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2013年09月23日

『青鞜の冒険 ―女が集まって雑誌をつくるということ―』森まゆみ(平凡社)

青鞜の冒険 ―女が集まって雑誌をつくるということ― →紀伊國屋ウェブストアで購入


 「東京本郷区駒込林町九番地」、現在の文京区千駄木五丁目三番地十一で、女性たちの手による雑誌『青鞜』が発刊されたのが明治四十四年。その七十三年後の昭和五十九年、著者の森まゆみと、山崎範子、仰木ひろみの三人が、地域雑誌『谷根千』をたちあげたのは、その千駄木五丁目から歩いて五分とかからないマンションの一室でのことだった。

 『谷根千』で「青鞜」を特集したさい、〝「青鞜社」発祥の地〝の史跡板のあるその地にあらためて立った著者。「そのとき、女性解放運動家として数々の役職についた平塚らいてうでなく、二十五歳の若い女性平塚明[はる]の姿が路上にふっと現われたような気がした。『青鞜』発刊は、『谷根千』とおなじく無謀な話であり、それは冒険といってよかった」。

 森まゆみ『小さな雑誌で町づくり―『谷根千』の冒険』(晶文社、1991、のち『『谷根千』の冒険』としてちくま文庫、2002)は、『谷根千』創生期の記録である。一方、明治末の谷根千界隈で、『青鞜』という雑誌に集った女性たちの冒険のなりゆきを描いた本書は、2009年に94号をもって終刊とされた『谷根千』における、三人の女性たちの「冒険」へのアンサーブックとしても読むことができる。

 草創期の岩波書店が『青鞜』の版元となる手筈が、「「新しい女」に何となく不安と反感を持っていた」岩波茂雄夫人の一声で取りやめとなった経緯があるという。そもそも、らいてうは岩波茂雄の申し出を受けつつ、そこで「好意」という言葉が繰り返されることには「引っかかり」を感じていた。

 「このらいてうの感じ方には共感できる気がする」と著者は書く。『谷根千』もまた、男性たちの「好意」からの協力の申し出を幾度となく受け、しかし、そこに「男たちの対等でない意識」を感じてもいた。「らいてうの「好意」への警戒心はもっともなことである」。

 このようにして、「青鞜」のあゆみを追いながら、『谷根千』の彼女たちのこれまでがときおり顧みられる。文学や女性学の分野でくりかえし取りあげられてきた『青鞜』だが、森まゆみという書き手のフィルターを通して描かれることで、七十年という歳月を超え、この雑誌のありかたが新たな光のもとに照らし出されている。

 『青鞜』の舞台であった明治の谷根千界隈。同人たちのポートレイト。地域性のあらわれた広告。掲載された作品は丹念に読まれ、紹介される。注目すべきは「後記」。ことに、「青鞜の風雲児」尾竹紅吉の書きっぷりときたらどうか。有名な「五色の酒」や「吉原登楼」のスキャンダルもこれが発端になっている。こんな内輪のネタで大丈夫なのだろうかとハラハラしつつも面白い。

 なにより、著者の筆による、『青鞜』の中心人物・平塚らいてうのポートレイトがすてきだ。同じ誠之[せいし]小学校、お茶の水女学校(著者の時代は大学附属中学校)の卒業生。上野動物園や小石川植物園に遊び、白山神社や根津神社のお祭りが楽しみであり、同じ坂道を上り下りした「わが同郷人」についてが、のちのらいてうの自伝をひもときつつ、描かれる。

 お茶の水のあと進んだ日本女子大でも、授業はそっちのけで哲学や宗教の本を読み、教会に、さらに臨済宗の禅道場に通ったというらいてうは、「わが内なる神を見ることに夢中で、日露戦争は日清戦争ほどにも記憶していない」。
 『青鞜』創刊と同じ年のはじめに起こった大逆事件のさいも、「ひたすら自分の内面を見詰めつづけていたわたくし」の関心といえば、「『青鞜』の産婆役」である生田長江の紹介するニーチェの哲学なのだった。

 「袴を低くは」き、「日和下駄で東京中を歩き回」り、「自分の内面の観照と知識の吸収だけに熱中していた」若きらいてう。女子大のあとは女子英学塾(現・津田塾大学)と、成美女子英語学校で語学を学び、女性のための文学講習会「閨秀文学会」で当時の文学者の講義を受ける。そこで出会った森田草平と、かの「雪の塩原事件」にいたるというわけだ。

 あとがきには、「女性解放の先駆者という既存のイメージよりも」、「二十代の霊性にとんだ、理知的で向上心の強いらいてうに立ち戻りたいと思った」とある。物静かで、内向的で、社交性に乏しいらいてうは、人の前へ前へとでて、周囲を引っぱっていくというタイプではとてもない。『青鞜』創刊も、生田長江のすすめによるもので、らいてう自らがのぞんでなされたことではない。しかし、「教会に通い、座禅を組み、内面の完成をめざすらいてう」のスピリットは、『青鞜』という雑誌の底にひたひたと漂い、その「冒険」には欠かせない支柱だったろう。

 そんな、不思議なカリスマ性を備えながらも、いわゆるクリエイティブな領域外の、雑誌作りの大半を占める雑多な仕事を苦手とするらいてうは、雑誌の作り手としては素人であったと著者は断じ、「ああ、雑誌をやっているといろんなことがあるものだ」と、らいてうと『青鞜』を同士のような目で眺めつつも、その『青鞜』の終末までを冷静に書き切っている。

 やはり歴史は必然なのだろう。彼女たちはまず先に、自らの個を確立することが必要であった。それはときに愛する者や、自分の産んだ子供さえも排斥すべき孤独であった。  孤独を磨いた上で人と連帯する方法を模索した。その連帯はときに裏切られ、実を結ばなかった。その孤独の修業が女たちを育てていった。

 いつの世もそれは変わらない。この、「青鞜」という対象に向けられた、女性としての、雑誌編集者としての、同郷者としての視線の折り重なりから、雑誌作りを通じて自らのしごとを生みだした著者の、人としての「はたらき」の髄を、読者は受け取ることだろう。


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