムとは自分から発露する」という基本を学んだ。

 私は武田徹氏のブログを週に1度は読んでいる。新しい書き手が生まれつつある期待が伝わってきた。友人の粥川準二(ジャーナリスト養成コースで教えていた)が、そのブログで、才能のある若い書き手がいる、と書く。どんな人間なのだろうか。興味がそそられる。赤木という人間への関心が醸成されていった。

 本書で書かれてあることは、私にとっても身近なことだった。

 フリーター31歳。しんどい年齢だよな。20代のうちは自分にも周りにも言い訳ができるが、30歳を過ぎるとたまらんわな。フリーターを長くやっていると、普通の職業人としての常識やスキルを身につけることができなくなる。正社員の指示を待つように、心と体が適応していくのだ。その適応を拒否して、アルバイトから正社員の座を獲得するひとはいないわけではないが、そのようなイレギュラーな飛躍的な成長をするアルバイトは少ない。いたとしても正社員はアルバイトの人間性や生活を顧みることはない。若いフリーターには、将来に対する希望はあるのかもしれないが、30歳を越えた中年フリーターには希望はなくなっていく。貧乏な男に女たちは冷たい。職歴のない人間に会社は門を閉ざす。日本の企業社会はこの点、異常なまでに潔癖である。新卒採用が基本。35歳を過ぎると中途採用もきわめて難しい。中年フリーターが、正社員になる道は、私生活を捨てるような過酷な労働に身を投じるような劣悪な労働環境しかつくれない中小零細企業になってしまうのだ。

 私も大学卒業後、2年ほどフリーターをしていた。その後、フリーライターになったが、まぁ、経済的にはフリーターと変わらない。フリーターとフリーライターの違いは、時間が自由になり、自由に発言する機会が増える、ということだろう。締め切りを守って原稿を書くというストレスを抱え込むにはなるけれど。ネットとブログが全盛の時代になり、自由にものを書いて発表することは偉業でもなんでもなくなった。

 私が31歳のとき、ニューヨークに滞在していた。目的はユニークフェイス問題の取材。名古屋の実家に寄生して原稿を書いたり、肉体労働のバイト生活。英語の勉強をして、少ない貯金をもってニューヨークに行った。その成果を単行本にまとめることができた。出口のないフリーライター生活をしていた私にとって大事件だった。33歳になっていた。単行本1冊で人生が変わったのだ。

 赤木も本書の刊行によって人生が変わる、いや、変わった。これから赤木はフリーター問題のジャーナリストとして独立してばりばり原稿を書いていくことになるのだろうか?赤木は、そんなうぶではない。資本主義社会の構造を、フリーターの立場から分析した赤木からみると、ジャーナリズムもまた安住の地ではないのだ。

「バブル時代まだしも、いまの時代に本を出したって、数百万円儲かることってことはほとんどありません。そして今後、仕事を続けられる保証もないのです」

 デビュー作の「あとがき」とは思えぬ、クールさである。こういうクールな視線を持った書き手だからなのだろうか。メディアの世界で活躍する文筆家、表現者(佐高信、森達也、斎藤貴男ら)が『論座』記事に反応した左翼的な言説を、バッサリ斬って捨てることに躊躇がない。若いのにたいしたものだ。(私だったら、同業者の先輩から嫌われたくないな、と自己規制するところだ)。

 もちろん、違和感はある。文章を書くのと同じくらいの情熱で、就職活動をしていれば、安定した生活を得ることはできるのではないか。いままでは不遇だったとしても、これからは正社員になることは可能だと思う。正社員にならないとしても、30代という気力と体力があるうちに、稼げるスキルと人脈をつくってほしい。フリーター問題で注目されたので、周囲には、ニート、プレカリアート、ワーキングプア、フリーライター、ジャーナリスト、エディターという不安定な労働者階級がわさわさと赤木を取り巻いているはずだ。そういう人たちといくら交流しても経済的な安定は得られない。赤木がブログで指摘しているように、強者と弱者がつながったときに経済的な救済は訪れるのだ。

 金をもった人間とつきあうべし。

 人間関係には細心の注意を払って生活基盤をつくって生き残ってほしい。健闘を祈る。
 


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