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2008年05月27日

『学校文化の比較社会学-日本とイギリスの中等教育』志水宏吉(東京大学出版会)

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外国に移住したひとならば、赴任地でのわが子の教育について、少しくらい余計な心配を抱いたとしてもやむを得ぬことだろう。イギリスに引越してもっと強く感じた印象は、学校の質の違いだった。

「フラットな社会は適切な知識と技術と発想力と努力する気持ちがあれば、ものでできる仕事が山のようにある」(トマス・フリードマン『フラット化する世界・下巻』/日本経済新聞社)という過酷な「いまのグローバリゼーション3.0では個人がグローバルに栄えるか生き残れる方法を考えなければならない」(同書)時代にもかかわらず、大学進学率が五割を超え、就職活動の早期化で実質期間が二年過程化した日本の大学の現状を見るたびに、中等教育の今日的重要さを再認識する。そして、高等教育市場のピークが既に過ぎ去った実感にー職業柄ー思い至る。`A degree study is often treated like a four year holiday between school and career(Rough Guide Japan)`などと外国人向け旅行ガイドブックに紹介されても仕方ないと納得するところだ。

私には二子あり、イギリスの公立小学校に入学させた。この国では小学校六年間、親が子供の送り迎えに付き添う義務がある。そもそも小学生6年生までの子供が外をひとりで歩くことは法律で禁止されており、事実発覚の場合、親の行為は児童虐待として逮捕または罰金に処せられることもある。そのことを日本でひとに話すと、「やっぱり外国は危険なのか」とか「なんという管理教育なのか」とか「過保護だ」とかの反応が返ってくる。しかし、そこには幾つかの社会的メリットもあると感じた。

その1。親が学校に関与し、感心を持つ機会が大幅に増える。学校に行けば子供の友達の母親、父親に会うし、そこで雑談をしたり、情報交換をしたりする。勝手わからぬ土地では何よりの機会というべきであろう。帰り時間に迎えに行くことが、担任の先生と直接話す機会になる。時々、親同士のパーティーがあり、学校で(!)ワインを飲んだりする。

その2。育児時間に関する社会コンセンサスができる。学校への送り迎えをしてみて驚いたのは父親の多さ。四人に一人くらいは父親だった。ここは、男女の違いが花を受け取るときの表情にしか存在しない国だが、それにしても、子供を持つ女性が仕事を持っていることは言うに及ばず、父親の方がこれほど仕事をせず家庭にいることが多いのには、素直に驚いた。育児休暇は言うに及ばず、休職、一時無職、は当たり前。ライフワークバランスとは何なのだろう、と考えてしまう。それでいてお金には困っていないのが、実にうらやましい。

その3。学校が良い。広い校庭には芝生があり、教室には生徒数分のパソコンが揃っている。コンピューター(ICT)専門の先生がいる。塾はないし、実質、不要だ。いじめはあるが、学校の処置は毅然としている(これはもちろん人と場合による)。イジメ発覚→双方の側を呼び出して事実確認と注意→イジメが確認されるとイジメた側の生徒に注意→一定期間経過後、解決が確認できない場合、イジメ側生徒の両親呼び出し→改善無い場合退学、とルーチンが決まっている。それで全て問題解決するとは限らないのだが、ケースが軽易であった場合は、このルーチンは効果的である。特に、われわれのような外国人には助かることが多い。

その4。先生が良い。子供をこれでもかと褒める。特に小学生くらいまでの内は、なにかしら褒められてこそ自信がついていくものだ。通知表が出る頃に親と先生との面談がセットされ(個別にアポを取る)、先生から自分の子どものクラスでの態度、成績の良い点と悪い点、今後の目標について話を聞くことができる。面談に参加しない親は、ほとんどない様子だ。

それでももちろん、問題を抱える学校は沢山あるし、私たちが住んだリッチモンドは恵まれている地域なのだが、それでもこれが普通の公立の、つまり、学費無料の小学校なのである。どうも良くある外国礼賛をしてしまった気がするが、こと教育問題について言えば、これでも足りないくらいだろう。

(林 茂)

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2008年05月20日

『Landscape and Memory』Simon Schama(Harpercollins Pub.)

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テームズ河口域は不思議な地域だ。たしかにロンドンは、その程良い外海からの距離に守られ、テームズ川の輸送力に支えられ発展した町であって、もしもこれが外海にその扉を曝した町であったなら、スペイン艦隊であれ、ジャンヌ・ダルク軍であれ、いとも容易く落とせる場所であっただろう。ここは島国であって、大陸側ではあまたの王が、その地勢に所有欲を掻き立てられているのだ。

いま、その河口付近には、工業用のクレーンが立ち並ぶ荒涼とした風景が広がっている。少なくとも、観光客が訪れたい場所でないことはたしかだ。著者サイモン・シャーマは、中学生時代をこの場所で過ごした。対岸に対峙するふたつの州ーケント州とサセックス州ーはクリケットーこの国一番人気のスポーツだーの最大のライバル同士であって、気質も違い、サセックス・ガールと言えば「酒飲み女」を意味するほどのつまらない土地、というのが決まり相場であって、一方のケント州は「イングランドの庭」とも呼ばれる所謂イギリスらしい田園風景が広がり、瀟洒な荘園が点在するイングランド南部らしい場所だ。私にはこうした本書のはじまりが、すでにして、たまらなく魅力的である。著者は、記憶の中のさまざまな風景をひとつひとつ丹念に拾い上げ、展開し、歴史と記憶の中に振動させていく。ポーランドとリトアニアの国境地域にその家系のルーツを求め、民族の歴史と政治と野生動物(バイソン)が象徴する森を尋ねる。イングランドのニューフォレストの政治学を広げ、ヨセミテに桃源郷を発見する。

本書は相当に難解な文章で書かれており、高山宏氏の折角の和訳本(全訳ではない)で読まないのがそうした理由によるものか、自分でも分からないが、読み始めてしまったものは仕方がない。多分、以前この場所の書評でも取り上げたアクセル・ムンテの「サン・ミケーレ物語」のような、フィクションと研究書、歴史と記憶、を巧妙にブレンドした、こうした書物を偏愛しているためだろう。

本書の、見開き真ん中に、あの懐かしいリッチモンド・ヒルが現れるのは、ただの偶然である。J.M.W.ターナーが描いたこの絵は現在、テイト・ブリテン美術館にあり、ロンドン有数の風光明媚なリッチモンドの丘(と、そのテラスガーデン)をその素材としているが、この場所はわたしにとって、本書タイトル「風景と記憶」そのままの場所であって、自分自身の「記憶と風景」が著者サイモン・シャーマのそれとシンクロしていくという、個人的には過ぎないが、それでも稀有でスリリングな読書体験が得られたのは幸運とせねばならず、ゆえに振り絞るいい加減さで、最後まで読み進める甘美な苦難を味わったばかりだ。

(林 茂)

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