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2012年09月30日

『上海、かたつむりの家』六六 青樹明子・訳(プレジデント社)

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 中国では知らない人はいないというほどの大ベストセラー小説らしい。テレビドラマにもなり、こちらもたいへんなな人気を博したという話題作である。
 原作は2007年刊、ドラマ化は2009年だが、一部の局では内容が過激すぎるとの理由で放映を打ち切られ、そのことでさらに話題を呼んだそうだ。  都市部の住宅難、貧富の差、拝金主義といった現代中国の現実が描かれているうえ、官僚の汚職や不倫、夫婦関係の難しさ、といったドラマにはうってつけの要素が満載である。訳者まえがきによれば、中国人にとって「身につまされるけど、目が離せない」というリアルすぎる内容。ドラマではそれが、原作以上に過激に表現されていたのかもしれない。

 タイトルの「かたつむりの家」は原題で「蝸居」。日本でいうところの「ウサギ小屋」のことで、その蝸居に暮らす夫婦が家を買おうとすることから物語ははじまる。
 値下がりをはじめているという中国の不動産だが、本書の書かれたときはバブルのただなかである。一人息子を地方の両親の元に預け、夫婦ふたりで働きづめでも、「貯金の増える速度は物価上昇の速度に、永遠に追いつかない」。しかし、息子とともに暮らすため、妻は是か非でも自分の家が欲しい。
 不動産購入に突き進もうとする蝸居妻。彼女のためなら命もいとわぬという妹(一人っ子政策のさなか、姉の一言で両親が自分を生むことを決めたため、というのがその理由)は、開発業者に勤めている。その妹と、開発業者と密につながる役人との不倫の恋。金勘定に明け暮れるなかでしだいに軋んでゆく蝸夫婦の仲。ありえない速度で高騰していく不動産価格の裏ですすむ開発業者の策略と役人の汚職。それらが絡まり合い、物語はすすむ。

 夫婦が住む「蝸居」、台所とトイレは共同、広さ10平米ほどの部屋の家賃は月650元(約8450円)。ともに大卒の夫婦の年収は9000元(約11万7000円)、とある。
 妻が買おうと決めた家は、上海市のとなりの江蘇省の開発地区にあり、まわりは畑ばかり、スーパーマーケットもないようなところだが、不動産会社側によれば、これだけマンションがたくさん建つのだから、いずれは発展するとのこと。価格は93万元(約1209万円)。日本で、年収500万の人間が5億の家を買おうとはふつう思わないだろうが、中国ではちがうらしい。

 上海を旅行したとき、なにより印象深かったのは、庶民価格と金持ち価格の差の激しさである。外国を旅してふつうに感じる、物価が高い/安いというのとは事情がちがい、ただ元を円に換算するだけは、ものの価値ははかれないことに戸惑い、お財布からお金をだすたびに奇妙なめまいにおそわれた。
 たとえば朝、ホテルのカフェで飲んでいたコーヒーは日本円にして500円ほど。チェーン系のコーヒー店にくらべればちょっと高いな、という程度のこの金額は、中国の価値観にあてはめると、たかがコーヒー一杯に何千円もの金を支払っている、ということになる。
 物語のなかでも、蝸居夫婦の妻の妹が、恋人とハーゲンダッツのアイスクリームを食べるシーンがあるが、ひとつ25元(約325円)のそれは、彼等にしてみれば「一週間のランチ代に匹敵する」、たいへんな贅沢品である。
 ということは、93万元という家の値段は、単純に年収の100倍、というだけでは足りぬ、とほうもない額ではないのか。日本人の私からすると、無謀としか思えないこの買い物は、しかし、中国の都市部の人にとってはありえる話なのだ。結果、「房奴」=住宅ローンの返済に追われる人々の増加が社会問題になる。この物語が中国の人にとって「身につまされる」という所以である。

 そんな、庶民にとっては高すぎる家の値段はともかく、物語に登場する、これなら私にも買える、というものの値段のほうが、日本人としては身につまされる思いである。
 ひとつは、妹の不倫相手が衝動買いする奈良美智の人形で、それは、いくらとは書かれていないが、かなり裕福な男がそのときもっていた財布の中身では足りない額である。男はその人形を、愛人にプレゼントする。
 もうひとつは、愛人である妹が男から与えられた金で買う下着、トリンプのブラジャー500元。ふだん50元のブラジャーをつけている彼女は、試着室でその品質のちがいにうっとりとする。日本円にして6500円というその値段の価値はこれまた、私たちの感じる6500円よりは、はるかに大きいだろう。
 妹だけでなく、蝸居夫婦までもが(そうとはしらずに)、男からさまざまな援助をうけ、待望の家を手に入れることになるのだが、その男の富も権力も、不動産バブルのただなかにふってわいたまぼろしのようなもの。上海の今がわかる、という触れ込みのこの物語から私が受け取ったものといえば、奈良美智の人形とブラジャーの存在感なのであった。


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2012年09月23日

『ニセ札つかいの手記―武田泰淳異色短篇集』武田泰淳(中公文庫)

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 一日おきに三枚ずつ、「源さん」からニセの千円札を渡される「私」。使った札の額の半分は、「源さん」に渡すことになっている。たとえば、ある日に渡された三千円のニセ札をすべて使ったら、千五百円(本物)を「源さん」へ、「私」の手許には、それを使って買った品物と、その金額を差し引いたぶんのお金(本物)がのこる、という寸法だ。

 一年半前にニセ札事件が起こり、犯人は未だ捕まっていない。ニセ札を警察に届け出ると、礼金として三千円もらえるという世の中、人々はお札にそれまでにない関心を示すようになった。店で札を使えば、店員がそれを電灯に透かしてためつすがめつ……という光景が茶飯事となっている。
 そんななか、「私」はなぜ「ニセ札つかい」の仕事をすることになったのか。

 チョコレートその他のお菓子類、おでん、石やき芋、のしいか、やきいか、鯛やき、おせんべいなどの純日本式の食物のほかに、洋食の店なども進歩しているし、毎朝パン屋(たとえば有名な木村屋)へ行けば、できたての小麦粉の匂いと味のするのや、肉やカレーやあんこやクリームやジャム、しまいにはオコワ飯などの入ったパンも買える。それだのに、全然楽しくないという源さんの気持が、私などには、とてもわかりっこなかった。

 「源さん」が何をしている人なのか、ニセ札をつくっているのは「源さん」なのかどうかも、「私」はしらない。「私」と同じ三十二歳、小学生の娘と飼い犬との「二人一匹ぐらし」なのはしっているが、「源さん」がなぜ、いつも「淋しそう」で「憂うつそう」なのかはわからない。

 「この世には何のおもしろいこともない、生きてだけはいるが少しも浮き立つように嬉しい感じは、あとにも先にもない、という顔つきと姿をしている」と、「私」は「源さん」をそのようにみている。そして、「私」は「源さん」をとても好きである。
 好きな相手にはできるだけサービスしたい、というのが「私」の性分だが、とっておきのうまいギョーザをすすめても、よく効くと評判の漢方薬を与えても、いきつけの店へ連れて行ってお酒を飲ませても、「立っても坐っても人間のカタチをして生きているのが、それだけで憂うつ」そうな「源さん」なのである。

 「私」は「丸木・ヴァレンチノ」という芸名でギター弾きをしている。クラシック・ギターやフラメンコが専門だが、エルヴィス・プレスリーの大ファンで、甥っ子やそのまわりの若い連中と音楽喫茶でエルヴィスをかけて盛り上がったりする。近所の飲み屋「大樽」の常連で、ひまに時はここでギターを弾き、店の人や客たちと、たわいもないはなしに花を咲かせるのが愉快でならない。
 酒も飲まず、たばこも吸わず、「大樽」で好きなメニューは「おじや」で、独り者の下宿住まい。自分が暮らせるだけを好きなギターで稼げばよいというこの都会の独身者は、難しいこともいわず、妙なこだわりもない、すてきに風通しのよい男である。

 そんな「私」が、「ニセ札つかい」の仕事を引き受けたのは、「源さん」へのサービス精神からだった。それだけではない。淋しそうな「源さん」、しかもそれが「高級な淋しさで淋しくなっているようで、私より偉い人物のよう」な「源さん」が、自分の「真価」をみとめてくれたという、そのことが「私」は単純にうれしいのである。

 「源さん」のみとめた「私」の「真価」とは、「ニセ札つかい」を「お金のため」にはしない、ということだろう。「源さん」にしてみれば、どこにも属さず、家庭ももたず、つまり、社会的な責任も地位もないうえ、これといった思想ももたない「私」のような気ままな男は、「ニセ札つかい」に最適の人間である。

 「源さん」もまた、儲けたいためにニセ札にかかわっているのではないだろう。「源さん」は、「むやみやたらにお金をほしがる大人も子どもも大きらい」なのである。しかし、それをきいた「私」は混乱する。お金欲しさでなく、ニセ札をつくるなんて、「それはお札を発行する権利のある政府のほかに、もう一つ別の秘密の政府をこしらえるような大悪魔みたいな連中」だと「私」は思い、しかし、「源さん」はどうみてもそんな悪魔の仲間にはみえないからだ。

 ニセ札を介して繋がる「私」と「源さん」。そのことをしるのは当のふたりだけである。そして、「私」のほうがおおく、ふたりのあいだを取りもつニセ札に、金銭的な価値とは別の、ある意味をみいだしてしまった。「意味をみいだす」などという表現は、「私」はきっと使わないだろうけれど、「源さん」から「もうぼくのお札をつかってくれなくていい」と言われた時の、「私」が受けた衝撃の大きさでそれはわかる。「源さん」から渡されるニセ札は、「私」にとって、本物のお金とはくらべようもない特別な何かだった。

 ギターの名曲、ことに世界各地で流行して、いつまでも人気の衰えない傑作には、「悪魔みたいなサワリの部分」がある。その悪魔みたいなサワリの部分では、弾いている人も聴いている人も、そこで悪魔の大きな黒いマントに包まれ、あるいは悪魔の舌か注射器でくすぐられて全身がしびれ、ほかのことは考えられなくなる。「そら、ここが悪魔さなあ」と、ギター弾きどうしが、二、三人あつまって楽しんでいて、おたがいに心の中でニタリと笑うような瞬間がある。私は、源さんから「お札をつかってくれ」と頼まれたときには、悪魔の声とかなんとか、そういう非常事態は少しも感じなかった。しかし「もう、お札はつかわないでいい」と言いわたされた瞬間、たしかに「悪魔みたいなサワリの部分」に首をつっこみ、電気ショックでしびれたようになったのであった。

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 本書は、武田泰淳『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティ・ブック』(清流出版)を編集した映画評論家・高崎俊夫の選による短編集である。
 武田泰淳の「ユーモアと恐怖、奇想に満ちた、めっぽう面白い小説」の、「その独特の魅力的な作品世界には〈映画〉からの決定的な影響が垣間見えるような気がしてならない」という高崎の解説によれば、ここに集められた物語は、どれも「一種、〈映画的な〉味わいをもつ貴重な作品」である。

 貧しく、どちらも近眼という恋人同士が、女の「めがね」によって、お互いの存在に目を開かされてゆく幻想的な小品「めがね」。来るべきゴジラの襲来に備えて召集された「特攻隊」たちによるSF風ドタバタ劇「ゴジラの来る夜」。孤独な不具の男が演じた一世一代の復讐劇「空間の犯罪」。朝鮮戦争勃発時、作家の妻・百合子をモデルとしたヒロインと、彼女が垣間見る神田界隈の朝鮮人たちを描いた「女の部屋」。大島渚監督作品の原作としてしられる「白昼の通り魔」。「ノアの方舟」を下敷きとした映画作品を論じつつ、この有名な聖書物語を考察した「誰を方舟に残すか」。

 編者が〈映画的〉というのと、私のそれとはちがうかもしれないのだが、映画的ということでいえば、私はなにより表題作にそれを感じた。まあ、単純に、映画で観てみたいおはなしだなあ、ということなのだが。

 もっとも好きなシーンは、「私」が、「源さん」とその娘を、甥っ子の運転する車でピクニックに連れて行くところ。行き先は、当時(本作は昭和三十八年の初出)、できたばかりの「タマ・テック」(多摩テック、2009年に閉園した)。丘陵地帯につくられた遊園地。芝生もまだととのっておらず、掘りかえされた丘の赤土は剥きだし、「舗装されていない道路」や「こわれた機械」はそのままで、「設備としてスキマだらけ」なところである。
 芸人らしく、真っ青なセーターでキメた「私」。そのおそろいを着せられているが、まったく似合っていない「源さん」。どんな乗り物も「一回でやめてしまう」無愛想な「女の子」。いまどきの青年である「甥っ子」。開発されたての郊外の風景と、そこで遊ぶ四人の姿が、私の頭のなかのスクリーンで動きまわる。どこか抜けているようで、なかなかにスマートでもある主人公の「私」、ギター弾きの「丸木・ヴァレンチノ」に、私はすっかりイカれてしまっているのだが、それを誰に配役するか、などと考えるのもたのしい。このキャラクター、かなり深沢七郎を思わせるものがあるのだが、それではあまりにできすぎているので、誰がよいかなあ……と、もう何遍読みかえしたことか。

 武田泰淳に、重々しいテーマを扱う作家というイメージを持ち、いざ読もうとなると、かなりおおきな山、と敬遠してしまう人もあるだろう。「おおきな山」であるのはたしかだが、この短編集を入り口にすれば、新しい読者がすんなりとその世界に入っていけるのではないか。「異色短編集」とあるだけあって、バラエティにとんだセレクト、それぞれが独自の味わいをもつおもしろい作品ばかりである。


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