メイン | マンガ/アニメ »

2012年12月17日

『絵と言葉の一研究 「わかりやすい」デザインを考える』寄藤文平(美術出版社)

絵と言葉の一研究 「わかりやすい」デザインを考える →bookwebで購入

 著者は広告のアートディレクションやブックデザインを手がけるデザイナー、イラストレーター。本書は、それまでの仕事をまとめたギンザ・グラフィック・ギャラリーでの展覧会「寄藤文平夏の一研究」と連動し、著者が、その生業において共通項ととらえる「絵と言葉」、そして「わかりやすい」デザインとはなにかについての考察をまとめたものである。デビュー作誕生のプロセスにはじまり、赤瀬川源平『千利休 無言の前衛』を対象としたさまざまな装幀のアイデアの羅列、書評等バラエティに富んだ構成。

 第2章「お金とタッチ」にこんなエピソードがでてくる。著者が仕事をはじめた当初のこと。イラストレーションの依頼のことごとくが「ヨリフジさんのタッチで描いてほしい」というものだった。1日に何度となく「ヨリフジさんのタッチ」という言葉を聞かされることもあって、若きクリエイターは思った。

 僕にはわからなかった。ラーメンを「ヨリフジさんのタッチ」で描いたからってなんなのか。寄藤文平は「ヨリフジさんのタッチ」専用マシーンなのか。
 僕は毎回、決められた絵を「ヨリフジさんのタッチ」で描くのではなく、絵の作り方から考えたいこと、タッチを売り物にするつもりがないことなどを力説した。
 ところが、そういう話をすると、だいたい困った顔をされるのである。「このガキ、メンドクセーな……」という空気になる。僕にはその理由もわからなかった。

 これは、「お仕事とクリエイティビティとの間での板挟み」といった「よくある話」にとどまらないと思う。
 第三者の目からすれば、著者の「わからない」は、発注者と受注者との価値観や意識のくいちがいの結果にすぎない。そもそも、「ヨリフジさんのタッチ」とは、広告の企画説明用のラフを描く上で編み出された、描き手の個性を消したタッチなのであった。その「わかりやすさ」がかえってウケてしまったのである。
 ただ、それをもとめられることに対する著者の「わからない」は、彼が仕事をしていくこと、なにかを作り出していくことそのものにかかわるとても根源的なものであるような気がするのだ。

 この例にとどまらず、著者は総じて「わかりやすさ」をもとめられることがおおかったようだ。そうした依頼に答えるかたちで仕事をこなしてきたであろうなかで、著者は「わかりやすく伝える」ことに対する疑いを深めていくことになる。
 「わかる」ということのおもしろさや楽しさが、この人の手がける仕事のかんどころだと、これまで私は感じてきたのだったが、はたしてそうなのか。本書を通読すると、自らの「わからない」を容易に手放さない姿勢の先に、この人の数々の仕事は連なっているようにみえてくる。第6章「わかるとわかりやすさ」にはこうある。

 ふつうに考えて、ある物事が「わかる」とき、同時に「わからない」ことも増える。僕はデザインについて母よりもわかっているけれど、母よりも「わからない」と感じている。「わかる」というのは、「わからない」ことが生まれて、それをまた「わかる」という「わかる⇄わからない」の反復運動だと考えた方が自然だ。
 そのように考えると、「わかりやすくする」というのは「その運動をより活発にする」ことだといえる。「わかりやすく伝える」ことは、「その運動がより活発になるような伝え方をする」ということだ。
 だから、いきなり「わかった」状態にしようとしなくてもいい。「わかった」というのは運動をいったん打ち切ることだから、むしろ「わかりやすさ」の逆だ。「わからない」ほうがいいこともある。

 すとんと腑に落ちるときの快感、というものが確かにある。広告等の仕事においては、その着地点はおおむね、安心安全なところに設定されているから、こころおきなく腑に落ちてしかるべきなのだが、「『わかりやすい』デザインを考える」というサブタイトルをもつ本書から私が受け取ったのは、「わかる」ことの快感などではなかった。
 上の引用部分に著者は、「わかる/わからない」の表裏のないメビウスの輪の絵を示してみせているけれど、私が本書を読みながら思い浮かべていたのは、「わかった」と思って着地してみたら、その足元に深くて大きな「わからない」の穴があいていて、その底をのぞきこんでいる自分の姿だった。

 たぶん、「わかりやすく伝える」ことの中には、「その素晴らしさを伝えたい」という気持ちが含まれている気がする。
 なにかを「わかる」というのも、別の言葉で言えば、なにかを「好きになる」っていう話なのだろう。

 著者はこんなふうにこの章を結んでいるのだが、それまでの話のすすめかたからすると、いささか歯切れの悪いまとめではないか。広告という仕事においてもとめられる「わかりやすさ」が「その素晴らしさを伝えたい」ゆえなのは明白だが、著者が考えようとしているのは、もはや実際的な仕事の枠を超えたなにかだと思うからだ。
 「デザイナーとして進む先がわからない」と、本の冒頭で著者は書いている。そうしたなかでこの本はうまれた。そういうふうに、自分とその仕事を距離をもって眺められることはすばらしいと私は思う。それはまた同時にしんどいことでもあるだろう。
 本書は、クリエイターがその創作の一端を披露する、といった類ものからは、どこかではみだしている。デザインの素人である私は、そのはみでた部分をおもしろく読んだ。そして、「わからない」の穴をのぞきこむのはちょっと怖くて、そこへ飛び込むのには勇気が要るように、手放しでおもしろがることのできない、ふしぎな後味ものこったのだった。


→bookwebで購入

2012年07月30日

『青い絵具の匂い―松本竣介と私』中野淳(中公文庫)

青い絵具の匂い―松本竣介と私 →bookwebで購入

 昭和23年に三十六歳で逝った松本竣介との交流をめぐる、著者の戦中・戦後史である。
 著者と竣介との出会いは昭和18年、「新人画会展」というグループ展に出品されていた作品がきっかけだった。この在野の展覧会は、美術展といえば戦争画一色となっていた当時、時局の風潮に屈せず、描きたい絵を描こうという作家たちの集まりによるものだった。
 朝日新聞の一面に大きく藤田嗣治、中村研一、宮本三郎ら有名画家たちの戦争画の写真が掲載され、戦争画展開催の報道が連日つづいて、厖大な観客が動員された。その是非は別として、現存作家による美術と大衆がされほど融合した例は稀である。混雑した美術館の会場では主要作品の脇に「天覧」と大書され、私たちは当然のこととして戦争画を脱帽して見ていたのである。そうした大作の描写の迫真性やユニークな構想に当時は素朴に驚嘆したものだった。
 ただ私自身は戦争画を制作する能力などない画学生に過ぎず、裸婦や着衣像を習作している日々だったが、自身やがて兵隊にとられ死地に赴くことを考えると、もっと自由で知的な絵画世界に憧れていたというのが真情だったろうか。

 知り合いのつてで竣介と面会した著者は、以来、描きためた絵を携えては松本家のアトリエを訪れるようになる。

 翌19年、著者は絵を描くことに熱中するあまり、徴兵検査の日を忘れてしまう。家族にも友人にも告げられずにいたこの失態を、竣介には打ち明けるこができた。「驚いたな。検査を忘れたといっても、君は兵役拒否なんて考えてるわけではないんだろ?」と、竣介が取り出してきたのは美術雑誌『みづゑ』であった。太平洋戦争開戦の昭和16年、同誌に掲載された軍人たちによる座談会「国防国家と画家」への、竣介の反論「生きている画家」が発表された号である。

 生活や時代へのまなざしのきびしさ、思考の深さといった松本さんの画家としての精神の深淵に、私は会うたび魅きつけられていった。磊落な画家の側面しか感じなかった私も「生きている画家」読後、はじめて松本さんの捨身の信念を知ったし、人間性を肌に感じて信頼感を増していったようだ。戦時下だかこのアトリエでは何でも喋れると思った。

 既成の思想や宗教に一定の距離をおき、自ら考え信ずるところに拠ってのみ、静かに筋を通して描き、そして生きた人。育ちがよく、頭も勘もよく、耳が聞こえないという障害にも屈せず、人柄も円満でと、まるで非の打ち所のない人。もうほとんど聖人のような扱いをされている松本竣介だが、その、未熟な者を侮らず、また自らを押しつけることもしない対しかた、こだわりなさもすてきだ。

 戦局が激しさを増し、もはや「絵どころではない」状況、画友たちは次々と兵隊にとられてゆく。そんななか、自らの失態に心を重くし、ただ絵を描くしかなかった十代の著者にとって、この出会いはいかほどのものだったろうと思う。

 20年3月10日の東京大空襲で、著者の住まう江戸川区一帯も焦土と化した。戦火をくぐり抜けた著者は家族共々神奈川の親戚の家に仮寓することになるが、危険を承知でたびたび上京し、竣介の元を訪れた。

 同じ画家の眼からみた竣介とのエピソードには、絵画技法についての記述が多い。竣介を知るきっかけとなった絵(「運河風景」、現在は「Y市の橋」というタイトルになっている)については、「強固なマチエール」や「透明な画面」、そこに走るさまざまなニュアンスの線に見惚れ、「まさしく詩と造形の合体。精神の職人による絵だ」とある。

 当時、油絵の技法書は少なく、古典技法や絵画組成を教える施設は美術学校、研究所に全くなく、西欧絵画に触れる機会も少ない。多層性のグラッシ法(透明描法)の卑近な実例を私は戦争画、特に藤田嗣治の絵になかに見たが、この人だけは紛れもなく油絵技法の深奥を体得していると思ったので、あるとき松本さんにそのことを筆談で訊いてみた。
 「君はグラッシ法とかマチエールとか専門的な用語をどこで覚えたのか知らないが、そういうことは二義的に考えて、いまは基礎的な写実の勉強を身につけるべきだな」 とたしなめながらも、グラッシ法の実際について平明に語ってくれた。下塗りの必要性から始まり、単色による中塗りとマチエールの調整、仕上げ段階での透明色の選択など、松本絵画の方法論を具体的に語りつづける口調は、次第に熱気をおびていった。

 絵画様式の変遷についての本はたくさんあっても、技法についての情報はまだまだ貧しかった当時、留学経験もない松本竣介は「おそらく持ち前の勘の良い手業と不備な技法書ほ手掛かりに、暗中模索の手さぐりで、それらしい効果に到達したのではあるまいか」と著者はいう。

 アトリエを訪ね、その仕事を垣間見るなかで著者は油絵のさまざまを竣介から学んだ。ペンや筆に凝らした独自の工夫、裏に墨を塗ったガラス板に映った顔をもとに自画像を描くこと、乏しい色数のなかでも豊かな色相が作れること。

 「……それから僕は下塗りをしっかりする。絵具の発色を良くしたり、好みのマチエールを望むこともあるが、作品を後世に遺すことを考え、耐久性を強くする為だ。作画中は何回も透明色を塗って、美しい色彩の画面をつくり、たとえば空襲でやられて断片だけが残ったとしても、その断片から美しい全体を想像してもらいたいのだ」

 著者によれば、藤田嗣治も戦争画についての文章で、同じようなことを書いていたらしい。それにしても、美というものへの信念だけでなく、作品の物質として堅牢さへこのこだわりの強さには恐れ入る。

 以前とりあげた近藤祐『洋画家たちの東京』は、青木繁、村山槐多、関根正二など、夢と野心をもって上京し、自己顕示欲のかたまりような、破天荒な生きざまをみせた彼等の足跡が描かれていたが、そんななかでただひとり、彼らとは対照的な「勤勉な努力家であり、性格破綻の欠片もない良識人」として、最後にとりあげられていたのが松本竣介だった。

 無頼な暮らしぶりの画家たちのなかでは、お行儀が良く、すべてにおいてバランスのとれた竣介のようなタイプはむしろ異質だろう。しかし、描くことに対する信念の深さと強さは並大抵のものではない。同時代の画家たちが、キャンバス上に自己の表出を定着させることにのみとらわれがちであったなかで、彼は彼独自の絵画への強い意志を貫くべく、入念に画面を造り上げていったのだ。

 詩情にあふれているとか、透明感があるとか、静謐であるとか、竣介の絵はさまざまに表現されるけれど、そこにはなにか、情緒的なものだけに流されない動じなさ、すこやかさのようなものが感じられる。それはひとえに、著者が垣間見た竣介の画面造りにたいするあのひたむきな姿勢によるのかもしれない。


→bookwebで購入

2011年12月25日

『装幀のなかの絵 四月と十月文庫』有山達也(港の人)

装幀のなかの絵 四月と十月文庫 →bookwebで購入

 口絵には、著者の祖母による一枚の絵。生まれ育った五島列島の風景を思い出して描いたものらしい。波間に浮かぶ緑の小島。遠くの水平線の沿って島の稜線が連なる。画面右下の岩場の上、海に向かって腰掛けているのは幼い日の祖母の姿だろうか。絵のなかに「この海に 幼じ戯む なつかしき」との一句がある。いい絵だと思った。


 著者は小学校の三年間を、佐賀県の祖母のもとで過ごした。このとき、父親から送られてきた絵の具で、小学生の著者はたくさんの絵を描いたのだったが、かたわらで祖母もまた、絵を描いていた。

 それがまた、上手いのである。上手いと言うと語弊があるかな。「描く」という行為に嘘がないというか、対象にむかう気持ちが無垢と言った方がいいか。孫の自分が言うのも何だが「いい絵」なのである。絵に全く媚びているところが無いのである。

 とにかく描くことが楽しくて仕方がないらしい。「人に見てもらう」ということを前提に描いている節が感じられない。ただただ内側から湧き出てくる「描きたい」という欲求だけで絵を描いている。あたりまえと言えばありたまえのようだが、あの歳になってから「描きたい」という欲求が増大しているのは、一体どういうことなのだろうか。身内と言えども計り知れない。(「祖母の絵」)


 祖母との暮らしは、著者に大きなものをもたらしたという。それはたんに、団地育ちの子どもが田舎の自然に触れて過ごしたというだけのことではないだろう。竈でご飯を炊くような、古い家での生活のなかで、旺盛に描きつづけた祖母の姿に接したことは、著者のデザイナーという仕事に対する姿勢の奥底に、たしかな一脈を貫いたのではないか。

 本書は、美術同人誌『四月と十月』に連載された文章をまとめたもの。デザイナーという仕事に著者がどう向き合っているのかが、これまでたずさわった本や雑誌を例に書かれている。

 ……何千ページ、何万ページをレイアウトして何かに気付かされる。レイアウトにおいて大切なこと何であるか。レイアウトしているこの本において大切なことは何であるか。社会における本とは何であるか、に。
 デザイナーになる前にはわかっていたようなことが、日々の行為で忘れ去られてしまう。しかし、延々と繰り返される日々の行為の中から、より強固な思想が生まれくるはずである。(「完成っていつ?」)
 あたりまえのことと言えばあたりまえなのだが、自分のやり方が染み付いてくると、挑戦や冒険をすることを忘れてしまう。あるいは、他の方法をとることを知らず知らずのうちに怖がっていたり、見ぬふりをしたりする。……
 やり方が決まってくると、ひとつの方向からしか物事を見なくなる。恐ろしいことだとわかっていながら忘れてしまう。気を付けなければならない。(「表紙とは?」)

 本書でもとりあげられている雑誌『クウネル』(マガジンハウス)や、坪内祐三『一九七二』(文藝春秋)など、静謐で端正なデザインで知られる著者。その作り出すものは、ただきれいにまとめられただけでない、そこに何か小さな〝ひっかかり〟が潜んでいて、そのことが、本や雑誌の印象を深めているようにみえる。それは、「結果」以上に「過程」に重きをおく著者の制作への構えによるものだろう。
 これは、デザインにかぎらず、人のあらゆる営みにおいて大切なこと。心に刻みたくなるようなくだりがいくつもあった。上はそのほんの一部である。

 注文があってはじめて成り立つデザイナーという仕事。画家やミュージシャンのように主体的なものづくりをするのが「アクション派」なら、デザイナーや大工さんは「リアクション派」と著者は書く。リアクション派の著者が、装幀する本の挿絵を自ら描いたのは、彼のなかにあるアクション派への憧れによるものか。

 ……絵に比べてデザインの方がより「完成」がわかりやすいような気がする。デザインは、コンセプトがあって、ラフがあって、あるいはグリッドがあって、ある1点の目標に向かって突き進む。これらのことを踏まえ、装幀をデザインとしてとらえないで1枚の絵として考えると、「完成」が曖昧になってくる。自分のデザインの目標地点のひとつはそこにあると考えている。
 これで「完成」なのだろうか、という曖昧さのなかにある、野卑な部分や原始的で奔放な要素を含んだまま仕上げたい。「完成以前の完成」を目指す、とでも言おうか。絵があって、文字があって、それらを組み合わすのではなく、スペースを作って絵をはめ込むのでもなく、全体を絵としてとらえていくことは、自分で絵を描くことによってのみ実現できることかもしれない。(「アクション派」)

 「完成」という目標、そこに到達することで現れる「結果」。けれどもそこが終わりなのではない。出来上がったものが人々の手に渡り、その生活の景色のなかでさまざまな姿をあらわす。それのみで自立するのではなく、その先でまたひとつの「絵になる」という余地が、この人のデザインの魅力なのかもしれない。



→bookwebで購入

2011年11月18日

『洋画家たちの東京』近藤祐(彩流社)

洋画家たちの東京 →bookwebで購入


「彼等は食う為でなく、実に飢える為、渇するために画布に向う様なものである。」


 帯にあるのは、漱石が朝日新聞に発表した文展評「文展と芸術」からの一文である。青木繁、村山槐多、中村彝、関根正二、長谷川利行……漱石のいうように、食うや食わずの暮らしのなかで、その画業を貫こうとした洋画家たちの足取りを、東京という都市の移り変わりとともに追ってゆく。

 文展(文部省美術展覧会)が創設されたのは明治四十年のこと。西洋画ははじめ、その写実性ゆえ、芸術というよりは、日本が近代国家たるためにぜひとも獲得すべき技術としてもたらされた。明治初期、殖産興業をめざす国家の祭典・博覧会の美術部門における西洋画は、「ほんものそっくり」であることや、その手業の妙によって人々の関心を集めていたのだ。それが、今日いう芸術、つまり画家という個人の〝表現〟として認識され、流通してゆくのは、明治も後半になってからのことである。

 その渦中、同時代の画家たちのなかでも飛びぬけた想像力と創造力によって、表現者としての煌めきをいち早く瞬かせながらも、こころざし半ばで短い生涯を終えたのが青木繁であった。

 今年、青木の没後百年を記念した回顧展「没後100年 青木繁展 よみがえる神話と芸術」が各地を巡回していたが、本書を読み、これを見逃してしまったことを深く後悔した。

 美術の教科書でおなじみの《海の幸》や、《わだつみのいろこの宮》など、神話を題材としたロマン主義的な作風で知られる青木の作品のなかでも、印象的なのは《黄泉比良坂》だ。輪郭線のぼやけた人影の浮かぶ青い画面は、当時の洋画檀を二分していた白馬会と明治美術会、どちらの画風とも異質で、一見して抽象画のようにもみえる。

 さて、本書はその青木繁が東京へ足を踏み入れたところからはじまる。

 明治三十二年六月、身なりも手荷物も簡素ながら、丸眼鏡の奥から不敵な眼光を放つ十七歳の若者が、東京汐留の旧新橋停車場に降り立った。過剰なまでの夢と野心を胸に、故郷久留米より単身上京した青木繁(一八八二~一九一一)である。明治末期の日本洋画界に忽然と現れ、そして瞬く間に燃えつきて消えた不世出の洋画家の東京滞在は、東京美術学校在学の四年間に前後する八年におよぶが、たびたびの帰郷や房総布良などへの旅行を除くと、実質五年十カ月になる。その短期間に、なかば伝説となった数々のドラマが紡がれることになるが、この東京滞在にあって青木は、たいていは経済的な理由から数箇処もの住所に移転を繰り返す。その詳細は後述するとして、青木繁にとって東京にあることは、洋画家として世に出るための必須の条件であるのとは裏腹に、みずからの生き血を絞り、泥水を啜る貧窮との闘いであった。

 青木の「夢と野心」とはもちろん洋画家としての成功だが、十七歳の彼は、このときすでに一人の〝芸術家〟だったろう。
 前述の回顧展にあわせて青木を取りあげていた『日曜美術館』や『芸術新潮』では、作家の破天荒なキャラクターがクローズアップされていたが、そう、青木繁という人は、世の常識からの逸脱ぶり、それがあたかも〝表現する者〟ゆえの属性のようにみなされている芸術家キャラを、日本の洋画史史上でいち早く発揮した人でもあったようだ。

 明治四十年に東京を去った青木とバトンタッチするようにして東京へやってきた村山槐多や関根正二にしてもしかり。自我の塊のような彼らのエピソードの数々は本書にもさまざまに紹介されているが、著者の筆はあくまでニュートラルである。

 読んでいるあいだも、そして読後にも、強くこころに残るのは、東京で夢を追い、破れ、貧しさと苦悩のうちにその命を燃やし尽くした画家たちへ向けられた著者のまなざしである。

 著者は、彼らに寄りそい過ぎることもなく、東京という大都市のなかのひとつのパーツとして彼らを突き放すこともしない。それは、時を経ていかに様変わりしようとも、東京という同じ空間に生きる者としての、著者なりの距離のとりかたではないか。

 本書にとりあげられた画家の多くは地方出身者だが、著者自身は東京生まれの東京育ちである。郷里から夢をもって東京を目指す、その、東京という都市の求心力は、もともと東京にいる者にとってはわかり得ないものだろう。

 ここで著者は、本業の建築家の眼によって都市の変遷を見据えつつ、彼らの消息をたどることを通じて東京を眺めようとしている。その視線は、明治・大正・昭和戦前から戦後という、過ぎし日の東京だけでなく、著者が今まさに生きている現在の東京にまで注がれているのだ。それは、本書を執筆するあたり、著者が画家たちゆかりの地をその足で歩き、撮影した写真にもあらわれている。

 そうした中立的な視線によって綴られる若き画家たちと東京という都市との格闘は、それでいながら、著者の彼らへの思いにあふれている。それが証拠に、本書を読んでいると、無性に彼らの絵が観たくなるのだ。私は本書を読み終えると、竹橋の国立近代美術館へ走った。日本の近代洋画に関する本は多々あるが、実際に絵を観たいという気持ちに、これほどさせる本はそうはないと思う。

 明治三十二年の青木繁の上京からはじまった本書は、戦後すぐの昭和二十三年、松本俊介の死をもっておわる。亡くなる前年の松本に会った画家・佐田勝の回想を引いたあと、著者はこうつづける。

 すでに繰り返し触れてきたように、青木繁が東京を去ったのは明治四十年である。昭和二十二年はそれから数えて、ちょうど四十年にあたる。仮に青木が生きていたなら六十五歳であり、日本近代洋画史のほとんどが、意外にも人間ひとりの生涯の長さにおさまることになる。自他共に認める圧倒的な画才をもち、洋画家として大成するべく東京の洋画界に徒手空拳で挑んだ青木繁は、その驕慢な正確もあって失意のうちに孤独な死を迎えた。またその残像を追うように二十歳そこそこで逝った村山槐多や関根正二にしても、その死因の何がしかは、社会通念を無視するかのような個人主義信仰や芸術至上主義であったろう。比較するに松本俊介は勤勉な努力家であり、性格破綻の欠片もない良識人であった。(略)しかしその松本さえも画業で食べてゆくことはできず、実収入を得るための生業に身を削り、限られた残り時間で絵を描いていたのである。

 本書の余韻のなかで訪ねた美術館で、日本の洋画の数々に触れながら、それが〝芸術〟として立ち現れるまでの年月を思わずにはいられなかった。

 塩味もダシもきいていないスープのような黒田清輝の婦人像、いったいどうしてこんな画題を?と首を傾げたくなる原田直次郎の《騎竜観音》。このあたりまではまだ、明治の人たちが必死で西洋画をものにしようとしていたのだなあ、という思いで眺められる。けれども、漱石の言葉にあるように、渇し、飢えてまでもキャンバスに向おうとした画家たちがぞくぞくと東京の地を踏むようになってからの日本の洋画の、次から次へとあらたな表現様式が現れてゆく、その慌ただしさにあらためて驚かされる。

 明治のはじめはひたすらその写実性が追求され、その後には、「何を描くべきか」が議論の的とされていた洋画。その〝表現〟の問題が取り沙汰され、画家たちが己の表現としてこれを描くようになったとき、本場ヨーロッパのあたらしいイズムの輸入とあいまって、あたらしい〝表現〟が次から次へと生みだされてゆくのだ。著者は、この近代日本洋画史の大きな転換点を、画家たちと東京への、ニュートラルかつ愛あるまなざしによって、繊細に、そして丹念に描ききっている。


→bookwebで購入

2011年09月24日

『つぶれた帽子―佐藤忠良自伝』佐藤忠良(中公文庫)

つぶれた帽子―佐藤忠良自伝 →bookwebで購入

 北海道での幼年期、画学生時代、新制作協会の設立、シベリアでの抑留生活、戦後の再出発。粘土と静かに格闘し、理屈でなく体で表現し続けた彫刻家の自伝の文庫化である。一九一二年(明治四五)の生まれ、今年の春、九十八歳で亡くなった。

 西洋の影響を受けた日本の近代彫刻が、どうしても西洋風に整った姿を写しがちであったところに、扁平で無骨なありのままの日本人のかたちをとらえた彼の彫刻は、「佐藤のきたな作り好み」などと言われたのだったが、それをことさら狙いましたという風な作為が彼の彫刻にはない。文章もそうで、抽象的なところがなく、感傷にも陥らず、淡々として平明、しかも人柄がにじみ出ている。

 この本のなかで私が何度でも読みかえしたくなるのが、中学生時代の岩瀬さんという人との共同生活の話だ。佐藤忠良は宮城県に生まれたが、はやくに父を亡くし、その後母の郷里である北海道夕張町に移る。そこで小学校を卒業し、中学校進学のため、一人札幌へでて下宿生活をはじめる。

 札幌へ出て間もなく、植物園に遊びに行っていたとき、偶然に群馬の農家出の岩瀬久雄さんという二十三歳の人と出会った。岩瀬さんは北大の畜産科に勤務しており、話をしているうちに、どうだ、下宿をやめて一緒にやってみないかということになり、夕張の母に手紙を書いてくれた。まもなく母が札幌へ出てきて岩瀬さんにお願いし、岩瀬さんと私は、市内に家を一軒借りて自炊生活を始めたのである。いま考えてみても、一人の青年が十三歳の少年を相手に、どうしてそういう気になれたのか、私には不思議な気さえする。クリスチャンだったせいかもしれないが、それにしても大変な勇気だったはずである。

 巻末にある年譜でたしかめると、それは大正末から昭和のはじめにかけてのことである。
 二人住まいには広すぎる一軒家で、掃除・洗濯・炊事は完全分担制、少年にとってはすべてが初めてのことで、失敗もしたが、毎日のことで次第に慣れた。岩瀬さんは引っ越し好きで、一緒に暮らす間に何度も住処を移った。夕食のときは賛美歌とお祈りがあった。アヒルやウサギを飼ったり、パンを作ったり、冬山にスキーへ行ったりもした。岩瀬さんの出張のときは少年もたびたび同行、行き先はたいてい田舎の農場だったので、二十キロも歩くことがあったが、そういうとき、岩瀬さんは出張費の半分を少年にくれたのだそうだ。夜はテントをはってふたりで野宿をした。
 岩瀬さんが結婚をしても、共同生活はしばらく続いた。岩瀬さんの妻を少年は「姉さん」と呼び、赤ちゃんが生まれると、銭湯へ連れてゆくのは少年の役目になった。岩瀬さんも一緒だが、彼は恥ずかしがっているのか、赤ちゃんを抱かないので、番台のおばさんから、少年が赤ん坊の父親と思われた。
 忠良少年は岩瀬家の書生ではない。この十三歳と二十三歳の立場は対等なものだ。今なら、十三歳の息子が縁もゆかりもない他人と一緒に住むことを許す母親はいないだろう。個人と個人の出会いからはじまった共同生活。

 ……それが私の人生にどのような重みを持つものであったのか、その頃の私にはまだ解っていなかったはずである。
 昭和二十七年に制作した「群馬の人」という小さな頭像は、直接のモデルは別の人だが、岩瀬さんとの生活の中で培われたものをはっきりと形にした、私の心の記念塔である。

 この「群馬の人」をはじめとする、日本人の顔を題材とした彫刻こそ、「きたな作り好み」と批評をされた最初の作品だった。
 地位や肩書きが削ぎ落とされ、「シベリアという大地に投げ出された一人の人間」である男たちと共に生きた三年間の抑留生活が、こうした作品づくりのきっかけだったという。「群馬の人」のモデルは『歴程』の詩人で、群馬出身の岡本喬、彼は岩瀬さんと感じがよく似ていた。また、軍隊にも群馬の人が多くいた。

 群馬とは何となく縁があり、私の中でずーっとこだわりになっていたのである。作家が長い間、題材をあたためていたというが、私の場合はあたたまっていたと言う方が実感に近い。

 シベリアでの生活は彼の作品づくりに大きな影響を与えたが、岩瀬さんとの共同生活は、彼が彫刻家になったとことそのものにかかわる経験だったかもしれない。「家事仕事とスポーツばかりしていたことだけが妙に印象に残っている」という中学時代、失敗を繰り返して料理をおぼえたり、スキーを背負って雪山をのぼったり、赤ん坊を風呂へ入れたりと、彼の生活は手とからだを使う具体的なことで占められていた。最初は画家を目指していた彼が彫刻をはじめたのは、「絵から逃げた」からだと書いているが、少年時代の暮らしによって培われたものが、キャンバスという平面の上でなく、立体という三次元でのものづくりに彼を向かわせたのではないかと思う。


→bookwebで購入

2011年06月13日

『AQUIRAX CONTACT ぼくが誘惑された表現者たち』宇野亞喜良(ワイズ出版)

AQUIRAX CONTACT  ぼくが誘惑された表現者たち →bookwebで購入

 文庫本大の箱のなかに、リアルな極小の世界を作り出す桑原弘明。正確さの極みが、薔薇という対象への特別な愛を醸し出す豊永ゆきの植物画。シュルレアリスムというイズムを超えて、軽やかな即物性と偶然性を放つ勝本みつるのオブジェ。今では廃れてしまったスクラッチボードの技法を使ってイラストレーションを描く丸子博史。家にある端切れや毛糸で不思議ないきおいを持つオブジェを作る南タカ子。ラシャ紙に針で穴を開けて点描したものに光をあてる翳り絵を描く金井一郎……

 いまも、『イラストレーション』(玄光社)で継続中の連載「AQUIRAX CONTACT」は、宇野亜喜良が惹かれた表現者たちの作品世界を取材するというもの。それをまとめた本書には39人の作家がならぶ。

 ここにとりあげられている作り手たちは、画家、現代美術家、イラストレーター、グラフィックデザイナー、造形作家、写真家のほか、漫画家、劇作家、ピアニスト、演出家、お笑い芸人などさまざまな肩書きを持つ。また、平面の作品はイラストレーションから日本画、植物画、マンガ、ポスター、版画と多様だし、立体の作品も彫刻、人形、バッグ、フィギュア、コラージュなどさまざま。
 あとがきのインタビューで編者はこう語る。

 イラストレーションというのは要求する側のテーマやコンセプトを理解して、ノーマルな正しい表現をやっていくものだけど、それだけじゃつまらない。なにかもっと不思議なものを見る方がイラストレーションの世界が豊かになるんじゃないか。そんな気持ちがあって、専門誌における、かすかな「悪魔のささやき」みたいなページを作りたかったんです。

 半生記にわたって、コマーシャリズムのなかで仕事をしてきた宇野亞喜良だからこそそう発想されるのだろうが、かといって、彼がコンタクトをとっている作り手たちが、〝商業美術〟のもう一方にある〝純粋美術〟の系譜に属する人ばかりではないところに、宇野亜喜良の創作に対する哲学が透けてみえる。

 ここに紹介された作家について、「変則的なことをやっている。そういう気質の人たち」と言う彼自身が、イラストレーター、芸術家、アーティスト、なんでもいいが、そういう大文字の肩書きにとらわれることのない、変則的なありかたをつねに志向してきたのではないか。

 本書のならぶ作品の特質をことばにするなら、幻想的、詩的、文学的、マニエリスティック、マニアック、メルヘンチック、キモカワイイ、といった具合。これにはもちろん、選者の好みも反映されているのだろうが、彼が同じ作り手として特に関心を寄せるのは、その技法や、作品が出来上がっていくまでのプロセスにあるようだ。
 そしてもうひとつ、作家が作家としてどのようにふるまうかというところにも、宇野亞喜良の興味は働いている。

作ってる人たちの心情が可愛いって言うか。他人が自分の作品をどう思うかとか、きっとあまり考えてないでしょう。

 そう彼は言うが、これは、なによりも表現への欲求を第一とする、いわゆる天然な「芸術家」のステロタイプを指しているわけではない。

 作品からは変わってる感覚がするんだけど、取材で実際に会うとみなさんノーマルで、理性的。それも面白いですよね。あんまり難解なことを言う人もいなかった。今のような時代にこういうものを作っているという特殊性もある程度みんな客観的にわかっているんですね。でもそれが好きでどうしてもやってしまう。

 あるイメージを欲望する。そして、それをかたちにしていくとき、作家自身のこだわりに誠実であるほど、既存のジャンルやシステムからははずれてしまう。それこそ、創作することにおける正統なのかもしれない。


→bookwebで購入

2010年11月30日

『展覧会カタログ案内』中嶋大介(ブルース・インターアクションズ)

展覧会カタログ案内 →bookwebで購入

 よほどのことがないかぎり、展覧会カタログを買うということをしなくなった。いちばん最近買ったのは『時の宙づり 生・写真・死』(IZU PHOTO MUSEUM、2008)だが、これは書店売りされていたものたったので、写真集を買う感覚で手に取ったのだった。奥付から展覧会がまだ開催中と知り、あわてて観にいったのだ。おなじことを、本書の著者もしていた。美術館でされるのが主だったカタログの編集が、出版社でされることが増えたため、書店でこれを見つけて展覧会の存在を知る、というパターンが増えてきたのだという。
 本書には、百点あまりの展覧会カタログが紹介されている。とくに、展覧会のカタログを美術史的、あるいは書誌学的に研究するというのではなく、こんなカタログがありますよ、とブックデザインの視点からこれをみせて紹介するというもの。後半にはカタログに関わる各界の方々(印刷博物館の寺本美奈子氏、グリフの柳本浩市氏、森美術館キュレーターの片岡真美氏、アートディレクターの服部一成氏、編集者の都築響一氏に)インタビューすることで、カタログの成り立ちについてをカバーしている。  取り上げられているカタログは、二〇〇〇年代のものがおおいが、古くは一九五〇から六〇年代のものも。美術・イラストレーション・グラフィックデザイン・プロダクトデザイン・写真・建築・カルチャーなどジャンル別に紹介されてゆく。タイトルのとおり、あくまで展覧会カタログの世界へのナビゲーションとして活用するべきか。気になるのは、それぞれのカタログにつけられたキャプションに統一感がないこと。カタログの本なのだから、カタログとしてどうなのか、というところに焦点を定めるか、もしくは、デザイナーである著者の感覚で選書されているのだから、もうすこし個人的なコメントがあってもいいのかなあ、という気がした。  かつては、展覧会カタログというと、やたらと重くて、判型がまちまちなので収納に不便で、買ってきたはいいもののついぞ開かれることのないしろものだった。けれども、私の手元にあるカタログは、どれも観てよかったと思えた、思い出深い展覧会のものばかりである。展覧会そのものに意味があると思えたものなら、たとえ本としての魅力がそれほどでなくても、やはり大切な一冊となりうるのだ。展覧会ありきの出版物なので、魅力的なカタログを作るというところまで行き届いた仕事は大変なことだろう。もちろん、内容、デザインともに本としての魅力をそなえたものもおおくある。そんなカタログの楽しみ方を示してくれるのが本書である。



→bookwebで購入

2009年12月12日

『花泥棒』細江英公・写真 鴨居羊子・人形 早坂類・詩(冬青社)

花泥棒 →bookwebで購入

 「芸術ではなく商売」。下着デザイナー・鴨居羊子はかつて、自分のしていることはアートではなくビジネスなのだとくりかえし強調した。しかし、もともと画家か彫刻家になりたいと夢みた彼女の創造力は、会社という組織が大きくなるにつれて欲求不満をおこしがちとなる。
 そんななか、現実から逃げるようにして日本から飛び出した彼女が、チュニックという会社の経営者としての自分と、デザイナーとしての自分との間でなされた旅先での問答は、その後の下着制作のインスピレーションの源となるのだが、このとき下着にくわえて、人形や身のまわりの小物などのグッズ制作をはじめた。
 「大人のオモチャ」と名づけられたそれらには、下着作りのみに忙殺されたスタッフの頭を柔軟にすること、またそれを手にする客に対して、下着を楽しむというチュニック設立当初のコンセプトをさらに強調し、より自由な心で下着を選んでもらえるように、との思いが込められていた。

 一九六六年、自身が制作した人形を細江英公が撮った『ミス・ペテン』なる写真文集を羊子は自費出版したが、これもまた、経営者としての下着作りだけでは満足しきれない彼女のクリエイティビティーのたまものだろう。その、細江による鴨居の人形写真に、文筆家・早坂類がことばを寄せてできあがった写真絵本が本書である。
 ある日突然、というかんじで、鴨居は写真家に、ただ「おまかせします」とだけ言いいのこし、人形をおいて帰ったのだという。

 よくみると可憐な少女や好色おやじや色っぽい中年女性や妊娠中の女などなど、人形というよりさまざまな人間をあつめて集めてつれてきたという感じだった。はっと気がついたら、ぼくがその頃よく出入りしていた唐十郎の状況劇場、赤テントの役者集団みたいだった。唐十郎もいる、李麗仙もいる、麿赤兒もいる。
 ぼくは小さな役者たちをつれて旅に出た。遠くは青森、長野、近くは晴海埠頭に四谷界隈。みんなそれぞれ勝手気ままのやり放題、ちょっと目を離しているとセックスははじめるわ、裸でテレビに出たいと駄々をこねるわ、親の心子知らず。あまりにうるさいので叱ったら「死ぬ」と言って電車の線路を枕にして自殺未遂、これは仏さまにすがる他に道はないと思って野仏行脚をしたりしてなんとかなだめて帰ってきた。ぼくは疲労困憊、さっそく鴨居さんにお引き取りいただいた。

 商品としての人形、チュニックで下着とともに販売されていた鴨居デザインの人形には、さまざまな国の民族衣装をまとった華やかな抱き人形や、猫や兎が擬人化されたぬいぐるみなどもあるが、ここで鴨居の作った人形は、いわゆる「お人形」のかわいらしさからはほど遠い。彼らを演劇集団に見立て、鉄条網にぶらさげたり、マンホールのなかで逢い引きさせたり、打ち捨てられたテレビのブラウン管のなかへならべたり、お地蔵さんに抱かせたりした細江の演出によって、人形たちのいかがわしさや禍々しさ、滑稽さのなかで発光する華やぎと開放感が十二分に発揮されている。
 六十年代の日本の景色を舞台装置に、細江のでっちあげたこの物語を、人形をほうり投げるようにして細江に託した鴨居は予想していたのだろうか。なにげなく、しかし計算高く、つべこべいわずにすべてをまるごと相手にゆだねることのできる器量と仕事ぶりは、そもそも商売人か芸術家かといった肩書きなどもろともしない鴨居ならではというべきか。


→bookwebで購入

2009年09月27日

『名残りの東京』片岡義男(東京キララ社)

名残りの東京 →bookwebで購入

 電信柱から縦横にのびる電線、そのむこうにそびえるビルと青空。ささくれた羽目板やペンキの剥げた雨どい。荒物屋の店先に吊された亀の子だわしとほうき。日にやけて痛みきった均一台の中央公論社『世界の文学』。埃を被った商店の日よけや文字の欠けた看板。色褪せた愛国党の貼り紙。にぎり寿司やオムライスの食品サンプル。手書きのメニュー。夕暮れの商店街にともる提灯。
 東京は細部にあふれかえった街だ。たくさんの人たちの生活、たくさんのものや情報やお金の流れによって積み重なったこうした細部を、片岡義男は被写体としてえらんだ。それらは、かつてはくらしのなかで生き生きと機能し、あるものはその役目を終えて放置され、やがて消えてゆく。
 僕が撮影した景色のおよそ半分はすでに消え去って跡かたなく、したがってそれらの景色は写真のなかにしかなく、かろうじて現存する景色も、じつは消えていく東京の名残りなのだ。

 二週間も東京をあけて戻ってくると、いつもの通りにあった店がつぶされているなんてことはザラだと、東京の友人は言う。
 大々的な開発によって、それまであった街並みが跡形もなく失せ、あらたな建造物が出現する。そんな、名残りもへちまもない都市の変貌には、東京に生きる人は慣れっこだろうが、ちいさな泡のつぶがひとつずつ、ぽつりぽつりとはじけるようにして姿を消す細部についてはどうか。

 子供のころから写真に親しんでいた片岡が、九十年代に入ってつぎつぎと写真集を、それも東京をテーマとしたものをだすようになったきっかけは雑誌『太陽』の連載だという。彼の仕事は日本の各地をめぐり、その土地についてのエッセイを書くこと。写真は別の写真家にまかせられたが、自身も必ず愛用の一眼レフをたずさえて取材にでかけたという(これはのちに『緑の瞳とズーム・レンズ』という単行本となる)。そこで彼が撮ったのは「地方都市で蓄積されてゆく日常生活がその周辺にはからずも生み出す、どこか諧謔味のある風景」だというが、その視線は対象が東京となってもかわらない。というより、東京ほど、日常生活とその周辺に蓄積されたあれこれに事欠かない街はないのだ。
 片岡が撮るのは、人びとの日常のまなざしのなかで、とくに意識もされず、しかし記憶のどこかには確実にとどまる景色ばかりだ。ただ素通りされたり、ちいさな目印にされたり、どうしてだか目がいってしまったりするさまざまな細部だ。

 好きだから、面白いから、という理由だけで撮り続けてきたのだが、二十年近い時間が経過すると、撮った景色もこれから撮るであろう景色も、すべては名残りの東京となる。消えたならそこにはいっさいなにもない。したがって消える以前は、すべてがそこにあった。単なるリアリティではなく、具象も抽象もすべてひっくるめた全体が、現実のさなかで人々の生活として機能していた。そのような景色のいたるところに、はからずもあらわれる全体性が、僕の興味をとらえてやまない。名残りの東京のなかで、僕はさらに撮るだろう。

 「これから撮るであろう景色も、すべては名残りの東京」とは、過去と未来のどちらに向かって投げかけられたことばだろうか。
 久しぶりに、ただ歩くためだけに東京の街を歩いた。私のような外の者にとって東京は、あまりに人と情報とマテリアルが多すぎてときに息が詰まる。そんなときに、片岡の捉えたような「名残り」というべきものに目をやれば、かつて自分の見知った東京に思い当たってすこしだけ慰められる。そうした細部の集積のむこうにあらわれる、そんな東京を私は長らく忘れていた。
 それが、片岡の興味をとらえてやまない「はからずもあらわれる全体性」なのだろう。誰にでもそれとわかる東京ではなく、その名残りを彼が追いかけつづけるのはそのためなのだ。


→bookwebで購入

2009年09月21日

『たのしい写真 よい子のための写真教室』ホンマタカシ(平凡社)

たのしい写真 よい子のための写真教室 →bookwebで購入

 思い出をかたちに、というふれこみで写真を一冊の本のかたちに編集するという商品の、フィルム会社のテレビコマーシャルを眺めていて、思い浮かぶのは生まれたての自分のまるはだかが写された一枚からはじまる、父親の編集による分厚く重たいアルバムなのだったが、ここでかたちにする、といわれているのは、ついデータばかりがたまってしまうデジカメ写真のことなのだった。フィルムのカメラを手にしなくなってからというもの、かたちのある写真というものが私の生活に登場することはめっきり減った。そのことを、ここ数年、ときたま思い出しては、「写真」というものに対する我が身の処しかたを定めかねている。「写真」ってなんだろう。

 かつて、海外旅行先で立ちよったギャラリーでみた写真が忘れられない。その忘れられなさは、印画紙に定着された海辺の景色の像と、写真の展示されたギャラリーという場も含んだ外国の街、そしてそこを旅する私と私をとりまく世界、のどこに由来するのだろうと考える。もしもこれが、写真でなく絵画だったとしたら、それは作品そのものから得た、たとえば「感動」なんてものにすんなりと落ち着きそうなのだが。
 芸術としての写真は、そのほかの技法による芸術作品と同様「つくられたもの」と知ってはいても、写真を写真そのものとして眺められないことがあるのはどうしたわけか。写真が現にみえるものを写し、その時点でつねに虚構性をおびるとは百も承知で、その現実と虚構のあいだで右往左往している自分がいる。私がみたのは、そこに写された、どこかにあるはずの海辺の景色か、それともそこに表現された作品のなんたるかなのか、それともそれとも。

 そんな写真に対するもやもやとした思いを、ホンマタカシは手際よく整理してくれた。なんだか本当に「よい子」になった気分だ。

「そんなの写真じゃないよ」とか「もっとリアルに撮らなきゃダメだよ」という言い方をよく耳にします。それを聞くたびに、そもそも「写真って何だろう?」「写真のリアルって?」という疑問に駆られます。プロと呼ばれる写真家になって20年も経つのに、その疑問はつねにボクにとって、ある種の息苦しさをともない続けています。

 原因のひとつは、〈真を写す〉というスゴく強い言葉のせいだと思います。そもそもPhotographという単語の語源に「真実」という意味は含まれていません。

 photo=光 graph=描く、あるいは画

 ですから、普通に訳せば「光画」ぐらいの訳語が妥当でしょう。

 「写真」ということばは、もともと中国の画論で「写実」と同様の意味を持つらしい。そういえばそんなことをどこかで聞いたか読んだかしたはずなのだがすっかり忘れていた。それはやはり、ホンマのいうように「〈真を写す〉というスゴく強い言葉のせい」かもしれない。あらためて認識せずとも、長らくPhotographを「写真」と呼び慣わしてきた私たちは、みたままそのままにものを写しとる(決してそんなことはないのであるが)のが写真、とやはりどこかで思いこんでいる。西欧において、写真が絵画技法の一端として発明されてきたのに対し、それを採りいれた日本人にとっては、光の仕業を利用した技術に対してよりも、みたままそのままの像への視覚的な驚きがまさっていたためではないか。

 写真は現実をとらえたものである。しかし、それは同時に、誰かに意図的に選び撮られたものであり、編集され、加工されたものかもしれない。現実であると同時にいくらでも加工可能であるという、この二重性が写真の特徴です。いや、もっとはっきりいえば、「どうとでもなり得る」という多重性こそが、写真の本質なのです。ヴァルター・ベンヤミンと言う「本物にたどり着かない芸術」。そこで写真の一番面白いところなんです。

 「決定的瞬間」と「ニューカラー」の対比から説かれるホンマ流・写真史にはじまり、エルグストンや中平卓馬等、著者の写真観を裏付ける作家に触れながら、二十世紀からこんにちまで、写真のたどったみちすじが語られる「講義篇」。
 「写真を読む」「写真を疑う」「写真に委ねる」をテーマに、写真の一回性、本当らしさ、技術の進歩による撮影表現の可能性に意識を注いで撮ってみよう!という「ワークショップ篇」。
 たのしいのは「放課後篇」。ポストカードの「絵はがきショット」、アシスタントとしてはじめて行ったニューヨーク、ロバート・フランク、ポラロイド写真のセンチメンタリズム。著者が写真家として語るべきトピックスは今日的かつ普遍的で、これまで、私たちにとって写真がいかなるものであったのか、そしてこの先、私たちにとって写真がいかなる存在となってゆくのかを意識せずにはいられないテキストの集合である。
 おしまいの「放課後篇」は作家の堀江敏幸との対談。題して「すべての創作は虚構である?」。

 もし仮に真実と嘘があるとしたら、写真はそのどちらにもなり得るもの、あるいはそのふたつの間を行ったり来たりするものです。ある時はファインアート、ある時は雑誌のグラビア、ある時は広告、またある時はプリクラだったり、ファミレスのメニューだったり。実際、写真はボクたちのまわりの至るところに存在します。自由に、多義的に、いかがわしく。だからこそ今日的。それが写真のたのしさだとボクは思うのです。

 写真を撮る、写真をみる。そのこと自体はまごうことなき現実。写真が写真となったとき、それをまなざす私たちは、写真というものの虚構性と現実とのあいだのグラデーションを、自らの世界観に照らして「行ったり来たり」するということなのだろう。
 そしてこれは蛇足だけれど、この写真家の写真論も、かたちある一冊の書物となることで、現実としても、あるいは虚構としても読まれてゆく可能性を孕む魅力を備えていると思う。というくらい、ホンマタカシは書き手としてもチャーミング。


→bookwebで購入

2009年01月31日

『東郷青児―蒼の詩 永遠の乙女たち』野崎泉・編(河出書房新社)

東郷青児―蒼の詩 永遠の乙女たち →bookwebで購入

 ロマンティックかつモダンな美女たちを描きつづけた東郷青児。編者の野崎泉をはじめ、ここに文章を寄せた女性たちにとっての青児体験は、女子寮に飾ってあったレプリカや喫茶店のマッチ、あるいは本の装幀であったりした。

 そうした乙女の視線をとおして、画家の仕事を照らしだした本書。ほかにも、白粉のパッケージ、飾り皿や扇子、その絵が店内を飾った喫茶店など、青児の手による生活を彩るもろもろがクローズアップされる。

 吉祥寺「ボア」、自由が丘「モンブラン」、横浜「フランセ」等の洋菓子店の包み紙にいたっては、それだけに一章をさくという充実ぶりである。自立したタブローと向き合うのももちろんすてき、だが、暮らしのなかから叙情や詩情、美や夢をすくい上げることによろこびを見出すのが大の得意である乙女たちにとって、青児描く女性に彩られたこれら包み紙は、甘いお菓子を口にするしあわせと切り離すことのできないアイテムなのである。
 
 モダニズムの花咲く大正の時代に若くして画家としてデビュー、パリでの留学生活、女性遍歴やそれにまつわるスキャンダル。生涯女性を描きつづけ、またとびきりのスタイリストであった青児には、世間が画家という人種にもつステロタイプな通俗性がつきまとう。それはその画業だけでなく、本書に紹介された品々が世に広く受けいけられたことにもよるだろう。

 さまざまな近代絵画のイズムに触れたヨーロッパ生活を経たのち、「大衆に愛されるわかりやすい芸術」というテーゼに辿りついたという青児。それを受け、編者はこの本を「画業の偉大さを讃えた」作品集ではなく、「昭和の暮らしの中に溶けこみ、身近に親しまれていた分野での仕事をフィーチャーしたもの」にしたいと語る。

 雑貨のデザイン、本の装幀、その絵と人生、ゆかりの店の紹介、包装紙ギャラリーとつづき、文章もよくした青児のエッセイやマンガも収録。それまで副次的とみなされてきたであろう仕事を、本来の画業と等価にならべてみせることによって、これまでにない乙女好みの青児本が仕上がった。ここにこそ、「大衆に愛されるわかりやすい芸術」を目指したこの画家のエッセンスがあらわれているといってよい。

 巻末には、青児にとっての永遠のモデルである盈子(みつこ)夫人とのあいだに生まれた娘、東郷たまみさんのインタビューがある。一九七八年、青児が亡くなったとき、スペインへ留学中だったというたまみさんは、父の死に直接触れることがなかった。そのためか今なおその死に現実味をもてない、という話が印象的だ。

死というものが、父にはぜんぜん似合わないし。……サハラ砂漠に行きはじめた頃に、「もうちょっと若かったら、俺、ラクダにのって地平線の向こうに消えてしまいたいと思うんだ」って言ったことがあったんですよ。だから、消えたんだろうと思ってるんです。今でも。
 
 たまみさんはまた、晩年もなお旺盛に創作しつづけた青児を、「一生、ステージの上で演じ続けた強い男」と表現している。世の乙女たちを魅了したさまざまな仕事は、そのほとばしるエネルギーのたまものだったろう。


→bookwebで購入

2008年10月13日

『セルフビルド SELF-BUILD 自分で家を建てるということ』石山修武=文・中里和人=写真(交通新聞社)

セルフビルド SELF-BUILD 自分で家を建てるということ →bookwebで購入

 「建物を建てている夢」というのを、子どものころからよくみる。とにかくよくみる夢なので、場所や状況や建てているもののバリエーションはさまざま、ただし私はいつもリヤカーのようなもので、建築現場に資材をえっちらおっちらと運び込んでいる(現実に建物を建てたことなどないので、実際の現場仕事をしている場面というのは登場しないのだろう)。いったい何のためにそうしているのか、という設定があるわけではなく、ただひたすら私は建てようとしている、しかもたったひとりでそれをしているのである。
 この夢が、私の深層心理とやらのなにをあらわしているのかはしらないが、本書に登場する創造物たちとその作り手たちの「現実」を垣間みると、ああそうか、これなのだなあ、と胸がすく思いがし、また真の意味で「表現」をする、ということの困難さが身にしみてくる。

「私たちは身の廻りの環境、衣食住のすべてを買い求める事に慣れすぎました。大量生産大量消費の世界に、目的もなく漂流しています。」

 消費することにあけくれてさまよう私たちが失ってしまった「目的」とは、「自己表現、すなわち自分の意志を全うしようとする意志のこと」だと著者はいう。それは「モノを作る」ということでもあり、それこそが「生活」なのだと。この段でいくと私には「生活」もなければ「表現」もない、いうことになってしまう、ああ耳が痛い。

 「セルフビルド(自己表現としての生活術)は、それに対して、まず、それぞれの人間の生に、つまり生活にこそ総合(全体)を見てゆこうとする技術の在り方です。(略)日々の生活の中に常に自己表現の方策をつくり込もうとする方法です。できるだけ消費のサイクルから自律を具体的に求めようとする事でもあります。」

 それら、自己表現としての生活術のあらわれとしてのかずかずの事例が紹介されているのが本書である。

 日本一周を夢みる若者が作った「モバイル電化ハウス」。ごろりと大地に転がる巨大なドラム缶のような「河合邸」。現代版・方丈庵ともいうべき、隅田川べりの「完全0ハウス」。その時は町全体が劇場と化す栃木県烏山町の「山あげ祭」。日本のシュヴァル(?)が二十余年かけて作った私設の「貝がら公園」。十勝の雪原に浮かぶビニールハウスのレストラン。寺院を使った施設のなかに居住するひとびとが、それぞれのちいさな生活空間を作るネパールの「死を待つ人の家」。カンボジアとひろしま市との交流がうみだした、集団によるセルフビルド(五階建ての建物をレンガ積みで!)「ひろしまハウス」。
 セルフビルドとひとことでいっても、そのありかたはさまざま、「本当の多様性は市場にとって効率が悪い」のであるからして。

 それにしても、生きる上での自由度が増せば増すほどに、孤独度もまた増すようにみえる。日本という国ではことにそうなのではないか。たとえば、羽田空港ちかくの海上にいくつかの船をつないで暮らす海上生活者が登場するが、「ここには、いまだ在った都市の辺境、自在な水上生活といったなまっちろいロマンチシズムは何も無かった、出会ったことも無いような荒涼たる孤独があった。」。
 この水上生活者が、その船上でのくらしに辿りつくまでの経緯を、著者はあえて深くは聞かない。それをすることは、セルフビルドを推奨する建築家の仕事からははみ出るということなのだろうか。
 このように、建築や生活や環境や社会や経済の問題のみならず、自由ってなに? 幸せってなに? といったひとの生きかたについての問題、あるいは芸術や信仰についての問題と、セルフビルドという軸の上にさまざまな事例をならべることで、物事に対する考えの道すじが、この本のなかにはいくつもひらかれることになる。

 ところで、セルフビルド、ときいて私がまず思い浮かべるのは、鴨川の橋の下にならぶ、ブルーシートに覆われたホームレスハウス群である。どこかで拾ってきたのであろう家具が工夫してならべられ、河原の緑そよぐ芝生の上では、のら猫の親子が眠っている。日当たりのよい午後などに通りかかると、それはとてつもなく平和な情景にみえるのだが、それはおめでたい感想というものだろう。
 高度経済成長いぜんの日本は、貧しかったが街並みは美しかったと本書にはある。江戸末期、世界でも稀な基準に達していたといわれる大工職人の技能は、日本の民のセルフビルドの技術体系の中心にあったのだという。しかし、安価で質の高い住居をうみだすことのできたかつての日本の伝統は、市場至上主義の荒波によって根絶やしにされ、かくしてひとびとは商品としての家を「買う」ことによってしか、自らの住空間を獲得できなくなってしまった、というより、家というものは、なによりまずお金とひきかえに手に入れるものだと思うようになってしまった。
 そうした社会の枠組みからははずれた人たちの住空間に、なによりセルフビルド魂を感じてしまう私なのであるが、さて我が身辺をみわたすと、なにひとつセルフビルドしてもいなければ、表現もしていないのだとまたもや気がつく。自分がどう生活したいか、というところから生きかたをたちあげたいとつねづね思ってはいるが、いったいなにから手をつけていいのやら。

 本書のまえがきに「想像力じたいの資本主義社会化」ということばがでてくる。これは、ここに取り上げられたセルフビルドの事例が、こんにちのグローバライゼーションの環境像とはあまりにもかけはなれていることに対し、これを「奇妙なユートピア主義の産物」とみなそうとする考え方を指していわれたことばである。私はそのようには決して感じておらず、作り手たちの精神をすこしでも見習いたいと願うことしきりなのであるが、一方でおそらく、どっぷりと資本主義社会化した想像力や感性も持ち合わせているとも感じるのである。まずはこのあたりからあらためていく必要がありそうだ。
 ところで、「自己表現のガイドブック」を謳う本書。「どれ一つ似たサンプルは無い」事例は、読者それぞれがその「才覚や情熱の多寡」におうじて道しるべとすればよい、とある。たしかに、「荒涼たる孤独」とひきかえに自由を手にしよう、とするひとはなかなかいないだろうし、一方、共同体のゆるやかな連帯をはかれるような店舗をセルフビルド、というのなら、やってみたいな、というひとはたくさんいそうだ。ところで、「どれ一つ似たサンプルは無い。これも実に大切な事です。読者の皆さんもまた、誰一人同じ類型の人間は居ません。皆、かけがえのない地球でたった一人の尊厳の持ち主です。」と臆面もなく言い切られると、そういう考え方も、近代の消費主義経済社会の産物のひとつなのでは、とふと思ってしまうのであった。


→bookwebで購入

2007年10月31日

『戦後腹ぺこ時代のシャッター音 岩波写真文庫再発見』赤瀬川原平(岩波書店)

『戦後腹ぺこ時代のシャッター音 岩波写真文庫再発見』 →bookwebで購入

「単純で切実で実直」

 学生のころはカメラをぶら下げて歩いては写真を撮り、現像と紙焼きまでしていたのに、いまではすっかり写真ばなれしてしまった。思えば、デジタルカメラがあたりまえになるにつれて、写真を撮ることも、またみることも少なくなった。いつもデジカメをかばんに入れて、こまめに撮りためている人をみるとマメだなあと感心するが、私はどうしてか、写真というのは光を定着させたネガから印画紙へとうつしとられたかたちのあるもの、という感覚が心にも身体にもこびりついているらしく、データとしての写真画像にあまりありがたみを感じられないのだ。

 いま映像に触れることは、赤瀬川原平風にいえば「空気感覚」なので、それも私の写真ばなれの一因であるだろう。今日、散歩の途中でまるで秘密の花園のようなすてきな庭園に足を踏み入れ、あたりの木々や草や地面の落ち葉や木の実やコケにみとれて陶然となり、携帯電話のカメラでそれらを写そうと思ったが結局やめた。そんなふうにしていたずらにデータをためこむより、自分の眼でみているほうが気持ちがいいような気がした。きれいな(きれいだからいいというわけではないのだが)植物の写真などちまたにありあまるほどあるのだし、それよりこの雑草はなんていう名前だったか、家に帰ったら植物図鑑で調べようとなどと考えた。
 思えば、せっかく現実の植物に触れているというのに、これまでみてきた、あるいみることのできるであろう頭のなかの映像をあれこれと検索していることじたい、情報の海に浸かっている証拠で、したがって肉眼でものをみるという私の体験の純度は低いのではないか。さらには、実体験の純度などとつべこべいうことじたいがすでに頭でっかちということになるのだろう。赤瀬川源平はいっている。人びとがごはんだけでなく、活字にも映像にも飢えていた時代があったのだと。

 「『岩波写真文庫』は,朝鮮戦争勃発直前の1950年6月にスタートし、『物語る写真』『眼でみる百科』などのスローガンをかかげて、8年半に286冊が刊行された。各冊ワンテーマで200枚前後の写真を詰め込んだこのシリーズは。いまや50年代画像の宝庫と位置づけられる。」
 岩波書店のHPにあった、この秋、赤瀬川源平の選によって復刻された「岩波写真文庫」の解説である。いまとなっては五十年代の画像の資料であるこれら文庫の写真たちは、当時の写真映像に飢えた人びとにとって、生きた情報の貴重な源だったのだろう。写真というメディアと人びとの写真への欲求が、いまとくらべてとてもシンプルなかたちで折り合っていたのだ。赤瀬川原平はそんな時代の写真をめくりながら、写真画像から腹ぺこだった少年時代の暮らしのさまざまを思いおこす。

 たとえばアメリカ人の生活を捉えた『アメリカ』(1950年刊)では、毎朝配達された朝日新聞の漫画『ブロンディ』で、ストーリーよりもそこに描かれた電気製品や自動車や大きな家に目を奪われていたこと。電化製品と電気のイロハを解説する『家庭の電気-実際知識-』(1956年刊)では、ラジオの雑音をなんとか消そうと、叩いたり、横向けにしたり、裏側の機械の部分を感電しはしないかと恐れながら触っては、野球の中継をきいていたこと。靴を履いた足のレントゲン写真で理にかなった履き物を解析する『はきもの』(1954年刊)では、中高生のころは下駄履きで、はじめて買った靴は窮屈で結局履かなかったこと。
 捕鯨船が英雄視され、排気ガスのかわりに道ばたには馬糞が転がり、たいていの人のお腹のなかには蛔虫が棲んでいた時代。写真映像とそれへの人びとの欲求がそうだったように、世の中のあらゆるものごとと人との関係がいまよりずっと単純で切実で実直だったその時代の空気に触れ、当時を懐かしむ一方で、ものごとが複雑でみえにくくなっているいまを省みる。


 「この時代にまだ『自由』は遠く輝いていた。でもその『自由』が思わぬ方向にねじれていくというマイナスの未来は、まだ想像されてもいない。」

 「…馬が、この本の出た時代にはまだ日常の町のあちこちにいたのだ。馬糞を落として、よだれを垂らして、汚いけれど、それしそいうものだと思われていた。仮にいま、自動車が全部馬と荷車に変ったら、人々の気持ちもまるで生き返るのではないかと、夢想する。」

 「いまの世の中は頭脳社会となって、各論的に進化はするが、総論が見失われて、すなわち肉体が失われている。でも結局は人間として、人体として生きているのだから、世の中はいずれ見失った肉体を求めて、極言すれば蛔虫的環境を探し求めてゆくのではないか。」

 赤瀬川原平というとすっかり「老人力」の人だけれど、その彼の表現のからくりのもとのもとには、前衛芸術家出身から紆余曲折を経てトマソンの発見という経緯があり、あれは思えば、複雑でみえにくくなったゲイジュツなるものの核の核の部分を丹念にほぐして明るみにだそうするなかでの瓢箪から駒的な仕業であった。しかしこの「岩波写真文庫」の写真たちは、そういう作業をする余地がないので、カメラ好きとしても知られ、写真にまつわる著作の多い彼も、ただそこに閉じこめられた単純で切実で実直だった人びとの暮らしの空気を吸い込み、そのころを思い出すばかりなのであった。いたるところで彼は、当時とひきくらべていまの状況を寂しい、と書いているのが、なんだか寂しい。


「この時代の写真はもちろんモノクロが普通で、カラーなんてとんでもなかった。素人でも写真をやるとなると、暗室を作って、自分で現像焼付をやる人が多かったはずだ。この暗室作業というのがなかなか神秘的なもので、面倒ではあるけど、それがまた写真の価値を高めていた。いろいろ面倒な苦労と失敗を乗り越えて、神秘を潜り抜けて、やっとあらわれる写真は、いまの論理でいう映像とはちょっと違う。写真はいまよりもっと無骨で強い力をはらんでいたように思う。」


 便利さと快適さが極まるにつれて、あらゆるものごとが複雑でみえにくくなり、だからありがたみもなくなる。私の写真ばなれもまさにそういうことなのだった。


→bookwebで購入