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2012年10月31日

『石井好子のヨーロッパ家庭料理』石井好子(河出書房新社)

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 四十年ちかい歳月を経て復刊した本書のオリジナルは昭和五十一年、文化出版局刊。

 石井好子の代表作『巴里の空の下 オムレツのにおいは流れる』といえば、パリ暮らしのなか、フランス人のくいしん坊ぶりに触れ、食べることの楽しみに開眼させられた著者が、かの地で出会った料理と味を、さまざまな人との出会いやエピソードをまじえて綴った食エッセイの傑作。異国の空の下、歌手として生きることで精一杯だった石井にとって、食への好奇心と楽しみは、実際に料理を口にする以上の命の糧であったろう。料理のあるところには、人と人との結びつきがあり、そうしてはじめて、そのひと皿は忘れがたい味となる。至極あたりまえだが、忘れてはならないこの食への構えと、ヨーロッパの食べもののあれこれを、石井は、さらりとした上質な筆にのせて、日本の読者に届けてくれた。

 本書は雑誌『ミセス』の連載をまとめたもの。石井がヨーロッパ各地の友人知人宅の台所を取材し、家族とともにテーブルを囲み、その味と料理法をリポートする。料理だけでなく、それを供してくれる主人とその家族の人となりや、家の様子といった暮らしぶり全体が紹介されるのは石井ならではのことだ。フランス、イタリア、スペイン、ドイツ、ウィーン、北欧にイギリス。ヨーロッパのほぼ全域にわたって取材の足をのばし、人との出会いを楽しみ、各国の料理を、作り方ともども体験する。

 日本の都会では、世界各国の料理を、それもかなり本格的でおいしいものを食べることができるし、その情報も簡単に手に入れることができる。けれどもこの、ヨーロッパ家庭料理探訪が連載されていたのは昭和四十七年から四十九年のこと。もちろん、すでに欧米の食文化は日本に根付いていただろうし、各国の料理を食べさせるレストランだってあったにちがいないが、それでもまだ、ヨーロッパの人たちが日々家庭で食べている料理がどんなものかは、あまり知られることがなかっただろう。ムール貝、ホースラディッシュ、アーティーチョーク、トリュフ、オリーブオイル、クルジェット(ズッキーニ)、チコリ、アンディーヴ、さまざまな種類のチーズやハーブ……その食材も、今でこそ、品揃えの豊富なスーパーでなら簡単に手に入れることができるが、当時の日本人にはまだ、なじみがなかっであろうものがかなりある。本格的なオーブンや煮込み用の鍋といった調理道具にしても、一般の家庭でそろえることは難しかったかもしれない。『ミセス』が、富裕層の奥様向けの雑誌だったとしても、よほどの料理好きでないかぎり、誌面を彩る料理の数々を、実際に作ってみようという人がどれだけいたことか。おおかたの読者はただ、ヨーロッパへの憧れをもって、この誌面を眺めていたのではないか。

 読み物としての性格が強いとはいえ、本書はまごうかたなき料理書。すぐれた料理書を多く送り出している文化出版局の出版物のなかでも、名作のひとつといえる。料理のなりたちを、レシピだけでなく、それを作り食する人たちの暮らしもろとも描きだしたところにそのすばらしさがある。もちろんそれは、知識だけでなく、ヨーロッパでの暮らしの実際を身をもって知っている石井好子という書き手があってこそ。 
 各国の料理も、食材も、簡単に手に入れることのできるようになった今日、この本が復刊されたのは、単なる情報にとどまらぬ物語性と、昭和四、五十年代が夢みたような「ヨーロッパ」への憧れが、いま再び顧みられているということか。なにより、なんでも見よう、聞こう、知ろう、食べよう、という彼女のバイタリティと好奇心の旺盛さは、バターや洋酒のふんだんに使われたヨーロッパの料理に負けぬくらいの熱量となって、読者の食と暮らしに対するモチベーションを上げてくれそうではないか。
 復刊にさいしては、堀井和子のオマージュと、平松洋子の解説があらたに収録されている。


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2012年10月28日

『家族の勝手でしょ!―写真274枚で見る食卓の喜劇』岩村暢子(新潮文庫)

家族の勝手でしょ!―写真274枚で見る食卓の喜劇 →bookwebで購入

 2011年同社刊の単行本の文庫化。
 著者は、98年より、〈食DRIVE〉調査という定性調査を実施し、食卓を通して現代の家族の実態を研究・考察している。前著、『変わる家族 変わる食卓 ―真実に破壊されるマーケティング常識』(中公文庫)『普通の家族がいちばん怖い ―崩壊するお正月、暴走するクリスマス」(新潮文庫)同様、本書も〈食DRIVE〉調査の結果をまとめたもの。
 本書では、2003年から2008年までの6年間に実施された、120の家族の一週間分の朝・昼・夜の食事の記録が報告されている。
 対象となるのは、1960年以降生まれの、首都圏在住の子供を持つ主婦。年齢、最終学歴、世帯年収、子供年齢の四つの項目が、対象者のプロフィールとして円グラフで示されているが、「学歴や世帯年収は、このような複雑な調査に応じてくれる人の常として、一般よりやや高め」だという。
 また、パートやフリーランスも含めると3~4割が仕事を持つ主婦であるが、専業か有職かの区別は「本書で扱った事象において両者に特筆すべき違いも認められないため、職業の有無別分析は記していない」とのことである。

 巻末の「調査概要」によれば、調査は以下の三段階からなる。
 (1) あらかじめ、家族の食生活についての細かな意識調査を行う
 (2) 一週間の1日3食について、食材の入手経路やメニュー決定理由、作り方、食べ方、食べた人、食べた時間などを、日記に細かく記録してもらい、さらに、指定のレンズつきカメラで撮影してもらう
 (3) (1)の解答と(2)の記録をつき合わせて分析・検討、その矛盾点や疑問点を中心に、背景や理由を対象者との面接により問う

 圧巻はやはり、タイトルにもある274枚の食卓の写真である。「指定のレンズつきカメラ」、いわゆるインスタントカメラは、デジカメのように撮った写真を確認したり、再撮影することはできず、写真を見栄えよく撮る機能も備わっていない。そのため、テーブルの上の料理たちは、料理書や料理ブログの写真のような華やかな演出からはほど遠く、室内の蛍光灯の明かりのもと、現実を生々しく写し出す。フラッシュ撮影され、四隅が暗く沈んだ画面上に皿のならんだ光景の、なんとわびしいことか。笑いごととはとてもいえない「喜劇」の実態の一部はこんなかんじ。

 ・夫のいない日は手をかけたものは作らない(インスタントや冷凍食品を使い、副菜もとくに作らない、など)
 ・インスタントラーメンや焼きそば、うどん、パスタなどを作るとき、「具」を入れない「素ラーメン」や「素パスタ」が増えている(理由は、具を入れても子供が嫌がるから、など)
 ・朝食にクッキーやロールケーキなどのお菓子(「子供が何も食べないよりはまし」という意見がおおい)
 ・「単一素材料理」(肉だけの皿、野菜一種類だけの皿)が増えている(いろいろな食材を合わせて作る料理は面倒である)
 ・洗いものが面倒なので、取り皿は使わない、パンなどはキッチンペーパーに置く(あるいはテーブルにじかに置く)、お味噌汁は子供とまわしのみする、鍋やフライパンを直接食卓に出すなど、なるべく食器を使わない傾向あり
 ・焼きそばとトースト、たこ焼きとおにぎり、など、主食が重なっている献立が増えている(生鮮食材を買い置きしないため、食事内容が物足りないときに副菜を作れない。買い置きしているのは、インスタントラーメン、冷凍ピザ、菓子パンといった、主食系のものばかりなため)
 ・子供の粗食化(親は比較的まともなものを食べているのに、子供がいいと言うから、と、菓子パンだけ、うどんだけ、といった栄養の偏ったものを食べさせている)。子供に選ばせるとそうなるから、と、とくに問題にしていない
 ・子供のお弁当には、子供の好きなものしか入れないので、冷凍食品や出来合のものばかりになる、野菜のおかずや手作りの料理は作られない
 ・子供に嫌いなものを無理に食べさせない、どうせ食べないので作らない(無理に食べさせようとすると疲れる、せっかく作っても、食べないと自分がイライラする)
 ・子供の習い事のつきあいで疲れているから、と、習い事のある日は、外食や中食が常習化
 ・近年みられた「バラバラ食」(家族それぞれが好きなものを好きな時に食べる)はさらに進化し、朝昼晩という三食の基本も崩れ、お腹がすいたときに好きなものを食べる「勝手食い」が増えてきている。また、たとえ家族揃っていても、ちがうものを食べる家庭も増えてきている

 文庫の帯に、「驚きの「食卓ナマ写真」満載!」と謳われているのだけれど、それが、虚しいどころか悪趣味に響いてしまうような食卓のありさまが、ページいっぱいに、これでもかとつづく。
 帯にはさらに大きく、「お宅はこれより ちよっとはマシ?」とも。これよりマシでない食卓を囲む家庭の主婦が、この本を買うとは思えない。よって「うちはこれよりはマシだわ」という読者がほとんどのはず。とはいえ、思いあたることもひとつやふたつはあるだろう。これはさすがにひどい、という例もあるけれど、すべてがありえないことだと言い切れないのが実情のはず。

 冒頭では、同じように食事の調査をしている人から、〈食DRIVE〉調査は「特殊な家庭の特別な食事シーンだけを恣意的に取り上げている」のでは? と言われたとある。そうかな? 私は、それほど特殊だとは思わなかった。もちろん、「家族めいめいがコンビニで買ってきた好きなものを食べる夕食」というような、これが毎日の事だとしたらさすがに問題なのでは?というケースもあるけれど、このくらいのことなら、どんな家庭でも少なからずあるだろう、という例のほうがおおいと思った。
 実際、自分のまわりにも、ほとんど料理らしい料理を作らない、あるいは作れない人がいるが、そういう人たちはみな、ごくあたりまえの家庭のお母さんたちである。本書では、「食べることに関心がない」という人がよく目についたが、おいしいものを食べるのが好きで、グルメ情報にも詳しく、料理の本を買ったりもするけれど、日常生活の食事づくりはまったくできてない、という主婦は結構いるものだ。どちらかというと、自分の好きなもの、よいと思うものを、自分のためだけに用意すればいい独身の女性のほうが、食材などにもこだわった健康的な食事づくりを厭わない人がおおい気がする。それが、家族を持つと、なぜだか面倒くさいことなってしまうようなのだ。

 ことに問題視されているのは、主婦たちの、食べることを通じて子供を育むことに対する意欲のなさである。あとがきにはこうある。「どうせ食べないだろうから、無駄なことはしたくからと、子供に食事(食べそうもない料理)を出さない」、「手にかけた料理に思うような反応が得られないと二度と作らない」、「寝てしまった子供や食べたがらない子供に「ラッキー!」と喜ぶ」、「子供の要望だからと親より粗末なものを食べさせる」、「家できちんと食べなくても学校給食や幼稚園で食べているだろうと気にとめない」、「自分の『嫌な思い』や『ストレス』や『イライラ』を回避するために、子供の何かを無視したりやり過ごす」。こうした話を、著者は調査のなかで幾度となく聞かされてきたという。
 調査対象である主婦たちは、子供好き嫌いにとても「寛容」、つまり、好き嫌いをあらためさせるようなしつけをする親が減ってきているのだとか。無理に食べさせようとして、子供が言うことをきかなかったり、不機嫌になられたりすると、ストレスに感じるのでしたくない、というのが親の言い分である。子供の健康や成長よりも、「自分の心身をかばうことを優先しているかのよう」だと著者はいう。

 嫌な思いをしてまでがんばりたくない、ストレスをためるくらいなら、無理はしないほうが自分のため、ひいては家族のため、と思いたい気持ちは、子供のない私にもわかる。毎日毎日の食事づくりの大変さも同様。それでも食べることの大切さを思えば、日々の食事はおろそかすることなどできない。対象者たちに、そうした思いがまったくないとも言えないだろうに。ここに展開する食卓風景が、じゅうぶんありえることだとは思いつつ、もうすこしましな例はないのだろうかとも、やはり思う。
 リアルな食卓風景を写した「ナマ写真」に付された、主婦たちの発言には、食事づくりに対する本音があからさまに語られているが、これは、もしかすると写真以上に衝撃的かもしれない。先に記した(3)の聞き取りでの発言を調査者がまとめたもので、調査が三段階に分けて行われるからこそ引き出せる、本書の読みどころでもある。
 たとえば、「5章 「私」を大切にする主婦たち」では、主婦たちが、食事の支度ができないことの最たる理由として「疲れ」をあげ、その疲れの原因は子供の学校行事やママ友との交際であると報告されているが、「疲れているのでやりたくない」「面倒くさい」「なるべくしたくない」「無理」といった言葉は、全編にわたって見受けられる。私の母親の世代の人たちは、「毎日のごはんの支度が億劫で大変」とこぼしつつ、いつでもまともなものを子供たちに食べさせてくれていたものだが、今の母親は、とにかく面倒なことはしたくない、という思いの一点張りで、その、食事作りに対する倦厭感が、本全体を覆い尽くしている。

 「願わくば、写っている表層的なものに目を奪われず、その映像の奧にあること、それらを必然ならしめている社会的背景へと目を向け、なぜ私たちはこういうことを家庭の食卓でするようになってきたのか、考えながら見ていただければ有り難い」と言われても、ええー、そんなー、あとがきの最後の最後で丸投げされても……と逃げ出したくなる。家庭は行き詰まっている、日本の家族の行く末は暗い。震災以降、やたらと叫ばれている「家族の絆」とやらも、すべてが虚しく感じられる、そんな、読んでいてとにかく気の滅入る本である。



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2012年10月14日

『True Prep―オフィシャル・プレッピー・ハンドブック』リサ・バーンバック、チップ・キッド 篠儀直子・訳 山崎まどか・日本版監修 Pヴァイン・ブックス

True Prep―オフィシャル・プレッピー・ハンドブック →bookwebで購入

 アイビー・リーグに属する名門大学入学を目指す、良家の子女たちが通う私立高校「プレップ・スクール」。その、プレップ・スクール出身者、伝統的かつ格式の高いお家柄の人びと「プレッピー」の生態をつぶさに、そして諧謔をこめて綴り、80年代にベストセラーとなった『オフィシャル・プレッピー・ハンドブック』。本書はその2010年代版である。

 ところで今年は、プレッピーな着こなしが大流行しているとか。
 80年代はじめ、日本で元版『オフィシャル・プレッピー・ハンドブック』の翻訳(新潮社、宮原憲治訳、81年)が出た当時、小学生だった私のおぼろげな記憶によれば、プレッピーというのは、ポロシャツの衿が立っていて、素足にモカシンシューズをはき、デイパックを肩からさげた都心の私立大学生、自分より十くらい年長のお兄さん・お姉さんのもの、というイメージ。
 でも、そう、思えば高校生のころ、制服のスカートを規定よりすこし短めの「膝小僧がみえるかみえないか」くらいの丈になおし、足元はスニーカー(というより、運動靴といったほうがいいような代物)ではなくて、ローファー、というのが流行っていて、当時のあの〝お嬢様ブーム〟はある種、日本版プレッピー的なものへの憧れ(つまり、東京近県のふつうの公立高校生が、都心の名門私立女子高生に憧れるという)からくるものだったかもしれない。セレブなる語をまだ知るよしもない私の住む神奈川県某市では、いまだヤンキーカルチャーが健在だったが、スカートを長くしたり、髪を染めたり、パーマをかけたりといった校則違反などとんでもないこと(スカート丈をつめるのも実は違反なのだが)だと、クラスメイトたちはみなしていた。

 いま、60年代風アイビー・ルックでキメていたら、コスプレと勘違いされそうだが、そうはならず、いまなおおしゃれとして成立するのがプレッピーか。適度な応用、適度な着崩し、そんな、基本からのちょっとした逸脱がこのファッションの要であろうから。そしてその、「ハズし」具合や「こなれ」加減は、単に見た目だけでははかることのできないコードによってさだめられている。プレッピーの装いは、彼らの生活にまつわるあらゆるルールとは切り離せないということで、それを懇切丁寧に解説したのが80年代版『オフィシャル・プレッピー・ハンドブック』(90年代にはどこにでも転がっている本だったけど、いま、アマゾンのマーケットプレイスでとんでもない値がついていて、びっくり)である。その訳者あとがきにはこうある。
 「プレッピー社会が磨きあげてきた節度ある着こなし感覚こそプレップなもののすべてなのです。」
 そして、
 「編集のリサ・バーンバックさんが冒頭でもいっているように、誰もがプレッピーになれます。日本列島からローカスト・ヴァレーに引越したり、フィリップス・エグゼターに転校するのは無理としても、タルボットのカタログを取り寄せて、質の高いウエアを手に入れることができます」
 さらには、
 「プレッピーの世界にファッションから入ることは決して間違ったやりかたではありません」
 2010年版である本書の日本語版監修者・山崎まどか氏のあとがきにも、そもそも「ジョーク・ブック」として書かれた80年代版が、日本でアイビー・ファンたちにバイブルのように読まれたことは、「訳者たちの苦笑を呼ぶもの」だったとあるが、この読み違え、なんて80年代的!!! 笑えるというよりは、むしろのどかでうらやましい。

 最初の『オフィシャル・プレッピー・ハンドブック』が書かれたのは、アイビー・ルックを受け継ぐファッションとしてのプレッピーの流行があったからだろう。自分たちのスタイルが真似されることで、プレッピーたちは、それまではとりたてていうほどのものではなかったこと、ごく当然のこととして受け止めていた自らのありようをあらためて――本書にたびたび引かれるイーディス・ウォートンの作品のように、文学的な主題としてではなく――対象化した。
 では、それから30余年を経た、2010年版はどうか。

 ボストン・ラテン・スクール【引用註・プレップスクールの元祖ともいうべき、北米で最古といわれる学校】が設立された1635年以来、この世界はほとんど変わっていないとわたしたちは以前言ったけど、もちろんそれはちょっと大げさだった。世界の動きがどんどん速くなり、天然資源の消費量もどんどん多くなり、科学者たちは砂糖の代用品をどんどん発見しているのだから、わたしたちのきれいで安全な小世界に21世紀の生活がどう影響するか、わたしたちも考えなきゃならない。

 30年という時代の流れに影響を受けない人間などありえず、プレッピーたちもまた例外ではないのだが、自分たちの認識が「間違っていた」のではなくて、「ちょっと大げさだった」というところが、たまらなくプレップである。彼らは、

 かつてはWASP。そうでなくなってからも、少なくとも白人のヘテロセクシャルでした。ところがある時わたしたちは、好奇心から、あるいは退屈から枝分かれして、あっというまにごちゃ混ぜになったのです。

 「ごちゃ混ぜ」になったのは、あくまでも自分たちの「好奇心」や「退屈」のせいであって、「わたしたちのきれいで安全な小世界」の外部にはないのだと言い張るところもまた、なんともプレップ。
 というわけで。

 ・お父さん(ちょい悪な)の「ガールフレンド」のいくつかのタイプ
 ・人種のちがう子どもを養子にむかえることはもはや珍しくなくなった
 ・「ゲイとレズビアンのプレップ・アメリカ・マップ」
 ・プレップの殿堂にオバマ夫妻の名前が登場
 ・(プレップな奧さんでいるには飽きたらず)突如として「室内装飾家→不動産ブローカー→美術館ガイド→ヨガ講師」というキャリアを積む「ママ」
 ・プレッピーのスキャンダル、その種類と対処法など
 ・「ゴシップガール」のプロデューサーへ一言
 ・「天然素材を着ることが、自分たちの権利でありトレードマークである」と考えてきた彼らがこぞって「フリース」を着るようになった
 ・「Facebookはすべての人に開かれすぎだと感じて」いるプレッピーたちのための「招待制のみのサイト」ができた

 ……等々、この30年にもたらされた新たなプレッピーたちの生態が目白押し。情報量も、面白さも、ディテールも、80年代版をはるかにしのぐ、大満足の読み応えである。
 ところで、彼らをめぐる状況が、いかに様変わりしたかを何よりも示すのは、本書が80年代版のようにファッション・バイブルとして読み違えられる可能性は薄そう、ということではないか。ウィットの効き方が、前者にくらべるとパワーダウンしたのは、そのぶんだけ、「わたしたちのきれいで安全な小世界」への外圧に屈しないという、プレッピーの確固たる矜持が、ほんのすこし出過ぎたせいかもしれない。『TRUE PREP』という原題も、ユーモア、というよりは、日本語でいうところの「ネタっぽさ」のほうがまさっている気がするのだ。



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