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2008年10月25日

『大衆音楽史』森正人(中央公論新社)

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ロンドンは世界で最も人種多様性が高い街だ。ウィンブルドン化のジレンマも随分前から叫ばれているが、その中にあって今も最もイギリスらしさを残すものといえば、クリケット、パブ、そしてrock musicだろうか。この街で聴く音楽は、その少しーいやかなりー荒れたvenueの雰囲気ともあいまって、ざらついた感触を体験として残すものだ。まずい屋台メシがそのザラツキをいやましてくれることであろう。

大衆音楽史はミュージシャンと音楽の歴史である以上に産業史であり文化史である。Continuum社の大型レファレンスEncyclopedia of Pupular Musicの刊行にみられるように、そうした立場での研究が既に始まっている。本書を読んだ後は、ボブ・マーレイの音楽もこれまでとは違って聞こえてくるはずだ。黒人たちの市民権獲得の戦いであるし、旧宗主国からの自立のための戦いでもある。産業史、文化史としての、ロックンロールとカントリーミュジックの関わり、パンクとレゲエ、ヒップホップとパンク、ロックとスキッフル(通常のギターなどに加えて洗濯板や櫛といった日常品を使って演奏する大衆音楽)のつながりがよくわかる。カントリー・ミュージックとアメリカ初期音楽の歴史や、ブルースとジャズ発展のツボについて、コンサイスにまとめられている。ヴァン・ダイク・パークスを聴いてもアメリカンルーツミュージックの根幹が理解できないわたしは全体を二度読み起こすほど気に入ってしまった。地理学者によって書かれた本書はそうした「興味の遡り」を満足させる細部に満ちている。類書の少ないこの分野にあって、参考文献に挙げられているグリル・マーカスの「ミステリートレイン」や、ネルソン・ジョージの「リズム&ブルースの死」などと並ぶ出色の出来であろう。

本書の参考文献リストには挙げられていないが、ジョン・サベージの「イギリス族物語」は、保守と反抗のコントラストが激しいこの国で生まれたーその多くは笑っちゃうようなー「族」を紹介している。テディボーイズ、ビートニック、ニューロマンティック、スキンヘッド。。。。その殆どが大衆音楽と強い関連を持っていて、サブカルチャーにおいても大きな存在感を持つロンドンという街の文化史を知るに好適なガイドブックとなっている。「日本の音楽ジャーナリズムには彼のようなタイプの書き手は少ない。もっぱら音楽オタクとミーハーが幅をきかせる日本の音楽ジャーナリズムの世界には、社会的、政治的な背景と文脈をおさえつつ現在形の文化を語る身振りが欠けている。」(上野俊哉による同書あとがきP.220)という言葉は、ポップカルチャー論の低調さの現在においてもあてはまるだろう。

はじめて洋書を買ったきっかけもー文学とかじゃなくてーロックだった。はじめて英語の’詩’を筆写したのも、Let It Bleedの宮原安春や、In the Court of the Crimson Kingだった。music downloadingの登場によって今やAppleが地球上でナンバーワンのmusic retailerとなった。それはそれでよいだろう。だからこそいま、こうした産業史が書かれることの意味がある。

(林 茂)

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2008年10月14日

『狩猟と編み籠―対称性人類学〈2〉』中沢新一(講談社)

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宗教なかんずくキリスト教と映画の類似性を考察する書物であるが、そうした題材としてなら誰しも思いつく定番名画のいくつか<「十戒」(デミル)、「奇跡の丘」(パゾリーニ)、「ラルジャン」(ブレッソン)>に続いて、おこちゃま映画「ベイブ」を取り上げている点、瞠目である。不覚にも涙なくしては見られないこのフィルム、蓮見的に要約するなら教育と学習についてのサミュエル・フラー的作品に中沢は宗教性を見る。洞窟絵画⇒モーセの破壊の後も生き続けたイメージ⇒映画として復活、という具合に。

映画館の暗闇と、洞窟の暗闇でのイニシエーションの間には、それらを受容する側の感覚としてはたしかに似たところがあるのかも知れない。欧州の洞窟集落ならアンジェとソーミュール近郊のロシェメニネに4年前の夏に行ったことがある。ロワール地方に多い、地下につくられた16世紀のセクト村である。12世紀頃にはこの地方の1/4の人口がこうした地下集落に住んでいたという。

「ベイブ」をまじめな考察対象として挙げる書物はー映画評論の昨今については寡聞にして知らないーそう多くはないように思えるが、この映画には色々考えさせられる要素があるのは確かである。今回の本書の読書経験は、ルネサンス源泉の思想概念「愚者の知恵」を再考するきっかけとなった。

この子豚(ベイブ)はたいした知恵ものであるのだが、周囲の者(他のあひるやネコなどの家畜)たちは”豚は低脳の象徴”と思い込んでいるので、映画前半までは阿呆扱いされるばかりだ。
『権威あるものを座位より下し、卑しき者を高うす。』(晩祷マニフィカト)

を典拠とする「道化が知恵を持つパラドクス(Sapientia)」はときには瀆神の諸祝祭の形をとり、愚行結社、愚者の船に辿り着くルネサンス期に源泉をもつ思想だ(西洋思想大事典「愚者の知恵」の項参照)。しかし、この愚者の船は善良な選ばれしキリスト教徒の乗る船でもあるだろう。ウンベルト・エーコ「前日島」後半部分に登場するカスパル神父は、アテナシウス・キルヒャーがモデルであるように思われる。奇想で聞こえたこのイエズス会士は<全生物種がつがいで乗り込むことのできる舟>の設計図を、その著書「ノアの箱舟」において構想する。18世紀知の時代ともなれば生物種はきわめて多種多様であって、一組ずつつがいにしても相当な重量であり、場所も食うし、それを積みきれる平積み船など商船三井でも所有しているのかどうだか。

キルヒャーは著書「大いなる光と影の技法」において幻灯を使った宣教効果についての考証を行った。これが時にかれが<映画技術の始祖>と言われる所以だ。イエズス会は民衆を教会に誘導するためのエンタテイメントを必要とした。バロック期におけるベルニーニ作の「聖女テレジアの法悦」(サンタ・マリア・デラ・ヴィトーリア教会/ローマ)なども要は同じ効果を狙ったものだ。キリスト教教会、特に秋から春にかけて暗く短い一日を過ごすフランスより北方のゴシック教会群においては、光によるこうしたエンタテイメントは音楽と並んで重要な集客ツールであった。暗い教会のなかで、ステンドグラスや祭壇画(多くが蝋燭の明かりで照らされている)を見ること、バッハやヘンデルやモーツァルトの音楽を聞くこと、は、教会に出かける十分な誘惑理由となるのである。

イギリス国教会の「宗主」ヘンリー8世は、妻を六人も娶りそのうち二人を死刑にする残酷王だが、おまけに教会音楽を禁止しパイプオルガンなどの教会における娯楽要素を破壊した。民衆に嫌われるのも道理である。

思想としての愚者の知恵(Wisdom of the Fool)の担保先は、コリント人への手紙におけるパウロの言葉である。生誕2000年にあたる今年6月下旬からは「聖パウロ年」である(バチカン)。「使徒言行録」を読むと聖パウロがとてもユニークな人物であることが知れる。イエスとの直接の面識がなく(復活したイエスをみた事を面識と呼ぶなら別だが)、かつてはキリスト信徒を迫害さえしていたが、ある日、熱射病でうなされている最中に復活した上帝を見、「悔い改めた」結果、一転熱心なキリスト信者となりローマ市民の特権も利用して渾身の布教活動を行う。聖フランチェスコしかり、回心する者のその後の極端なまでの行動力が他の人々を動かす強力なペルソナをつくるのだ。

パゾリーニ映画の常連ニネット・ダヴォリは、いつも典型的な阿呆役として登場する。道化であって、権力側から見ると常に危険な「王様は裸だ!」と叫ぶ者である。二ネットはいつも愛されるが、ソクラテスは死刑にされてしまう。「愚者の知恵」に学ぶべき点は多い。

『なるほどこの人は多くの人には賢者と見え、なかんずく彼自身はそう思い込んでいるが、しかしその実彼はそうではないという印象を受けた。それから私は、彼は自ら賢者だと信じているけれどもその実そうではないということを、彼に説明しようと努めた。その結果私は彼並びに同席者の多数から憎悪を受けることとなったのである』(ソクラテスの弁明/岩波文庫)

(林 茂)

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2008年10月02日

『風景の意味―理性と感性』山岸 健【責任編集】(三和書籍 )

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「策謀と誠実の両立」

全18考の収載論文の中で、北澤裕「インターフェイスと真正性」について考えてみたい。ヘルメス主義から新プラトン主義、策謀のマキャベリ主義と誠実さの相克。合理的ルネサンスの虚像があり、オカルト的ルネサンスへの誤解がある。
『君主は。。。いろいろなよい気質をなにもかもそなえている必要はない。しかし、そなえているように思わせることは有用である。。。そういった立派な気質をそなえていて、つねに尊重しているというのは有害であり、そなえているように思わせること、それが有用である。』(本書P.143)、『人は、必要に迫られて善人となっているのであって、そうでなければ、あなたに対してきまって悪事を働くであろう。』(本書P.146)(何れも本書における君主論の引用から)

という文章文脈は、一見それに真っ向から相反するイギリスのフェアプレー精神・ジェントルマンシップに照らしてみると、今日においてもあきらかにこの両国のインターフェイスの相違となっているところだ。しかしそこにシェイクスピア一連のイタリア劇(冬物語、ロメオとジュリエット、オセローなど)における「人間のむき出しの暴力」(サミュエル・フラー)を照らしてみる本書の視点は汎欧州的に突合したときにも共通とするところであって、人間関係を考える上で本来異なる要素であるはずの、「信頼」(あかの他人をまずは表面的には受け入れること)と、「信用」(何度か会っているからとか同じ会社にいるからという理由で他人を疑わないこと)、を同義で使用しがちな(「私たちはどうつながっているのか」/増田直樹/中央公論新社)わたしにとって学ぶべきインターフェイスの屋台骨であると知る。

本書に取り上げられているシエナ市庁舎にある「善性と悪政のアレゴリー」はアンブロジョオ・ロレンツェッティによる世俗フレスコ画の傑作であるが、こうしたコンテンツを会議室の壁に描かせるというシエナ市当局は政治的独創性において際立っている。事情は池上俊一「シエナー夢見るゴシック都市」に詳しい。本書においても、またFrancis Yatesも'Giordano Bruno and the Hermes Tradition'( Routledge)に書くように、占星術と異教神信仰の秘儀神秘的なアマルガムでもありエジプトとヘレニズムの誇大妄想的誤解の産物であるヘルメス主義のエムブレムを、その壮麗なドゥオモのあろうことか入口正面床面に配置するこの街だけが例外ということではあるまい。出歩く人のいないクリスマスに、赤茶けた壁や屋根瓦の色で知られるこの街を夜歩き、革靴の音だけが街路に響いているとき、まるで自分が中世にいるような錯覚さえ覚えるほどで、そのなかにある壮麗な、そしてあろうことか黒白縞ゴシック様式のドゥオモに突然出くわす驚異は、その床面モザイクの異様さをいや増してくれるだろう。

『私が大それたことをしたのをご覧になったとしても、どうか、あなたはご存じないのだと私に思わせておいて下さい。それ以上のことはお願いしませんから』

というヌムール公の科白(「クレーブの奥方」/ラファイエット夫人/青柳瑞穂訳/新潮文庫/P.96)の尊大さと耽味さは、本書言うところの「他者や社会に配慮し誠実に義務を履行し公的役割を遂行すること自体が、<真の自己>の姿とみなされるようになった」(本書P.148)時代地域背景を抜きにはありえないだろう。自己所有物(恋人や使用人)に対してまで「自己のテクノロジー」を広げることが、近代においては「支配のテクノロジー」に還元されてしまう味気なさを持つに至った次第は、いまのgoogle支配世界にあって追確認可能であろう。シェイクスピア劇において恋する男女は頻繁に変装disguiseするが、現代日本のわれわれは、そうした自己を隠す方法を持たない。味気ないと感じること自体がノスタルジーであるが、戻るべき場所は既に限られてきている。
『出口を出てしまってはおしまいだ。生まれかわるということは絶対にない。出られることのない出口にねらっているからこそ、瞬間瞬間に生きているのだ。』

という岡本太郎(「迷宮の人生」)の言葉が清妙に響く。

(林 茂)

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