2009年02月07日

『肖像のエニグマ』岡田温司(岩波書店)

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肖像画の隠された意味にひとは魅せられてきた。モナリザ、真珠の耳飾りの女、ラ・フォルナリーナ、裸のマハ、マルゲリータ王女、などなど。何れも美しくエニグマティック(謎めいた)な作品であって、その表情、仕草に、モデルの正体や画家の関係、パトロンとの関係を読み解こうとした。

こうした<特別な>肖像画の一方に、無数の、無名な、謂わば一族一家の間のみで生産され消費されてきたファミリー・ポートレイトの膨大な一群がある。

イギリスのカントリーサイドには、城やマナー・ハウスが数多く点在するが、そこで見られるものがこうした肖像群である。圧倒される量の―van Dykeのような一部の例外を除いてはー無名画家による<作品>群。そこには死の記憶のみが濃密に漂っている。

収集の徹底性にかけては規格外にグローバルクラスのロンドンの町には、国立肖像画館(National Portrait Gallery)というユニークな美術館がある。まっとうな美術史からは黙殺され続けている<普通の>肖像画も集めた施設であって、一般にはマダムタッソー蝋人形館と大差ない観光スポットかも知れない。しかし、美術に限らず、ある芸術ジャンルと徹底的に付き合うということは、こうした無名の作品群の大海に身を溺れさせることなのだ。選択のない質量の中に身を浸す幸福。

ヴァザーリの「美術家列伝」から、ピエロ・ディ・コジモ、ポントルモ、ウッチェロの三大「奇人」伝を選び出して、その<気の散りよう>を逐一論う本書第三章は出色である。

『戦略とは保持する権力の相違に応じて行為者がどう振舞うかの科学である』(ポコックP.150)

マキェベリ主義を任じるこの<社交界の美術家>には、才能ある者による<脱線>が理解できなかった。幸田露伴の次のくだりを思い出す。

『人もし事を為し、もしくは恩を運す時に当たって、おのれが脳裏の消息に注意して見て、いやしくも気が散ると知ったならば修司せねばならぬ。散る気の習が付いて居ては、何事をなしても善くできぬはずであるからである。よしんばその人が天祐を受くることが多くて、高才多力であるために善く事を為し得たにしても、散る気の習が付いて居れば、けだしその人も少なからず苦しみ困しみて、そして後僅にその事を為し得たるに疑いない。もし気が散りさえせねば、その人はなおその事以上の事を為し得たに相違ないのである。くれぐれも散る気はよろしからぬ気である。』(努力論、幸田露伴)

観相学という分野がある。アビ・ヴァールブルグがその始祖であって、たとえば彫刻や絵画におけるルネサンス人の身振りから、例えば<肘をつくひと>というテーマを俯瞰するような試みだ。膨大な作品記憶が求められる研究方法であり、余人には引き継ぐことが困難だ。国立西洋美術館で行われた「ラファターの観相学」はこの試みの一大展示であって、その展示目録は、ひとの仕草や表情を特定の文化コンテクストのなかで読む試みを体験させてくれる。

(林 茂)


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