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2014年03月23日

『パン語辞典―パンにまつわることばをイラストと豆知識でおいしく読み解く』ぱんとたまねぎ 監修・荻山和也(誠文堂新光社)

パン語辞典―パンにまつわることばをイラストと豆知識でおいしく読み解く →紀伊國屋ウェブストアで購入

おもてなしとかクールジャパンとか、賑やかに言われている昨今だが、パン(とケーキ)もまた、世界に誇れるニホンの文化だろう。ヨーロッパ各国の伝統的なものが本場とくらべても遜色ないレベルで再現され、さまざまなオリジナル品が定番化され、日夜新作が生み出されている。ありとあらゆるパン(とケーキ)が食べられて、かつそれを売るお店が全国津々浦々にまで行き渡っている。


なにより、その歴史や製造工程、種類といった基本情報にはじまり、パンを楽しむためのことばが、イラストとともに詰まっている本書が、この国がパン大国であることをおしえてくれる。著者である「ぱんとたまねぎ」こと林舞さんは、福岡在住のイラストレーター・デザイナーで、京都に6年間滞在。 それは、進学や就職のためでなく、おいしいパン屋がおおいという理由での移住だという。その京都でのパン生活から、林さんの活動ははじまった。同じとき私も京都にいて、いちどガケ書房で彼女とすれ違ったことがある。街のあちこちで目にしていたパンにまつわるフリーペーパー「ぱんとたまねぎ」は、単なるインフォメーションにとどまらない、作り手の愛と創意に満ちていた。


そんな、無類のパン好き、を通り越してノーブレッド・ノーライフな著者によるパン語の辞典。さまざまな種類のパンや、パンにまつわる知識だけでなく、芸術、文学、言語、歴史、自然、民俗と、その項目はあらゆるジャンルに枝葉をのばす。それはパン生地のようにふわっとかるく、ときにみっしりと濃ゆい、パンの宇宙だ。そこでは、パン種が発酵し、こねられ、焼きあがってゆくのをまっているときの、ゆるりとした、でも待ち遠しいような時間のなかにいられる。


各地へパン取材に出かけている林さんだけに、ご当地パン情報がいろいろ。当時は意識したことはなかったが、「京都人の定番おやつ」である「カルネ」(フランスパンにハムとオニオンスライスがはさまった、京都のベーカリー志津屋の看板商品)にはお世話になりました。懐かしい!

「かんぱん」は「乾パン」であること(「缶パン」だとずっと思っていた)、「コンパニオン」の原義は、一緒に(com)パン(pains)を食べる人だということ、鳥取県の一部では法事のお返しにされる「法事パン」があること、などなど、この齢ではじめてしることもいろいろ。

好きなパンが載っているのをみつけるのも、うれしい。「明太フランス」(名作!)、「シベリア」(パンではないが、パン屋で売っているお菓子も多数収録)、「三色パン」(定番は、あん・クリーム・チョコとあったが、私が昨日食べたのは、あん・クリーム・ジャムの三色でしたよ、林さん!)。と、読めば誰もがパンの話をしたくなり、パンを食べたくなること必至である。


「考えるとキリがないパン」と、まえがきにあるけれど、じつに、パンって不思議。おやつとして食べているときでも、食事として食べているときでも、そこに、日常と非日常、実用性と趣味性がいっしょくたになってやってくるような捉えどころのなさを感じるのは私だけだろうか。パンは、食べものであることを超えた、私たちのさまざまないとなみの結節点のようだ。ただ、食べておいしい、にとどまらないパンの楽しみ方を教えてくれる本書から、そんなことを考えた。


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2014年03月10日

『雑誌倶楽部』出久根達郎(実業之日本社)

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「泥つきの掘りたて根菜もろもろ詰め合わせ」。選りすぐられても、磨きをかけられてもいない。食べてみないことには、うまいかまずいかもわからない(なかには有毒なものもあるかもしれない)。泥つきだから、種にもなるので育てることもできる。とにかく、いろんなものを一度に味わえる。ただし味見するだけなので、おいしさを堪能するところまではいかない。

こう、まえがき「雑誌の妙」にはある。「何が入っているか、開けてのお楽しみ」、それが雑誌というものだと。『婦人之友』『実話時代』『新青年』『犯罪科学』『面白倶楽部』『笑の泉』『丸』『平凡』『あまとりあ』『宝島』……こうしてタイトルを書き出していくだけでも楽しい。さまざまなジャンルの雑誌を読む、というこのエッセイも、もとは、本書の版元でだされている文芸雑誌で連載されていたもの。掲載号と同じ月の号の雑誌がセレクトされていたのだろう。三年と二ヶ月ぶんの文章が、月ごとにまとめられて、単行本となった。

たとえば 三月の章なら、大正十一年の『現代』、昭和十一年の『伝記』、昭和二十四年の『大衆文藝』と、さまざまな時代の三月号がならぶ。頭から順番に読まなければいけないわけではないけれど、その時間の振り幅に翻弄されるのがいい。古いもので大正のはじめから、あたらしいものでは昭和の末まである。


ところで、版元の実業之日本社といえば、明治からつづく老舗であり、かの『少女の友』を出していた出版社。本書でまずとりあげられるのも『少女の友』である。大正十三年の一月号、ゆえに前年の大震災関連の記事が多い。体験記よりも、読者世代の少女たちがその後どう懸命に生きているか、「立志発奮」の実話が紹介されているという。震災から半年と経っていないが、「華やかなカラーの表紙に、色刷りの口絵、四ページのグラビア」。

実業之日本社も被災したが、当時建設中だった鉄筋コンクリートの新社屋は無傷だったため、震災後いち早く編集作業に取りかかることができたのだと、『実業之日本』大正十二年十月号をとりあげた別稿にある。『少女の友』も震災後まもなく十月号がでたが、これが朝鮮人虐殺を報じたために発禁となったという。先の一月号には、正月らしい企画として「大震大火 道化百人一首」というページがあるが、こちらは、いまならば当局ではなく読者の側からお咎めを受けてしまうかも。


雑誌は、「掘りたて」のさまざま、同時代の情報の先端を詰め込んだもので、当時の世相をヴィヴィッドにうつしてみせる。時間をへだてて眺めてみると、それはときに今現在の常識や感覚からはずれていて、それがまた驚きや発見につながったり、あるいはどう読んでも何の役にも立たないものだったり。「無用の用がこの世には必要なのであることを教えてくれる」、「雑の大切さを教えてくれるのが、雑誌なのである」とも著者はいうが、ときには有用な情報が得られることもある。雑なるものとは、絶対的な価値からは限りなく遠い。その集まりである雑誌は、古くなればなるほど、有用と無用のあいだの幅がひろがるものらしい。

『学藝』という文学研究の雑誌を著者が手にしたのは、そこに歴史学者・田村栄太郎の「東京水害の記」という随筆があったから。「いかにして水難から大切な書物を守ったか、が知りたかった」という。その内容がたいへんにおもしろかった。特集は「読書術」。これは著者曰く「大げさなタイトルの割には、卑小な内容」で、「唯一の収穫」は「『積ん読』という言葉が、徳川時代に作られた洒落だ、と教えられた」こと。これには私もびっくり。また、戸坂潤の言葉が紹介されていて、それもよかった。「本は読むためばかりでなく、見るためのものでもあるし、所有するためのものでもるといふのが、私の持論である」「皆んなが読むものを、是非自分も読まねばならぬといふのは、あまり懸命なこととは思はれない」。とくに後者には、読み手の私と書き手の私、どちらも勇気づけられる。

積ん読といえば、私も部屋のあちこちにも古い雑誌がちらほらと積まれているのだが、どうしてもそれを「読み物」というよりは「資料」として認識してしまう。そのため、これを何かの役に立てなくてはいけないという、あさましい気持ちがあっていけない。出久根氏は作家なのでもちろん調べもののために古い雑誌にあたることもあるが、こたつにごろ寝しながら何ということもなくそれを読んだりもしているのだった。これからは私も、そんな風にざっくばらんに雑誌を手にしたいものである。



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