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2008年10月14日

『狩猟と編み籠―対称性人類学〈2〉』中沢新一(講談社)

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宗教なかんずくキリスト教と映画の類似性を考察する書物であるが、そうした題材としてなら誰しも思いつく定番名画のいくつか<「十戒」(デミル)、「奇跡の丘」(パゾリーニ)、「ラルジャン」(ブレッソン)>に続いて、おこちゃま映画「ベイブ」を取り上げている点、瞠目である。不覚にも涙なくしては見られないこのフィルム、蓮見的に要約するなら教育と学習についてのサミュエル・フラー的作品に中沢は宗教性を見る。洞窟絵画⇒モーセの破壊の後も生き続けたイメージ⇒映画として復活、という具合に。

映画館の暗闇と、洞窟の暗闇でのイニシエーションの間には、それらを受容する側の感覚としてはたしかに似たところがあるのかも知れない。欧州の洞窟集落ならアンジェとソーミュール近郊のロシェメニネに4年前の夏に行ったことがある。ロワール地方に多い、地下につくられた16世紀のセクト村である。12世紀頃にはこの地方の1/4の人口がこうした地下集落に住んでいたという。

「ベイブ」をまじめな考察対象として挙げる書物はー映画評論の昨今については寡聞にして知らないーそう多くはないように思えるが、この映画には色々考えさせられる要素があるのは確かである。今回の本書の読書経験は、ルネサンス源泉の思想概念「愚者の知恵」を再考するきっかけとなった。

この子豚(ベイブ)はたいした知恵ものであるのだが、周囲の者(他のあひるやネコなどの家畜)たちは”豚は低脳の象徴”と思い込んでいるので、映画前半までは阿呆扱いされるばかりだ。
『権威あるものを座位より下し、卑しき者を高うす。』(晩祷マニフィカト)

を典拠とする「道化が知恵を持つパラドクス(Sapientia)」はときには瀆神の諸祝祭の形をとり、愚行結社、愚者の船に辿り着くルネサンス期に源泉をもつ思想だ(西洋思想大事典「愚者の知恵」の項参照)。しかし、この愚者の船は善良な選ばれしキリスト教徒の乗る船でもあるだろう。ウンベルト・エーコ「前日島」後半部分に登場するカスパル神父は、アテナシウス・キルヒャーがモデルであるように思われる。奇想で聞こえたこのイエズス会士は<全生物種がつがいで乗り込むことのできる舟>の設計図を、その著書「ノアの箱舟」において構想する。18世紀知の時代ともなれば生物種はきわめて多種多様であって、一組ずつつがいにしても相当な重量であり、場所も食うし、それを積みきれる平積み船など商船三井でも所有しているのかどうだか。

キルヒャーは著書「大いなる光と影の技法」において幻灯を使った宣教効果についての考証を行った。これが時にかれが<映画技術の始祖>と言われる所以だ。イエズス会は民衆を教会に誘導するためのエンタテイメントを必要とした。バロック期におけるベルニーニ作の「聖女テレジアの法悦」(サンタ・マリア・デラ・ヴィトーリア教会/ローマ)なども要は同じ効果を狙ったものだ。キリスト教教会、特に秋から春にかけて暗く短い一日を過ごすフランスより北方のゴシック教会群においては、光によるこうしたエンタテイメントは音楽と並んで重要な集客ツールであった。暗い教会のなかで、ステンドグラスや祭壇画(多くが蝋燭の明かりで照らされている)を見ること、バッハやヘンデルやモーツァルトの音楽を聞くこと、は、教会に出かける十分な誘惑理由となるのである。

イギリス国教会の「宗主」ヘンリー8世は、妻を六人も娶りそのうち二人を死刑にする残酷王だが、おまけに教会音楽を禁止しパイプオルガンなどの教会における娯楽要素を破壊した。民衆に嫌われるのも道理である。

思想としての愚者の知恵(Wisdom of the Fool)の担保先は、コリント人への手紙におけるパウロの言葉である。生誕2000年にあたる今年6月下旬からは「聖パウロ年」である(バチカン)。「使徒言行録」を読むと聖パウロがとてもユニークな人物であることが知れる。イエスとの直接の面識がなく(復活したイエスをみた事を面識と呼ぶなら別だが)、かつてはキリスト信徒を迫害さえしていたが、ある日、熱射病でうなされている最中に復活した上帝を見、「悔い改めた」結果、一転熱心なキリスト信者となりローマ市民の特権も利用して渾身の布教活動を行う。聖フランチェスコしかり、回心する者のその後の極端なまでの行動力が他の人々を動かす強力なペルソナをつくるのだ。

パゾリーニ映画の常連ニネット・ダヴォリは、いつも典型的な阿呆役として登場する。道化であって、権力側から見ると常に危険な「王様は裸だ!」と叫ぶ者である。二ネットはいつも愛されるが、ソクラテスは死刑にされてしまう。「愚者の知恵」に学ぶべき点は多い。

『なるほどこの人は多くの人には賢者と見え、なかんずく彼自身はそう思い込んでいるが、しかしその実彼はそうではないという印象を受けた。それから私は、彼は自ら賢者だと信じているけれどもその実そうではないということを、彼に説明しようと努めた。その結果私は彼並びに同席者の多数から憎悪を受けることとなったのである』(ソクラテスの弁明/岩波文庫)

(林 茂)

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