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2012年03月27日

『表参道のヤッコさん』高橋靖子(河出文庫)

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 著者は日本におけるスタイリストの草分け的存在。6、70年代、カメラマンや編集者など、多くのクリエイターたちが事務所をかまえていた伝説的アパート、原宿セントラルアパートにあった広告代理店から彼女のキャリアはスタートした。
 ある日アートディレクターから、10本入りのピース(タバコ)の箱の裏側にちょこっと描いたスケッチを渡された。
「こういう撮影をするから、よろしくね」
 私はその5×10センチほどの切れっ端に描かれたラフスケッチを見ながら、衣装と小道具をそろえた。当時の肩書きはまだコピーライターだったけれど、こうした雑務は私の仕事だったし、いつの間にかそれが得意分野になっていた。

 スタイリストというと、洋服や小道具をお店から借りてきて、それをコーディネイトしてモデルさんに着せる人、というのが今日での一般的な認識だと思う。けれど、彼女が仕事をはじめた当初は、業界のなかにおいてでさえ、スタイリストがいかなる仕事をするのかは明確でなかった。彼女はだから、まさに〝草分け〟、「スタイリスト」という職業に就いたのではなく、「スタイリスト」という仕事を作り出した人といえる。
 たとえばこれは、60年代のなかば、彼女がフリーランスになってはじめてのロケ現場でのエピソード。

 冬木立の井の頭公園は寒くて、私は近所の家に頼んで、アルミのやかんで牛乳を温めさせてもらった。スタッフにホットミルクを配っていたら、沢渡さん(註・カメラマンの沢渡朔)が「それにしても、こんなに食い物がいっぱいの撮影ははじめてだよ」と言った。
 私はフランスパンのサンドイッチ、おにぎり、果物と山ほど食べ物を用意していた。その頃はまだロケーション・コーディネーターもいなかったから、全部手づくりだった。こんなときでも私は、よく言えば限りなく気がきき、悪く言えばトゥー・マッチだった。その後の人生がそうであるように。

 また、71年、ロンドン初の山本寛斎のショーでは、単身ロンドンへ渡ってモデル選びや会場の手配をし、ショーに使われる音楽テープの編集までこなした。
 あるいは、銀座のみゆき通りでひらかれるお祭りプロデュースをたのまれたときには、ロックバンド・フローラルを乗せたトラックのあとから、ミニスカートのスクールメイツが風船をつけた自転車に乗ってつづくというパレードを企画。

 当日の早朝、私は人気のないみゆき通りをストップウォッチ片手に何度も往復した。
 どのくらいの速度でパレードは続くのか、どのくらいの人たちがそれを見物してくれるのか、パレード自体どんなものになるのか、見当もつかない。すべてぶっつけ本番だった。
 ……
 翌日、ほとんどの新聞がこのパレードを報じ、老舗の街をロックの演奏が彩ったことを伝えた。
 たしか次の年から大銀座祭が行われるようになったと思う。これはその前哨ともいうべき出来事だった。

 その発想や気配りの細やかさが発揮されるのは、仕事上だけではない。セントラルアパート時代、毎週末に開かれるパーティーを仕切ることになった彼女。いつしか、そこに集まる客たちから「表参道のヤッコさん」と呼ばれるようになったという。

 パーティー客が200人を突破した頃には、私の知らない人たちがお客の半分を超えた。200人のお客さんたちは満足しているだろうか。料理と飲み物、音楽、そしてお客同士の会話。それらが一体となって、時間の帯があるとき盛り上がってキラキラと輝く。次第に、その熱は沸騰点からふわっと暖かいものに変わる。そのあたりでパーティは幕を閉じるのだ。
 私はいつの間にかプロの興行師のようにパーティの成り行きを見守るようになっていた。あちこちで挨拶し、沈みかけている席ではおしゃべりをして盛り上げた。みんなが帰ったあとは、ウエーターたちにチップを渡し、一緒にあと片づけをした。
 土曜の夜の喧噪やきらめきは過去のものになり、すっかり夜が明けた日曜日の原宿をとぼとぼ歩いて家に戻った。

 現在ではさまざまに細分化され専門化した仕事、それを、ひとつのプロジェクトを形にしていく中で、一手に引き受けこなしてゆく。ファッションや広告の世界が飛躍的に発展してゆく時代、とびきりのエネルギーと好奇心とをもって、自分にできることは何かを模索し動き回る。その繰り返しのなかで、彼女は「スタイリスト」になっていったのだ。

 この仕事は、センスやアイデアが求められるのはもちろん、あらゆるところに神経を張りめぐらし、臨機応変に動かなくてはとてもつとまらないものだ。彼女が持つスタイリストとしてのそれらの素養は、この本から発揮されるムードにもあらわれていると思う。
 6、70年代のセントラルアパート周辺、スタイリスト修業のために訪れた60年代のニューヨーク、70年代のロンドン――さまざさまなエピソードや交友録はどれも、それが四十年以上も前の出来事とは思えぬほどのフレッシュな筆致で思いつくままに繰り出され、それらはどれも、「ヤッコさん」ならではの細やかな目配りと柔軟性にみちているのだ。
 当時のカルチャーに興味のある人にとってこの上なく楽しい本であるのはもちろん、仕事とは何か(ことに、女性にとっての)についても深く考えさせられる一冊。




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2012年03月18日

『猫語の教科書―共に暮らすためのやさしい提案 』監修・野澤延行(池田書店)

猫語の教科書―共に暮らすためのやさしい提案  →bookwebで購入

 旅、料理、手芸、ファッション、健康や自己メンテなど、最近の実用書には、いかにも実用書然としたのではない、おしゃれなデザインのものがおおい。
 実用書といえば!の池田書店のものにもその手の本がいろいろとある。そういえば、現在大流行中の塩麹についてはじめて知ったのはここの『麹のレシピ―からだに「いいこと」たくさん』(おのみさ著)だった。また、ページにゆらめくさまざまな金魚たちの姿に見惚れる『金魚―長く、楽しく飼うための本 (もっとわかる動物のことシリーズ) 』(川田洋之助監修/ 岡本信明)も本棚にある。金魚を飼うつもりなどないのに。

 さて、はじめて猫と暮らす人のための本書のタイトルは、猫好きのバイブルともいうべきポール・ギャリコの『猫語の教科書』から。猫の目線から、人間との暮らしをいかに快適にするかが語られるこのギャリコの本によれば、ヒトはどうしようもなくおろかな生きものだが、彼等を支配し、上手にその家を乗っ取れば、猫は安全で快適な暮らしが送れるのだという。本書もそれにならい、猫との暮らしはあくまで猫本位であると説く。

 ……ネコと暮らすことは、飼い主という名の「従者」「世話人」、あるいは「奴隷」となることとほぼ思っておけばまちがいありません。
 ネコを家に迎えることは、じつは、“わが家をネコに乗っ取られる”ことだったりします。そこを承知した上で、「どんな変化も楽しむ」という心がまえでネコとの暮らしに入りましょう。

 猫をわが家へむかえいれる準備、猫と快適に暮らす秘訣、「猫語」――猫の身振りや行動――から読み取る猫の気持ち。猫との暮らしが長い私にとって、じつはどれもすでに承知の情報なのだが、それでも手にとらずにいられなかったのは、表紙を飾る「シャロンちゃん」(メス・三歳)の凛とした姿に惹かれたため。瞳のみどり、耳と鼻の桜色が映える真っ白なからだ、そしてこの表情。このところずっと、枕元において眠る前に眺めるのが日課となっている。

 ふわふわの綿菓子のような仔猫時代のシャロンちゃん、コードをかじるシャロンちゃん、紙袋に潜むシャロンちゃん、本棚の上に正座するシャロンちゃん、赤い毛布を〝ふみふみ〟するシャロンちゃん。どのページを繰っても、女性誌の猫特集のようなショットばかり。

 また、長毛種の代表としてペルシャ猫など、その他の猫たちも登場。たとえば、「飼い主さん訪問」というページでの、スコティッシュフォールド「へんちゃん」と飼い主「石井さん」のツーショットはすばらしい。飼い主の「石井さん」は「へんちゃん」の背中にぎゅう、と顔を埋めているのだが、そのときのへんちゃんの、うっとりと安堵しきった表情ときたら!

 思えば、私がはじめて捨て猫を拾って飼いはじめたときに求めた猫の飼い方の本は、カラー口絵にシャムやヒマラヤンなど純血腫の猫たちが図鑑のようにならんでいる他は、粗い白黒の写真かイラストばかりの、味気ない、いかにもな実用書であった。

 私は古い猫の写真集や、猫の飼い方の本が好きで、一時期は古本で目につくと買っていた。写真集はデザインで可愛いし(特に、本多信男撮影の山と渓谷社のものがすばらしい)、飼い方の本はその時代の猫の飼い方を反映していておもしろい。今の感覚からすると、これは動物虐待なのでは?と思えるような表現があったりもする。

 本書に登場する猫写真はすべて室内で撮られているが、これはかつての猫の飼い方実用書にも、また猫の写真集にもなかったことである。私の子供の頃はまだ完全室内飼いは一般的でなく、猫は自由に外へ散歩に出るものだというのが常識、猫を家に閉じ込めておくのはかわいそうだと思われていた。

 本書では「今日はるすばん」という章が設けられていて、「一泊くらいの留守番は大丈夫」と、猫を置いて外泊するさいの注意点が書かれている。完全室内飼いが定着した今日ならではのことだろう。
 『サザエさん』のタマのように、大家族の暮らす一軒家の縁側でお昼寝し、気ままに外出し、家族の誰かがいつも家にいるのでひとりぼっちになることもない、という猫はいまや少数派。この本はおもに、マンションにひとり暮らしで猫を飼う人のために作られているといっていい。「ヒトひとり+ペット」世帯は今後ますます増えてゆくのだろう。


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2012年03月13日

『オオカミの護符』小倉美惠子(新潮社)

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 きっかけは、一枚の護符だった。「武蔵國 大口眞神 御嶽山」という文字の下に、黒い犬のような獣の図像が描かれているその紙切れは、生家の土蔵の扉に貼られていた。
 著者はそこから、地元でひっそりと受け継がれている「御嶽講」の歴史をたどって、青梅の御嶽山・武蔵御嶽神社、さらにはその奧に連なる秩父の山々へと導かれ、その一帯に伝わるオオカミ信仰と神事、これを受け継ぐ人びとの〝山の世界〟へと分け入ってゆく。
 それらは映像として記録され、映画『オオカミの護符――里びとと山びとのあわいに』として2009年に公開、これを元に書かれたのが本書である。

 著者が生まれ育ったのは神奈川県川崎市宮前区土橋。東急田園都市線の宮前平から鷺沼にかけての一帯である。
 東急グループが、「開発総面積5,000万㎡という、民間事業としては我が国最大の規模である「多摩田園都市」の街づくり」と言うように、この沿線には整備された街々が連なる。鷺沼の先のたまプラーザは、その駅名からして〝あたらしく作られた街〟感にあふれている。子どもの頃、不思議な駅名だと田園都市線に乗るたび思い、自分の住まう小田急線沿線とは雰囲気の違う、「きれいなおうち」が建ち並ぶ街並みに見入っていたものだ。

 土橋はかつては橘樹【たちばな】郡宮前村大字土橋といい、多摩丘陵の谷戸に50戸あまりの農家が点在する寒村だったが、戦後の開発によって現在では7000戸を数える住宅地となった。この地で代々農業を営む家で生まれ育った著者は、雑木山に囲まれた小さな農村が様変わりしてゆくのを目の当たりにして育っている。
 生徒数が増えたため新しく開校した小学校に移った著者は、そこで出会ったクラスメイトたちから、それまで知らなかった、土橋の新しい住人たちの生活文化に触れる。彼等の言葉、服装、お弁当、住んでいる家、すべてが違っていた。そして、自分が「お百姓の家」の子であることを恥じるようになった。長じて、大学に通い、都心へ勤めに出るようになると、古くからの地元の生活を顧みることもなくなってしまった。

 祖父の亡くなる昭和五〇年頃まで、この土蔵の隣には家族が暮らす茅葺屋根の母屋があった。母屋の裏手には清水が湧く井戸があり、南向きでよく陽の当たる前庭には、放し飼いの鶏が行き交い、筵の上に干された豆をときどき啄んでいた。離れには茅葺屋根の牛小屋と物置小屋があり、その先には竹藪が生い茂り、その全ては背後から小高い雑木山にやさしく抱かれていた。そしてこの小さな世界の同心円状に村は広がっていた。
 土蔵の隣にどっしりと構えていた茅葺の母家はすでになく、庭先の小屋も姿を消し、そのすべてを包み込んでいた雑木山も、もはや原姿をとどめていない。
 土蔵のひんやりした空気に包まれるのが好きな私は、ある夏の日、土蔵の扉を開けようとしてふと立ち止まった。そこに貼られた「オイヌさま」が、鋭い眼をますます輝かせ、強く何かを語りかけてきたのだ。
 祖父母と暮らした故郷としての面影が消えるとともに、いつの間にかこの街で「護符」を見かけることはなくなり、この街に住む人の多くは、その存在を知ることもなくなった。
 私にとって、この街中ポツンと残され、場違いな存在となってしまった土蔵と、その扉に貼られた「オイヌさま」だけが、遠ざかる村の記憶が確かなものであったことを物語る証しなのだ。
 そのことを確信したときに、「オイヌさま」は何かを伝えてほしいと訴えているように思われた。
 

 著者にとっては、子供のころから見慣れていたはずの「オオカミの護符」。それがある時から気になりはじめ、「オイヌさま」――それは絶滅して久しいニホンオオカミを象ったものだ――が、「強く何かを語りかけてきた」と著者は書く。それは、人びとから忘れ去られ、消えてしまいそうなものを絶やさないでくれとの訴えであったろう。私はそこに、護符という紙切れの持つ信仰のかたちの力を感じた。

 この護符についてたずねると、母親は「オイヌさまは百姓の神様だよ」「御嶽講の講中の家に配られるもんだ」と言う。
 土橋では年に一度、農作業をはじめる前の春先に、村を代表して御嶽山の武蔵御嶽神社へお参りする者を選出する。この行事、さらには御嶽山への信仰とこれを軸とした共同体が「御嶽講」である。

 東京都に隣接する川崎といえば、同じ神奈川で生まれ育った私の世代にとっては光化学スモッグの街、あるいは前述したように、田園都市線沿線の広大な住宅地などが思い浮かぶ。都心へのアクセスもよいそんな都会の街に、こうした山への信仰が未だ生きていることが、なによりの驚きだった。
 二〇〇〇年代に入った頃から盛り上がりはじめた地方ブーム。地域の伝統を受け継ぎ、守っていこうとする若い世代の活動に注目が集まり、メディアなどに取りあげられることも多くなった。著者がこうして自らの生まれ育った土地に伝わる「御嶽講」を記録にとどめようと思い立ったのも、彼女が仕事でたずねた日本の各地やアジアの国々で、若い人たちが地元の行事や芸能を誇りを持って伝える姿に心打たれたためだという。

 これまで目を背けてきたはずの自分の足元から、両親、祖父母、祖先たちが受け継いできた「御嶽講」に目を向け、そこからおなじオオカミ信仰の残る秩父で、畏怖と敬意をもっと山々を拝み、その自然に身を委ねて生きる人びとの暮らしに触れた著者。

 現代の生活では「流行」や「新奇なもの」は常に都会からもたらされる。  ファッションや流行りのレストラン、書籍や芸能に至るまで、まずは東京から発信される。それゆえに自ずと人びとの目は都市に注がれ、釘付けにされてしまう。
 ところが秩父に通うようになって、土橋をはじめ多摩丘陵の地に伝えられる伝承や文物の多くは、どうやら山の世界からもたらされているらしいと気づいた。
 

 川崎という、私からすれば都会である地に、山への信仰がいまだ息づいていることに驚いたのは、思えば東京という中央に目を向け、これを基準に「地方」や「地域」というものを考えているせいなのだった。中央から遠く離れていようと、渋谷から電車で30分のところであろうと、それはひとつの地方にはちがいないのだ。



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