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2012年07月31日

『東北おやつ紀行』市川慎子(中央公論新社)

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 餅状の皮のなかに黒蜜とくるみのつまった花巻の「経木まんじゅう」。うす小豆色で持ち重りのする青森の「久慈良餅」。最中の皮にしゃりしゃりと砂糖で固めた小豆がのった酒田の「豆皿」。三角に折りたたんだクレープのような生地にあんこが透けてみえる石巻の「ちゃきん」。磨りガラスのような砂糖の殻をかじると焼酎のあふれる八戸の「焼酎菓子」。醤油や天つゆをつけて食べるという蕎麦屋メニュー、会津若松の「まんじゅうの天ぷら」。どれもみな、その土地の人の手でつくられ食される、素朴な「おやつ」である。

 この十年ほどの地方ブームと連動し、郷土食もずいぶんと注目されるようになった。土地の人だけが通う個人商店やスーパーマーケット、農産物とともに、古くから地元の味として親しまれている加工食品がならぶ「道の駅」、そんな場所で造作なく売られているそれらは、外からやってくるお客さんをあてこんだいわゆる〝名物〟とはちがう、生活感あふれるたべものたちだ。

 そんな「おやつ」をめざし、郡山から車を飛ばして、東北の町々をたずねた小さな旅のレポート。観光とよぶにはあまりにも楚々とした移動であり、見学であり、飲食である。このご時世、こういうのこそ贅沢というものかもしれない。

 行き当たりばったりなどでは決してない。ちゃんと、ネットなどから情報を得、準備万端に出発している。早起きをし、何時間も雪の道を進み、「おやつ」だけでなく、美術鑑賞したり、建てもの探訪したり、水族館でクラゲをみたり、祭りを楽しんだり、温泉につかったりと、充実した旅をしているのだけれど、なんというか、ただ黙って立ち上がり、おもむろに出かけていくようなところが著者にはある。

 あれ、ちょっと、この人は、さっきまでこたつにあたってお茶をすすっていたと思ったら、もうあんなところでまんじゅう頬ばっているよ、というような、不思議な瞬発力。ちっともてきぱきとしているようにはみえないのに、どうしてか仕事を終わらせるのは早い、というような、そんな感じ。

 入ってすぐの土間がこの店の売場らしい。木製の平たい菓子ケースが二列、向こうの隅まで続き、奧の棚にも分厚くて腹のところがまあるく膨らんだガラスの菓子瓶が並んでいる。店丸ごと都会の古道具屋で売られていそうな空間である。
 こまごまと並んだお菓子を土間から伸び上がり(遠くて手が届かないので)目だけで漁る。紅白のストライプが入ったリボン型の飴、桃色や抹茶色の梅の打ち菓子。まんなかに穴のあいたドーナツ型のパンやうぐいす色をした板状のハッカ飴もある。完璧な空間に収まった完璧にかわいらしいお菓子の数々に、ボタン屋さんやビーズ屋さんに入った手芸おばさんのように興奮する。
  
 天井が高く、がらんとした店内に入るが、誰もいない。入ってすぐの平台に、茶色く平べったい花の形をしたお餅(のようなもの)がのっていた。どちらも大人の手のひらくらい大きい。
 これはなんだろう。甘いものかしら。近寄りみていたら、奧から白髪の小さなおばあさんが出てきた。……
 手を後ろで軽く組み、腰を小さく曲げたおばあさんは、この辺の方言なのだろうか、わたしにはうまく聞き取れない言葉で、「今はこんなに食べられないから小さいのもある。でも昔はこれしかなかった。それでも余らせたことはなかった。あんたどっから来た? 旅行か? あんこ、好きだろ? それならこのおまんじゅう、レンジでチンするといい。ちぎって少しずつ食べるとおいしい」というようなことを言う。今の相槌、正しかったかしら。わたしのおばあさんと同じように腰を折り、身をかがめ、耳をそばだて話を聞く。……

 著者は愛知に生まれ育ち、のち大阪と東京で過ごし、家族の都合で郡山に移り住むことになった。そこからはじまった東北めぐり。そのためなのだろう、ここには、旅人としてのまなざし、同じ東北の地で生活をする者としてのまなざしとがミックスされている。拠点である郡山では、外からやってきた著者はいわば余所者である。しかし、旅の上では、まったく別の地方からやってきたお客さんというわけでもないのだ。そんな立場が彼女を、遠慮がちなようでいて、しずかな親しみにあふれた旅人にしているのだと思う。

 本書は、2011年の夏の刊行をめざして書きすすめられていたが、東日本大震災後、作業は中断される。原発事故のために郡山をあとにしてしばらく、著者にとって、かつての旅の記憶はつらいものとなったが、次第に大切な思い出へと変わっていったという。この、苦しみをくぐり抜けたあとのいつくしみの気持ちもまた、ここに収められた旅の数々が、著者の日常と地続きにあるものだったためかもしれない。


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2012年07月30日

『青い絵具の匂い―松本竣介と私』中野淳(中公文庫)

青い絵具の匂い―松本竣介と私 →bookwebで購入

 昭和23年に三十六歳で逝った松本竣介との交流をめぐる、著者の戦中・戦後史である。
 著者と竣介との出会いは昭和18年、「新人画会展」というグループ展に出品されていた作品がきっかけだった。この在野の展覧会は、美術展といえば戦争画一色となっていた当時、時局の風潮に屈せず、描きたい絵を描こうという作家たちの集まりによるものだった。
 朝日新聞の一面に大きく藤田嗣治、中村研一、宮本三郎ら有名画家たちの戦争画の写真が掲載され、戦争画展開催の報道が連日つづいて、厖大な観客が動員された。その是非は別として、現存作家による美術と大衆がされほど融合した例は稀である。混雑した美術館の会場では主要作品の脇に「天覧」と大書され、私たちは当然のこととして戦争画を脱帽して見ていたのである。そうした大作の描写の迫真性やユニークな構想に当時は素朴に驚嘆したものだった。
 ただ私自身は戦争画を制作する能力などない画学生に過ぎず、裸婦や着衣像を習作している日々だったが、自身やがて兵隊にとられ死地に赴くことを考えると、もっと自由で知的な絵画世界に憧れていたというのが真情だったろうか。

 知り合いのつてで竣介と面会した著者は、以来、描きためた絵を携えては松本家のアトリエを訪れるようになる。

 翌19年、著者は絵を描くことに熱中するあまり、徴兵検査の日を忘れてしまう。家族にも友人にも告げられずにいたこの失態を、竣介には打ち明けるこができた。「驚いたな。検査を忘れたといっても、君は兵役拒否なんて考えてるわけではないんだろ?」と、竣介が取り出してきたのは美術雑誌『みづゑ』であった。太平洋戦争開戦の昭和16年、同誌に掲載された軍人たちによる座談会「国防国家と画家」への、竣介の反論「生きている画家」が発表された号である。

 生活や時代へのまなざしのきびしさ、思考の深さといった松本さんの画家としての精神の深淵に、私は会うたび魅きつけられていった。磊落な画家の側面しか感じなかった私も「生きている画家」読後、はじめて松本さんの捨身の信念を知ったし、人間性を肌に感じて信頼感を増していったようだ。戦時下だかこのアトリエでは何でも喋れると思った。

 既成の思想や宗教に一定の距離をおき、自ら考え信ずるところに拠ってのみ、静かに筋を通して描き、そして生きた人。育ちがよく、頭も勘もよく、耳が聞こえないという障害にも屈せず、人柄も円満でと、まるで非の打ち所のない人。もうほとんど聖人のような扱いをされている松本竣介だが、その、未熟な者を侮らず、また自らを押しつけることもしない対しかた、こだわりなさもすてきだ。

 戦局が激しさを増し、もはや「絵どころではない」状況、画友たちは次々と兵隊にとられてゆく。そんななか、自らの失態に心を重くし、ただ絵を描くしかなかった十代の著者にとって、この出会いはいかほどのものだったろうと思う。

 20年3月10日の東京大空襲で、著者の住まう江戸川区一帯も焦土と化した。戦火をくぐり抜けた著者は家族共々神奈川の親戚の家に仮寓することになるが、危険を承知でたびたび上京し、竣介の元を訪れた。

 同じ画家の眼からみた竣介とのエピソードには、絵画技法についての記述が多い。竣介を知るきっかけとなった絵(「運河風景」、現在は「Y市の橋」というタイトルになっている)については、「強固なマチエール」や「透明な画面」、そこに走るさまざまなニュアンスの線に見惚れ、「まさしく詩と造形の合体。精神の職人による絵だ」とある。

 当時、油絵の技法書は少なく、古典技法や絵画組成を教える施設は美術学校、研究所に全くなく、西欧絵画に触れる機会も少ない。多層性のグラッシ法(透明描法)の卑近な実例を私は戦争画、特に藤田嗣治の絵になかに見たが、この人だけは紛れもなく油絵技法の深奥を体得していると思ったので、あるとき松本さんにそのことを筆談で訊いてみた。
 「君はグラッシ法とかマチエールとか専門的な用語をどこで覚えたのか知らないが、そういうことは二義的に考えて、いまは基礎的な写実の勉強を身につけるべきだな」 とたしなめながらも、グラッシ法の実際について平明に語ってくれた。下塗りの必要性から始まり、単色による中塗りとマチエールの調整、仕上げ段階での透明色の選択など、松本絵画の方法論を具体的に語りつづける口調は、次第に熱気をおびていった。

 絵画様式の変遷についての本はたくさんあっても、技法についての情報はまだまだ貧しかった当時、留学経験もない松本竣介は「おそらく持ち前の勘の良い手業と不備な技法書ほ手掛かりに、暗中模索の手さぐりで、それらしい効果に到達したのではあるまいか」と著者はいう。

 アトリエを訪ね、その仕事を垣間見るなかで著者は油絵のさまざまを竣介から学んだ。ペンや筆に凝らした独自の工夫、裏に墨を塗ったガラス板に映った顔をもとに自画像を描くこと、乏しい色数のなかでも豊かな色相が作れること。

 「……それから僕は下塗りをしっかりする。絵具の発色を良くしたり、好みのマチエールを望むこともあるが、作品を後世に遺すことを考え、耐久性を強くする為だ。作画中は何回も透明色を塗って、美しい色彩の画面をつくり、たとえば空襲でやられて断片だけが残ったとしても、その断片から美しい全体を想像してもらいたいのだ」

 著者によれば、藤田嗣治も戦争画についての文章で、同じようなことを書いていたらしい。それにしても、美というものへの信念だけでなく、作品の物質として堅牢さへこのこだわりの強さには恐れ入る。

 以前とりあげた近藤祐『洋画家たちの東京』は、青木繁、村山槐多、関根正二など、夢と野心をもって上京し、自己顕示欲のかたまりような、破天荒な生きざまをみせた彼等の足跡が描かれていたが、そんななかでただひとり、彼らとは対照的な「勤勉な努力家であり、性格破綻の欠片もない良識人」として、最後にとりあげられていたのが松本竣介だった。

 無頼な暮らしぶりの画家たちのなかでは、お行儀が良く、すべてにおいてバランスのとれた竣介のようなタイプはむしろ異質だろう。しかし、描くことに対する信念の深さと強さは並大抵のものではない。同時代の画家たちが、キャンバス上に自己の表出を定着させることにのみとらわれがちであったなかで、彼は彼独自の絵画への強い意志を貫くべく、入念に画面を造り上げていったのだ。

 詩情にあふれているとか、透明感があるとか、静謐であるとか、竣介の絵はさまざまに表現されるけれど、そこにはなにか、情緒的なものだけに流されない動じなさ、すこやかさのようなものが感じられる。それはひとえに、著者が垣間見た竣介の画面造りにたいするあのひたむきな姿勢によるのかもしれない。


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2012年07月25日

『一葉のポルトレ』小池昌代【解説】(みすず書房)

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 一葉を見知った人たちによる、作家の肖像(ポルトレ)。
 研究書のみならず、彼女にまつわる書物は数しれず、映画にもなり、お芝居にもなって、それでもなお、一葉の世界に惹かれる者にとって、その人となりへの興味は尽きることがない。

 肖像の語り手には、戸川秋骨や馬場孤蝶といった、一葉宅を頻繁に訪れていた「文学界」関係の人たちをはじめ、明治の文人たちの名が連なる。あるいは、歌塾・萩の舎でともに学んだ親友・田辺夏子、そこで中島歌子の代稽古をしていた一葉に学んだという疋田達子(詩人・戸川残花の娘)、そして、誰よりも一葉の助けとなった妹のくに子など。

 直接交流はなくとも、偶然眼にしたその面影を鮮やかに描き出しているのは薄田泣菫である。上野の図書館、男ばかりの館内で、ふと女の気配に振り向くと、その人は目録を繰り、側らの妹らしき人とひそひそと話をしていた。

 ……その人はやっと目録を繰り当てたかして、手帳に何か認めようとして、ひょいと目録台に屈んだかと思うと、どうした機会(はずみ)か羽織の袖口を今口金を脱したばかりの墨汁(インキ)壺にひっかけたので、墨汁はたらたらと机にこぼれかかった。周囲の人たちの眼は物数奇そうに一斉に婦人の顔に注がれた。その人は別にどきまぎするでもなくそっと袂に手を入れたと思うと、真っ白なおろしたての手巾を取り出して、さっと被せるが早いか手捷(てばしこ)く墨汁を拭き取って、済ました顔でこっちに振りむいた。口元のきっとした……そして眼つきの拗ねた調子といったら……

 女の図書館通いなど滅多にない当時、周囲の眼や係員の対応に辟易としていた一葉の気負いがほとばしっている。すごい場面に出くわしたものだなあ。
 ただ一度、その姿を見かけたに過ぎない泣菫にも、印象深く認められた一葉の拗ね者ぶりについては、おおくの人たちが言及している。

 話振や容子は落付いて淑やかなところがありました。他(ひと)の批評などは努めて避けられていたようでした。それでいて折々鋭い調子で何かこう冷笑するような処もありました。(戸川秋骨)
 
 そのとりなしから言葉づかいがいかにも世慣れて垢ぬけがして居られたのがまず意外に思いました。改らぬ話しのなかに利発などこか勝気な、そしてどこかすねたところのあるなと思わせました。(岡野知十)
 戸川君も馬場君も樋口一葉君の紹介で緑雨と親しくなったのでろあうが、その一葉と緑雨の取組こそさぞ見物であったろうと思う。二人とも、徹底的に世をひがんでいる拗ね者である。女であるので相手によっては「源氏」の作者以上に慎み深くもしていたが、一と度興に乗じると、老妓、女将そっち退けの大気焔をあげるのが一葉君であった。(平田禿木)
 それから又応対が巧みであった。進退動作節に合して決して人を反らせさない、是迄の生涯が如何に辛労の生涯であったなは是によっても察せられる、婦人で少し学問でもある者は漢語などを殊更に交え至極生意気臭いものだが、女史に於ては決して、そう云う事はなかった、能く消化の出来た言葉付(ことばつき)であった。(幸田露伴)

 文学仲間というべき人たちに囲まれ、彼等と言葉巧みにやりあう女文士・一葉がそこにはいる。
 一方、女性たちが語るのはまた別の一葉、お夏さん、夏ちゃんと呼ばれた明治のひとりの女の姿である。
 「萩の舎」で一葉に学んだ疋田達子は彼女を「お夏さん」と呼んで親しみ、頼りとしていた。家を訪ねれば、貧しいなかでも精一杯のもてなしをしてくれる一葉を「ほんとうに人なつっこいところのある人でした」。

 三宅(田辺)花圃が一葉と初めてあったのは十七のとき、一葉はそのふたつ年少で、すでに萩の舎の塾生だった。花圃が中島歌子をたずねたとき、もてなしの給仕をしていたのが一葉で、その第一印象は「変わった人」。
 花圃が、寿司の皿に赤壁之賦の一節が書かれてあると連れの女性と話していると、一葉がその後の文句を「ペラペラと読み初めた」というのは有名なエピソード。「なにせよその頃の夏子は才気が溢れて止められぬと申すような風でした」。後年、幸田露伴が「能く消化の出来た言葉付(ことばつき)であった」と語った一葉にも、そんな娘時代があったのだ。
 あるいは、三宅雪嶺のもとに嫁いだばかりのころ、それまでのお嬢さん暮らしから一転、粗末な着物に身を包んでいる花圃を見た一葉は、「こんな服装(なり)をするようになってお可哀相」と大泣きしたとか。「まあこういう風に実によく泣く人でした」。

 萩の舎で最も親しくしていたのが同い年の田辺(伊東)夏子。同じ名ゆえ、「イ夏ちゃん」「ヒ夏ちゃん」と呼び合い、お互いの家もよく行き来していた。
 お嬢様がたの集う〝お教室〟だった萩の舎で、ふたりと同じく平民の娘だった田中みの子も交えた仲良し三人組は、あけっぴろげなおしゃべりに花を咲かせていたらしいが、「諷刺的なことをたまにいわれるくらい」で、他人の悪口は決して言わないのが一葉。「いくら親しくても何だか靄のかかっているというような人で、もう少し打ちとけてザックバランになってくれればいいのにと思ったくらいでございます」。

 男たちの一葉に抱く印象が似たり寄ったりなのとくらべ、年下、年上、同い年、それぞれの女性が語るその様子からは、一葉の人との距離のとりかたがみえる。一葉が自然、相手におうじて使い分けていたのはもちろんのことで、どちらが素か、ほんとうの顔かは問題ではないけれど、男と女ではやはり見るところが違っていておもしろい。

 先の男女のどちらとも違うかたちで、一葉の内なる部分に接近していたのは、小説修行の師であり、おもいびとでもあった半井桃水ではないだろうか。桃水自身、そうだとは気づいていなかったかもしれないが。
 一葉の死後刊行された全集に日記が収録されたことによって、一葉が桃水を恋慕していたことが明らかとなる。そのため、方々から問い合わせが殺到、の憂き目に遭っていた桃水が書いたのが「一葉女史の日記について」。
 「私は何人に対しても、故女史とは親友であった、言得べくんば兄妹であったヨリ以上の何事もなかったと、常に明言して居たのである」とする桃水。
 ここで桃水は一葉の手紙を参照する。師弟とはいえ独身の男女という間柄、よからぬ噂がたち、ふたりの交流が途絶えていたときに、一葉が寄越したものだ。一葉はここで、桃水のことは師として兄として慕っているのだと書き、あらぬ噂のために会えなくなった悔しさを切々と訴えていた。
 そのあとで桃水はこのように述べる。

 女史が私に送られた手紙を見て、何か凡ならぬ関係でもあるように思いあたる人もあったので、常に私は女史に向かい、こういう事を警告した、男は対話で打解けても手紙の上では打解けぬが、それに反して御婦人は対話の時に打解けず手紙の上で打解ける。それゆえ艶めかしい文字を列ねて往々あらぬ疑いを招ぐような事も起る。貴嬢ほどの文章家でもこの欠点は免かれぬ、好く好く注意せられたいと、畢竟こんな無遠慮な事をいったのも、女史の胸底には恋の影だにも映る事をゆるされぬと思詰めて居たからである。

 日記が公表されてもなお、自分と一葉との間に恋愛感情などあってならないのだと言いはる桃水なのだった。それはそうと、女は手紙だと打ち解ける、という桃水の指摘を、一葉はどう聞いただろうか。桃水の〝無遠慮〟は、一葉にしてみれば、桃水の思うのとは逆の意味で〝無遠慮〟に聞こえたかもしれない。そのことによって、一葉は手紙という私的な「書くこと」のなかで列ねていった自らの言葉を対象化することができ、それがその後の一葉の「書くこと」の糧となったかもしれない。

 妹の樋口くにの語るのは、家族でしか知りえない一葉の姿だ。

 すきなもの嫌いなものなどというものはなかった人でして、人に逆らうなんてことは殆どなかった人でございます。いやな時には自分が泣いてしまえばすむといっておりました。で、普段どういう人であったかといわれると困るので、それほど際(きわ)のない人だったのです。それともはたから見たらばどう見えたのか知れませんが、家の者にはそうは見えませんでした。

 ……姉にとっては自分の書いたものが活版になることはどんなに驚きであったでしょう。後々皆様がほめて下さる。それを拝見する度に恐ろしいように思っていました。たとえ今はほめられても今後のことをおもうと恐ろしいと思ったのでしょう。斎藤緑雨さんがおいでになってから、殊更恐れを持ったようでした。も少し大胆になれば余程よかったので御座いましょうが、何分世間馴れぬし、又自分が力およばぬとて大変心配して居りました。も少し世のことがよくわかる様になってから書いたらば、もっと楽に書けたのではないかと今おもってもそれだけ残念です。最近皆様の立派なのが出るのを見ましても生きていて勉強していたらばとも思いますが、一方からいえぱ、かような時代の変化を、ああいう偏屈な頭で小さく考えていましたらば、今まで到底生きていられようとも思えません。あれこれどっちがどうと一概にはいえまいかと思うので御座います。

 それぞれの一葉像。もし当人が読んだら。拗ね者らしくとりなすだろうか。けれども、妹の言葉には、ただ黙って耳を傾ける一葉の姿が目に浮かんだ。


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