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2008年11月24日

『シチリアへ行きたい』小森谷 慶子 小森谷 賢二(新潮社)

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とんぼの本」が創刊25周年ということで慶賀の至りである。

便利でハンディな出版形態であって、写真がふんだんに含まれている。雑誌-特に女性誌-の旅行特集などより内容としてずっとよいし、何より情報としてより正確である。コロナブックス(平凡社)であれ、トンボの本(新潮社)であれ、ふくろうの本(河出書房新社)であれ、ちょっとした教養とヴィジュアルなイメージが同時に得られる点でもとてもよい。大学の授業よりずっとよい。以前出かけた巌谷國男氏の講演会(於ABC)でも擁護する主旨の言及があったのだが、このハンディな出版形態はいわばネット時代以前のウェブ情報のようなものであって、教養復権には極めて適したフォーマットかと思うのだが、本屋でも実に地味な存在であって、かといってアカデミックな向きに真面目に捉えられることもなく、ましてや書評に取り上げられることは少ない。

タイトル初っ端から「行きたい」とこうもストレートに表現されると、書評する方も気恥ずかしいものがあるが、それでもシチリアはこの表現がぴったりの場所であると思う。ファインアートを求めるにはやや方向違いのエリアであるものの、歴史的な見所には事欠かない。シンプルな動機であるが、ブローデルの古典「地中海」がこのエリアに行きたいと思うきっかけを作った。西はスペイン、ポルトガルから、東はトルコまでの地中海をにらむ諸施政者にとっては、極めて魅力的なロケーションであり、ギリシャ人、カルタゴ人、ローマ人、ノルマン、スペイン、フランス、とありとあらゆる民族の支配を受ける。だからむしろこの土地の人と文化は強烈な独自性を持つ。

「イングランド」は諸原因の独特の配置の名称であるか、あるいはある部類―その部類には他の成員も存在するーの成員の名称でなければならない。前者の場合、それに関しては普遍的なものの集団はありえない。というのは、単一の独特の対象に関する普遍的な言明はなしえないからである。後者の場合、イングランド法に関する原理と普遍的なものは、「イングランド」が属する部類の他の成員の法にも当てはまるであろう。(J・G・A ポコック「マキャベリアン・モーメント」)

という記述は、シチリアに置き換えてその魅力を説明するにこれ以上ない賛辞である。いまは現代国家イタリアに「支配」されている具合であるが、それもどこ吹く風であってトレナクリアのシチリアはどこまでもシチリアであり続けている。著者二人はシチリアが現在のようなブームになる以前から関連書を何冊か出版しており、陣内秀信の著書数冊と合わせて、この豊穣な歴史、地中海の歴史そのものである島についての簡潔な知識を与えてくれる。渋沢龍彦が小川煕氏を伴って旅をした(「滞欧日記」)1960年代にはマフィアによる事件が横行し、とても個人旅行ができる状況ではなかったという。興味のある向きは、池内紀「町角ものがたり」のなかのエッセイ「パレルモの絨毯屋」や、ゲーテ「イタリア旅行 下巻」がとても素敵なので合わせてお勧めする。タビアーニ兄弟の映画「カオス=シチリア物語」も素晴らしい。

(林 茂)

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2008年11月13日

『ロンドンの公園と庭園』門井 昭夫(小学館スクウェア)

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ごく大雑把に言って、ロンドンとその周辺の公園はすごくフツーである。何かスペシャルなものを期待する向きであればがっかりするかも知れない。奇を衒ったものがない。ケントの城と名園(シシングハースト、ノール、スコトニ城、ヒーバー城)、サリーの典雅な庭の数々(ポルスデンレイシー、クレアモント、ナイマンズ)、グロスターシャーの廃墟(ヒドコット、ケニルワース城)など枚挙に暇ないカントリーサイドにある名園とは趣が大いに異なる。「ロンドンではイギリスではない」とよくイギリスの人たちが言うのも、ただの皮肉だけでなくこうした面にあるのだ。

イギリスの修道院―廃墟の美への招待」(志子田光雄、志子田富寿子)と対照して読むのがよい。芝生や樹木の緑と公園空間の充実、その多さ、自由さ。これらは、この国が何より誇りと自得するところであり、かりそめの旅行者といえども、足を踏み入れるのをためらうことはないだろう。

これは例えば、ローマのような町ではそうはいかない。公園(ジラルディーノ・ピュブリッコ)よりも、むしろ荘園附属庭園(パラッツオ)が質量共に圧倒的に勝り、それらは「見る」場所、愉悦のための空間である。ロンドンに比べるなら、マドリッドもアテネもフランクフルトもコペンハーゲンも、都市内における憩いの空間となれば狭隘だと言わざるを得ない。パリでも到底及ばないのは、この大人の街には芝の公園(英語でいうところのコモン、グリーン、スクエア、パークなど)が全く不足していることだ。ヴェルサイユにあるマリ・アントワネットのラモーで「擬似イングリッシュガーデン」を見たときのショックは強烈であった。フランスの王宮の離れにある複製イギリス庭園。ロンドンをホームとして生活する日本人には柄も言われぬ違和感。自分がどこにいるのかわからなくなるような眩暈。

例えば、Lower John Streetの手作りサンドウィッチを買い求めて(オーダー式なので少々の英語力はいる)ゴールデンスクエアやバークレーズスクエアあたりで頬張るのもいい。この際、由緒や歴史などどうでもよかろう。ありきたりなガイドブックに頼らず、こうした書物で旅の下調べをするのも楽しいはずだ。

(林 茂)

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2008年11月02日

『日本のコンテンツビジネス―ネット時代にどう変わる』猪熊建夫(新風社)

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外国に住んで新聞を読む程度ではどうもその意図や感覚がピンと来なかったが、かつて小泉旧政権下ではコンテンツ立国などということが言われていたように思う。例年その多忙さと、ミーティングに次ぐミーティングの連続に疲労困憊してしまい、その町の名を聞くにもくたびれたドイツ・フランクフルトのブックフェアは世界最大の規模を誇るが、そこで何度か見た当時の日本から出張してきていたコンテンツビジネスの担い手たちの光景も、いわゆるマンガ屋さんといった風情で、セル画や雑誌の見本などを持参して、海外出版社や代理人との版権ビジネスを展開する人の数が急に増えたのが、確かに2006年頃だったと思う。電子ブックスもやっと増えてきた頃で、学術的なタイトル・出版社を中心に、市場や産業の成長見込みについて、色々な出版社の意見を聞いたりしたものだ。

よく言われることだが、携帯とネットの環境バランスの国別格差は大きい。日本のように、携帯電話の通信料が比較的リーズナブルで、月額固定料金が常態化しており、逆にパソコンの個人所有率が低い(世界17位)国では、有料コンテンツを展開し、ビジネスとして成立させるには携帯経由とするか、学術的なデータベースとしての機関購入(例えば朝日新聞の全文データベース「聞蔵」は機関向けを主とする有料サービスである)のどちらかの方法を取ることが普通だ。他の国、例えば、イギリスやEU諸国では携帯電話のプリペイド方式も未だ根強い(イギリス英語ではPay as you goという)し、アメリカは利用料が馬鹿高いと聞くが、そのかわりにコンテンツビジネスは無料サービスの体を取りがちで、野口悠紀雄氏がかつて週間東洋経済で批判していた新聞コンテンツネットサービスの内外格差も、ネットと携帯の国別の環境差によるところも大きい。携帯を取るか、知を取るか、である。

西垣通「ウェブ社会をどう生きるか」を読んで、それ以前にも何人もの外国人と、教育や本や情報について、折に触れ話を重ねてきたわたしは腑に落ちて震撼した。情報概念、世界を検索可能なものと捕らえる見方(google)と、キリスト教思想(「はじめに言葉があった」/ヨハネ福音書)は、社会がフラット化するという見方の根底にある考え方だという。言語はそれでも編集において置換不能な要素であって、日本語の書物をたくさん所蔵している欧米の大学図書館が、「検索可能な世界の一貫行為」としてそれらを電子ブックに変換するときに、日本語のできない人が編集することでどうなるのか、googleで「検索」をすれば一気に体感できるというものだ。外国人(主に西洋人)の頭の中を七転八倒しながら覗いたリアルな体験がないひとにこのことを話しても、カッタルイ天下国家論を話していると思われるのがオチなのは、語りの能力が低いわたし自身が何度も経験している。

そこで、刊行年もやや古いのだが、おおまかなデータを掴む上でも本書はわれわれの産業に属するひとには一応の必読書だと思う。たしかに書籍業は雑誌を合わせても年商2兆円強レベル、本書の言うように「シャープやマツダ一社と同規模程度」の産業だ。しかしそれなりに社会的課題にさらされてもいる。新聞業界のウラ話やマスコミ業界高給の秘密など、下世話に取れるネタも多いが、何より周辺産業を含んだ見取り図を読ませてくれるところはありがたい。何しろデータを無視した感覚的な議論で終始することが多いのだ、こうした業界は。

(林 茂)

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