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2008年12月22日

『聖女・悪女伝説 神話/聖書編』喜多尾 道冬(音楽之友社 )

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聖女にまるでおなじみはないが、もう一方はとても気になるところである。悪女はどうしていつも魅力的なのか。

「音楽の友」誌連載の単行本化であって、神話や聖書に登場する女性を題材としたオペラ作品や絵画作品を紹介し、夫々のキャラクターについて考察したものである。マイナーな絵画、オペラまでを対象として広範な素材が取り上げられており、著者の博識が発揮され、思想史の書物としても有用である。

いずれの神話・聖者伝にもおなじみの決定的名場面があり、オペラや世俗絵画に題材を提供する。秘密多き施政者に都合のよい解釈においては、あくまでも異教と世俗は別物であって、極めてエロティックな作品を含むマージナルな作品群が君主の居間や寝室を飾った。フェリペII世とフランソワI世はその際たる例だ。

最近、夢中で読み耽っているポコックの「マキャベリアン・モーメント」は、歴史storiaと政治politica、徳virtusと運命fortuna、時間momentと永遠(の現在)nunc-stansの関係軸を考察するなかで、君主という世俗の最高権威と、周辺的な<邪魔者>である異端者とが政治思想的底辺で共鳴することを見出す。異端者は『贖罪を預言の中に見出す』ことにより『歴史の中に贖罪の性質を持つことを強く否定する教会』と対立するが、君主は『自らの活動に贖罪の意義を与える象徴を発見する』ことで、むしろ異端に相似するのである。ポスト・ルネサンス、ポスト宗教改革の時代になって、そうした深謀遠慮は霧散し、ルーベンスの絵画の頃になると堂々と異教性が披瀝されるのだが、この時代の油塗れの絵画群が盛期ルネサンス期の気品を持たないのは、ヘイズ法に制御されたハリウッド映画が高品質を保っていたことと通じるものがある。ベルナルト・ベルトルッチが坂本龍一に教えたように「強制は常に正しい」のである。

絵画とオペラでは夫々得意とするタイプの題材=女性像、があるようだ。アリアドネ、ユーディット、サロメ、マグダラのマリア、ダフネ、などは世俗絵画に馴染む題材であり、ティッツィアーノ、レオナルド、ドナテロ、コレジョ、などが取り上げた。本書からダナエの例を見てみよう。この<ゼウスの女>に黄金の雨が降り注ぐエロティックな描写は、例えば文体上品な呉茂一「ギリシャ神話」はさらりと短く触れるのみだが、黄金となればクリムトには目のないところであって、ダナエ画の名作を生産したことは周知のとおりだ。この逸話は紆余曲折を経て、息子ペルセウスによるメデューサ退治に続く。かつてパレルモ考古学博物館(建物も展示物も素晴らしい!)で、数多くのメデューサレリーフを見たが、ペルセウスに首を切られるこの魔物が一様にアカンベーしているところがおもしろい。

メディアのイメージや、うわべばかりの会話では、もう飽きてくるだろう。本書は、あなたがこれからの人生で出会うであろう全ての女性についての百科事典である。学びたまえ。

(林 茂)


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2008年12月05日

『悪魔という救い』菊地 章太(朝日新聞社)

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なにも渋沢龍彦まで遡るまでもなく、キリスト教こそが悪魔を必要としているのだ。でなければ、スポンサーがいなくなってしまって、システィーナ礼拝堂に描かれた有名なミケランジェロの「最後の審判」も、オルビエートのルカ・シニョレッリも、あまたのボッスの絵画も、ゲーテの「ファウスト」も、メムリンクさえも楽しめないことになってしまう。本書が、ヴァン・デル・ウェイデンの「十字架降下」をサンプルとしたことは好例であって、この聖母に感情移入しないでいることは、誰にとっても困難であろう。そして、本書を読み通したものは、悪魔-あるいは不可知のものへの畏怖心-が救いを生み出すことに気づくであろう。

「悪魔とは堕天使である」という定義は、本書が要約するところのローマンカソリックの教義書『カテキズム』が典拠するところだ。この書物は教理上の悪魔についての見解を示しており、いわばその分野のオーソリティーである。要するに、「天使がグレた」(本書P.122)のだ。パゾリーニの「奇跡の丘」に登場する悪魔は、そのほうけた表情といい、イエスを試すときの、鈍さといい、優れて哲学的な悪魔である。歴史的なキリスト教の立場としては、悪魔は最終的にこのような愚か者でなくてはいけないのであるが、現代になって描かれる悪魔はどうも様子が違うようだ。

「エクソシスト」は、わたしが9歳の時の映画で、一大オカルトブームを起こした。「オーメン」もそれに続けて大ヒットして、小学校や銭湯の下駄札に「6」がふたつでもついていたなら、怖くてその札を取ることができなかった。友達の頭皮に数字が書かれていないか頭髪を掻き分けて探したりした。それにつけても、西洋の悪魔が、日本のお化けよりずっと恐ろしく感じられたのはなぜだろう。一族の因縁、名前の一致、数字の一致、といった符丁が、似非科学雑誌を読む少年少女にとって、取り憑かれるかも知れない恐怖を掻き立て、それが却って悪魔を信じることに至ってゆく。

著者は 悪魔学について大学で講義した際の反応を記録しているが、恐怖心を感じる学生もあれば、どうせ外国の迷信だから無関心、という学生もいるそうだ。哲学科の学生なのに無関心、というのは知的態度として全く感心できない。最近翻訳が出たDarren OldridgeのSrange Historiesは、悪名高き異端審問書「魔女の鉄槌」で紹介される数多の拷問をはじめ、空飛ぶ豚の裁判や、馬の絞首刑など、中世来の欧州における血みどろの愚行のオンパレードであり、つまり民衆が悪魔を真剣に恐れない限り、布教などということはあり得なかったのだ。個人的には日本人は無宗教などではなく、多宗教であると思うのだが、たとえば悪魔の存在を信じることが、西洋思想史の深みへの入口であることは、言うまでもないだろう。恐怖心もこうして時には役に立つというものだ。

(林 茂)

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