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2012年03月18日

『猫語の教科書―共に暮らすためのやさしい提案 』監修・野澤延行(池田書店)

猫語の教科書―共に暮らすためのやさしい提案  →bookwebで購入

 旅、料理、手芸、ファッション、健康や自己メンテなど、最近の実用書には、いかにも実用書然としたのではない、おしゃれなデザインのものがおおい。
 実用書といえば!の池田書店のものにもその手の本がいろいろとある。そういえば、現在大流行中の塩麹についてはじめて知ったのはここの『麹のレシピ―からだに「いいこと」たくさん』(おのみさ著)だった。また、ページにゆらめくさまざまな金魚たちの姿に見惚れる『金魚―長く、楽しく飼うための本 (もっとわかる動物のことシリーズ) 』(川田洋之助監修/ 岡本信明)も本棚にある。金魚を飼うつもりなどないのに。

 さて、はじめて猫と暮らす人のための本書のタイトルは、猫好きのバイブルともいうべきポール・ギャリコの『猫語の教科書』から。猫の目線から、人間との暮らしをいかに快適にするかが語られるこのギャリコの本によれば、ヒトはどうしようもなくおろかな生きものだが、彼等を支配し、上手にその家を乗っ取れば、猫は安全で快適な暮らしが送れるのだという。本書もそれにならい、猫との暮らしはあくまで猫本位であると説く。

 ……ネコと暮らすことは、飼い主という名の「従者」「世話人」、あるいは「奴隷」となることとほぼ思っておけばまちがいありません。
 ネコを家に迎えることは、じつは、“わが家をネコに乗っ取られる”ことだったりします。そこを承知した上で、「どんな変化も楽しむ」という心がまえでネコとの暮らしに入りましょう。

 猫をわが家へむかえいれる準備、猫と快適に暮らす秘訣、「猫語」――猫の身振りや行動――から読み取る猫の気持ち。猫との暮らしが長い私にとって、じつはどれもすでに承知の情報なのだが、それでも手にとらずにいられなかったのは、表紙を飾る「シャロンちゃん」(メス・三歳)の凛とした姿に惹かれたため。瞳のみどり、耳と鼻の桜色が映える真っ白なからだ、そしてこの表情。このところずっと、枕元において眠る前に眺めるのが日課となっている。

 ふわふわの綿菓子のような仔猫時代のシャロンちゃん、コードをかじるシャロンちゃん、紙袋に潜むシャロンちゃん、本棚の上に正座するシャロンちゃん、赤い毛布を〝ふみふみ〟するシャロンちゃん。どのページを繰っても、女性誌の猫特集のようなショットばかり。

 また、長毛種の代表としてペルシャ猫など、その他の猫たちも登場。たとえば、「飼い主さん訪問」というページでの、スコティッシュフォールド「へんちゃん」と飼い主「石井さん」のツーショットはすばらしい。飼い主の「石井さん」は「へんちゃん」の背中にぎゅう、と顔を埋めているのだが、そのときのへんちゃんの、うっとりと安堵しきった表情ときたら!

 思えば、私がはじめて捨て猫を拾って飼いはじめたときに求めた猫の飼い方の本は、カラー口絵にシャムやヒマラヤンなど純血腫の猫たちが図鑑のようにならんでいる他は、粗い白黒の写真かイラストばかりの、味気ない、いかにもな実用書であった。

 私は古い猫の写真集や、猫の飼い方の本が好きで、一時期は古本で目につくと買っていた。写真集はデザインで可愛いし(特に、本多信男撮影の山と渓谷社のものがすばらしい)、飼い方の本はその時代の猫の飼い方を反映していておもしろい。今の感覚からすると、これは動物虐待なのでは?と思えるような表現があったりもする。

 本書に登場する猫写真はすべて室内で撮られているが、これはかつての猫の飼い方実用書にも、また猫の写真集にもなかったことである。私の子供の頃はまだ完全室内飼いは一般的でなく、猫は自由に外へ散歩に出るものだというのが常識、猫を家に閉じ込めておくのはかわいそうだと思われていた。

 本書では「今日はるすばん」という章が設けられていて、「一泊くらいの留守番は大丈夫」と、猫を置いて外泊するさいの注意点が書かれている。完全室内飼いが定着した今日ならではのことだろう。
 『サザエさん』のタマのように、大家族の暮らす一軒家の縁側でお昼寝し、気ままに外出し、家族の誰かがいつも家にいるのでひとりぼっちになることもない、という猫はいまや少数派。この本はおもに、マンションにひとり暮らしで猫を飼う人のために作られているといっていい。「ヒトひとり+ペット」世帯は今後ますます増えてゆくのだろう。


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2012年02月29日

『富士塚ゆる散歩―古くて新しいお江戸パワースポット』有坂蓉子(講談社)

富士塚ゆる散歩―古くて新しいお江戸パワースポット →bookwebで購入

 江戸の町のことを思うとき、まっさきに心に浮かぶのは、空気のおいしさ、そして、何にも遮られることのない富士の眺めだ。今の私たちとはくらべものにならないくらい、江戸の人たちは富士山と親密だったろう。けれども、実際に富士を詣でることはそんなに簡単ではなかったから、富士講や富士塚が栄えた。富士を模した塚を身近に設置し、これに登ることで富士山へ参ったこととする。この融通のきいた発想がなんとも江戸っ子らしい。と、こう書いてしまうとこぼれおちてしまう何かがあるような気がする。

 富士塚の魅力をさまざまな視点から紹介する本書。著者がその導入として触れるのは、人造富士(富士塚とは別ものの模造富士)に登ったという彼女の子ども時代の体験である。70年代、富士急ハイランドにミニチュアの富士山があったのだそうだ。

 我々は、無邪気にミニ富士に駆け登り、頂上から本物の富士山を拝した。眼前の富士山は雄大で、空は高く晴れわたり、皆で爽快感にひたっていた。
「富士山だ、富士山だ~!」
 少し高い位置から見る富士山は、よりいっそう「近しい」存在に思えた。
 正確に言えば、それは高さのせいではない。登山ごっこではあったけれど、私はすっかり富士登山の気分になっていた。
 富士山(人造富士)にいながら、富士山(ホンモノ)に登った錯覚。登山行為の投影、すり替え。自分の立つミニ富士はたかだか数メートルの高さなのに富士山と認識し、登ったことで富士登山が完結した。矛盾を認めながらも,私は富士登山の共時性を味わったのだ。
 そしてひそかに困惑した。子供心に、そのシチュエーションにまごついた。今でも当時の「奇妙な感じ」がつきまとう。
 その時私を惑わしたもの。それは、自分が富士山に向かって滑り出したような、富士山に瞬間移動してしまったような、もしくは、富士登山する自分をもう一人の自分が俯瞰しているような……得も言われぬ感覚。

 錯覚、投影、すり替え。たしかに、彼女のミニ富士登山体験を今の私たちの感覚で言い換えればそういうことになるだろう。それでもなお、彼女の感じた「奇妙な感じ」の内実はあきらかにはならない。
 信仰、といえば、すこし近い気がする。本書ではたびたび、富士講は〝宗教ではなく信仰〟であるといわれる。富士講は、富士山への愛着と親しみ、同時にこれを畏れ敬う気持ちの発現であり、それにかたちを与えたのが富士塚という造形物なのだ。そのバーチャルな登山体験を通じて、富士山への信仰にも似た気持ちが彼女のなかに自ずとわき起こったということなのかもしれない。

 著者は美術家である。彼女が富士塚にハマったのは、12年間のアメリカ生活のなか、正月に初詣のできない境遇を憂いでミニチュアの鳥居を作って「バーチャル初詣」をしたことにそもそもの端を発する。彼女はそれを「初詣キット」なる美術作品とした。そして帰国後、富士塚について詳しく知るにあたって、その発想が「初詣キット」と同じであることに驚いたのだという。
 それをきっかけに、富士塚をめぐり、これを味わい、知るにおよんで、富士塚をモチーフとしたインスタレーションも制作している。実際の富士塚に倣ってこれを「参拝」するという観衆参加型のもので、それは「富士塚の理念を備えていれば、創ったものは富士塚になりうるというコンセプト。究極の「どこでも富士」の実験」なのだという。

 信仰は宗教とは違い、もっと個人的で根源的な拠りどころである。それを富士塚という媒体を通して認識出来たことが、私にとっての着地点であった。

 本書を貫いているもの……著者を富士塚へと向かわせ、その面白さを語らせているのは、子ども時代のバーチャル富士登山とそこで感じた「奇妙な感じ」のカラクリへの興味ではないだろうか。そしてそのカラクリは、美術作品とそれを受容するという状況ともどこか似ている。
 江戸の人たちの富士塚の発想にしても、その御利益にとどまらぬ、造形することへの欲求や見ることへの楽しみがあったのではないか。なにより富士山への信仰心は、その自然の美しさに触れることへのよろこびと畏れによるものだったろうから。

 個性的な富士塚や、厳選された50基のガイド。大小の天狗や大日如来、烏帽子岩、拝み猿、胎内など、富士塚にはつきもののアイテムの紹介。先達にともなっての富士塚参り。古地図や郷土資料、地名、地形などの情報を動員し、さらにはインスピレーションとご縁をたのみとした富士塚ハンティングへの誘い。あるいはパワースポットとしての富士塚考。巻頭には東京の富士塚地図、その多さに驚いた。私の徒歩圏内にもたくさんある、ぜひ行ってみよう!
 富士塚のありかたはじつに多彩で自由だ。今風にいうならデザインの豊かさ、さまざまな要素が集まってお参りする者を飽きさせないその遊び心。それらを了解することで得られる楽しみ。美術家ならではの見方を存分に駆使し、それを私たちに教えてくれるこの富士塚案内は、富士塚をアートという文脈に引き寄せるのではなく、彼女がその感覚を富士塚に委ね、寄りそわせているからこそ生まれた表現なのだと思う。



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2012年01月23日

『Cooking for Geeks―料理の科学と実践レシピ』ジェフ・ポッター・著/水原文・訳(オライリー・ジャパン)

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 温泉卵を作ろうとネットにあたると、沸騰したら火を止めて放置する、あるいはそのお湯に片栗粉を入れて湯の温度を保つという〝裏技〟、そのほか、魔法瓶を使う、電子レンジを使う、カップラーメンの容器を使う、一度卵を凍らせる等々、じつにいろいろな方法があることがわかる。
 最も熱に敏感なタンパク質はオボトランスフェリンで、これは約144°F /62°Cで変成をはじめる。卵白アルブミンという別のタンパク質は、176°F /80°C程度で変成する。これらは、卵白に最も多くみられるタンパク質だ。オボトランスフェリンは卵白の14%を、卵白アルブミンは54%を占めている。温泉卵と固ゆで卵の違いもこれで説明できる。卵を十分に長い時間176°F /80°Cに保つと、卵白は硬くなる。しかしこれ未満の温度では、卵白アルブミンは丸まったまま(筆者註・未変成のタンパク質は丸く折りたたまれた形をしており、熱や力を加えることによりその構造がほどけ、他の変成したタンパク質と連結して固まる)なので、卵白の大部分が「液体」の状態のままになるというわけだ。

 「調理=時間×温度」。本書では、調理における熱による化学反応についての章で、「卵が固まりはじめる」「I型コラーゲンが変成する」「植物性デンプンが分解する」「メイラード反応が顕著に現れる」「糖が明確にカラメル化する」それぞれの温度についてが解説される。

 温泉卵といえば、家庭科の授業で温度計片手にこれを作ったことがある人もいるのではないか。あるいは、こねた小麦粉を水で洗ってグルテンを取り出したり、牛乳にレモン汁を入れて凝固させたり、マヨネーズ作りで乳化のメカニズムを体験したり。
 大抵の人は料理の出来上がりそのものにこだわるので、「温泉卵は黄身は固まるが白身は固まりきらない70度で加熱する」、それはわかっているけど、ではどうしたらそのように出来るか、を知りたがる。そして、レシピというのはふつう、その知りたいに答えるようにできている。しかし、世の中にはそれでは納得しない人たちもいるのである。

 料理とは、辞書には「材料に手を加えて食物をこしらえる」とあるけれど、「こしらえる」ということばはそれ自体「調理する」という意味を含むので、より厳密にいうならば、料理とは食材を切ったり混ぜたり熱を加えたりすることによって何らかの反応を加えるということになる。そのメカニズムを科学的に解説したのが、このギークのための料理本なのである。
 プログラマーやエンジニア、物作りの好きな人やオタクといった「ギーク」たちは言い換えるならば「物事の仕組みを解き明かすことに熱中して」しまう人たちのこと。

 本書は、料理に対する心構えにはじまり「キッチンの初期化」(まずは道具から、あるいはその使い方やレイアウト等)、「入力の選択:風味と食材」、「時間と温度:料理の主要変数」、「空気:焼き菓子作りの重要変数」、「食品添加物」(塩や砂糖もここでは〝伝統的な食品添加物〟となる)、その他、料理人やブロガー、技術者などの料理に関するインタビュー、「自分でペクチンを作ってみよう」「シュガークッキーのカラメル化を目で見て確かめる」「浸透圧と塩」など家庭科の実験ぽい提案や、「感電ホットドッグ」(商用電源で行うのは危険!)「人への最適ケーキ分割アルゴリズム」といったギークらしいコラムもたくさん。もちろん、前菜からスープ、メイン料理、パン、デザートなど百種を超えるレシピも掲載されている。

 ちなみに私が一番作ってみたいと思ったのは「ドリップフィルターで作るコンソメ」。ふつう、スープストックを澄ませるために泡立てた卵白と一緒に煮るところを、冷ましてゲル化したスープを冷凍したのち、解凍しながらドリップするというもの。ゼラチンはフィルターを通らないので、それが濁りを取りこんで、溶けて流れ落ちたスープは透きとおるのだとか。思えばこれって、冷凍技術があってこそ可能な調理法なのだなあ……。

 料理というジャンルにおいてはとくに、〝コツ〟のひとことでかたづけられがちな技術上のカラクリ。「この料理をおいしく作るコツは、タマネギを飴色になるまで弱火でじっくり炒めることです」と言われ、ああそうですかと言われるがままにするのではなく、なぜ「飴色」で「弱火」なのかを考えずにはいられない人たちのためにあるのがこの料理書なのである。いつもなら、箇条書きのレシピに沿って出来上がりをひたすらを追うところだが、フライパンの上で少しずつ色を変えてゆくタマネギには、膨大な言葉で説明するだけの現象が起こっていることをこの本は教えてくれる。


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2012年01月08日

『猛烈に!アロハ萌え―HAWAII IN HAWAII』橋口いくよ(講談社文庫)

猛烈に!アロハ萌え―HAWAII IN HAWAII →bookwebで購入

 親戚や知り合いからの土産物「マカデミアナッツチョコレート」でしかハワイというものに接触したことのない私がなぜこの本を手に取ったのかといえば、年末の寒空の下、サマードレスやビキニの水着、スパムの缶、その他なにやらわからないけれどとにかくカラフルな雑貨があふれるカバー写真の常夏ムードに吸い寄せられたためである。

 それに、たとえそこが私にとって、宝くじに当たってお金の使い道に困ったりでもしたらもしかして行くのかも、というほどのモチベーションしか持てない場所だとしても、旅の本を読むのはやっぱり楽しいものだし……などと思いページを繰っていたのだけれど、読みすすむうち、この本は私のなかで旅の本という括りばかりでなくハワイの本という括りさえも超越していった。

 本書の前作であるハワイエッセイ『アロハ萌え!』のなかで著者の記した言葉、「人生は『ハワイに行く前』と『行っている時』しかない」は、ハワイ好き読者たちの涙を誘ったという名言だが、じつに、著者のハワイへの思い入れの深さは底知れない。彼女の心も体も、常にハワイを求めてやまない、というか、いつでもハワイと共に在るというか、ハワイなるものに取り巻かれているというか、ハワイを感じつづけているというか……つまりはいつでもアロハ萌え、なのだ。

 アロハ萌え、という言葉にわかりやすい定義はありません。
 ハワイを思い出した時、ハワイを感じた時、ハワイに行きたい時、電車で一緒になる外国人から漂う柔軟剤の香りを嗅いだ時、春先にちょっと夏の予感を感じた時……
 冬の寒い朝でも、真っ白い光に目を細める時は、私のなかではそこにハワイの日差しがあるし、北欧レストランで出てくるエッグベネディクトにさえハワイを感じることができます。

 ハワイ滞在時でない日常のなかでこそ、繁く発動されるこの萌え心理。以下のくだりなど、ハワイに行ったことのない私でさえ、ハワイに焦がれてやまない気持ちが彷彿とされる。

 打ち合わせなどで、たまたま行ったビルのカーペットが掃除したてだったりすると、目を閉じて、記憶をたぐり寄せ、ホノルル空港のイミグレ直前のあたりの清潔な冷えた香りを思い出したりもできます。

 また、著者は滞在時にホテルのお風呂で使う入浴剤を「ツムラの「きき湯」の青色」と決めていて、それはなぜかといえば、ハワイでその湯に浸かり続けて「ハワイのお風呂」という感覚を刷り込ませ、それを日本の家のお風呂で使うことでアロハ萌え作用をもたらすため、なのである。
 この、五感、ことに嗅覚や触覚の刺激によって自らの気持ちを上げようとする小細工感は女の子ならではではないだろうか。あるいは、ハワイに向かう機内では、部屋着のようなゆったりとした服装で、持参のお気に入りのブランケットとクッションに包まれて思い切りリラックス、というのもおなじ。
 ありえないほど大量の荷物とともに著者はハワイ入りするのだが、それは、日常の彼女を取り巻くアイテムをそのままハワイにも持ち込むためである。

 (……)「いざ張り切って旅行!」という感覚は特別で楽しいものだけれど、同時に緊張もあるもの。せっかくのお休みですから、緊張はしたくない。楽しさとわくわく感だけ残し、気持ちはリラックス。それが私の理想です。(……)なので、日本→飛行機→ハワイという時間のぶつ切り感が起こらないよう、ハワイへ行く直前には、まるでハワイにいるような気分で過ごして準備を進めます。逆に飛行機の中では自分の部屋にいるようなリラックス感をあえて作り、ハワイ行きのわくわくした気持ちとミックスさせるとちょうどいい。その為には、やはり機内持ち込み荷物がやはり重要となってくるわけです。

 この、日常からハワイへのシフトの演出の入念さはまるで儀式のよう。「いざ張り切って旅行!」というように、ハレとケの落差があるほうが盛り上がれる人もいるだろうが、そうすると、いざ日常にもどったときの寂しさもひとしお。
 かつて、ハワイ行きの準備の段階で、帰ってくる時のことを想像しては落ち込んでしまっていたという著者。そこで彼女が辿り着いたのが、ハワイから帰ってきた瞬間から次のハワイ行きへの準備がはじまる、つまり「人生は『ハワイに行く前』と『行っている時』しかない」という境地なのだった。ゆえに、著者のハワイへの思いが強まれば強まるほど、そのアロハ萌えな日常へのいつくしみもまたパワーアップするようにみえる。

 本書には、たとえば一週間はかけるというハワイ行きの準備にはじまり、行きの機内での過ごしかた、到着初日をどうするか、ビーチ、ホテル、お買い物等々、ハワイ好きの、ことに女子にとっては心躍るようなハワイの楽しみが、きわめて具体的に書かれている。しかし、話が具体的になればなるほど、ハワイについてとんと無知な私には抽象的に読めてしまい、これはもしかすると、ハワイというハレの場よりもむしろ、それ以外の日常を生き抜くための本なのではないか、と深読みされてしまったという訳なのである。


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2011年08月29日

『Made by Hand ポンコツDIYで自分を取り戻す』マーク・フラウエンフェルダー 金井哲夫・訳(オライリー・ジャパン)

Made by Hand ポンコツDIYで自分を取り戻す →bookwebで購入

 これは、庭で野菜を育て、愛用のエスプレッソ・マシンを改造し、ニワトリを飼い、シガーケースでギターを作り、木でスプーンを掘り、紅茶キノコを仕込み、養蜂に挑戦する男の勇猛果敢かつユーモアにあふれた活動の記録である。
 著者は、雑誌『Make』(日本版もあり)の編集長。『Make』は、「テクノロジーを自由な発想で使いこなす」ユニークな物作りや、DIY愛好家たちに役立つ記事を集めた情報誌である。
 雑誌作りを通じて、彼は多くのDIY愛好家、特に「アルファ・メイカー」(Alpha Maker')と呼ばれる「クールな物を設計して作る研究と実践を重ねている物作りの第一人者たち」と出会う。それをきっかけに彼は、過去にした失敗ゆえに敬遠し、苦手意識すら感じていた物作りの世界に足を踏み入れることになるのだ。
 彼らの生き方は、新鮮であり刺激的だ。DIY愛好家たちは、自分自身や家族が使ったり、食べたり、着たり、遊んだりする品々を、堂々とした自己責任において、作り、管理している。彼らはむしろ、自分たちを取り巻く物理環境を、創造し、維持し、改良するという困難を楽しんでいるのだ。  そんなDIYの世界を出会うことで、DIY活動が、より豊かで意味深い人生、周囲の世界と深く関わり合える人生にとって、中心的とは言わないまでも、とても重要な役割を果たすことに、私はようやく気がついた。この雑誌を通して知り合ったアルファ・メイカーたちから、できるだけ多くの事を学びたいと私は思った。彼らの教えを自分の人生に役立てたいと思った。

 彼がこうした境地に辿り着くまでには、あるひとつの経緯があった。ITバブルのあおりで、フリーライターの仕事が激減してしまった彼は、生活環境を変えようと、妻とふたりの子どもと共に、二〇〇三年、南大西洋のラロトンガ島に移住する。収入が減ったことによって考えなくてはならないのは、お金の使い方ではなく、時間の使い方についての問題ではないかと彼は考えたのだ。

 既製品の娯楽や、遊園地の乗り物や、ショッピングモールでの買い物や、高速道路の渋滞や、絶え間なく届く電子メールといった環境で、本当に子どもを育てたいのか。どこかもっとましな生き方が、私たちのことを待っているのではないだろうか。

 こうして、家や車を売り払い、家族四人で島暮らしをはじめるのだが、四か月半で挫折。ふたたびロサンゼルスへ舞い戻る。

 私たちの問題は、ロサンゼルスでの生活に起因しており、それが飛行機に乗って一緒に来てしまったことだと考えた。つまるところ、私たち自身が問題だったのだ。いわゆる楽園に移り住んだところで、何も変えられない。

 この苦い経験と、雑誌の仕事のなかで出会うDIY愛好家たちの生き方を通じ、彼は発見する、DIYこそが「 私がスローダウンでき、自分の手を使い、周囲の世界と意義深い形で深く関われるようになる」人生を創り出すのだと。
 
 家庭菜園を作るため、庭の芝生を根絶すべく四苦八苦したり、ニワトリをコヨーテから守るために苦労したり、ミツバチを飼うのに妻の反対にあったり、彼のDIY生活には何かと困難がおおい。特に器用でも、創意工夫のアイデアに満ちてもいない人間が、たどたどしい手つきで奮闘する姿にはほほえみを誘われる。ただし、彼が敬愛し、各章で紹介される、それぞれの道に精通した物作りの達人たちも、最初からすべてに精通していた人ばかりではないらしい。

 彼らの秘密は、彼らが何か特別なものを持っているというよりは、むしろ何かを持っていないことにある。それは、失敗する恐怖感だ。ほとんどの人間は失敗を恐れる。そのため、自分の力量を超える技術を要することには手を出そうとしない。

 彼の出会ったDIY愛好家には、高等教育を受けていない人の割合が多いという。彼曰く「彼らは教育システムから脱出できたラッキーな人たち」であり、数値化された成績で評価されることがなかったからこそ、失敗を恐れず、むしろ失敗を糧にして、物を作りだしてゆけるのだと。
 なるほど。それだけで説明はできない気もするが、たしかに教育システムにどっぷりはまって、なるべく無駄のないルートで人生を歩んできた人よりは、そうでない人のほうが自らの頭と手を使う術には長けているかもしれない。スピードや効率が尊ばれる社会では、失敗をくり返してまで自分の手を煩わせるのは無駄なこと。専門家にまかせたり、必要なものは買ってすませればいい。

 過去にした失敗に懲りて、DIYすることを放棄してきたこれまでの生活から脱却し、果てしのない消費とスケジュールに追い立てられる生活をダウンシフトすべく、著者はDIY生活にとり組むわけだが、彼の動機には、ごくシンプルなチャレンジ精神や、達成感や充実感、DIYする自分への他者からの尊敬、その成果を共有することで得られる人とのつながりや癒し、などへの欲求ももちろんある。消費の否定や環境への配慮といった大儀にかたよらず、それを隠していないところがいい。

 DIYは、日本では日曜大工的なものを指すことが多いが、その守備範囲は生活のあらゆる場面におよぶ。ガーデニングや家庭菜園、養鶏、養蜂、保存食作り、家電や生活用品の修理・修繕、編物や木工といったクラフトなど、その内容は幅広い。
 ただし、先にあげたアルファ・メイカーと呼ばれる人たちは、工学技術を駆使して、機械いじったり、何ものかを発明・製作する人のことを指している。米語の「ティンカー」(tinker)とは、アメリカのメイカーたちがよく使う言葉で、機械をいじくりまわしたり、何かの仕掛けを発明するという意味だというが、それに相当する日本語がみつからない、と訳者のあとがきにはあった。
 日本にも、機械いじりが好きだったり、「町の発明家」といわれるような人はいるけれど、アメリカほど一般的ではないのだろう。このDIY文化は、その愛好家の大多数を占める中間層の人たちが、さまざまな電動工具を所有したり、作業をするためのガレージや地下室というスペースをあたりまえに持てるアメリカならではのものだろう。

 『Make』は、一九四〇年代から六〇年代の、アメリカのDIY黎明期のDIY雑誌をモデルとしているという。だから、「ティンカー」することによろこびを感じるアルファ・メイカーは、アメリカの郊外化が進んだ時代に出現した人たちだ。そしてその担い手のほとんどは男性だろう。
 本書の帯に、「「Makerムーブメント」を主導する雑誌『Make』編集長」とあるように、DIY文化は、かつての隆盛ののち、消費することにのみ忙しい人々によって忘れられ、いったんは低迷し、近年ふたたび注目されるようになったのだ。
 『Make』には一時期、『Craft』という姉妹誌があった(現在はウェブマガジンになっている)。おなじDIYでも、こちらは裁縫や編物などの技術を使った物作り、手芸や工芸といった分野を扱う雑誌だ。編集長は著者の妻。本書のなかで、この妻はつねに夫のいちばんの批評者としての存在感を放っていたが、夫の作る『Make』誌がリードするムーブメントに対し、妻の『Craft』から発する、女によるDIYの現状も気になるところである。

 




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2011年04月09日

『おとなの味』平松洋子(新潮文庫)

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 大人の味といえば、苦みや辛みやえぐみ。大人になってはじめて知るおいしさは、誰にでも思い当たるはず。ここにも、子どものころはむしろ遠ざけていた山菜を切実に欲する人がいる。
 春先に野山の苦み、えぐみを味わう。すると、にわかにからだの奧で蠢動が起こる。眠りこけていたものが、ぶるりと身を震わせて起き上がる。  かんがえてみれば不思議なことだ。舌先から伝わった味が五臓六腑に響き渡り、おおきな伸びをひとつ、からだを覚醒させる。そして、冬のあいだに溜まっていた澱がすうーっと下り始める。

 そのとき食べたいものは、「私」の好みや理屈をこえて、身体がもとめているのだと気づくことがある。ときどきたまらなく食べたくなるものがあり、お腹におさめてはじめて、ああそうだったのか、と自分の身体の調子に合点がいくのだが、次のときには忘れていて、ああそうだった、とおなじことをくりかえす。理屈でもって、あれもこれも必要だからと先回りして口に入れるよりは、自然なありかたなのかとも思う。

 読む、という場合にも、おなじようなことをしているな、と思うことがある。何か目新しいことを知りたいのでもなく、むずかしい理屈をたどるのも、話の筋を追うのも億劫で、するとエッセイ、ということになるが、選びかたを間違えると後悔しそうで怖い……などと、ないものねだりしているつもりは決してないのだが。ただ、読みたいのだけはたしかで、ああこれだと読みはじめ、とまらなくなると、本を手にするまでのあのちょっとした屈託が何だったのかに思い至るのである。

 読んだり書いたり、のくりかえしのなかで、読みたいという気持ちとはいったい何なのだろうと、どこかでいつも考えている。その、何なんだろうの気持ちをあらためて強くさせられる本というのがときどきあって、つまり、本書はそのような本であった。

 食べもののことが書かれてある。エッセイとよばれるたぐいの文章である。著者には「エッセイスト」のほかに「フードジャーナリスト」という肩書きもあるから、その書くものにはもちろん、ジャーナリスティックな視点もある。雑誌・新聞に初出のあるものは、特定のお店や食べものという明白な主題があるが、本書のために書き下ろされたものは、味覚という実態のないものを、さまざまなスタイルで、さまざまな方向から照らし出す。なかには短編小説のような一文もある。

 じっくり天日に干したずいきは、これぞひなびた味わいといいたい。すっかり水分を失ってふかい皺の刻まれた濃茶の表面には、あきらめとしぶとさ、その両方が見てとれる。来る日も来る日も太陽と風になだめすかされて、なすがまま、あるがまま、あとはどうにでもしてくれい。もはや愛想のかけらもないが、拗ねてもいない。それが、ひなびた味の正体だ。
 ひざをすりむいて、つばを塗りつけたとき指さきに感じた血の味。海水浴の砂浜でくちびるを舐めたときの磯の味。落っことした飴がもったいなくて、ごみを払ってもう一度舌のうえにのせたときのほこりの味。運動会のときクラス対抗の徒競走で、アンカーだというのにつんのめって転び、口のなかにまみれた砂の味。古くなった食パンを知らずに囓ったときのかびの味。たとえばそのような味でさえ、おしまいになってしまった歳月のなかにあってはたまらなくきれいで、すきとおっている。

 こういう文章に触れると、腹の底から読むうれしさがわきあがってくる。味を知るとは、なにも舌の表面の味蕾への刺激だけを指すのでない。自分にはまだまだ味わったことのない「おとなの味」というものがあるだろうと思う。

 このうれしさはまた、ことばと触れあうよろこびによるものかもしれない。それは著者の、これまでのことばとの触れあい、著者が読んできたことによって培われてきたものを譲り受けるよろこびだ。

 旅の荷物に入れるのは、獅子文六、小島政二郎、子母沢寛。高校生のときは金子信雄、荻昌弘、伊丹十三、檀一雄が愛読書。惹かれるのは男性の書き手ばかりだったと本書にはあり、彼等から受け継がれたことばが、著者のなかに生きているのだろうが、私は向田邦子のことを思い出した。

 子どものころのこと。寿司折の「おみや」をぶら下げて父親が帰った晩、ねぼけまなこで妹とふたり、座敷に座る。

 どれから食べよう。箸を握っていると、コップの冷たい水を飲みながら父が言う。  「ようこさんはいか。けいこさんはえび」

 娘に「さん」をつけて呼ぶ、ほろ酔いで上機嫌のお父さん。この夜遅くのお寿司で、彼女はわさびの味を知る。あるいは夏休みの午後、昼寝から覚めてまず飲む麦茶。姉の役目である夕飯前のかつおぶし削り。平松洋子という人も、「昭和の長女」という呼び名がよく似合う。そのことばを受け継いで、自分のなかに生かしていきたいなあ、と思わさせる書き手である。


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2011年03月29日

『裁縫女子』ワタナベ・コウ(リトルモア)

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 細かい手順を大胆に省略し、初心者でも手早く簡単にできる「クイック・ソーイング」をあみだし、裁縫教室やテレビ番組で講師をつとめてきた著者。イラストレーターでもある彼女が、これまで教室で出会った生徒たちとのエピソードをつづったコミックエッセイ。

 自分の実際のサイズを無視してMサイズの服を作ろうとする。スカート丈80センチに固執する。チャコペンシル(布に印をつけるための裁縫用のペン、消えるものと消えないものがある)で布の表側に線を引いてしまう。初心者なのに縫いにくい生地をわざわざ選んでくるなど、大人げない生徒たちと、教室のスタッフ(教室を主宰するミシン会社の関係者)との板挟みにあいながら、ソーイングの道を説いてゆくコウ先生。

 1960年代までは、服を買うということはまだ一般的でなく、既製服は「ツルシ」とよばれ、質の悪い安物扱いだった。1970年に創刊された「アンアン」が、型紙を載せないはじめてのファッション雑誌であったとは本書にも紹介されているが、それまでのファッション誌には、グラビアでモデルが着ている服の型紙が必ず巻末についていた。洋服は自分で服地をもとめて縫うか、あるいは誂えてもらうものだったのだ。

 少女のころ裁縫に目ざめ、裁縫の得意な祖母に訓練されたという著者は、着ている服はほぼ自分で縫うという、筋金入りの裁縫家である。いっぽう母親は、「裁縫をする女など古い、これからの女の子は勉強ができなくてはいけない」という戦後民主主義を信奉する女性であった。そんな母と祖母の間で、著者は裁縫と同じく勉強もよくしたのであろう、東京外語大に入学するも、中退、その後ソーイング教室でアルバイトをはじめ、それをきっかけに裁縫の道へ。

 独自のメソッドによって、誰にでもできる初心者向けのソーイングをうたっている著者だが、教室をはじめた当初は、自分よりも年上の、はるかに裁縫歴の長いであろう「ソーイング・マニア」の人たちから、そんなやり方は邪道だと叱られたという。
 このエピソードは、もはや裁縫が女性にとって必須項目でなくなった今日の「女と裁縫」の関係の一面が表れているようだ。誰もがしなくなったからこそ、裁縫ができることは特別なことになる。手間ひまかけて磨いた技をそう簡単に他人に習得されては困る、というのが「ソーイング・マニア」のいいぶんだ。その技術を人に認めてもらうことこそが、彼女たちの欲望なのである。

 服は買うのが当たり前の今日、それでも裁縫をマスターして自分で服を作りたいというとき、その動機はどこにあるのだろう。ものづくりが好きだからか、自分に合ったサイズやデザインのものができるからか、買うよりも作ったほうが経済的だからか。女にとって裁縫とは何か、それが本書の隠れたテーマでもある。

 著者が裁縫を教えるまでになったのは、やはり裁縫そのものが好きだったためだろう。そんな彼女のもとに集まった生徒たちは、教えられたことのうわべだけをなぞり、自分で考えることをせず、かといって人の言うこともきちんときかず、失敗は人のせいにしたりして、ときに先生を困らせる。一回の講習で、課題の服を失敗なく縫いあげることよりも、自分の手と頭を使って裁縫をする楽しさを知ってもらいたいと先生は願っているのだが、生徒との間の溝はどうにも埋めがたい。その食い違いはまるで、著者の「裁縫とは何か」という問への答えを導き出すための試練のようなのだ。


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2009年08月17日

『草かざり』かわしまよう子(ポプラ社)

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 使いおわったマヨネーズの容器を洗うとき思い出すのは、ほんの子どもの頃、夏、近所の友達の家の庭にひろげたビニールプールでの水遊びだ。うす黄色い中身の詰まっているときにはわからない、ぺかぺかとしたプラスチックの質感。その中にいっぱいに入れた水をお互いにひっかけあうのである。
 「半透明の透け具合を大切にしたかったので、イヌホオズキはあえて浅く飾りました。」  とは、本書の袖にあったカバー写真の説明。そうそう、この半透明の感じは、マヨネーズの容器でしかお目にかかれないものなのだ。

 いけばなの写真とエッセイで構成された本書。ふつうなら、ポイと捨てられてしまいそうな器にいけられた、野に咲く草花たちの写真がつづく。ミニトマトのパックにアレチノギクが、ウーロン茶のペットボトルにミズヒキが、魚のかたちをした醤油入れシロツメクサが、ヨーグルトの容器にはドクダミが。
 吹けば飛んでしまいそうな器と野の草との組み合わせは一見はかなげ。しかし、道ばたなどで摘んだ雑草は意外と強いもので、栄養たっぷりに育てられ隆々としてみえる花屋の花より、よほど日持ちがする。そのねばり強い生命力を思うと、花器とされている小さなプラスチック容器も、なかなかにしぶとい存在なのだと気がつく。
 分別され、リサイクルされるこのものたちだが、そのへんに打ち捨てられたのなら、自然に還ることもなくいつまでもその姿を晒しつづける。本書に連なる容器と草花との出会いはこんなに可愛らしいのに、これらの写真を眺めていると、頭のすみに浮かんでくるのは、河原や道ばたの草むらにポイ捨てにされた空き缶やペットボトルの、ひしゃげて、周囲の雑草に埋まっている姿なのだ。

捨てられそうなものの価値観をリメイクするのはおもしろい

 子どものころ読んだ本で、ひまわりの花をサイダーのあきびんにいけるというシーンがあり、話の筋はまったくおぼえていないのだが、そこだけは忘れられずにいる。そして、そのとりあわせから、真夏の暑い暑い午後のイメージが連想され、つづいてあらわれるのは戦争である。焼け野原で、人が一杯の水を飲むのに使ったのは、変形したあきびんや、潰れかかった何かの容器だったろうと、本書の頁をめくっていたら、そんなことを思った。
 ものを、本来の用途とはちがう使い方をすること。私たちは、そうせざるを得ない状況からはずいぶん遠いところにいる。価値観のリメイクは、リサイクルやリユースよりも難しそうだ。それを肝に銘じつつ、捨てられてしまいそうなものに、私もひとつ、野に咲く草花をいけてみようと思った。


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2009年07月30日

『猫毛フェルトの本』蔦谷香理(飛鳥新社)

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 よく、切った爪を捨てずに保存する性癖の持ち主がいるが、あれはいったいどういう心理に基づいているのだろう。切られた爪は自分の一部、それをゴミと一緒に葬り去るのは忍びない、という強烈な自己愛のせいなのか、それとも、たんぱく質というものへのこだわり(なんとなく、栄養もありそうだし、いつか何かの役にたちそう)という貧乏性ゆえなのか。
 私は自分の爪も皮も垢も、さっさと見えなところへ流してしまいたい質だが、わが飼い猫に関しては別で、抜けたひげや乳歯を大事に大事に保存している。さらに最近、ブラッシングして抜けた毛を、紙袋にためていったら、たいへんな量になってしまい、捨てるのが惜しくなり、以前、犬の毛で毛糸を紡いでビキニを作っていた女性、というのをテレビで観たことを思い出し、だったら猫の毛でも、とフェルトを作ってみた。

 ふつう猫は自分で毛繕いをする。するとしぜん、自分の毛を大量に飲み込み、ヘア・ボールという毛玉が胃の中に作られ、これを定期的に吐き出す。わが猫もそれをするが、さっき食べたばかりのえさと胃液にまじって、吐き出されたヘア・ボールはちょうど人の親指ほどの大きさ。さわってみると、たくさんの毛が密に絡まって固く、ちょっと、使用前のタンポンのようなので、猫の毛でもきっとフェルトができる、と確信。
 猫毛は外毛と中毛の二層をなしており、フェルトにするには、真っすぐで固い外の毛はあまり適さないのだが、それでもちゃんとフェルトはできた。私はすっかりはまってしまい、ためた猫毛を取り憑かれたようにフェルトにしては壁に貼りつけて悦に入っていたのであった。
 そのふわふわのフェルトに顔をすりすりとこすりつけると、猫のお腹に顔をうずめている時とおなじ安心感が得られるので、これで御守りなど作ってもよいかも、などと思いつつそこまでまめな作業もできずにいた。
 ところで、猫毛でフェルト作り、ってちょっと人には言いづらい趣味、いえ、趣味というより私にとってはほとんど癒しの儀式、みたいになっているのでなおさら言いづらい、でも言いたい、と勇気を出して手芸の大好きな友人にそっと打ち明けてみたら、やはり微妙な表情をされてしまった。なぜ? 羊の毛も猫の毛もおなじ動物の毛ではないですか! 

 そんな私に福音をもたらす画期的な本がこの『猫毛フェルトの本』である。
 本書の著者もやはり、大量に抜ける猫の毛を前に、これでフェルトが作れそう、と思いたったのだとか。メインは猫型の指人形。段ボールで作った型に猫毛を絡ませかたちを作り、そこにビーズの目や、刺繍糸の首輪をつけて出来上がり、というもの。手袋やマフラーにつけるアップリケなども紹介されている。そのほか、猫の抜け毛と健康についてなどのコラムや、猫毛フェルトはゴミの減量化に一役買うかも、といった環境への配慮も。また、著者の飼い猫のほか、本書に掲載された猫毛手芸の材料を提供してくれた数匹の猫たちが写真入りで紹介されている。それによると、ブラッシングしてでた猫の抜け毛を捨てずにためている飼い主が結構いることが判明。またも、私だけじゃなくてよかった、と胸をなで下ろしたのだが、これって猫好きの間ではふつうのことなのだろうか。ともかく、あまたの猫ブログ、はたまた写真集のみならず、手作りの猫ごはんのレシピ本とか、猫グッズカタログとか、猫毛手芸とか、まったく目が離せない猫本の世界なのであった。


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2009年06月09日

『京都の迷い方』(京阪神エルマガジン社)

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 未だ冷めぬ京都ブームを反映して、京都を取り上げた本は数々ありますが、ガイド情報系、セレブリティ押し出し系、歴史などのお勉強に検定モノ…とどれも一様に紋切り型です。特にガイド情報系に顕著ですが、何より語り口にリアリティがない。つまり誰が書いても一緒なのです。

 などと、『エルマガジン』(こちらは昨年終刊)『ミーツ』『SAVVY』等情報誌をぞくぞくと世に送り出している版元が書いてよいのかどうか。それはともかく、AtoZ方式で繰りひろげられるのは、50人の書き手による、京都をめぐるあれこれ。
 ガイドブックで紹介された紹介された店をただスタンプラリーのように巡ってみたり、この店に行ったら絶対これ食べなきゃ…と決めこんだり、限られた時間内でいかに効率よく回るかに知恵を絞ったり…といった直線的で予定調和な消費行動は、こと京都という多分に重層的でふくよかな街を楽しむにはもったいない気がします。

 というのもかなり強引な価値観の押しつけ、という気がしないでもないけれど、出尽くした感のある京都のガイドブックのなかでは、書き手のそれぞれが得意な分野について、自分目線で語る様はなかなかの読み応え。

 エッセイ風あり、随筆風、ルポ風、評論風と語り口がでんでんばらばらなのもまたよい。
 辻井タカヒロ(イラストレーター)の、おかんの手作りちりめん山椒レシピとか、堀部篤史(恵文社店長)の左京区のおっさん鑑賞とか、阪田弘一(京都工芸繊維大学准教授)の、「ねねの道」をそれて霊山観音・祇園閣・大谷祖廟をめぐるガイドなどが書き手の芸を感じるコラムだが、なにより渚十吾(ミュージシャン)による京都バス路線図マップを讃える詩がすてき。というか私はこれをポエムと呼びたい。

 これは本ではない。
 ちょっとしたポスターのような京都バスの路線地図。
 こんなに美しくて、横42㎝・縦52㎝サイズで、
 しかもフリー・ペイパー。
 僕は大原のバス停で手に入れたが、きみはどうする?
 八月の暑い1日と京都、誰も歩いていない哲学の道あたりで
 深い山々に囲まれているこの路線図を眺めていたら
 歴史の幽玄の世界へと迷い込んでしまいそうだ。……

 本当に京都で迷いたいなら、このポエムの世界を探して街を彷徨ったらいいかも。私は彷徨いたくなった。
 それにしても、私的なところから好き勝手に語った一連の文章が、一方でガイドとしてじゅうぶんまかりとおる都市って、やっぱり「京都」しか思い浮かばない。だけどもう、情報なんてどうでもいい。「京都」を使って夢を見るくらいしか、ここに住んでいたらすることがない。
 で、渚十吾さんの詩のつづきをお読みになりたくば、お買い上げください。それだけでも価値があると私は思う。


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