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2007年05月30日

『ひきこもりの国』マイケル・ジーレンジンガー著(光文社)

ひきこもりの国
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●ひきこもりという静かな反乱は拡大する●

この本は、ひきこもり問題の取材をしたアメリカ人ジャーナリストが、若者の個性を抹殺し、彼らをひきこもりに追いやる日本社会の構造を分析したものである。結論の一つとして、国際社会のなかで日本という国全体がひきこもっていることが示されている。

私はこの本のメッセージに深く同意しながら読了した。

本書には日本的なエピソードがふんだんに盛り込まれている。
そのひとつひとつはあまりに普通のことなので、社会現象として日本のジャーナリズムが取り上げることは少ない。それらを著者のジーレンジガー記者は丹念に記述していく。

異議申し立てを許さない世間の圧力、建前と本音を使い分ける多重人格的な精神生活、個性がない空虚な自分を埋めるためのブランド信仰、日本よりはるかに精神の自由を感じさせる外国に住んだ日本人が国内ではストレスで苦悩する現実、先進国でもっとも起業が少ないチャレンジを許さない社会風土、世界最強の消費者となった日本の独身女性たちの多くはパラサイトシングルであり日本の将来に絶望しているということ。年間3万人以上が自殺してもなんの手だてもうてない無策きわまる政治。記者クラブによってジャーナリズムが機能しなくなった惨状、しかし、まっとうな主張を掲げた大規模な抗議運動(デモ)が起きない、起こせない日本社会。

こういった「ありふれた事柄」が丁寧にまとめられているのである。

私は外見問題について執筆してきた者として、本書に少なからず日本人の外見について言及されていることに関心を持った。

いま日本では多種多様なファッション商品群があふれているが、街で見かける多くの人の外見はきわめて画一的である。ファッション誌がいくら「個性的であれ」と訴えても、人々は他人の眼を気にして逸脱した外見になることを恐怖している。

ジーレンジガー記者はファッションを選択するときの日本人の行動についてこう書いている。

「欧米では、女も男もたいてい自分独自の自己イメージを表現するファッションを選ぶので個人の趣味や気分の変化によって、いろいろな組み合わせが生まれる。ところが日本は、プロセスはまったく逆のようである。まず自分が帰属したいと思う集団のユニフォームを選ぶことによって人格を主張し、ついでその服装によって自分の気持ちや、他者にどう見られたいかを確定しようとする」

 欧米でも低所得者は、その収入にみあった服装をするため、画一的になる傾向はあるが、おおむねこの記述は正しいと思う。自分が着たい外見にするよりも、周囲とあわせて外見をつくりこむこと。それが日本人のファッションの掟である。

 社会学者の山田昌弘からはこんな言葉を引き出している。

「日本には宗教はありません。あるのは外見だけです」

この外見とは、周囲から浮かない外見という意味合いと、空虚な自己を隠蔽するために海外ブランドというユニフォームを着用する、という二重の意味が込められている。


 私はこの数年、学校や講演会などで、聴衆に向かって話す機会がある。ひととおり話し終えたあとに、「何か質問はありませんか?」と聴くと、ほとんど質問はでてこない。公共の場で質問をすることは恥ずかしいことである、自分にはそんなことはできない、と思いこんでいるのだ。この質問をする能力の喪失は、ジャーナリズムにも浸透している。記者クラブをのぞけば、質問をしないで与えられたプレスリリースのリライトにいそしむ記者たちが、クラブに引きこもっているのだ。

日本人は外面も内面も、周囲から浮かないように、と怯えながら生活している。この掟を破ると、集団で排除されると信じられているからだ。

その集団的な同調圧力に抵抗する方法のひとつが、ひきこもりなのである。周囲に心を同調させることができない孤独な魂を引き受ける集団を育てる力がなくなった社会では、彼らは自室に立てこもり、たった一人で世界と対峙するしかない。

 この国では、異議申し立てのノウハウは継承されていないため、ひきこもりという静かな反乱は拡大の一途である。

 安易な希望は書かれていない。それが良い。

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2007年05月28日

『病気だョ!全員集合 月乃光司対談集』(新紀元社)

病気だョ!全員集合
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●ある男の復讐、そして復活の書

著者の月乃光司は、対人恐怖症、醜形恐怖、ひきこもり、アルコール依存症、自殺未遂、リストカット、境界性人格障害の元当事者。精神病院に3回入院した経験もある。「壊れた人間」としてその人生の大半を過ごしてきた。

このような経歴の人間が、稀代の政治家、田中角栄を世に出した保守の基盤、新潟で表現活動をしてきた。その名も「こわれ者の祭典」。
http://koware.moo.jp/

月乃はその新潟で、うだつのあがらないサラリーマンをしながら、自分の過去、そして現在を絶叫詩人というスタイルで詠む。

私が初めて月乃の絶唱を聴いたのは、オールニートニッポン
http://www.kotolier.org/ann/index.html
の公開放送だった。その詩は生々しい。自室に引きこもっていたときの妄想が速射砲のように発射されていく。異性にもてる要素のないひきこもり青年月乃が若い女性に対してかき立てる猥褻イメージ、社会復帰した会社で自分をいじめる上司への殺意が、かき鳴らされたギターの弦の響きと相まって、聴衆の深層心理を抉るのである。

その声は、勃起したけれども挿入する相手がこの世に存在しないという、あけすけな童貞男の悲哀を、聴きたくもない聴衆に押しつける。右翼の凱旋カーのようなうっとうしさがあるのだが、その声にはひきこもり当事者が、ついに語る場を見つけた! という歓喜のメッセージとほどよくブレンドされて、イカくさいザーメンとして聴衆の脳内にインプリントされていく。

そうだ、俺もこういう妄想でオナニーをしていたよなぁ、と観客席で、思わず拳を握りしめる。そんな青春を回顧させる力に満ちている。

この月乃光司が、10年以上のひきこもりの穴蔵自室、精神病院の閉鎖病棟から、のっそりと這い出して、東京にやってきてはあまたの表現者と語り合ったのが本書である。

月乃はストレートである。自身が尊敬する表現者に対談を申し込むために、新潟から自費で新幹線にのって東京に乗り込んでくる。

大槻ケンジ、雨宮処凛、今一生、手塚眞、ホーキング青山、信田さよ子、戸川純、中村うさぎ、といった表現者たちを前に、毎日オナニーをするしかなかった孤独と焦燥感をネタに、なぜ人は自傷行為に至るのか、という現代的なテーマを語り合った。

対談相手は、それそれの生きづらさを感じている。または、感じていた当事者たちである。月乃のスタンスは、その人と会いたい、話したいという、シンプルな好奇心だ。その月乃の好奇心にそれぞれの表現者は、哄笑、爆笑、微笑、苦笑で相対している。

月乃は、この対談集を編んだ理由をこう書いている。

「実はこの本は、誰にも会わず、自分の部屋の壁を見続けるか、手首をカッターで切り刻むか、酒を飲むことしかできなかった僕の、世の中への復讐の本です」

月乃は、自分をひきこもり、アルコール依存症に追いやった世間への復讐をしているのだ。とても無様な復讐ではある。が、そのかっこ悪さを引き受ける月乃は、生きづらさを感じる人間が増殖する、「生きづらさ列島ニッボン」を体現する表現者になったと言えるだろう。

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2007年05月24日

『ハンニバル・ライジング』トマス・ハリス(新潮社)

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「人は肉を食べて生きる」


人食いレクターが誕生した経緯を明らかにした「ハンニバル・ライジング」を読むという経験は、『スター・ウォーズ』6部作を見終わった感慨と似ていると思った。

ハンニバル・レクターを主役にした一連の作品群『羊たちの沈黙』、『レッドドラゴン』、『ハンニバル』は強烈におもしろいというわけではないが、見逃すわけにはいかない、という思いに駆られる作品である。


この男、どこまで狂っているのか? どこまで走るのか? という興味。

『スターウォーズ』のキャラクター、ダース・ベイダーと、「ハンニバル」シリーズのハンニバル・レクターというキャラクターは、そのような興味をかき立てる。

ベイダーは、オビワン・ケノービの剣によって四肢を切断された身障者になり、悪として完成する変身を遂げていく。

ハンニバルは、ミーシャという妹を犠牲にしたが、その代わりに、あらゆることに動じない堅牢な精神の宮殿を構築してしまった。その復讐のために使用した凶器は日本刀であり、間一髪でレクターの命を救うのも日本刀だった。


レクターの心身は健康そのものであり、ベイダーのように銀河帝国の皇帝にひざまずくようなことはしない。現代の単独者としてスーパーマンなのである。

作品の質は折り紙付きだ。映画は数年に一度は公開される。周囲と話題になる。こういうコンテンツはまったくすばらしい。

日本びいきの登場人物描写もよい。

 残された謎はある。
 なぜレクターは人殺しのときにその肉を食べるのか?
 食べることで、ミーシャを喪失した悲しみを乗り越えようとしてるという解釈もありかもしれないが、たいして面白くはない。

 読んでいるとき何度か「リアリティはないが、よしとしよう」という描写があった。
レクターは追跡者からの襲撃をするりとかわすのである。そのノウハウはいつ身に付けたのか? 軍隊経験者の襲撃をかわす素人って・・・・。訓練経験がないと、そんなことできない。単なる才能とか勘だけで殺人者からの襲撃から生き残ることなどできはしない。

よいフィクションとは読んでいるときに、そのような理性によるツッコミの余地を与えないものだ。

 この小説を読んでいて快感を覚えるのはなぜだろう。

 悪が悪としてたくましく生きているということ。

 その悪が冷静な単独犯であることだろう。

 人は人を殺し、食べる。それはニューギニア戦線を生き残った「ゆきゆきて神軍」の奥崎謙三が告発したことではある。

 奥崎謙三は市井の中に紛れ込んだ、無名の兵士、匿名の元上官を訪問し、人肉食をした責任を追及していく。

 奥崎は常軌を逸した行動力でその戦争犯罪を、ドキュメンタリー映画監督原一男とともに暴いていった。

 人肉食をなかったことにしたいという、元上官たちの気持ちを戦後日本社会は容認し、沈黙によってその戦争犯罪を隠蔽することをよしとした。

ハンニバル・レクターには、奥崎の身体にたぎっていたイデオロギーはない。

妹が食べられたとき、抵抗できなかった無力感から芽生えた復讐を、戦後、平和になったフランスを舞台にたんたんと始めるのである。

奥崎謙三は、原一男監督というドキュメンタリー映画監督を利用した復讐を企図した。それは、戦争を知っている人間には、思い出したくない過去との再会であり、戦争を知らない若者には、どす黒い笑いを誘うエンターテインメントになった。奥崎は映画と共犯になることで、社会性を獲得したのだ。
それゆえにすばらしい映画になった。客の目を意識する告発者にしかできないことがある。それを奥崎は十分に楽しんだ。

 「ハンニバル・ライジング」を読了したあと、「ゆきゆきて神軍」を思い出したとき、その映画の評価とは別に奥崎謙三は甘かった、と思った。

 本当に人肉食をした元上官に復讐したい、天誅したいのならば、誰にも知られることなく、殺害するべきだったのではないか。

 愛する人間が食べられたのならば、殺して食べるという復讐方法こそが、その復讐相手をもっとも戦慄させるということ。それをハンニバル・レクターは、自分一人で決断して行動している。そこにハンニバルの「怪物性」がある。

 殺人の歴史をたどれば、猟奇的な殺人は百科事典になるだけの分厚い事実の集積がある。 

 その大半の猟奇殺人の動機は不明。もっともらしい動機を、その時々のジャーナリズムがその情報商品を売るためにでっち上げることはできるだろうが、その「動機にまつわるストーリー商品」の賞味期限は短命である。謎は謎としてつかみ取って、その不気味さを賞味できる人間こそが、猟奇殺人情報商品のよき消費者になる。

「ハンニバル・ライジング」では、ハンニバルがなぜ人肉を食べるのか? という動機はひとことも語られない。それはなぜか。作者、トマス・ハリスの想像力が世界的ベストセラーを連発するプレッシャーのために鈍ったのか。そうではないと思う。
人間は、論理の飛躍のなかで生きている、という人間観があるのではないかと想像する。
妹ミーシャが殺害され、食べられたとき、ハンニバルは記憶を喪失する。そのPTSD反応はあまりにも「普通」である。生まれながらの怪物ではないハンニバルは、その記憶喪失の期間に、脳のなかで、自分を侮辱する者に対しては食べることで処罰してよい、という飛躍の論理がはぐまれていったと、私は想像する。

躊躇しないで行動する人は恐ろしい。ましてや人肉を食することに躊躇わないなんて。

ところが、その行為に生存の道があるならば、人はつっこんでいく。

戦争で人肉を食べた世代は、敗戦の焼け跡のなかで、「金という資本主義の肉」を食べることで生き残りをかけた。

人は他者の「何か」を食べることで成長するのである。

さきに紹介した、新潮社の斎藤十一は俗情という肉を好んで食べていた。調理人は新潮社の社員。読者とともにスキャンダルという情報を食べる。なんという快感だろう。

あなたにとって「肉」とは何だろうか。その嗜好は語りにくいものなのか。

社会が容認する「肉」を選んだ人は幸運である。


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2007年05月21日

『編集者齋藤十一』齋藤美和(冬花社)

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「ひきこもり型編集者の時代は終わった」

新潮社の重役であり、数々の文豪を育ててきたとされる伝説の編集者、齋藤十一の追悼文集である。
「伝説」とは情報の格差によって生じる。

齋藤十一は「編集者は黒子である」という立場から、表舞台に顔を出さず、マスコミの取材を受けないことから、その伝説をつくりあげることに成功した。

公開された生前の写真がほとんどない、ということがマスコミ内でまとこしやかに語られているが、夜討ち朝駆けで追い込んでしまえば撮れるはず。齋藤と新潮社に遠慮して取材しなかった、ということだろう。

この国ではマスコミ関係者に対する取材攻勢はきわめて緩い。

齋藤が活躍した時期、新潮社ブランドは、一定の力を持っていた。
しかし、右肩あがりの出版好況の時期は、長い歴史のなかではほんの一時期にすぎない。
新潮社はそのあおりをもろに受けている出版社だ。ドル箱だった新潮文庫はブックオフの台頭で、かつてのような売り上げは見込めなくなった。編集者の高齢化というどこにでもあるありふれた問題にも直面している。
何年か前には給与の遅配、という情報が業界内を走った。その後「新潮新書」を創刊し、『バカの壁』(養老孟司)がミリオンセラーになって息を吹き返す。力のある編集者がいるのである。

齋藤十一は、「週刊新潮」、『FOCUS』などを創刊したことで知られる。

「人殺しの顔を見たいと思わないか」という名言で『FOCUS』を創刊したことは出版業界ではよく知られている。

しかし時代は変わった。

その齋藤イズムの継承者は、新潮社内にもちろんいるだろう。しかし、社員数300人足らずのなかで、『週刊新潮』に配属されている人間は数十人。
これに対して、インターネットの匿名の投稿者によって、犯人の顔写真を匿名巨大掲示板にアップする人間の数は無数。2ちゃんねらーに彼らに社会的責任を求めても無駄。「人殺しの顔を見たいと思わないか」という問題提起はない。「そう思うからネットで見て、それを無料でシェアしていく」というネットの暗黒面の実践をしていくのである。

いまや、齋藤イズムを正当に継承しているのは、「2ちゃんねる」の住人ではないか。

同書で斎藤は『僕は人とは付き合いませんからね。一人でいる方が楽』とコメントしている。

引っ込み思案で、引き籠もり傾向のある人だった。

そのくせ、俗情に訴えかけるセンスがある。
齋藤は早すぎた「2ちゃんねる」の住人だったのではないか。

いや、現代の「2ちゃんねる」の住人の方が齋藤十一よりもラジカルである。
齋藤十一はその住居を知ることはできた。新潮社という組織の役員であり、司法ぎりぎりの表現という挑戦をすることを強いられる。
しかし、匿名者はその名前も住所も不明。
出版業界への敬意の念もない。ただひたすらに、匿名者という特権性に隠れてプライバシーを侵害するものの、その責任はとろうとしないのである。

齋藤イズムによって創刊された『週刊新潮』、『新潮45』的な言説は、いまや名誉毀損訴訟の引き金になる記事を発表する媒体として、司法関係者、報道被害関係者にすっかり知られてしまい、その「報道加害者」としてのの地位は確たるものになってしまった。

齋藤十一という人間は、佐藤家という創業者の家庭教師という立場から入社し、その経営を担ってはきた。しかし、「人に会うのが嫌いな」経営者とは不可解である。経営のリスクをどこまで負っていたのか、という疑念がわく。そういう経営者がいてもいいのだが。
こうしてみると、斎藤十一はみなが持ち上げるほどの伝説の編集者といえるかどうかは疑問である。
まだ調べてはいないが、斎藤十一が被告として法廷に立ったことがあるのかどうか。この書籍を読んで、私は被告経験があるのかどうか、といぶかしんだ。
なんというか、経営と司法にかかわるリスクは周囲にまかせて、クラシックレコードを聴いていた老人という姿が浮かぶのである。

その意味で経営危機を噂された新潮社が「2ちゃんねる」の掲示板から『電車男』をつくってベストセラーにしたことは、斎藤十一のDNAを継承する社員がいたのだ、という思いに駆られる。

匿名者のコメントを一定の編集方針をもとに構成して商品化する。

これは『週刊新潮』がよくやっている手法である。

タイトルを決めてから記事を作る。そのストーリーテリングの手法を週刊誌に持ち込んだことは見事。

しかし、いまや混沌とした情報空間のなかから、読み手が自分で情報を編集し、発行するブログ時代が来た。このとき、斎藤十一的な雑誌のプロデュース手法は一定の効力を喪失することになる。
齋藤十一よりももっと無責任でラジカルな編集者が求められてるわけだが、会社組織としてそのようなリスクを奨励することには限界がある。訴訟リスクに耐えられないからだ。
新潮社は転換期を迎えている。

齋藤十一を超える、カリスマはもういないし、時代が必要としていない。

いま、時代はマスコミ不信の風が吹いている。

人々は「報道加害者の顔が見たい」と思っている。
もし齋藤十一が生きていたら、逃げることはできない。『齋藤十一』という書籍は、その時代の転換点を指し示す好著である。

21世紀は、引きこもり型編集者、齋藤十一では対応できないのである。


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2007年05月11日

『殺された側の論理』藤井誠二(講談社)

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「復讐への加担というジャーナリストの仕事」

ノンフィクションライター、藤井誠二の新刊である。
(藤井誠二のブログ→http://ameblo.jp/fujii-seiji/

藤井誠二といえば、教育と少年事件をおもなフィールドにした書き手である。1984年、愛知県の高校在学中に管理教育に反対する『オイこら!学校 高校生が書いた“愛知”の管理教育批判』(教育史料出版会)でデビュー。今年で42歳。ノンフィクションライターとしては中堅の年齢に見えるが、そのキャリアは23年の大ベテランに属する。

私は藤井と同じ愛知県の出身である。藤井の噂は耳にしていた。ノンフィクションライターというよりも、反管理教育運動の活動家として、である。私が名古屋でフリーライター業を始めた頃、藤井は日本中を震撼させた東京都足立区で発生した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の取材を始めている。反管理教育運動、そして少年犯罪報道へ。藤井の視点は、一貫しているように見えた。それは、未成年に対する「味方」としての運動的ジャーナリズムである。「女子高生コンクリート詰め殺人事件」では、なぜ加害者は犯罪をおかしたのか、という視点で執筆した。ここまでは藤井は、少年の味方であることに違和を感じていない。

しかし、藤井は犯罪被害者たちと出会う。そして、被害者の視点で取材執筆してこなかったことに気づくのである。

私は、犯罪被害者遺族とは「怒れる人」であると思っている。肉親がぶち殺されたのである。人間を惨たらしく殺害する人間は、反省をしないことがある。強姦殺人をするような奴の悔悛の情など信用できるわけがない、と考えるのが庶民感情というものだ。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は、殺された側にとっては偽善的であり、殺された人間の苦痛を語るな、という抑圧になりうる。私は犯罪被害者ではないが、これくらいの「常識」はある。

ところが、メディアに登場する犯罪被害者遺族たちは、実に行儀が良い。行儀良く生きなければ、犯罪被害者遺族という当事者の意見を聞いてやらないぞ、という「世間の眼」があり、それに気遣いをしているからである。マスメディアもまた、そのような「世間の眼」の拡大再生産をすることで、「安心して読める口当たりのよい言説」で、幻論ビジネスを展開している。

そう、それは「幻論」なのである。犯罪被害者遺族は、加害者を一生許すことはない。そのようなゴリゴリした荒削りの肉声を、愚直なまでに時間をかけて、聞き取ってきたのが藤井だ。

実を言うと、私は藤井の新刊『殺される側の論理』を初めて購入して読了した。それ以前の著作は、内容があまりにも重く、そして自分自身の実生活に無関係だと判断して、図書館ですませてきたのである。なぜ、今回この新刊を購入したのか。それは、「論理」というタイトルに引き寄せられたからである。

殺された側の「事実」は、重く、そこから第三者が教訓を得ることは感情的に難しい。せいぜいが、「私は犯罪に巻き込まれなく運が良かった」という感想をもって終わる。
自分がその被害者だったとしたら?その被害者遺族だったとしたら?そんな重苦しいシミュレーションをして、感情移入する時間など現代人にはない、と思う。

右を向いても、左を向いても、ポジティブシンキングに満ちている。生きる意欲を根こそぎ破壊する、「凶悪な息苦しさ」と格闘している人間への共感する能力など、この高度資本主義、ITスピード社会には、ただの非効率なファクターにすぎないのだ。そのような被害者を救済することが市場になれば、世間は少しは関心を寄せるのかもしれない。だが、それは無理だろう。

「凶悪な息苦しさ」とは抽象的な表現である。具体的に言おう。犯罪被害者遺族は、加害者を自分の手で罰したいと渇望しているのである。復讐したいと願っているのである。それが本音である。その本音の発露が、犯罪被害者遺族の救済の第一歩だ。その本音に耳を傾けようとしない日本社会は、犯罪被害者に、沈黙を強制する、犯罪者優遇社会なのである。

犯罪被害者当事者は、藤井誠二という聞き手であり書き手を得ることで、世間の眼を説得する論理性を獲得しつつある。

「当事者の論理」とは、個人的経験と感情から誕生し、理解者という他者、その当事者とともに社会改革をするという変革者との出会いによって形成される。他者との出会いが希少であり、社会変革する意欲のある人間を白眼視する日本社会のなかで、藤井が犯罪被害者の伴走者になっていることは貴重である。

以前、藤井は私にこう語った。

「犯罪被害者を継続的に取材しているジャーナリストってすごく少ない。僕と日垣隆さん、それから先頃、亡くなった黒沼克史さんくらいかなぁ。犯罪被害者の取材は、とくに僕じゃなくてもできるはずだと思う。なぜみんな取材しないんだろう。もし理由があるとしたら、それは当事者が”怖い”からじゃないかな」

当事者の体験を聞くほどに、無力感にさいなまれることが分かっているから、人は当事者から距離を置く。こうして当事者は孤立していく。一方、犯罪者たちは、刑務所のなかで、犯罪者同士が語り合い、反省をしないで生きる方法があることを学んでしまう。犯罪者達はネットワークを構成し、被害者たちは孤立しているという長い歳月があった。

その失われた歳月を、被害者遺族達が藤井のペンを借りて取り戻そうとしている。藤井誠二の背負った責任は重い。遺族の取材を、藤井は日常に取り込み楽しんでいるようだが、その重責にキーボードの手が止まることもあるだろう。

『殺された側の論理』を私は一晩で読了した。しかし、この本の隅々には、眠れない夜を過ごした犯罪被害者の悲痛で長すぎる月日がしみこんでいる。新刊ではあるが、その装丁は長いときを経て、書庫から取り出されたかのような風格がある。白地に黒のタイトルは喪章のようであり、書籍のカタチを借りた墓標にみえる。

殺害された被害者たちは、この書籍の刊行を喜んでいるだろう。私はそう信じる。このようなカタチでの復讐への加担。それはジャーナリストの仕事である。


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