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2007年05月11日

『殺された側の論理』藤井誠二(講談社)

殺された側の論理 →bookwebで購入

「復讐への加担というジャーナリストの仕事」

ノンフィクションライター、藤井誠二の新刊である。
(藤井誠二のブログ→http://ameblo.jp/fujii-seiji/

藤井誠二といえば、教育と少年事件をおもなフィールドにした書き手である。1984年、愛知県の高校在学中に管理教育に反対する『オイこら!学校 高校生が書いた“愛知”の管理教育批判』(教育史料出版会)でデビュー。今年で42歳。ノンフィクションライターとしては中堅の年齢に見えるが、そのキャリアは23年の大ベテランに属する。

私は藤井と同じ愛知県の出身である。藤井の噂は耳にしていた。ノンフィクションライターというよりも、反管理教育運動の活動家として、である。私が名古屋でフリーライター業を始めた頃、藤井は日本中を震撼させた東京都足立区で発生した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の取材を始めている。反管理教育運動、そして少年犯罪報道へ。藤井の視点は、一貫しているように見えた。それは、未成年に対する「味方」としての運動的ジャーナリズムである。「女子高生コンクリート詰め殺人事件」では、なぜ加害者は犯罪をおかしたのか、という視点で執筆した。ここまでは藤井は、少年の味方であることに違和を感じていない。

しかし、藤井は犯罪被害者たちと出会う。そして、被害者の視点で取材執筆してこなかったことに気づくのである。

私は、犯罪被害者遺族とは「怒れる人」であると思っている。肉親がぶち殺されたのである。人間を惨たらしく殺害する人間は、反省をしないことがある。強姦殺人をするような奴の悔悛の情など信用できるわけがない、と考えるのが庶民感情というものだ。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は、殺された側にとっては偽善的であり、殺された人間の苦痛を語るな、という抑圧になりうる。私は犯罪被害者ではないが、これくらいの「常識」はある。

ところが、メディアに登場する犯罪被害者遺族たちは、実に行儀が良い。行儀良く生きなければ、犯罪被害者遺族という当事者の意見を聞いてやらないぞ、という「世間の眼」があり、それに気遣いをしているからである。マスメディアもまた、そのような「世間の眼」の拡大再生産をすることで、「安心して読める口当たりのよい言説」で、幻論ビジネスを展開している。

そう、それは「幻論」なのである。犯罪被害者遺族は、加害者を一生許すことはない。そのようなゴリゴリした荒削りの肉声を、愚直なまでに時間をかけて、聞き取ってきたのが藤井だ。

実を言うと、私は藤井の新刊『殺される側の論理』を初めて購入して読了した。それ以前の著作は、内容があまりにも重く、そして自分自身の実生活に無関係だと判断して、図書館ですませてきたのである。なぜ、今回この新刊を購入したのか。それは、「論理」というタイトルに引き寄せられたからである。

殺された側の「事実」は、重く、そこから第三者が教訓を得ることは感情的に難しい。せいぜいが、「私は犯罪に巻き込まれなく運が良かった」という感想をもって終わる。
自分がその被害者だったとしたら?その被害者遺族だったとしたら?そんな重苦しいシミュレーションをして、感情移入する時間など現代人にはない、と思う。

右を向いても、左を向いても、ポジティブシンキングに満ちている。生きる意欲を根こそぎ破壊する、「凶悪な息苦しさ」と格闘している人間への共感する能力など、この高度資本主義、ITスピード社会には、ただの非効率なファクターにすぎないのだ。そのような被害者を救済することが市場になれば、世間は少しは関心を寄せるのかもしれない。だが、それは無理だろう。

「凶悪な息苦しさ」とは抽象的な表現である。具体的に言おう。犯罪被害者遺族は、加害者を自分の手で罰したいと渇望しているのである。復讐したいと願っているのである。それが本音である。その本音の発露が、犯罪被害者遺族の救済の第一歩だ。その本音に耳を傾けようとしない日本社会は、犯罪被害者に、沈黙を強制する、犯罪者優遇社会なのである。

犯罪被害者当事者は、藤井誠二という聞き手であり書き手を得ることで、世間の眼を説得する論理性を獲得しつつある。

「当事者の論理」とは、個人的経験と感情から誕生し、理解者という他者、その当事者とともに社会改革をするという変革者との出会いによって形成される。他者との出会いが希少であり、社会変革する意欲のある人間を白眼視する日本社会のなかで、藤井が犯罪被害者の伴走者になっていることは貴重である。

以前、藤井は私にこう語った。

「犯罪被害者を継続的に取材しているジャーナリストってすごく少ない。僕と日垣隆さん、それから先頃、亡くなった黒沼克史さんくらいかなぁ。犯罪被害者の取材は、とくに僕じゃなくてもできるはずだと思う。なぜみんな取材しないんだろう。もし理由があるとしたら、それは当事者が”怖い”からじゃないかな」

当事者の体験を聞くほどに、無力感にさいなまれることが分かっているから、人は当事者から距離を置く。こうして当事者は孤立していく。一方、犯罪者たちは、刑務所のなかで、犯罪者同士が語り合い、反省をしないで生きる方法があることを学んでしまう。犯罪者達はネットワークを構成し、被害者たちは孤立しているという長い歳月があった。

その失われた歳月を、被害者遺族達が藤井のペンを借りて取り戻そうとしている。藤井誠二の背負った責任は重い。遺族の取材を、藤井は日常に取り込み楽しんでいるようだが、その重責にキーボードの手が止まることもあるだろう。

『殺された側の論理』を私は一晩で読了した。しかし、この本の隅々には、眠れない夜を過ごした犯罪被害者の悲痛で長すぎる月日がしみこんでいる。新刊ではあるが、その装丁は長いときを経て、書庫から取り出されたかのような風格がある。白地に黒のタイトルは喪章のようであり、書籍のカタチを借りた墓標にみえる。

殺害された被害者たちは、この書籍の刊行を喜んでいるだろう。私はそう信じる。このようなカタチでの復讐への加担。それはジャーナリストの仕事である。


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