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2011年12月25日

『装幀のなかの絵 四月と十月文庫』有山達也(港の人)

装幀のなかの絵 四月と十月文庫 →bookwebで購入

 口絵には、著者の祖母による一枚の絵。生まれ育った五島列島の風景を思い出して描いたものらしい。波間に浮かぶ緑の小島。遠くの水平線の沿って島の稜線が連なる。画面右下の岩場の上、海に向かって腰掛けているのは幼い日の祖母の姿だろうか。絵のなかに「この海に 幼じ戯む なつかしき」との一句がある。いい絵だと思った。


 著者は小学校の三年間を、佐賀県の祖母のもとで過ごした。このとき、父親から送られてきた絵の具で、小学生の著者はたくさんの絵を描いたのだったが、かたわらで祖母もまた、絵を描いていた。

 それがまた、上手いのである。上手いと言うと語弊があるかな。「描く」という行為に嘘がないというか、対象にむかう気持ちが無垢と言った方がいいか。孫の自分が言うのも何だが「いい絵」なのである。絵に全く媚びているところが無いのである。

 とにかく描くことが楽しくて仕方がないらしい。「人に見てもらう」ということを前提に描いている節が感じられない。ただただ内側から湧き出てくる「描きたい」という欲求だけで絵を描いている。あたりまえと言えばありたまえのようだが、あの歳になってから「描きたい」という欲求が増大しているのは、一体どういうことなのだろうか。身内と言えども計り知れない。(「祖母の絵」)


 祖母との暮らしは、著者に大きなものをもたらしたという。それはたんに、団地育ちの子どもが田舎の自然に触れて過ごしたというだけのことではないだろう。竈でご飯を炊くような、古い家での生活のなかで、旺盛に描きつづけた祖母の姿に接したことは、著者のデザイナーという仕事に対する姿勢の奥底に、たしかな一脈を貫いたのではないか。

 本書は、美術同人誌『四月と十月』に連載された文章をまとめたもの。デザイナーという仕事に著者がどう向き合っているのかが、これまでたずさわった本や雑誌を例に書かれている。

 ……何千ページ、何万ページをレイアウトして何かに気付かされる。レイアウトにおいて大切なこと何であるか。レイアウトしているこの本において大切なことは何であるか。社会における本とは何であるか、に。
 デザイナーになる前にはわかっていたようなことが、日々の行為で忘れ去られてしまう。しかし、延々と繰り返される日々の行為の中から、より強固な思想が生まれくるはずである。(「完成っていつ?」)
 あたりまえのことと言えばあたりまえなのだが、自分のやり方が染み付いてくると、挑戦や冒険をすることを忘れてしまう。あるいは、他の方法をとることを知らず知らずのうちに怖がっていたり、見ぬふりをしたりする。……
 やり方が決まってくると、ひとつの方向からしか物事を見なくなる。恐ろしいことだとわかっていながら忘れてしまう。気を付けなければならない。(「表紙とは?」)

 本書でもとりあげられている雑誌『クウネル』(マガジンハウス)や、坪内祐三『一九七二』(文藝春秋)など、静謐で端正なデザインで知られる著者。その作り出すものは、ただきれいにまとめられただけでない、そこに何か小さな〝ひっかかり〟が潜んでいて、そのことが、本や雑誌の印象を深めているようにみえる。それは、「結果」以上に「過程」に重きをおく著者の制作への構えによるものだろう。
 これは、デザインにかぎらず、人のあらゆる営みにおいて大切なこと。心に刻みたくなるようなくだりがいくつもあった。上はそのほんの一部である。

 注文があってはじめて成り立つデザイナーという仕事。画家やミュージシャンのように主体的なものづくりをするのが「アクション派」なら、デザイナーや大工さんは「リアクション派」と著者は書く。リアクション派の著者が、装幀する本の挿絵を自ら描いたのは、彼のなかにあるアクション派への憧れによるものか。

 ……絵に比べてデザインの方がより「完成」がわかりやすいような気がする。デザインは、コンセプトがあって、ラフがあって、あるいはグリッドがあって、ある1点の目標に向かって突き進む。これらのことを踏まえ、装幀をデザインとしてとらえないで1枚の絵として考えると、「完成」が曖昧になってくる。自分のデザインの目標地点のひとつはそこにあると考えている。
 これで「完成」なのだろうか、という曖昧さのなかにある、野卑な部分や原始的で奔放な要素を含んだまま仕上げたい。「完成以前の完成」を目指す、とでも言おうか。絵があって、文字があって、それらを組み合わすのではなく、スペースを作って絵をはめ込むのでもなく、全体を絵としてとらえていくことは、自分で絵を描くことによってのみ実現できることかもしれない。(「アクション派」)

 「完成」という目標、そこに到達することで現れる「結果」。けれどもそこが終わりなのではない。出来上がったものが人々の手に渡り、その生活の景色のなかでさまざまな姿をあらわす。それのみで自立するのではなく、その先でまたひとつの「絵になる」という余地が、この人のデザインの魅力なのかもしれない。



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2011年12月17日

『かんさい絵ことば辞典』ニシワキタダシ/コラム・早川卓馬(ピエ・ブックス)

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 京都から東京へ移ったばかりのころ、街中で耳に入ってくるのが関西弁でないのが、なんとも居心地わるかった。

 関東に生まれ育った私は関西弁を話せないが、十何年の関西暮らしで耳は完全に関西仕様になっていたのだ。たまに帰省したとき、母親の関東弁がキツくきこえて、ふつうに話しているのに、怒られているような気がするほどであった。最初は関西弁のほうがキツく感じられていたのに、関西弁にすっかり慣れてしまったのだ。

 そのため、自分のしゃべりはさておき、電車の中やお店などで、周囲から聞こえてくる標準語のイントネーションにいちいち「あれれ!?」となってしまう。さすがにもう、標準語の耳に切り替わったが、たまたま関西の人の割合が多いあつまりのなかで話をしていたとき、自分がすごくリラックスしていることに気づいて、関西弁のちからを感じた。

 あまり耳にすることのなくなった関西弁への懐かしさも手伝って手にとったのがこの本。関西の「ことば」とその意味、関西弁の関するコラムやクイズ、マンガ、「かんさいグルメ検定」に「かんさいなんでも相談室」、さらに綴じ込みの「かんさい名所絵すごろく」など、関西にまつわるもろもろの詰まった関西弁バラエティ・ブック。
 主たる辞典部分には、ことばのひとつずつに、関西弁スピーカーのキャラクターたちが登場し、例として一言しゃべってくれているから、あたまのなかでそれを再現し、あまり耳にすることのなくなった関西弁を楽しむことができる。

 関西弁は、音の上がり下がりがなだらか、譜面におこしたら♯と♭が多そうで、耳触りがやわらかい。
 以前、関西弁を話す女性たちの聞き書きをしたとき、彼女たちの話すままを再現したいと思い、録音したものを一語一句、そのまま原稿に起こしていった。いつものテープ起こしよりも骨の折れる作業ながら、楽しくやりおおせたのは、自分では話すことできないことばの微妙な言い回しをひとつひとつ文字にしていく楽しさと、そしてなにより、関西弁のきこえのよさのためだったと思う。

 近頃は、関西弁はもちろんのこと、メディアで方言が使われることがたいへんに増えた。私が京都に住みはじめたとき、ここまで関西弁は全国的ではなかった。ちょうど、ナインティ・ナインのTV番組『めちゃ×2イケてるッ!』がはじまった頃のこと。今となっては、人や物が「かっこいい」という意味で全国的に通じる「イケてる」だけれど、状態が「よい」という意味もあって、それをアルバイト先でしょっちゅう耳にしたのだが、当時の私はその意味がすぐに飲み込めなかったのだ。

 関西弁とひとことでいっても、地方によって単語も違えば、言い回しもそれぞれ(たとえばここには、「来ない」=「けぇへん」とあるが、京都では「きぃひん」という言い方をよく聞いた)。だから、関西弁話者にはもの足りないかもしれないけれど、その外側の人たちにはじゅうぶんだろう。

 マンガもとてもかわいくて、つづけて読んでいくと、ちょっとしたストーリーになっているところもご愛嬌。ここには、関西弁の「効能」が、ゆるーくではあるけれど、上手く表現されている。
 居心地悪いとき、困ったとき、不愉快なとき、途方にくれるしかないとき……あまりよろしくない状況に立たされたとき、気持ちに立て直すのに、関西弁ほど通りのよい、便利なことばはない。それはひとえに、関西弁のイントネーションのやわらかさのためであると私はみているのだが、どうだろう。

 たとえば苦手な人をやりすごすとか、なにかを断ったりしなくてはならないとき、関西弁で返せたら切り抜けられるのになあ、と思うことはよくある。だから、ピンチのときには、せめて関西弁で思考するように心がけでいる私である。



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