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2008年02月22日

『魔術から数学へ』森毅(講談社学術文庫)

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Francis Yeatsの古典的名著Giordano Bruno and the Hermetic Traditionはわたしには難しい本で、なかなか読み進めない。内容に途中でついてゆけなくなり、各章のはじめに何度も戻ったり、行きつ戻りつしている。第三章「フィチーノと魔術」は、この新プラトン主義者がヘルメス・トリスメジストゥスを15世紀世界にどう持ち込んだかを論じた章なのだが、ここがいまの鬼門である。

本屋に勤めている癖に理科系出身であることに多少コンプレックスがあって、思想史などわからずちょっと困っていた若い頃に森毅のこの名著に出会った。いま読むと、村上陽一郎氏のあとがきに琴線にふれる部分があり、学問が専門化している傾向のなかで「大胆で生き生きした発想」を得る方法を幾つか挙げているが、

第一に、その分野のなかで既存の蓄積されたデータとデータの間の隙間を埋めることに力点を置かないこと、隙間があっても、その間をデータにこだわらずに架橋してみること。第二には、読まなくてもよいと直観の教える資料は、大胆に省略すること。第三に、信頼が置けると思われる二次資料は、十分に活用すること。逆に、権威あるものと、専門家の世界では評価が定まってる二次資料でも、こだわらず取捨選択すること。第四に、普通は専門家が「イレリバント」(直接的な関連がない)であるとして手を出さない、その領域以外の分野にまで、視野を常に広くとり、柔軟なスタンスに立って、深い奥行き感覚と幅広い見通しを持つこと。第五に、資料のなかに現れる人間に、自分の血肉を分け与えること。

本屋の外回り稼業をやっていて面白く感じるのはこうした瞬間かも知れない。小説家がユマニスト思想家の稀覯本を求める、経営学史の研究者が看護史の資料を買う。人の秘密をそっと知ってそれに加担しているぐあいだ。森毅氏のそれはちっとも教育的ではなく、楽しみを見つける方法を鮮やかにみせてくれる。

その点ではむしろ<意味>とか<感覚>とかのほうが、人間の文化現象としての数学を理解するために重要であると言えなくもない。もっとも、<意味>や<感覚>は、実際に式を操っているうちに体得できる、といった面も少しはあって、それで「学校数学」では、もっぱら式を操らされる。しかし、その「学校数学」で、むしろかんじんの<意味>や<感覚>のほうがダメにされている、という現実がある。そこで、「学校数学」とは反対に、むしろ、<意味>や<感覚>のほうから、<数学の生まれ方>を見ていこう、というわけだ。

本書全体「フィチーノなんて原書も手に入らないし読んだこともない」はずの新プラトン主義者のテキストに書きようがどこか似ているあたりに、楽しみながら書かれているようすが伝わってくる。

(林 茂)

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