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2005年11月25日

『イタリア紀行 』ゲーテ(岩波書店)

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―<<ゲーテのイタリア紀行をバッグの底に忍ばせ、気が向いた時に少しずつ読みながらイタリア各地を旅行するのもいいだろう>>(澁澤龍彦、イタリアの夢魔、角川春樹事務所)―

日本語では岩波文庫、英語ではペンギンクラシックスに入っている超古典であり、イタリア旅行記のみならず旅行文学の頂点に位置する傑作だが、澁澤龍彦が言うようにイタリア旅行者必携の優良ガイドブックとして読んでみたい。

九月三日の朝三時に私はこっそりとカールスバートを抜け出した。

ゲーテは当事ワイマール公国宰相でありそのせいか実名を隠してのお忍び旅行であった。水戸黄門のようである。そして五才年齢をサバ読んでいたという(「街角ものがたり」池内紀、平凡社)。父親から愛蔵のヴェニスのゴンドラの模型を手渡されて爾来、イタリアへの旅行は公務に多忙だったゲーテの積年の夢であった。ブレンタ運河からヴェニスへとゲーテの乗った船が近づいたとき、ゲーテ一行に早い足を売り込むゴンドラ船に出会い、ゲーテの脳裏に父親と模型のゴンドラ船の記憶が交錯するエピソードは、読みどころの多い本書の中でももっとも美しい箇所のひとつである。

「イタリア紀行」は時にその新古典主義美術史観、とりわけルネッサンス芸術に対する理解のなさが批判の対象となることがある。実際、ゲーテはパドヴァでその「世界最古の植物園」(「イタリア庭園の旅」巌谷國士、平凡社)や聖アントニウス教会に多くの注意を払いながら、この教会の目の前に当時も燦然と起立していた筈の今日では傑作と言われるドナテルロの騎馬像には全く目をくれた様子もなく、今日パドヴァを訪れる誰もが見るであろうスクロヴェーニ聖堂のジョットのフレスコ画への言及も全くない。アッシジではピエトロ・アンブロジーニやシモーネ・マルティーニの傑作フレスコがある聖フランチェスコ教会に足を踏み入れず、信じがたいことにシエナも殆ど素通りで、しかも「フィレンツェは急ぎ足で通り過ぎ」(「官能の庭」、マリオ・プラーツ、森田義之訳、ありな書房)たくらいだ。レンブラントやヴェロネーゼやグエルチーノを大いに称揚し、ラファエロ以外のルネサンス画家は眼中にないかのようである。「紀行」を読む限り旧教一般に対する特別視は感じられないのだが。

その分、憧れのローマへの到着のときには非常な熱狂を示している。この町では長い期間を過ごし特にイギリス人大使で極め付きの新古典主義者であるハミルトンとの交流は興味深い。後にその多くが大英博物館に寄贈されることになる彼のギリシャ・ローマのコレクションの素晴らしさに嘆息した。

北方人による南への憧れとして本書を読むのは容易い。しかしゲーテのイタリア観察は通念を超えた若々しいトキメキとイタリア文化への賞賛を示しており、澁澤龍彦でなくともその態度や姿勢を真似してみたくなるというものだ。

(林 茂)

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2005年11月17日

『London Compendium : A Street-by-street Exploration of the Hidden Metropolis』Glinert, Ed(Penguin Books Ltd)

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ロンドンの町並みから強い印象を受ける人は意外と少ないのではないかと思う。それぞれをよく見ればジョージアン様式(John Nash設計のブラントンのパビリオンなど)、ヴィクトリア朝様式(国会議事堂など)、エドワード朝様式などに大別できるのだが、それがわかったところで、見たところ四、五階建ての大きな建物がただ横に並んでいるだけの様子であって、中に人が住んでいるのか、あるいは事務所や会社や歴史的施設があるのか、表から見ただけでは一向に分からない。分からないことにはもちろん面白くない。

しかしロンドンは長い歴史を持つ大都市であって、街角一つとっても物語に実に事欠かない。フリス通りの20番地にはモーツァルトが住み、カーゾン・プレイス通りの12番地ではママス・アンド・パパスのパパが、9番地ではザ・フーのキース・ムーンが死んだ。チェスターフィールド6番地ではサマセット・モームが所謂南海ものの傑作「月と16ペンス」を書き上げ、パーク・レーン通り87番地は第二次世界大戦中シャルル・ド・ゴールの亡命政権本部があった場所であり、ディーン通り69番地にはキュアーのロバート・スミスに「来る人はいいけど音楽は最低」と言わせた伝説のクラブ「バット・ケイブ」がかつてあり、セヴィル・ロウ3番地の屋上ではビートルズがゲット・バックを演奏した。

個人的にはこの本は現在の事務所を引越しするときに役に立った。大英帝国諜報機関のMI5が入っていたビルに空きが出たと言われれば見せてもらい、ヴァージニア・ウルフが自らの出版社Hogarth Pressを構えた場所の空きを見張った。縁がなかったのか、結局は特に由緒もゆかりもないビルに入ることになったが、通りの記憶だけは残った。

(林 茂)

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2005年11月08日

『Piero della Francesca』Marilyn Aronberg Lavin(Phaidon)

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日本でも立命館大学八村教授によるVRによる伝統芸能の解析や、慶應義塾大学によるグーテンベルグ聖書をはじめとする和洋貴重書のデジタル化など、デジタル技術を駆使した芸術、書物の解析が活発に行われている。

本書の著者ラヴィン教授はイエール大学やプリンストン大学で教鞭を取る一方、ピエロ・デラ・フランチェスカの絵画をコンピューター解析する「ピエロ・プロジェクト」のリーダーでもある。疑うことなくルネサンスの最も優れた画家の一人であるピエロ・デラ・フランチェスカは数学者でもあり、その素養は建築物の表現などによく現れておりルネサンスの優れた画家達の中でもピエロを特別な存在とする要素になっている。レオナルドが科学者でもあったことはよく知られており、「サン・ロマーノの戦い」をはじめとするウッチェロの絵画にもピエロと同様の直線の交錯が見いだせるが、ピエロの絵画をとりわけ高貴なものとならしめているのは、その人物の表情だろう。

例えばアレッツオの聖フランチェスコ教会にある傑作「聖十字架伝説」はゲーテがパラッディオのヴィラについて用いた表現「常に三次元の美しい調和を有することによって、人心を満足させる美」(ゲーテ、「イタリア紀行・上巻」、相良守峯訳、岩波文庫)でありこの絵を横から見、上を見上げ、ナラティブに添って絵から絵を辿る快楽は素晴らしいものがあるが、ここでのピエロの人物たちはまるでゴシック絵画の天使たちの群像のように同じ表情を浮かべている。これは同時期のルネサンス画家にはあまり見られない特徴であり、ピエロがウルビーノの他にはフィレンツェやローマといった大都会に長く身を置かなかったことが影響しているかもしれない。ある種「遅れてきた田舎者」(マリオ・プラーツ「官能の庭」、ありな書房)であるネーデルランドのボッシュと同様の状況が、サンセポルクロやアレッツオというトスカーナの僻地にいたピエロにもあったのであろうと想像する。しかし何れにしても、惚けたような人物達の表情の統一感と建築表現に特徴的な直線の快楽が、なにより透明な画風のもたらす悦楽と相まってピエロの絵を感動的なものとならしめる重要要素となっているのである。

コンピューター解析を用いてピエロの意図を読み砕く本書は画家のそうした性質を考えると正に有効な手段であり、この現存作品点数の極めて少ない画家の作品を最大限楽しむための極めて優れた手引き書である。
(林 茂)

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2005年11月04日

『Clara's Grand Tour : Travels with a Rhinoceros in Eighteenth-century Europe』Ridley, Glynis(Atlantic Books)

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十八世紀前半のこと、雌サイ、クレアの見世物巡業はヨーロッパ各地で大好評を博した。クレアはサイ専用の馬車に乗ってオランダのライデンからベルリンやライプチッヒなどのドイツ各地、ウイーン、フランスのランスやパリ、リヨン、マルセイユ、イタリアのナポリ、ローマにボローニャ、ヴェネチア、と実に十七年間に亘ってヨーロッパ各地を巡業し、そしてロンドンで死んだ。

カルカッタ生まれのクレアをオランダのライデンまで船で六ヶ月もかけて運びこんだのはヴァン・デル・メールというオランダ人。彼はオランダ東インド会社のしがない一社員であったが、しかし、が故に彼はライデン市民としての高名と何より一攫千金を求めていた。長い航海のサイの運搬費用を自腹で支払った。興行収入を期待しての初期投資というものだ。甲板の上がサイの船上の指定席になった。当時奴隷は船底の猥狭な空間に収容されて運ばれていたのだからクレアの場所は特等席であった。高価な客人であるからそれも当然の処遇というもの。当時の長い航海では保存上ビールが適していたが、荒っぽい船乗り達と同じく、クレアも水代わりにビールを飲んだ。

興行の成功にはいい宣伝ポスターが必要である。そこでヴァン・デル・メールは知恵を絞った。オランダのライデン大学はシーボルトのコレクションが寄贈されたこと(シーボルト事件)で知られるが、ライデン大学は十八世紀当時から有力であり、ライデンの町自体、知的好奇心の寛容される場所であった。この時代まで解剖学図は未だ十六世紀のヴェサリウスが使われており、野心的なライデン大学の解剖学者アルビニウスは学問の進歩に見合った新しい解剖学図版入りのテキストを出版したいと思っていた。ヴァン・デル・メールはこの男に近づいた。そして解剖学の版画を作る過程で興行宣伝用のサイの版画をついでに作らせることにまんまと成功した。

十八世紀のヨーロッパ人はサイを神秘的で恐ろしい動物と見ていた。サイの博物学的図像の中でだれもがはじめに思いつくのはデューラーの版画であろう。時にはユニコーンと混同されることさえあった。プリニウスの「博物誌」には「象と犀は永遠の敵同士で死ぬまで殺しあう」とある。聖書にはサイについての言及が訳版による違いはあるが六箇所から九箇所登場するが、何れも強く凶暴な動物をイメージしたものである。

見世物興行にあたってヴァン・デル・メールはこのイメージを利用した。聖書の動物を見せる興行とあって非常な好評を博した。町から町へと巡業することになった。サイの体重は三トンもあったので、運搬用の馬車を特注した。移動中のタダ見を避けるためサイが外から見えないようにした。

クレアはその後十七年間もヨーロッパ各地への旅を続けた。西洋で最初に生きたインドサイを輸入し、しかし二年間で死なせてしまった町ロンドンでその一生を終えたのは不思議な巡り合わせであるにしても。
(林 茂)

(関連書籍) 同じく日本は江戸時代。動物・植物はいかにして描かれてきたか。徳川吉宗がつれてこさせたインドゾウやジャワヤマアラシなど貴重な資料を多数収録。
描かれた動物・植物―江戸時代の博物誌 国立国会図書館特別展示
貴重な原資料を多数展示しています。
国立国会図書館 特別展示会(関西会場)11月15日(火)~11月28日(月)
(文責 書評空間編集部)

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