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2012年06月30日

『東京バス散歩』白井いち恵(京阪神エルマガジン社)

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 京都という、平坦な碁盤の目状の町に長らくいた。移動手段はもっぱら自転車、バスを使うことはあっても、それは大抵、大通りをまっすぐに進み、一度だけ直角に曲がってさらにまっすぐ、はい到着! ただひたすら、「運ばれている」というふうで味気ないものであった。

 いっぽう、起伏が激しく、町なみもめまぐるしく変化する東京のバスは、まるで遊園地のアトラクションに乗っているようなのだった。坂の多さに負けて自転車にすっかり乗らなくなり、歩いていけるところへはなるべく歩き、そうでなければ、時間に余裕のある限りバスで移動したい、と願う今日このごろ。そんな私が待ち望んでいたのはこういう本である。

 本書では、東京を走るバスの10路線のルートが詳しく解説される。通りの性格や車窓の景色の移りかわり、乗客の様子。もちろん、停留所近辺の見どころや店も丁寧に紹介されているが、まるで著者とともに乗車しているような気分を味わえるエッセイが何よりすばらしい。東京のガイドブックは数々あれど、点よりも線、つまり移動すること自体の楽しみを体感できるものはそうはない。

 筆頭に登場する「都02」という路線に、最寄りのバス停があることも私をうれしくさせた。錦糸町から御徒町、春日を経由して大塚へといたるそれは、本書曰く「都バスの〝エースナンバー〟 下町から山の手へ夢のワープ」。なんだか自分まで褒められているような気に。
 私にとってこの路線を使うことは、あくまで日常生活の一環なのだが、本書にあたり、バスに乗るためにバスに乗りたい、の気持ちは高まり、降りたい停留所、行きたいスポットもたくさん知り、さしあたりのお出かけの予定は立った気がしている。

 ところで、これに乗って錦糸町へ行くようになってからというもの、それまでの、錦糸町は総武線の駅を起点としたところ、という認識が消えた。

 町の印象というものは、そこにいたるアプローチも含めて作られるものかと思う。たとえば同じ町でも、JRと地下鉄、どちらを使うかで降り立ったときの感じは変わりはしないか。
 バスならなおさら、本書の導入部分で著者が言うように「地続きの経過」を体験できるので、こんなふうにして、この町へたどり着けるのか、という発見が、それまでとはちがう町へのまなざしを開いてくれる。

 「あなたの頭のなかにある東京は、どんな地図を描いてるだろうか。」
 こんな問いかけから本書ははじまる。人それぞれの東京の地図が無数にある、そう想像するのはなんと楽しいことだろう。
 住まいを中心に半径約三キロ圏内というおそろしく狭い範囲で生活している私の東京地図は、まだとても小さくまずしい。少し離れたところへ行くのには、地下鉄の路線図をたよりにするばかり。そこにバスという移動手段がくわわり、それまで通ったことのないルートを知ることで、私の地図に密度を与えられたらいいと思う。

 鉄道路線で描いた「東京」という都市の輪郭に、バスというペンを使ってディテールを描き足してみよう。上手に描けば、きっとあなたの好きな街と街がつながって、自分だけの「東京」が現れるはずだ。頭のなかの地図をどんどん更新して、この大都市を縦横に楽しんでほしい。

 近郊からたくさんの人が集まってくる東京のような大きな都市では、通勤通学では鉄道での移動が当たり前のこと。おおくのひとにとって、東京地図の基準となっているのは鉄道の路線だろう。ならば、最短最速である必要のないときには、バス移動で未知のルートを体験してみてはどうか。こんな行きかたもあるんだ、という気づきは、ふだんの町の見方もまた変えてくれるだろう。

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2012年06月09日

『世界のかわいい刺繍―世界各地の民芸品、アンティーク、フェアトレード、作家の刺繍』(誠文堂新光社)

世界のかわいい刺繍―世界各地の民芸品、アンティーク、フェアトレード、作家の刺繍 →bookwebで購入

 下着デザイナー・鴨居羊子の初期の作品(下着会社チュニックの商品)には、鴨居自らが刺繍をほどこしたスリップやショーツがあったという。下書きなしで、薄い布地に直接チクチクと針を刺していったというのは彼女のデッサン力と手先の器用さゆえだろうが、そこには既成の図案そのままにする刺繍へのアンチテーゼも含まれていたようだ。

 刺繍といえば、編物とならんで女がするホビー、手芸の一大ジャンル。それらの技法と図案による手芸の本は明治のころから山と出されている。女学生のころ、兄にプレゼントされた中原淳一デザインの日記帳にいまひとつぴんとこなかった、つまり女向けのお仕着せには反発心をおぼえずにいられない鴨居にとって、手芸書をたよりにするものづくりに面白味を感じられないのは当然のことだった。何事においても型破りなのが彼女のウリなのであるから。

 けれど、これなら鴨居もよろこびそう、と思える刺繍本が本書。旅をすることによって創造力をかき立てるのが習わしのようだった彼女は、世界の民芸からデザインのヒントを得ることもあっただろうから。「世界各地の民芸品、アンティーク、フェアトレード、作家の刺繍」が目白押しのページはどこを開いても、その針目に目を奪われてしまう。

 ポルトガルの女性が恋人に贈る愛のメッセージを綴ったハンカチ。難民キャンプの子どもたちのために、モン族の刺繍で作られた民話の絵本。古布を重ね、補修と装飾を兼ねたランニングステッチで被われたインドのカンタ刺繍。ラフィア糸による幾何学文様が、素朴かつモダンな風合いを醸し出すコンゴの草ビロード。暮らしの必要がいつしか様式となり、さまざまな物語や祈りの言葉が文様となり、ひとつの美しさをかたちづくっている。どれもこれも、見飽きることがない。

 ここには、伝統的なフォークアート、刺繍作家の作品、土産物やフェアトレードの商品、博物館に所蔵されもよい(かもしれない)アンティークなどが隔たりなくならんでいて、それもまたよい。コラムも充実。「作家がつくる世界の刺繍」と題したページでは、ブルガリア刺繍、ブータン刺繍、アメリカンクルーエル刺繍、モロッコのベルベル刺繍などを、現地に滞在していたことなどがきっかけで出会い、これを習得し広める活動をしている日本の作家たちに取材している。こんなにもさまざまな世界各地の刺繍に、その気になれば身近に触れることができる国は日本くらいかもしれない。

 ひと針ひと針という工程に要する時間、たとえ作家によるものだとしても、伝統的な刺繍をもとにしているかぎりそこには個を超えた表現があること。私が刺繍に惹きつけられるのは、そうした手仕事というものに対する素朴な感心による。もうひとつには、目でみるだけでなく、触って感じられる(本に載っている写真は触ることができませんが、想像することはできる)という、具体性というか個別性というか、「それぞれ」であることに価値を認めるからなのだと思う。
 ……などというのは少々おめでたい感想なのかもしれない。というのも以前、上海の元フランス租界のおしゃれ地帯にあったショップの片隅で、少数民族の女性達が刺繍を(おそらくその店のデザインにのっとって)しているのを見、そこの服が日本円に換算してもギャルソンが買えるくらいの値段だったので、楽しい旅行気分にどっと水を差されたのを思い出したからであった。

 本書は、作り方を教授する手芸書ではなく、見て、読んで楽しむ本。とはいえ、手仕事へのモチベーションがあがるという点ではどんな刺繍教本にもまさるのではないか。こうして、各国の刺繍を一同に並べて見ることのできる私たちは、これらの刺繍を育んだ場や歴史とはかけ離れたところにいるけれど、それなりに「それぞれ」の何かはできるかもしれない。といいつつ、結局私は最後まで何もしなさそうな気が……ああ、女と手仕事ってむずかしい。


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